天と人との際 -漢語神学の歴史的歩みと未来の展望-

http://www.cismor.jp/jp/lectures/%E5%A4%A9%E3%81%A8%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%9A%9B%E3%80%80%EF%BC%8D%E6%BC%A2%E8%AA%9E%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E6%AD%A9%E3%81%BF%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%AE/ 【天と人との際 -漢語神学の歴史的歩みと未来の展望-】 より

講師: 何光沪(He Guangfu)博士(中国人民大学教授/香港漢語基督教文化研究所フェロー)

要旨:

「漢語神学」の語と今日の中国の漢語神学運動は1990年代半ばに現れたが、何氏はその語を広義に漢語を用いる神学とし、7世紀の景教、遅くとも17世紀のカトリックに始まるとする。

 中国文明はある種の宗教を精神的基礎とするが、それは上帝あるいは天への信仰である。しかし中華文明は早い段階で「天子」概念という「文化的癌の遺伝子」を残した。天子は中国政治上の最高支配者を指し、支配者は自らを上帝の子孫とした。また天子概念は君主専制を神聖化し、絶対化した。それは始皇帝から既に実現され、制度化された。

 儒教は絶対的な君主制を思想的に批判したがそれを超える制度にはなれず、多くの儒家は排斥されるか政権に服従するに至った。他方、仏教は天子を敬い、それに依存する必要を認識して完全に政権に頼った。道教は明・清時代に民間宗教と共に抑圧され衰退した。

 君主を神や天子と見る偽りの神聖化は、専制主義に陥る権力崇拝となり、その結果、社会全体の真の世俗化に導いた。1980年代からの中国の経済的改革は政治制度に触れていないため、権力崇拝が政治権力を絶対化し、人間の本性を癌化させる制度になっている。この文化的癌の遺伝子は、中国史において人間の本性を、さらに文化・文明の全体まで腐敗させ、今日に至っている。   

 今日の中国はこのような生死の境界に至って、近隣諸国の変化を注視し、民族特性という概念を放棄し、古典文明の腐敗後のヨーロッパの復興の歴史の原因を反省する必要がある。このような思想的・精神的な改革開放とキリスト教の受容、研究が必要である。キリスト教こそ神の性質に関する探究やその解釈、そして世俗的なものの神聖化に対するその抵抗において、今日の中華文明を救う薬である。1980年代から中国の知識人がキリスト教を対象とし、人文学領域において研究し始め、このような世俗の世界において神の世界を構築することは歴史の必然と需要である。

 人間の意識は歴史の必然性を動かすことは出来ず、神の計画も人間の意識と予想を超えている。このような状況において、人に出来ないことの中に可能性が潜んでおり、人の目からは不合理的なことが現実になる可能性もある。これはこの二十年にわたる漢語神学研究の最も大きな特徴であり、また広義の漢語神学の特徴でもある。

 キリスト教ではイエス・キリストのみが神の子であり、全ての人間は被造物で、神の前に平等に罪人であるため、君主であれ神の子の身分の独占は許されない。このような思想は中国史上の政治制度やイデオロギーに反するゆえに、キリスト教は大規模な抑圧や迫害を受けた。それは政治的な抑圧に加え、思想的・文化的誤解でもある。このような不利な状況の中、最大の逆説は、1900年代の後半に中国大陸から消えたキリスト教が再び生まれ変わり、勢いよく発展してきたことである。

漢語神学やキリスト教研究は、1949年から約30年間ほぼ空白状態だったが、1980年代に『宗教辞典』と『中国大百科全書』が出版され、そこで初めてキリスト教の評価が客観的な解釈になった。1990年代に狭義の漢語神学運動が現れ、漢語神学の論文や書籍が多数出され、その影響は学術界、ビジネス界、文化界、政治領域まで広がる。

 漢語神学は、巨大な文化と伝統および現実の制度に、また「文明の衝突」や多元的・学際的な問題に対面しなければならない。このような厳しい環境の中、漢語神学の学者は現在第四世代まで活躍しているが、なお漢語神学は周縁化されている。しかし漢語神学の大きな動向は、最終的に中国文化、中華文明の再生に重要な精神的役割を果たすだろうと述べ、氏は講演をしめくくった。

(CISMOR特別研究員 朝香知己)


https://www.y-history.net/appendix/wh0302-049.html 【景教】より

キリスト教ネストリウス派はエフェソス公会議で異端とされ、東方に広がり、7世紀頃の中国で景教と言われた。

 けいきょう。キリスト教の一派であり、431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は、ローマ領内での布教を禁止され、東方に広まった。

大秦景教流行中国碑

 ササン朝ペルシアを通じ、唐の太宗の時代の635年に中国に伝わり、景教と言われた。745年にはそれまで波斯寺とといっていた寺院を大秦寺とした。都の長安の大秦寺には、781年に、景教の布教を記念した大秦景教流行中国碑も建てられた。

 景教というのは、その碑文に「真常の道、妙にして名づけ難し。功用照彰し、強いて景教となす」とあり、暗黒世界を照らす光明遍照の宗教(景の字義や光)の意味であろう。唐では、景教は祆教(ゾロアスター教)・摩尼教(マニ教)とともに三夷教と言われた。

景教のその後

 景教は祆教にくらべて、漢民族にも信仰するものが多かったらしく、漢訳された聖書もつくられた。ただし、景教はキリスト教と言っても、いちじるしくイラン化したものであった。唐の会昌の廃仏の時、景教も禁止されたため中国では衰えたが、中央アジアのモンゴル系ナイマン族などでもネストリウス派の信仰が継承され、西アジアにイスラーム教が勃興すると、西欧キリスト教世界の中に、中央アジアに存在するキリスト教国と手を結ぶために、使節を派遣しようと言う動きが起こる。それが13世紀のプラノ=カルピニやルブルクなどの宣教師の東方派遣につながる。


https://www.y-history.net/appendix/wh0103-159.html 【ネストリウス派】より

エフェソス公会議で異端とされたキリスト教の一派で、キリストの本性を人性においている。東方のササン朝を経て中国に伝わり、景教といわれる。

 4世紀にキリスト教の正統の教義とされたアタナシウス派の三位一体説を否定する有力な教義であったが、431年のエフェソス公会議で退けられ、異端とされた。

キリストの両性論を否定

 コンスタンティノープル総大司教のネストリウスは、マリアを「神の母」と呼ばず「キリストの母」と呼ぶことによって、キリストの人性を明確に示そうとした。彼はアタナシウス派のキリストを人性と神性の両性を持つという説を否定し、人性と神性は区別されるべきであり、キリストの人性は受肉によって神性と融合することによって単一の神性を有することとなった、と主張した。これに対するアレクサンドリア教会の司教キュリロスは、キリストは人性と神性の両性をそなえていると反論し、激しい議論が続いた。

単性論との違い

 エフェソス公会議で結果としてネストリウス派は異端とされたが、キリストの本性をどう見るかについては、その後も異論が現れた。次いで有力となったのは正統派のキリストの本性を人性と神性の両性を有するという両性論に対する批判としてはネストリウス派と同じであるが、逆に、キリストの本質は神性であり、神性しか認められないという単性説であった。それについては451年にカルケドン公会議が召集され、そこで最終的に単性説は否定され、三位一体説が正統として確立する。

中国に伝わり景教といわれる

 その後、ネストリウス派のキリスト教は、東方に広がり、イランを中心に独自の発展を遂げ、ササン朝ペルシアを通じ中国に伝わり、中国では景教と言われた。唐の都長安には景教の寺院が建てられ、信者が多かった。長安における景教の流行については、大秦景教流行中国碑によって伝えられている。宋代以降は中国の景教は衰えたが、ネストリウス派は中央アジアを中心に存続し、現在もイラクや南インドにわずかだが残存している。


https://www.y-history.net/appendix/wh0103-161.html 【カルケドン公会議】 より

451年、東ローマ帝国で開かれたキリスト教の公会議。単性説を異端と裁定し、三位一体説が正統として確立する。

 451年、東ローマ皇帝マルキアヌスが主催した、キリスト教の教義に関する重要な公会議。カルケドンはコンスタンティノープルの対岸のアジア側にある。 → カルケドンの位置の確認

三位一体説か単性説か

 ローマ帝国の皇帝が主催するキリスト教の教義統一に関する公会議は、コンスタンティヌス帝の325年のニケーアに始まり、381年にはテオドシウス帝が召集したコンスタンティノープル公会議でアタナシウス派の説く三位一体説が正統教義としてほぼ確定した。  しかし、帝国の東西分裂後、5世紀になるとキリスト論を巡って三位一体説を揺るがすネストリウス派の首長が現れ、431年にエフェソス公会議が招集されてネストリウス派が異端であるとされた。

第5回の公会議

 ところが次にそれはキリストの人性と神性の両性が一体となったという正統教義を批判し、その本質は神性であるという単性説が登場した。三位一体説を守る必要を感じたローマ教会の司教レオ1世は強い危機感を感じ、ビザンツ皇帝マルキアヌスに公会議の招集を要請、そのために第4回の公会議としてカルケドン公会議が召集された。  激しい議論の結果、単性説は異端とされた。これによって、ローマ教会の三位一体説が、キリスト教の唯一の正統な教理として確定した。またこの公会議の開催を要求して実現させたローマ教会の司教の発言力が強まり、ローマ司教は首位権を主張してローマ教皇と言われるようになった。

 しかし、西ローマ帝国はこの頃、大きな脅威を迎えていた。翌年452年にはアッティラのローマ侵攻、さらに455年にはヴァンダル王のガイセリックがローマを劫掠し、そして476年にオドアケルによって西ローマ帝国滅亡を迎えることとなる。

単性説を異端とする

(引用)エフェソス公会議後、キリスト単性説がさらに有力となったので、451年に最後の決着をつけるため、カルケドン公会議が皇帝マルキアヌス(在位450~457)によって召集された。この会議も混乱のなかにはじめられ、怒号と叫喚に包まれて進められたが、ついに教理定式が「カルケドン信条」として宣言された。

 この信条は、「キリストは真に神であり、真に人であること、神性によれば父なる神と同質で、人性によれば我ら人間と同質であること」を改めて確認し、この両性がどのように存在するかについてば、「両性は一つの人格、一つの本質の中に並存する」とうたわれた。すなわち、両性は融合した形で一つの本質となって存在するのではなく、両性の本質ははそれぞれ完全な形で、それぞれ別個に保存されて並存する、と理解されたのである。‥‥

 この決定にはローマの司教レオ1世(在位440~461)の圧力が大きく働いたから、教義的にこの「両性説」になお承服できない「単性説」者の反対は、いきおい正統派教会から分離する運動に走ることになった。皇帝ユスティニアヌス(在位527~565)は、単性説論者を正統派と和解させようと努力したけれども、彼らの分離運動を阻止することはできなかった。今日なお残存しでいるエジプトのコプト教会やシリアのヤコブ派教会※、及びアルメニア教会は、この時発生した分離運動の流れに続くものである。<半田元夫『キリスト教史Ⅰ』p.200-201>

※ヤコブ派は現在は「シリア正教会」と言うのが正しい。シリア正教会は「ヤコブ派」という名を否認している。また、いわゆる「単性説」に加えられることも否定している。

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