安倍晴明の真実?!40歳からの転職で天職に出会い、神となった苦労人

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平安時代から現代まで、ヒーロー的存在の安倍晴明の実像とは?

一条天皇の宣旨で祀られたとされる晴明神社。事実だとすれば、余程寵愛されたのか、それとも怨霊のごとく恐れられたのか

日本で一番有名な陰陽師といえば安倍晴明であることは間違いない。小説はもとより映画や漫画にも登場し、陰陽師という言葉が一般に知られるようになったのも、晴明人気のおかげだろう。安倍晴明を神と祀る晴明神社や一条戻橋、墓所など京都の街を巡る晴明ツアーも人気だそうだ。

この人気は今に始まったことではなく、晴明は古くは平安の時代から数多くの物語や草子、絵巻などの作品中に登場している。例えば平安時代には「大鏡」「今昔物語集」、鎌倉時代には「宇治拾遺物語」「平家物語」、江戸時代には人形浄瑠璃や歌舞伎の題材に取り上げられるなど、晴明は古今東西、大スターであった。

これらの物語の中の晴明は、不思議な力を持ち合わせた異能力者とでもいうのだろうか、普通の人とは違う卓越した能力の持ち主として描かれている。

まず母親は「葛の葉」いうお稲荷さんの化身である「信太森ノ社ノ老狐」、つまりキツネであり、大人の事情の末、母と離れ離れになった晴明少年は、大陰陽師賀茂忠行の弟子となり修行に励む日々を送ることになる。

ある日晴明は、師である賀茂忠行の共をして下京に夜出かけたところ、鬼の大行進「百鬼夜行」を目撃してしまう。忠行は少年晴明が自分と同じように鬼を見る力があることに驚き喜び、その才能を愛で、自分の持てる技を伝授することにする。

それから年を経て、成人した晴明の力が、世に示される事件が起こる。晴明が仁和寺の寛朝僧正を訪ねた際、数人の公達や僧侶たちに煽られ誹りを受けることになるのだが、その彼らの前で方術によってカエルを潰して殺し、その能力を見せつけたのである。公達や僧侶は晴明の持つ神通力に恐れ慄き、その噂はあっという間に都中に広がっていた。このシーンは「陰陽師」という映画でも描かれたシーンなので、ご存知の方も多いことだろう。

他には、一条戻り橋の上で、渡辺綱が戦いの末に切り落とした橋姫という鬼の腕を晴明が封印したり、同じく陰陽師として高名な蘆屋道満というライバルと戦って制したりと、伝説の中の晴明はまさに陰陽界のヒーロー的存在である。

しかし実際のところ、安倍晴明とは本当はどんな人だったのだろうか。実在したことは間違いないのだが、史書、日記、地誌などに残された足跡をたどっていくと、実際の姿は物語の中のイメージとだいぶ違うことがわかる。そこで今回は、様々な文献から見える安倍晴明の実像に迫ってみよう。

晴明は出世競争に敗れた?一芸に秀でることで天皇からの勅命を受ける

晴明の名が、比較的信憑性の高いと言われる文献群に初めて現れるのは、天徳4年9月(960年)、晴明が40歳の時に天文得業生になった時のことである。天文得業生とは、現代風に言えば大学院生のようなもので、陰陽師を目指して勉強をしている学生のことを言う。

実は、これ以前の事跡については殆ど記録に残されていない。この時代の平均年齢は40歳に満たないと言われていて、子どもの死亡率が高かったことを差し引いても、当時の天皇家(794年-1192年の桓武天皇から鳥羽天皇まで)の死亡年齢の平均が50歳弱であったことを考えると、40歳で得業生とはかなり遅いと言える。

晴明の息子、吉平も同じ道を歩むのだが、彼は38歳の時に陰陽博士に任じられている。陰陽博士とは陰陽道を教える教官のことで、大学教授をイメージして頂ければいいだろうか。

ちなみに晴明が陰陽博士になった年齢は58歳である。この二人だけの比較では、晴明の実績があったからこそ、息子が優遇されたと思われがちだが、晴明の陰陽道の先輩に当たる賀茂保憲が陰陽博士に昇進した年齢は26歳であり、38歳は特に早いというわけでもない。晴明の58歳というのが特別に遅く、賀茂保憲に比べると30年以上も出遅れていたことになる。その後は、66歳で天文博士となり、それ以降は各省を転々と異動したとされている。

と、この経歴だけを見ると、晴明は出世が遅く、またその後の競争にも敗れてはじき出された人のように見える。実際、鎌倉時代初期にまとめられた説話集「続古事談」の中に、「晴明ハ術法ノ者ナリ。才学ハ優長ナラズトゾ」つまり占いは得意だが、知識や学識はそれほど優秀ではないと評価されている。

しかしながらこの「晴明ハ術法ノ者ナリ」の点については相当な手練れで、陰陽寮を退職した後に、特例として「前天文博士」という特に占いの巧者に対する尊称を与えられ、天皇からの勅命で占いをしていることでも、その異能ぶりがよくわかる。晴明は、他はともかく占いに関しては天才的な才能を持っていたことは間違いないようである。

当時は長命な高僧もまた不思議な力を持つと思われていた

転職組で一般の出世競争には参加せず、一芸を磨いて這い上がった実務者

そんな出世競争に敗れたように見える晴明が、なぜ陰陽師のスターになったのだろうか。もう少し晴明の生い立ちを詳しくご紹介しよう。40歳より前の晴明については、鎌倉時代に編纂された説話集「続古事談」の中でごく一部を見ることができる。それによると、28歳の時に大舎人寮の大舎人になったとされている。

大舎人寮とは陰陽寮と同じく中務省(現在の内閣府に似た役所)に属する役所で、陰陽寮は大陸から渡来した最新技術(陰陽五行説や風水など)を専門に研究し学ぶ部署であるのに対し、大舎人寮は宮中で宿直して警護や諸行事の雑用を務める部署である。

大舎人はその大舎人寮に属する下級役人で、六位以下八位以上の貴族の嫡子で、年が21歳以上のものから抜擢される。主な仕事は宮中の警護なので、多少の武術の心得があった者から選んだのだろう。

晴明はその後、陰陽寮主催の祭りの雑用係である追儺舎人(ついなとねり)となり、鬼払いの儀式である追儺の儀(ついなのぎ)で鬼を払う役人を演じたことで、陰陽道に興味を持ったようである。そして同じ省内にある陰陽寮の賀茂忠行・保憲親子を訪ね、様々な手ほどきを受けるに至ったとされている。

さて大舎人寮から陰陽寮へ移ってからの晴明は、もっぱら占いの技術取得に専心したようである。さすがに高齢の転職組みでは、役所の中での出世とは無縁な生活であったようで、天文博士と陰陽博士に就任はしているが、あくまでも学生と得業生を指導する教官でしかなく、陰陽寮の中の役職としてはかなり低い。

そもそも、この時代の陰陽師たちの社会的地位はかなり低かった。身分としての官位は、貴族としては最低に近い従七位上クラスで、当然収入も十分とは言えず、有力者をパトロンに持たない限り、貴族としての人並みな暮らしは難しかったと思われる。

晴明はその後、70歳ほどで陰陽寮を途中で退職、天才的な占い技術を活用して、一条天皇や権力者藤原道長の信頼を得て異例の出世をしていく。

75歳の時に主計権助(民部省主計寮副長官)になったのを初め、79歳で穀蔵院別当(民部省穀蔵院長官)、82歳で大膳大夫(宮内省膳職長官)同年左京権大夫(京職長官)と名誉職を渡り歩き、最終的には従四位下(陰陽寮長官は従五位下)に到達した。

晴明の生まれについては不明であるが、28歳で大舎人になったことを考えると、伝説の中にあるような右大臣家(竹取物語の安倍御主人)や安倍仲麻呂といったような上級貴族の子孫ではなく、実は身分もさほど高くない一般貴族の出ではなかったかと思う。

そんな中、ひたすら一芸を磨いて、当時ではかなりの高齢になってから再出発をし、権力者に重宝されるまでに至った生き方を見るにつけ、出世競争からはじき出されたというより、一般的な出世競争には最初から参加せず、一芸を磨くことで這い上がり、しぶとく生き抜いた苦労人が正史の中の安倍晴明の姿と言えるのではないかと思う。更に死ぬまで楽隠居もせず現役を通したことを考えると、決してエリートではなく、現場叩き上げの実務者のイメージである。

渡辺綱が退治して、安倍晴明が封じた橋姫が「鬼」になるために祈願した呪詛神を祀る貴船神社。

絵馬の発祥の地としても丑の刻参りの地としても有名、縁結びの神でもあり同時に縁切りの神でもある

占いのイノベーションを起こし、その地位を決定付けた晴明

安倍晴明のもう一つの特徴は、当時の人たちの常識からすると、驚く程の長命で、しかも生涯現役だったことにある。85歳で没するまでの間、地道に研究を続け、多くの業績を残している。

特に注目すべきは、陰陽道の日本独自の解釈を世に認めさせたことにある。当時、陰陽寮にいる研究者たちは、大陸から渡来した最新技術の暦(気象)・漏刻(水時計)・天文(星占い)・陰陽(方術)を徹底的に研究し学び、論争を繰り広げ、自説を開陳し立証するという作業を繰り返し行っていた。つまり全ての占いや学問の研究は、中国から輸入された文献資料を手本にしてなぞっていたわけである。

しかし晴明はそれらの最先端の輸入学問をただなぞるだけでなく、中国と日本の条件や環境の違いを加味して、日本独自のオリジナルな形を作り上げたのである。これまで大陸に学ぶことが全てだった当時の社会にとっては、あまりに新しく衝撃的で、まさに占いのイノベーションであった。

貴族たちはその衝撃に、こぞって晴明の意見を取り入れ、行動するようになっていった。藤原実資の残した「小右記」に、陰陽言説創造者としての晴明の揺るぎない地位が伺える逸話が残されている。

それは、関白が29日は道虚日(中国の思想)のため外出してはいけない日かと下問したところ、陰陽寮内で調べた結果は道虚日であったが、晴明の意見では違ったので、晴明の意見を取り入れて報告したとある。

これ以後、中国からの文献ではなく、晴明の占いの結果が公式見解として陰陽寮から報告されることになる。晴明のこの新しい発想と占いの技術は、それだけ当時の社会に、驚きを持って受け入れられたということだろう。

源平盛衰記に記された晴明が式神を隠していたとされる一条戻橋の場所は、

古地図と照らしてみるとこの橋の方が近いと思われる

晴明がスーパーヒーローに祭り上げられた背景、虚実の闇

このように偉大な業績があった晴明だが、物語にあるようにキツネの子供だったり、妖怪もどきの式神を自在に操れたりという話はやはり信ぴょう性が薄い。晴明といえどもただの人に過ぎないわけだが、ではなぜただの人が神仙のごとくに尊崇され畏敬の念を集めたのだろうか。

日本人は古来、占うことによって民心を掌握してきた歴史がある。邪馬台国の卑弥呼にしても、かの有名な「魏志東夷伝倭人条」に「倭国の女王は鬼道を能くし」の記述が見られる。鬼道とは占いや神降ろし等を意味し、シャマニズムが政治や社会といったシステムを支えていた。

平安時代においても、このようなシャマニズムを背景にもつ社会システムは健在で、人々は見えざるモノに怯え、未知なる学識や技術に助けを求めた。見えざる禍の元凶は「鬼」だと解明し、その祟りから身を守る手段として、大陸伝来の最新技術である「陰陽道」に期待が集まった。そしてその広告塔的立ち位置にいたのが、安倍晴明だったのである。

陰陽師の官職は低い、長官といえども中の下程度の貴族でしかない。自らの地位向上を願うためには、もっと世の中が「鬼」を恐れ、術者を頼ってくれなくては望みが果たせない。後の世の陰陽師たちは、いたずらに「鬼」を喧伝し、もっぱらその恐怖を吹聴したのである。

晴明はその陰陽師たちによって、古の京都の街の安寧と平安を鬼から守る守護者として祭り上げられた。最後についた左京権大夫という職が、京都の警察権を統べる行政長官だったことが面白い符合と言える。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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