https://www.christiantoday.co.jp/articles/29115/20210214/shin-keikyo-45.htm 【新・景教のたどった道(45)景教と皇帝(1) 川口一彦】より
中国は紀元前の秦王朝から始皇帝(在位は前221~前210年)の名を使い、自らを「皇帝」「朕」と称し、全国制覇し天下を統一しました。6つの国を滅ぼし、今の陝西省咸陽市(西安市の西)に都を置き、大宮殿の阿房宮を築き大都市をつくりました。それを秦始皇兵馬俑博物館で見ることができます。
皇帝は敵国の城壁を結び合わせて外敵から守る目的と交易の通路とするために長城を作り、万里の長城が築かれていきました。今のものは明代に築かれたもので、明代になるとレンガ作りが盛んとなったことから強度の長城となりました。航空写真で見ますと、長城の位置が中国の北側に築かれているのは、北の遊牧民族や匈奴から守る目的がありました。
秦の始皇帝が大きな存在であることが分かるのは、1974年に発見された秦兵馬俑博物館内の兵と馬の俑(よう)、戦車などです。これは死後の始皇帝を守る目的で作られたといわれます。
秦の崩壊後、漢帝国が劉邦(前247~前195)によって長安を建設し、秦の都を破壊し、その結果、匈奴や南越の帝国も起きていきました。漢の武帝(在位は前141~前87)の時代には、中央アジアの状況を調査するために張騫(?~前114)が派遣され、中央アジアとの東西交流が盛んとなります。しかし中国国内は不安定になり、分裂、再統一すると同時に、西域との交流も発展させていきます。後581年、隋代になると、中国は統一されます。
618年に隋の煬帝が殺害されると、李王朝の李淵が皇帝となり唐代が築かれます。626年には李世民の太宗(598~649)が皇帝に即位し国際都市となって栄え、635年にペルシアから初代の宣教師、阿羅本らが唐に来て皇帝に接し、638年にイエスの教えの国内宣教と布教が開始されていきます。東西交渉の文物交易が盛んに行われ、ローマやペルシャや中央アジアと唐が交流します。日本においても遣隋使や遣唐使によって多くの人物や文物が船で行き交い、ローマなど西方地域からの品なども日本に入るようになりました。
この時代の東西人口の概算は、ローマが5万人、コンスタンチノープルが30万人、京都の平安京が20万人、バグダードと長安がそれぞれ70万人といわれています。秦代や漢代には中国人を「秦人」と呼んでいましたが、英語のチャイナ、フランス語のシィンは「秦」の名が起源との説があります。景教碑の下部のシリア語には「中国」と書かれたシリア語(右から左に読み書きします)がありますが、唐代は中国をシナと呼んでいたことが分かります。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29169/20210228/shin-keikyo-46.htm 【新・景教のたどった道(46)景教と皇帝(2)唐代の皇帝① 川口一彦】より
景教碑が伝えるところによると、東方教会の中国宣教開始は太宗皇帝(589〜649)と総理大臣であった房玄齢(587〜648)の貞観12(638)年で、その3年前に長安に入り皇帝に謁見しています。
3年の間、聖書や賛美歌、教理書などを書殿で漢訳し皇帝に提出しています。それにより宣教が許可されると、政府の費用で義寧坊区に大秦寺、波斯(ぺルシア)胡寺(会堂)が建ちました。まだこの時は「景教」の名はなく745年ごろに改名しました。唐代には、外国からの仏教やゾロアスター教やマニ教もありましたので、景教だけが優遇されたものではありませんでした。
続いて碑には、高宗、玄宗、粛宗、代宗、徳宗の五皇帝の名が刻まれています。この徳宗皇帝の時代(742〜805)の781年に碑が建ちました。ところが中間の則天武后や中宗、睿宗の各皇帝は記載されていません。
碑は宣教開始から碑の建設(781)までの約150年間、六皇帝の恩恵が大きかったことから各皇帝の徳をたたえています。
唐の初代皇帝は李淵の高祖(開祖)で、李一族です。隋の煬帝とは親戚関係です。李淵には子どもが男子だけで22人いたといわれ後継者争いも起きました。長男の李建成、次いで李世民、李元吉がおり、彼らは父と共に唐を建国した立役者で、中でも李世民は戦いに優れていました。ちなみに隋が滅びたのは皇帝の煬帝が側近の宇文化及らに絞殺されたことによります(618年)。その知らせを聞くと、高祖は李世民と共に長安にて唐朝を建てました。やがて李世民は626年の玄武門の変というクーデターによって、兄弟の2人を殺害し、高祖は譲位して李世民は太宗皇帝に即位しました。その時の立役者の一人が先に挙げた房玄齢でした。
太宗の23年間の治世は「貞観の治」といわれ、政治や経済、外交も安定し、多くの外国の民たちも行き交い栄えました。この時代にペルシアや中央アジアからソグド商人たちも交易し、景教徒たちが来ました。日本からは遣唐使として文物・人物往来もありました。
太宗は書にも優れ、書家の王羲之の真筆を集め、棺にすべての書を納めさせたといわれ(王羲之の真筆は残されていません)、強欲になって堕落した日々を過ごして死んだと伝えられています。
3代目の高宗皇帝は、21歳で即位し、政治的に未経験であり病弱でした。父の側室の一人、のちの女帝の則天武后と夫婦となり、彼女の指導と多大な影響を受けつつ34年も国を支配しました。しかしその間13回も改元していることから、不安定な時代で、時代に新しさを願っていたとも考えられます。高宗の晩年は視力が衰え失明したとも伝えられています。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29225/20210314/shin-keikyo-47.htm 【新・景教のたどった道(47)景教と皇帝(3)唐代の皇帝② 川口一彦】より
景教碑は、則天武后・武則天(在位690〜705)の聖暦年(698〜699)に仏教徒による景教徒への迫害があったことを刻んでいます。
「聖暦年に釋子(釈迦の信徒)は壮を用いて口を東周に騰(あ)げる」。迫害された要因として、高宗の死後、690年に武則天は聖神皇帝として即位し実権支配しました。都を長安から東の洛陽に移し、国号を唐から周としました。李王朝の宗教は道教で、それを変え、彼女が仏教徒ゆえに宮中や政治において仏教徒が優位を占めることになり、景教徒たちはさまざまな立場で追い詰められ、迫害を受けたということです。
さらに、彼女は弥勒菩薩の再来を唱え、大雲経寺を全国に作らせています。また、洛陽近郊の竜門石窟に自らの仏像を作らせました。その仏像に似たものが、奈良にある東大寺大仏の盧舎那仏(るしゃなぶつ、770前後)です。
武則天は自分を誇示するため、新しい漢字を作りました(690)。則天文字といわれ、約17字があり、それによって皇帝としての自分の立場と新時代を想定したのでしょう。圀や臣の字は日本にも入りました。水戸光圀の圀はよく知られています。國の中の或は、国が惑ってはいけないことと、国は八方に広がることを考えてのことなのでしょう。
武則天皇帝は15年にわたる支配の中で元号を16回も変え、皇后だった高宗の時代にも13回改元しています。これらは何を示しているのでしょうか。
この夫婦の合葬墓が陝西省乾県の乾陵墓にあります。そこを景教ツアーで訪ね、大変膨大であることに驚きを隠し切れなかったことを覚えています。陵墓の前に無字碑が建っていますが、字が一つも彫られていないことが有名で、字の無い石碑がどうして存在したのかが疑問です。彼女が成してきた功罪是非が問われているかのような大きな碑でした。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29283/20210328/shin-keikyo-48.htm 【新・景教のたどった道(48)景教碑頭部のデザインについて(1) 川口一彦】 より
景教碑の頭部には幾つかのデザインが刻まれています。
1. 頭部の龍と下部の龍の子のデザイン
2. 十字
3. 十字の上の火炎
4. 十字の先端の二重丸が各3個
5. 十字の下の7つのデザイン
6. 雲形のデザイン
7. 花のデザイン
この中の頭部の龍について書きました。
1. 頭部の龍(現代中国では「龙」と書き、「竜」は古代文字、台湾では「龍」、日本の聖書は「竜」が多い、文語訳聖書では「龍(たつ)」と表記している)
聖書では特にヨハネの黙示録12章で、王冠のついた赤い龍は悪魔・サタンの別称で、主なる神様に敵対し、人間を惑わす悪とされています。しかし東アジアの中国では、龍は想像上の動物で皇帝の権威の象徴であり、吉祥と運気をもたらす最高の権威を持つ動物として崇められています。衣服にも龍のデザインが描かれていて、中国各地を歩き回ると至る所に龍の文様が描かれています。食器や陶器、建築物にも見受けられ、日本でも水の守護神の竜神といって偶像崇拝されています。
隋や唐の時代、龍の爪の数は3本まででしたが、明清の時代になると、爪の数で権威が決められました。5本爪は皇帝しか描かない権威のしるし、4本爪は皇族や地方の王の衣服に描かれ、3本爪は役人の礼服に描かれていました。ちなみに日本の高松塚古墳の青龍の爪は3本です。
中国の陶器工房の皿には4本爪がデザインされていました。
景教碑だけでなく、たくさんある石刻芸術の書道の石碑類にはどれも頭部に龍が描かれています。景教碑は唐の時代に作られているので、龍の爪は2本です。その爪で、鉱物では最高の宝玉(ギョク)を中央の部分につかんでいます。玉はダイヤモンドや真珠よりも高価な最高の宝で国宝といわれ、龍と玉は一対であり、皇帝こそ世のものすべてを入手したという欲望の表れといえましょう。
ちなみに黙示録21章では、新しい天と新しい地の都の城壁が、多くの宝玉で造られていることを伝えています。使徒ヨハネは、新しい都を幻で見て感嘆したことでしょう。私たちもそこに入っていけるという希望があることは、最高の喜びでもあります。
続いて、景教碑の下の動物は亀ではなく龍の子のビシ(贔屓は「ひいき」ではなく「ビシ」と呼ぶ)といわれています。龍には子が9匹いて、1番目がビシであると伝えられています。
日本人はこの石の動物を見ると昔から亀とか、亀台と呼んでいました。それは亀をよく見かけるからです。しかし、中国に行って初めてその意味も分かるようになりました。下の動物は龍の子ですから龍であって亀ではありません。
そのようなことから、聖書の世界観と中国思想の文化は大きく異なりますので、聖書の視点のみから愛のない正義心で語るとなると、宣教が進みにくく誤解も生じるかと考えます。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29336/20210412/shin-keikyo-49.htm 【新・景教のたどった道(49)景教碑頭部のデザインについて(2) 川口一彦】より
景教碑の頭部には幾つかのデザインが刻まれています。
第一に炎です。十字の上のデザインは炎と見受けます。これはおそらく聖霊の臨在の炎ではないかと考えます。聖霊は人格者であり、景教文書には、聖霊は神を証しする方と書いてあります。人の罪を焼き尽くし、神の奉仕者へと変えるのが聖霊の働きです。使徒2章3節には炎のような舌が一人一人にとどまったと書かれています(ルカ3章16節も参照)。人を変え、新しい神の力を着せられるのも聖霊です。
南インドの使徒トマス教会のシンボルとして、十字の上に鳥が描かれています。イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を授けられたとき、イエスの頭上に聖霊が鳩のように臨まれたという箇所があり(マタイ3章16節)、鳩を描いたと考えます。
新・景教のたどった道(49)景教碑頭部のデザインについて(2) 川口一彦
続いて十字の各先端の◎についてです。十字の先端には、◎が各3個描かれています。これはおそらく三一の神を表していると考えます。東方景教徒たちは聖書の神を三一と表記し、父・子・聖霊を書くときには三一と表記する箇所が見受けられます。
下の文字は景教碑からの抜粋ですが、父なる神、メシア、聖霊である浄風には、それぞれ三一の文字が書かれています。もう一つは、シリア語(右から書き読みします)とシリア語から漢訳した大秦景教三威蒙度讃の中の文字で、共に父子浄風と表記しています。
3つ目は、雲のようなデザインです。十字の下側の左右に描かれています。これは何を表現しているのでしょうか。聖書には、神が雲とともに顕現される箇所があり(出エジプト記40章34~38節)、神が顕現されるときの臨在を表現したものと考えます。聖書には他にも、イエスが雲に包まれて天に上げられたとありますし(使徒1章9節)、イエスが再び天から地上に来られるときは、雲とともに再臨されるとも書いてあります(ヨハネの黙示録1章7節ほか)。
このように見ますと、景教徒たちの信仰は聖書に基づいたキリスト中心であり、神認識は三一神信仰であったといえるでしょう。
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