http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-705.html 【★序章 大江山系シャーマニズムとは?】より
●出口清吉について
出口清吉(出口なおの二男)は明治五年(一八七二)に兵庫県綾部で生まれた。同二五年(一八九二)に東京の近衛師団へ入隊する。同二七年(一八九四)日清戦争勃発のとき、台湾へ出征しており、翌二八年八月一八日に戦死というのが軍籍上の公式記録である。
ところが清吉と一緒に綾部から出征した戦友・足立の話では、帰還の際も清吉と一緒だったが、台湾から日本へ向かう船中て病死したため、その遺体は全身包帯巻きの姿で海中に葬られたとされている。
また、清吉の所属した部隊は戦死者ゼロというのが軍や役場における公開情報であり、綾部町役場に残る抄本では清吉の死亡日を明治ニ八年七月七日と記している。ちなみに、出口家関係の霊媒による説では、清吉は死なずに神の使いとなって難局打開のため働く姿を詳しく述べており、特に出口なお三女(福島久)に降りた清吉霊がよく知られている。
大本教のお筆先においては、清吉を「日の出の神」と呼んでいるが、その名前を冠した往時の「京都日出新聞」は北清事変(一九〇〇)の殊勲者として王文泰の名を報じており、同新聞の明治三八年(一九〇五)八月十三日付二面記事では、「軍事探偵王文泰」との見出しで、年齢三〇歳前後の人物が十数年来にわたって支那人に扮し内偵活動を行なうと紹介している。
つまり、「王文泰」なる支那人変名を使って大陸で活躍する清吉の消息を伝えているのである。さらに、その後の清吉を詳しく描いているのは、出口王仁三郎の入蒙経緯を記した入蒙秘話である。そこに多くの軍人が登場するので、当時の軍と大本教の関係につき、少し触れておく必要がある。
●大本教入信の主要軍人
軍関係の重要人物と大本教との関係は、大正二年(一九一三)五月に福中鉄三郎(予備役海軍機関中佐)が大本に入信したのが嚆矢である。二年後の大正四年(一九一五)には福中を介して飯森正芳(同)も入信した。飯森は戦艦「香取」乗組員二五〇人を甲板上に集めて大本教の講話を行なうほどの熱心な信者となったが、一方で飯森は「赤化中佐」とも俗に呼ばれており、トルストイ主義を自ら奉じて無政府主義者や社会主義者の札付きとも平然と親交を結んだ豪放磊落な性格で知られていた。
大正五年(一九一六)十二月には、横須賀海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎とその実兄である浅野正恭(海軍少将)も大本教に加わってくる。やがて浅野和三郎は王仁三郎をも凌ぐ一大勢力を大本教内に有し、実質的に大本教ナンバーワンと目される時期もあり、日本海海戦の名参謀として有名な秋山真之の入信にも荷担している。
秋山真之の入信がきっかけとなって桑島省三大佐(のち中将)や山本英輔大佐(のち大将)ほか、四元賢吉大佐や矢野祐太朗中佐(のち大佐)などの海軍軍人が陸続と大本教へと入信するようになる。
こうした影響力は陸軍にも及んで、大将七年(一九一八)入信の小牧斧助大佐を契機として石井弥四郎(予備役大佐)や秦真次中佐(のち中将)などの入信が相次ぐことになる。
さて王仁三郎の入蒙経綸であるが、王仁三郎に強い影響力を及ぼしたのは日野強(ひの・こわし)陸軍大佐(一八六五~一九二〇)が筆頭とされている。日野は日露教争に先立って軍令により満洲と朝鮮を踏査した経験があるが、日露戦争後の明治三九年(一九〇六)七月、陸軍参謀本部から天山山脈に囲まれたイリ地方を中心に支那新疆省を視察せよとの密命を帯びて出発した。日野の踏査紀行は後に『伊梨紀行』(芙蓉書房刊*1973年、復刻版)という著書として刊行されている。それは新疆地方を中心にカラコルムを経てヒマラヤを越えインドまで達する壮大な探検物語である。
出口王仁三郎入蒙の相談相手として陸軍は、退役後に支那青海で缶詰業を営んでいた日野強を呼びもどし綾部に送りこんだが、海軍は退役大佐で大本信者の矢野祐太朗に大陸現地の奉天で王仁三郎の受容工作を進めさせていた。
矢野は奉天において武器斡旋を業とする三也商会を営みつつ、大陸浪人の岡崎鉄首らと組み、満蒙独立を志していた廬占魁と渡りをつけ張作霖ルートの取り込みに成功するが、その裏には堀川辰吉郎の手配があったことはほとんど知られていない。岡崎鉄首は玄洋社の末永節(すえなが・みさお)が大正十一年(一九二二)に創設した肇国会のメンバーだった。
肇国会は満蒙およびバイカル湖以東シベリア地域を「大高麗国」と名付け中立ワンワールド構想の下に大陸工作を行なっており、その活動は犬養毅や内田良平らの支持を得ていた。
肇国会による大高麗国ロードマップは王仁三郎入蒙経綸の版図と重なり、その思想的背景をなしたと見ることができる。
大正十三年(一九一四)二月一五日、王仁三郎は朝鮮経由で奉天に到着すると北村隆光と萩原敏明に迎えられて、その日の内に岡崎らが手配した廬占魁との第一回会談に臨んでいる。続いて岡崎鉄首、佐々木弥市、大石良、矢野が加わって第二回会談が行なわれた。
村上重良『出口王仁三郎』(新人物往来社、一九七五)によれば、大石は大正九年五月新設された奉天特務機関「貴志機関」(初代機関長・貴志彌次郎少将、貴志はのち張作霖顧問)の有力なメンバーであり、奉天軍第三旅長の軍事顧問兼教官に任じた人物である。宗教学者の村上はまた、「奉天軍閥が盧を迎えた背景には、かねてから盧の利用を考えていた日本陸軍の貴志機関の工作があり、王仁三郎と盧の提携も貴志機関が終始、その推進にあたったことはいうまでもない」とも指摘している。
●奉天特務と出口王仁三郎
いま貴志彌次郎少将(のち中将)については省くが、村上は「王仁三郎と廬の提携は貴志機関工作構想に従い、町野武馬大佐や本庄繁大佐(のち大将)らも上原勇作の密命で動いた」とまでは読むが、惜しむらくは堀川まで達していない。
王仁三郎は入蒙に際して多くの変名を使っている。日本名「源日出雄」のほか、朝鮮名の「王文泰」や支那名「王文祥」などが知られる。王仁三郎の入蒙経綸に際しては推進派と弾圧派の対立があり、推進派の矢野や貴志などに対して、弾圧派は後に大佐となる寺田憲兵中尉ら七人を奉天に差し向けている。弾圧派は徹底的に王仁三郎を尾行するが、その動きは推進派も先刻承知しており、王仁三郎を入蒙の方向とはまったく異なる町(赤峰、せきほう)に案内した。
この赤峰の町で王仁三郎と出会うのが王清泰と名乗る清吉であった。清吉は蒙古人を装って小興安嶺山中に住む道士で押し通すが、両者は尋常でない互いの関係を直ちに認識した。弾圧派は王清泰の正体を徹底調査しており、「年齢五〇前後、流暢な日本語は山陰訛り、蒙古人の間で生き神と崇められ徳望が高い」などの情報を総合して、清吉は日本人だと突き止め、関東軍に協力するよう求めた。
これに先立って推進派に与した矢野は、大正七年(一九一八)二月二七日から三月三日まで、台湾沖膨湖諸島を発ち支那を経て佐世保に到着する日程を刻んでいる。この道筋は出口清吉の足取りを踏むものであり、その目的は京都日出新聞に報じられた王文泰の情報と写真を入手することにあった。
他方、同じ時期の王仁三郎の記録は「三月三日から八日まで、京阪地方に出張」とあるが、子細アリバイは不明であり、佐世保で矢野に会って王文泰(清吉)の情報と写真を渡されたことは容易に泰せられる。
ところで王清泰と名乗る清吉を取り込んだ弾圧派は、ミイラ取りがミイラになる話と通じて、昭和一四年(一九三九)まで親密に清吉と接触していた長谷川久雄が記録を残したことから、王仁三郎の入蒙経綸が清吉に引き継がれた裏付けを立てることになる。その長谷川久雄とは王清泰の尾行を行っていた弾圧派の一人である。
●出口清吉=王文泰=王清泰
赤峰の宿で王清泰と神意を交わした王仁三郎は蒙古で女馬賊と出会うことになる。女馬賊は三千人に及ぶ部下を擁する頭領で籮龍(ら・りゅう)と名乗るが、流暢な日本語を話し、王仁三郎に忠誠を尽くすと約する。その籮龍(ら・りゅう)の父は誰あろう台湾から入蒙した王文泰であり、日本名を「デグチ」とも言うという。そのほかに「籮(ら)清吉」とも称し馬賊として頭角を現わした人物とのこと。因みに、母は蒙古人であると籮龍は王仁三郎に話している。
つまり、出口なお二男の清吉は並みいる「クサ」(草・諜報員)と異なり、少年期に表芸から裏芸まで徹底して仕込まれていく資質を持ち合わせることから、杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していたのだ。出口王仁三郎は出口清吉の身代りとなって軍閥の腐食と心中するが、清吉ラインは大東亜戦争後の今も健在で平成大相撲を支えていることは知る人ぞ知る。
さて史家としては、出口の氏姓鑑識が必須の心得であり、大本教を論ずるには、何ゆえに霊媒衆を出口姓としたのか、また王仁三郎(上田鬼三郎)を養子とした背景にどんな企みが潜んでいたのかなどの問題とともに、最大の課題は大江山系シャーマニズムを解く能力が問われよう。
維新政府が行なった最大の弊政は、天皇一世一元制(明治元年九月八日)の制定であり、これは明治五年(一八七二)十一月五日のグレゴリオ暦採用にも通じており、皇紀暦を踏みにじる最大の汚点として政策全般に及ぶ迷走を呼び起こしていく。
その迷走の例を挙げれば、東京遷宮(一八六九)、仏式陸軍と英式海軍の兵制布告(一八七〇)、寺社領没収(一八七一)、壬申戸籍実施(一八七二)などが数えられよう。
特に神仏分離令(一八六八)により平田派国学神官を中心にして廃仏毀釈の運動が高まって多くの仏教系事物が破壊・焼却されたことは、大化改新の前夜に生じた狂気の様相を彷彿させる。これらは西洋の天啓思想に汚染されての所業ゆえ混迷ますます深まり、一方で平民苗字許可制(一八七〇)を施せば、他方で士族と平民の身分制存続(一八七一)という矛盾を重ねていく。その混迷が大江山系シャーマニズムを覚醒させる要因に成ったのである。
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