天守閣にシャチホコが乗るのは織田信長へのリスペクト? チコちゃんの説明に目ウロコ

https://sirabee.com/2020/04/11/20162299935/  【天守閣にシャチホコが乗るのは織田信長へのリスペクト? チコちゃんの説明に目ウロコ】 より

『チコちゃんに叱られる』で天守閣に飾られるシャチホコについて解説。そのルーツは歴史上のあの人物が大きく関わっていた。

10日に放送された『チコちゃんに叱られる!!』(NHK)で扱われたテーマのひとつ「なぜお城にシャチホコがのっている」に注目が集まっている。

名古屋城をはじめ、日本各地の城の天守閣に飾られているが、なぜシャチホコなのだろうか。

■城は信長の発明

チコちゃんの気になる回答は「織田信長へのリスペクト」だという。初めて城にシャチホコを乗せたのは織田信長の安土城だと言われており、現在我々が城と呼ぶものは信長が作り出したものだと紹介。

安土城が作られたのは1579年で、本能寺の変後に焼失したため現在はその天守閣を見ることはできないが、信長以前の城は、山の地形を生かした山城と言われる土作りで、高い石垣や天守もないものが主流だった。

しかし、信長は、城の立派さを見せつけることで相手を屈服させようとした。今までとは違う目的をもった革命的な発明の城だったのだ。

■中国文化への憧れ

信長は中国文化を好む傾向があった。当時中国の宮廷には、屋根の上に竜が乗っていることが多くそれを真似したかったのだという。

だが、中国で屋根の上に乗る竜は、首から上だけのものだった。しかし、日本では「打ち首」と捉えられてしまい縁起が悪いため、頭が虎もしくは竜で、身体が魚という中国の空想の生き物であるシャチに目を付けた。

尾が上に向く姿にすると武器の矛のように見えることからシャチホコと名付けられた。中国の文化に憧れを持つ信長にとってシャチホコが最も理想的だったようだ。また、シャチには、火事の際に水を出して消化するという伝説も。

■豊臣秀吉が引き継ぐ

シャチホコは天下統一のシンボルとなるはずだったが、1582年に起こる本能寺の変によって、安土城の天守は焼失し天下統一も道半ばに。その後、信長のことを高く評価していた豊臣秀吉が城を作る際、安土城スタイルの城である大阪城を建築した。

天守閣にはシャチホコを乗せ、自身が信長の継承者とアピールしつつ、配下の大名たちにシャチホコの乗った城を造らせたという。これが広まり、全国の城に乗るようになったと解説した。

納得の声

シャチホコが城の上に乗せられた理由を詳しく解説したチコちゃんに「信長の好みでつくられて流行したのか」「信長が始めて秀吉が広めた鯱」「火事のときに水を出すからってだけじゃないんだね」と納得の声が相次いだ。

学校で行う歴史の授業では触れられることのない知識だが、こういった豆知識を覚えながら勉強するとさらに歴史が楽しくなるかもしれない。


https://shuchi.php.co.jp/article/1587 【安土城の謎~戦国の覇王・織田信長が築城した天下の名城】より

小和田哲男(静岡大学名誉教授)《『歴史街道』2013年9月号より》

天下統一を目指す信長が安土築城を命じたのは、畿内をあらかた平定し、さらなる展望を抱いた時期でした。新しい本拠地として安土を選んだ信長の狙いとは、はたして何だったのでしょうか?

さらに、従来の「戦うための城」ではなく、「見せるための城」とした意図とは?

天下統一を狙う信長が安土城を築いた意図は何でしょうか?

 信長は安土城を築く前に、本拠地を何度も移しています。那古野城から清洲城に本拠を移して尾張を統一した後、前線により近い小牧山城で美濃攻めに臨みました。斎藤氏を下すとその居城の稲葉山城に本拠を移し、岐阜城と新たに命名します。そして、その翌年に足利義昭を奉じて上洛を果たしました。

 このように、信長は次の目標に近いところに城を移して、進攻するというやり方で勢力を拡大していきました。岐阜城に本拠を移してからしばらくは、四方の敵対勢力と対峙する状態になりましたが、浅井・朝倉氏を滅ぼし、長篠・設楽原の戦いで武田軍を大敗させ、長島や越前の一向一揆勢を討伐すると、次なる目標は大坂の石山本願寺や中国地方の平定となります。東は武田家が衰えを見せ、盟友の徳川家康が遠江へ進攻していましたので、信長の意識が西に向かうのは当然だったでしょう。

 ただ、安土築城を命じた天正4年(1576)の時点では、越後の上杉謙信と敵対関係にありましたので、上杉勢が北国街道から信長の勢力圏に進攻するのを阻止する必要がありました。また、石山本願寺が健在ですから、越前や湖北の一向一揆が再び立ち上がる恐れもあり、それを防ぐ必要もあったのです。

 もちろん、京都に居城を移すという選択肢もあったでしょうが、琵琶湖湖畔の安土から京都へは船を使えば半日程度で入れますから、わざわざ京都に本拠を移す必要はありません。それよりも京都と尾張の中間に位置する安土にいて、上方と東海地方の両方の経済圏を押さえようという意図があったのです。

なぜ信長は、安土城を「見せるための城」にしたのでしょうか?

 安土城以前の城のように、単に籠城して戦うための城であれば、わざわざお金をかけて豪華絢爛を誇る必要はありません。しかも目立たせるのは攻めてきた敵に目標を示すこととなるので逆効果です。

 しかし築城の時点では、織田家の戦闘地域は勢力圏の周縁部にあったわけですから、信長は安土で戦うことなど想定していなかったでしょう。ですから、信長は軍事的な面というよりも政治的な面を重視しました。

 つまり、城下のどこからでも壮麗な天主が見えるようにして、人々に自分の権威を示したのです。しかも従来にない新しいものを見せることによって、信長の天下になれば、これまでとは違った世の中になるということを人々に印象づけました。

 現に派手好きの信長は、城下で度々相撲大会を開いたり、天主を提灯でライトアップするなど、これまでにない盛大なイベントを企画しました。天正10年(1582)の正月には、天主の隣にある本丸御殿を見物させて自ら百文ずつの見物料を受け取ったりもしています。

 このような演出を目の当たりにすれば、民衆は信長に靡いて新しい政策も受け入れますし、敵対者も信長と戦うのはあまり得策ではないと考えるようになります。

 こうした発想は、やはり天下統一を狙う人物ならではのものでしょう。信長の天下統一事業の後継者となった秀吉も、同様の発想で大坂城や聚楽第を築きました。そうした意味で、安土城は、城郭が新たな機能を備える画期となった城と言えます。

安土城の天主の姿にはどのような説がありますか?

 安土城の天主については、いくつかの復元案が提唱されていますが、基本的には太田牛一の『信長公記』の写本の1つである『安土日記』やルイス・フロイスの『日本史』の記述が元になっています。それに様々な証言や文書を傍証として復元案がつくられ、近年では主に5種類ぐらいのものがあります。

 それぞれ階層の形や大きさに色々な違いがあるのですが、特異なものとしては、地階から地上3階までの計4階が巨大な吹き抜けになっていて、その中央に宝塔を据え、西洋風の天井の高い空間があったという説があります。2階には舞台も設けられていて、いかにも派手好みの信長らしいユニークな構造です。この案は加賀藩士の家から見つかった「天守指図」という城の設計を記した史料にに基づいていますが、後世に創作されたものではないかという意見もあり、どの程度史実に基づいているのかは議論の分かれるところです。

 他に、地階から3階までの中央に心柱があったという説や最近では天主台から清水の舞台のような懸け造りの構造物が張り出し、二の丸と繋いでいたという説もあります。これらも特色があってとても興味深いものがあります。しかし、いずれも可能性としてはあっても、確かな史料がないため想像の域を出ておらず、何とも言えないところです。私自身としては、もう少しオーソドックスなつくりだったのではないかと考えています。

 実は、存在自体は知られていながら行方がわからない、有力な史料があります。信長がローマ法王のために狩野永徳に描かせ、宣教師ヴァリニャーノがバチカンに持ち帰った屏風絵です。天正13年(1585)にバチカン宮殿内の「地図の画廊」に展示されたことは確認されているのですが、以後、行方不明になりました。その「幻の屏風」を求めて数度にわたって滋賀県から調査団が派遣されましたが、未だ発見されていません。天主の姿を知る上での貴重な史料ですので、発見が待たれるところです。

著者紹介

小和田哲男(おわだ てつお)静岡大学名誉教授

1944年、静岡市に生まれる。1972年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士。日本中世史、特に戦国時代が専門で、研究書『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』『小和田哲男著作集』(全7巻)などの刊行で戦国時代史研究の第一人者として知られている。また、NHK大河ドラマ「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江~姫たちの戦国~」の時代考証を務める。

著書に『戦国の合戦』(学研新書)『名城と合戦の日本史』(新潮選書)『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)などがある


https://shuchi.php.co.jp/article/968 【本能寺の変 明智光秀は、なぜ織田信長を討ったのか?】 より

小和田哲男(静岡大学名誉教授)『歴史街道』2012年5月号より

坂本城跡と明智光秀像

琵琶湖岸の坂本城跡と明智光秀像(滋賀県大津市)

明智光秀が織田信長誅滅を断行した動機は、いまだに日本史上最大の謎の1つである。

謎の解明が困難なのは、光秀関係の史料の多くが抹殺・改竄されてしまったためだ。それほど「主〈しゅう〉殺しの逆臣」という汚名は重いものであった。

しかし、残された数少ない史料を読み解き状況証拠を考察することで、光秀の実像は近年徐々に鮮明になり、本能寺の変の動機も、かなり絞られつつある。

突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か

なぜ「絶好のチャンス」は生まれたのか

 天正10年(1582)6月1日、申〈さる〉の刻(午後3時から5時ごろ)、居城である丹波・亀山城にいた明智光秀は家臣たちに出陣を命じる。だが、その日的地は明かされない。軍勢が勢揃いした午後8時ごろ、はじめて重臣たちに重大な決意を告げる光秀。重臣たちは驚愕するが、しかし光秀の想いを汲み覚悟を固めた。兵たちには、今日よりして天下様になられる。出世は手柄次第だ。勇み悦べ!」と触れが出され(『川角太閤記』)、全軍京都へ向けて進軍を開始する。明けて6月2日未明、興奮の面持ちで「敵」を取り囲んだ軍勢に、一斉攻撃が下知される。「本能寺の変」の幕が切って落とされたのである。

 いったいなぜ、光秀は織田信長の誅減を断行したのか。日本の歴史を大きく変えたこの事件は、いまだに日本史における最大の謎の1つであり続けている。

 そもそも、明智光秀に関する文書は極めて少ない。長い間、「主殺しの逆臣」というレッテルが貼られてきたために、史料の多くは光秀との関係を隠匿するために抹殺されるか改竄されるかの運命を辿ったからだ。それゆえ現段階で謎を解くには、残された数少ない史料を読み解き、状況証拠を採っていくしか道がないのである。

 まず、「その日」の状況から確認しておこう。信長は博多の豪商・島井宗室を正客に、京都・本能寺で自慢の38種もの名物茶道具を披露した茶会を終えて、僅かな手勢とともに本能寺に滞在していた。一方の光秀は、中国攻めを行なっている羽柴秀吉の援軍を命じられて、およそ1万3千の兵とともに京都にほど近い亀山城(亀岡市)にいた。

 羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益などの織田重臣たちは、各々、京都から遠く離れた前線に張り付いている。徳川家康は同年3月の武田討伐を労う饗応で、安土へ招かれた後、わずかな近臣と堺見物の最中。信長の嫡男・織田信忠は、家康の接待役としてともに堺を見物する予定であったが、信長の上洛を聞いて、当初の予定を変えて数百の手勢とともに京都に滞在していた。

 光秀にとってこれは、信長、信忠父子を一挙に討ち取る絶好のチャンスといってもいい。この状況が生まれたのは、単なる偶然だったのか。それとも誰かが巧妙に仕組んだのか。仕組んだとすれば、誰が、いかなる動機で……。まさに謎が謎を呼ぶのである。

残された史料が語るもの

 残された史料は何を語るのか。かつては「光秀は、積み重なった怨みを晴らすべくしい逆に及んだ」とする「怨恨説」がもっぱら主流であった。まず、それを覆したのが高柳光壽氏である。氏の『明智光秀』(吉川弘文館「人物叢書」1958)は、まさに光秀研究の端緒ともいえるものだった。高柳氏によって光秀に関するある程度確かな史料が集められ、それまでとは異なる光秀像が提示された。そして高柳氏は、それまで有力視されていた怨恨説を1つひとつ否定し、「光秀は天下を狙った」とする「野望説」を唱えたのである。

 この説は大きな反響を呼び、光秀像が塗り替えられていく。しかしその反面、天下を狙ったにしては、本能寺の変後の光秀の行動があまりに無計画ではないか、という意見も出されるようになった。そこで、「光秀は、いまが信長を討つ絶好のチャンスだと知って、突発的に謀反に及んだのではないか」とする「突発説」も唱えられ始める。

 もう1つ、史料研究で画期となったのは、当時、朝廷の周辺にいた人物たちが書いた日記などの分析であった。東大史料編纂所にいた岩沢愿彦 〈よしひこ〉 氏が昭和43年(1968)に「本能寺の変拾遺 ―『日々記』所収天正十年夏記について」という論文を『歴史地理』(吉川弘文館)に発表。勧修寺晴豊の『日々記』がはじめて活字に翻刻された。勧修寺晴豊は、武家を朝廷に取り次ぐ武家伝奏を務めていた公卿で、本能寺の変の前後にも信長や光秀と交流していた人物である。これを契機に『日々記』は多くの人によって読み直されるようになる。

 さらに吉田神道の当主で、朝廷と光秀の取り次ぎ役も務めていた吉田兼見(兼和)の『兼見卿記』の本能寺の変の前後の記録が改竄されていた(追及を恐れて書き直したものと、実際の日記の両方が残っている)ことも広く知られるようになった。これらの史料などから、「公家たちが裏で暗躍していたのでは」という推論がなされるようになっていく。

 碓かに当時、朝廷と信長の間にはさまざまな軋轢があり、信長が朝廷をないがしろにする考えをもっていた可能性がある(これについては、本特集内の別稿で触れる)。ここに注目した議論が「朝廷黒幕(関与)説」である。

 この「朝廷黒幕説」をはじめ、現在ではさまざまな黒幕説が唱えられている。足利義昭が裏で糸を引いていたのではないかとする「足利義昭黒幕説」もある。本能寺の変が起きる直前の5月に、朝廷は信長に対し、征夷大将軍、関白、太政大臣の三職のいずれかに就任してはどうかと持ちかけている(「三職推任」)。信長が征夷大将軍に任ぜられれば、足利義昭の将軍位は名実ともに剥奪されることになる。それを恐れた義昭が、かつて家臣であった光秀に誘いをかけたのではないかとする見方である。もっとも私自身は、当時の光秀は、義昭から指令を受けて動くような関係ではなかったと思うが……

 また、本能寺の変の「受益者」ともいえる、徳川家康や羽柴秀吉を黒幕とする説も根強い。

さらに光秀自身の「動機」の数々とは

このような「黒幕説」以外に、「光秀単独犯行説」でも、さまざまな要因が挙げられている。

 最近、注目されることが多いのが、明智光秀と長宗我部元親との関係である。石山合戦が続いていた時期、織田と長宗我部は同盟関係にあった。織田からすれば、石山本願寺を挟み撃ちできる地理関係にある四国の長宗我部との同盟は、有用なものだったのだ。この織田・長宗我部同盟を取り次いでいたのが光秀であった。しかし、本願寺が織田に降伏した翌年に、信長は長宗我部との同盟関係を覆す。阿波を巡って長宗我部と対立していた三好康長に肩入れし、三好の阿波平定を支援する立場に回ったのである。信長は、長宗我部の支配を認めるのは土佐と阿波の一部のみと通告。これに怒った長宗我部元親は織田と断交し、信長は三男の神戸〈かんべ〉信孝(この後、三好康長の養子となる話も進んでいたといわれる)や丹羽長秀らに四国征伐を命じている。光秀の面目は丸つぶれである。

 しかも、三好康長を支援するよう働きかけたのは羽柴秀吉であった。秀吉は甥の秀次を三好康長の養子としていたのである。秀吉とのライバル争いにしのぎを削ってきた光秀としては、到底認められない政策変更だった。この屈辱ゆえに、光秀は謀反に及んだのではないか、と考えられるのだ。

 また、先ほど紹介した「三職推任」で、もし信長が征夷大将軍を受けたら、史上初の「平姓将軍」が誕生することとなる。これは美濃源氏の名門・土岐氏の流れをくむ光秀には到底許せないことだったのではないか、という見方もできる。

 さらに、秀吉とのライバル争いに疲れたのではないかとも考えられる。信長家臣団の中で、最初に「一国一城の主」になったのは、坂本城とその周辺の滋賀郡をもらった光秀であり、2番目が秀吉であった。以後も両者は出世競争のデッドヒートを繰り広げていた。

 天正9年(1581)2月に、信長は京都で織田軍団を総動員した大規模な馬揃え(軍事パレード)を行なうが、この責任者として指名されたのが光秀であった。大軍を差配できる立場に立った光秀は、得意の絶頂だったはずである。しかしその後の四国政策の転換や、秀吉の中国攻めへの援軍命令は、一度は「秀吉に勝った」と思っていた光秀に、深い失望感を味わわせることになる。これが謀反の1つの引き金になったとする見方だ。

本能寺と光秀の謎を解く鍵

 もちろん、原因は複合的に絡まりあっているはずだ。いままで紹介してきたもの以外にも、理由はさまざま考えられよう。だが、そのうち、明らかに実像からかけ離れるものもあるはずだ。それを突き止めるためには、明智光秀の人となりを知らねばならない。冒頭で述べたとおり、長らく「謀反人」とされてきた光秀の史料は極めて少ないが、それでも少しずつ見えてきた部分はある。

 まず光秀の出生である。これも霧の中だが、しかし、京都で禁裏御倉職を務めていた立入、<たてり>宗継が残した「立入左京亮入道隆佐記」(「立入宗継記」)という史料に、明智光秀は「美濃国住人とき(土岐)の随分衆なり」という記述が見られ、やはり美濃源氏の土岐氏の流れをくむ人間だと考えるべきであろう。

 私は、光秀は岐阜県可児市広見・瀬間の明智城(別名・長山<おさやま>城)に生まれたのではないかと考える。美濃の守護の土岐頼芸<ときよりなり>は斎藤道三によって追放されるが、明智光秀につながる家系は道三側に付いたと思われる。史料の信憑性を精査する必要はあるものの、「明智氏一族宮城家相伝系図書」という家系図には、光秀の叔母にあたる女性が斎藤道三に嫁いだという記述がある。その縁もあって道三側に付き従った明智家は、道三と対立した斎藤義龍に攻められ、明智城は落城し、光秀も美濃を迷われることになったのではないか。

 このような出自の光秀は、おそらく禅僧の教えなどを小さい頃から受けて、教養を高めていったのだろう。じつは、有名な禅僧である快川紹喜<かいせんじょうき>(妙心寺43世に就任し、のちに武田信玄に招かれて恵林寺に入寺)は、明智一族の出身ともいわれる。

 さらに光秀は各地を転々としながら武者修行を重ね、越前一乗谷の朝倉家への任官に成功したと思われる。そしてこの越前で、その後、朝倉家を頼って落ち延びてきた足利義昭や細川藤孝と懇意になるのである。ここで光秀は、朝倉義景に覇気がないことから朝倉家を見限り、当時、日の出の勢いであった織田信長のもとに足利義昭を連れて行ったのであろう。光秀は美濃出身であるし、先の系図が正しければ、信長の正室の濃姫とはいとこの関係になるので、当然、信長についての情報は入っていたと思われるからである。

 信長は早速、足利義昭を奉じて上洛する。その後すぐ、光秀は京都奉行の役割を担い、これを見事に勤め上げているから、やはりかなり高い教養と実力を身に付けていたものと思われる。さらに吉田兼見や、勧修寺晴豊などの公家との接触の中で、朝廷サイドの情報は光秀には随分入っていただろう。

 謀反人とされた光秀の業績はいくつも消されているが、秀吉の大手柄として名高い「金ヶ崎退き口」もその1つである。じつは光秀も秀吉とともに殿軍<しんがり>を務めていたとする記録が残る(波多野秀治宛一色藤長書状)。また、従来説とは異なり、「叡山焼き討ち」でむしろ主導的な役割を演じていたことも明らかになっている。光秀が坂本城を賜ったのは、この功績によってのことであった。

 さらに光秀は、丹波平定を成功させた恩賞として丹波一国を与えられる。京都ののど元ともいえる丹波と坂本の両方を領国として押さえ、近畿一円を管轄する「近畿管領」のような立場に立つのである。

 このような人物が、たとえば神経衰弱や将来不安のノイローゼなどといった原因で、謀反を起こすことが考えられるだろうか。

 もう1つ、考えておかなければならないことがある。それは、光秀の領国であった坂本や丹波の亀岡、福知山などの土地で、いまだに光秀を慕う伝承が残っていることである。光秀の領国統治は、たかだか数年程度のものである。しかも、長らく「謀反人」とされてきた人物への尊崇が、なぜいまだに続いているのか。そこにも、本能寺と光秀の謎を解く鍵が隠されていると、私には思えてならない。

 本能寺の変がなければ、日本の歴史はまったく違うものとなっていたはずである。この事件がなければ、日本はどう変わっていたのか。さらに、光秀はいったい何を考えていたのか……。この謎の扉を少しばかり開くだけで、日本史の真髄と、その面白さが飛び出してくるのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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