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【俳句とは即ち芭蕉の文学だ 高浜虚子「俳句はかく解しかく味う】 より
大正7年(1981)初版が出た(文庫化は昭和12年)、1994年10刷を神保町の店外の絶版コーナーで350円。
このとき虚子45歳、大岡信の解説によれば、
子規亡き後、俳句よりは写生文、小説作者として活動していた虚子が「俳句のために旧を守らんとする『守旧派』」を名乗り、ふたたび『ホトトギス』雑詠欄の充実を通じて伝統俳句の大道に復帰し、たちまちにして俊秀を集め、ライヴァル碧梧桐の新傾向俳句を蹴散らした頃、だ。
本書の冒頭に
要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差支えない事と考える。即ち松尾芭蕉なる者が出て、従来の俳句に一革命を企てた以来二百余年に渉る今日まで、数限りなく輩出するところの多くの俳人は、大概芭蕉のやった仕事を祖述しているに過ぎん。
とあり、芭蕉はもとより太祇、蕪村、子規、凡兆、水巴、几董、一茶、召波、、多くの俳人の句を明快に丁寧に読み解き断じ、「写生」「閑寂趣味」「趣向」などのなんたるやを諭したうえで、さいごにも、「芭蕉の文学」である俳句の解釈はこれを以って終わりとする、で結んでいる。
大岡は、
これを、① 歴史的観点からする「新傾向」俳句の否定、であり、② 芭蕉より蕪村を明治の新しい俳句のためのよき模範としてたたえた子規に対する異議申し立て・明らかな修正、だったとする。
昭和時代における新興俳句運動、1950年代から60年代の前衛俳句運動のいずれにあっても、「反花鳥諷詠」「反虚子」がその中心的動機だった。
しかし大揺れしたかに見えた俳句界もおさまってみると、大揺れの震源地であった俳人たちさえ包みこむ形で、虚子の指し示した方向に向けて再編成されてゆくのが常だった。
とする。
「古池や蛙とび込む水の音」、長谷川櫂がこの句を、
「古池に蛙が飛び込む水の音がした」と、読んではいけない、「蛙の水に飛び込む音を聞いたら古池の茫漠とした姿が心に浮かんだ」と読むべきだ。
と書いている「芭蕉の風雅 あるいは虚と実について」 について前に紹介した。
ところが本書で虚子は、
実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭に在ってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞こえるというだけの句である。牽強付会の説を加えてこの句を神聖不可侵のものとするのは論外として、これ以上に複雑な解釈のしようはないのである。
と言うから、ありゃまあ、長谷川さん、論外だってよ、と思うと、続けて、
唯この句は芭蕉が、いわゆる芭蕉の俳句を創めるようになった一紀元を画するものとして有名だという説は受取り得べき説である。
それまでの滑稽洒落の談林調から脱して、実情実景そのままを朴直に叙するところに俳句の新生命はあるのであると大悟して、それ以来、今日に至るまでいわゆる芭蕉文学たる俳句が展開されて来た、、としてこの句の歴史的価値を認めている。
長谷川櫂の本は手元にないからうろ覚えであるけれど、芭蕉が「蛙とび込む水の音」を得たときは池に面してはいなかったのではないか。
すると虚子の言う「実情実景そのままに叙」したことにはならないように思えるのだが、さて。
俳句を作れない俺だけど面白く読んだ。
岩波文庫
http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jbasho.shtml
松尾芭蕉(1644~1694)
まつお ばしょう
松尾芭蕉は、俳諧(俳句)の歴史における最初の偉大な作家として知られる。
当時流行していた語呂合わせや冗談を多用した作品を、彼も初期には書いていたが、1680年ごろから俳諧における(特に発句における)思想性を重視し始めた。芭蕉は荘子の思想の影響を強く受け、発句の中にしばしば「荘子」のテキストを引用した。
荘子は、理知の価値を低く見て、作為や功利主義を否定した思想家である。一見無用に見えるものの中に本当の価値があり、自然の法則に逆らわないことが正しい生のありかたであると説いた。
鷺の足雉脛長く継添て 芭蕉
この句は、「荘子」の中の「それが自然に与えられた性質であるならば、たとえそれが長いものであっても、長すぎると思う必要はない。その証拠に、小鴨の脚は短いけれども、これをむりに長くしてやろうとすれば泣き叫ぶであろうし、鶴の脚は長いけれども、これを切ってやろうとすれば泣きわめくであろう」という文章をもじったものである。
この句では、荘子が否定した「鳥の脚を無理やり継ぎ足す」行為をわざと句の中で演じてみせることによって、行為の馬鹿馬鹿しさを眼前に見せ、それにより人間の作為の無力さをユーモラスに強調している。
芭蕉の俳句は演劇的であり、諧謔や憂鬱、恍惚や混迷を、誇張して作品の中で表現した。これらドラマチックな表現は逆説的な性格を持っている。彼が表現する諧謔や絶望は、人間の可能性を肯定し歌い上げるための道具ではない。むしろ芭蕉の文学は、人間の所為を描けば描くほどに、人間存在の小ささがかえって浮き彫りになり、自然の力(造化の力)の偉大さが読者に意識されるというような性格を持つ。
富士の風や扇にのせて江戸土産 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
行はるや鳥啼うをの目は泪 山も庭もうごき入るや夏坐敷
有難や雪をかほらす南谷 石山の石より白し秋の風
四方より花吹入て鳰の海 猪もともに吹るる野分哉
三日月の地はおぼろ也蕎麦の花 しら露もこぼさぬ萩のうねり哉
(注)「鷺の足」の句はもともと発句ではなく、すでに発表した連歌形式の俳諧の中の1行を発句として再使用したものである。この句には言外に「これまで多くの俳諧が発表されてきたのに、ここで再び1巻を制作するというのも、鷺の足に雉の足を継ぎ足すような愚かな仕業だなあ」という、自分自身をからかっておどける意味が隠されている。
http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jkyoshi.shtml
高浜虚子(1874~1959)
たかはま きょし
正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌、「ホトトギス」の発行は、子規の弟子の高浜虚子に引き継がれた。
虚子ははじめ小説の執筆に熱中していたが、1913年から俳句の創作と弟子の育成に注力するようになった。虚子の俳句作品と俳句観は多くの俳人の支持を受け、ホトトギスは膨大な数の投稿者を抱える大雑誌へと成長した。
虚子の俳句は固定した文体を持たない。彼の作品には、雄大で剛直なものもあれば繊細で柔弱な句もあり、空想をほしいままにした作もあれば事実のシンプルな描写に徹した句もある。虚子の世界は星雲のように混沌としており、さまざまな種類の草が生い茂った野原のように多様である。
虚子の思想をひとことで特徴づけるとすれば、人工的に知恵を働かせて作った小世界というものを嫌い、一句の中に知性では割りきれないあいまいな響きを残すのを好んだということが言えるように思われる。
虚子は芭蕉の偉大な功績を認める一方で、芭蕉の俳句の中にあるわざとらしい演劇的身振りは好まず、むしろ芭蕉の弟子で簡潔な描写を得意とした野沢凡兆(?~1714)を高く評価したりした。
虚子は俳句において季語が発揮する強力な象徴機能を重視し、無季の俳句を徹底して排除した。
蛇逃げて我を見し眼の草に残る 白牡丹といふといへども紅ほのか
早苗とる水うらうらと笠のうち 夕影は流るる藻にも濃かりけり
春の浜大いなる輪が画いてある 顔抱いて犬が寝てをり菊の宿
川を見るバナナの皮は手より落ち もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
岩の上の大夏木の根八方に 手にうけて開け見て落花なかりけり
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ
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