水は方円の器に随う

https://iirei.hatenablog.com/entry/20120807/1344335485 【「水は方円の器に従う」〜老子の名言?】より

老子特集その1(全2回)

 私は大学生時代後期のころに、老子に惹かれ、文庫本などで購読していました。諸橋轍次さんの「老子の講義」、小川環樹さん訳注の文庫本「老子」(中公文庫)など。今でも枕頭の書です。そのきっかけには2つあり、一つは自然農法家・福岡正信さんの自然農法(無農薬、無肥料、無除草、不耕起)。福岡さんは「現代の老子」と呼ばれていました。(後になって、彼の農法のウソを教えてもらう機会がありました。)

http://d.hatena.ne.jp/iirei/20090307  自然農法家・福岡正信さんの2つの死

 もう一つは今回表題の「水は方円の器に従う」です。この言葉、老子の言葉として紹介されていたのですが、私は、あたかも水には環境のなかで柔軟にその姿を変えるという意志があるように感じたのです。水に人格を見たのですね。

 ところが、老子のどこを読んでみても、この成句は出てこず、しばらく忘れていましたが、最近調べてみると、この成句の意味と出どころが解りました。

水は方円の器に従う(みずはほうえんのうつわにしたがう)

 人は環境や人間関係に感化され、よくも悪くもなるということ。固有の形をもたない水は容器の形に従って四角く(方)も丸く(円)もなることから言い、『実語教』に「水は方円の器に随い、人は善悪の友に依る」とあるのによる。孔子は『論語・為政』で「己れに如かざる者(自分よりも劣っている者)を友とすること無かれ」という。

類語:「朱に交われば赤くなる」、「人は善悪の友に依る」、「蓬に交じる麻」

http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/data/mi.htm より

あれー。肯定的ではなく否定的に水を捉えるお話になっていますね。

ここで出て来た「実語教」についてはwikipediaの説明では以下のようになっています。

実語教(じつごきょう)は、平安時代末期から明治初期にかけて普及していた庶民のための教訓を中心とした初等教科書である。

『下学集』(文安元年(1444年)成立)の序文に、『童子教』とともに童蒙学習書の筆頭に挙げられている。『図書寮本類聚名義抄』(康和4年(1103年)までに成立)に載っているので、それ以前に成立したとみられる。長門本「平家物語」巻8、無住の「雑談集」に見えるから鎌倉時代には流布していた。著者は不明であるが、その内容から仏教関係者であると推定され、江戸時代、寺子屋で習字本兼修身書として用いられた。

そしてこの本で説かれていた文章の一例として、以下を挙げておきます。

山高故不貴 以有樹為貴 :山高きが故に貴からず。木有るを以て貴しとす。

人肥故不貴 以有智為貴 :人肥えたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす。

富是一生財 身滅即共滅 :富は是一生の財。身滅すれば即ち共に滅す。

智是万代財 命終即随行: 智は是万代の財。命終われば即ち随って行く。

http://www.asahi-net.or.jp/~xn2m-fjst/jitugo.htm より。

案外著名な文章を含んでいますね、特に最初の行。実語教は対句をよく使い、覚え易く編集されているようです。

今日のひと言:老子には、水を讃える表現が頻出します。「水は誰でもが蔑む場所で生きていくのを良しとしている、ゆえに道(道家の根本原理)に近い:第8章」といったぐあいに。同じ水を見ても、儒家と道家では180度違う評価になってしまうのが面白いことです。もっとも、あたかも水に意志があるように捉えるのは、やはり両者とも中国哲学だからでしょうか。


http://rinnou.net/cont_04/rengo/1609b.html 【水は方円の器に随う】 より

書き下ろし 滋賀県 ・西江寺住職  稲葉隆道

 水から学ぶことは多いのですが、その一つをお話ししたいと思います。

 「水は方円(ほうえん)の器に随う」という偈があります。水は柔軟な物の典型として方形の器であろうと円形の器であろうとその形に随って形を変えて寄り添うということであります。

 人で言うなら心の柔らかさ、柔軟心(にゅうなんしん)の大切さを教えています。

rengo1609b.jpg その水も綺麗な真水がいいと思っていました。言い換えると、白分がきれいでないと他の汚れは洗えないと思っていました。

 しかし、経験された方もあるかも知れませんが、洪水で泥水が家宅に浸水し、家具が泥だらけになったとき、泥で汚れた家具をきれいな水で洗ったら、しみが残ります。泥で汚れたものは、一度、泥水で洗ってからきれいな水で洗わなければならないのです。 

 平成25年に滋賀のわが市も洪水の被害に遭い、重機を使う復興は早く終えましたが、戸々の後片付けに大変な時間がかかりました。

 人間関係もやはりそのようです。自分が「規則を厳守し、曲がったことが嫌い」という生き方の人は褒められこそすれ、少しも悪いことではないのですが、やりたくてもできない人の性格の弱さ、経済力の無さが理解できず、助けることが出来ないのです。きれいな水の人なのです。

 「自分が汚れなければ、他の汚れを洗うこともできない」と思えるようになって初めて、清濁合わせ飲める度量ができるのだと思います。

 非常時には、身近な存在の水に「光と希望」を見ることがあります。

 「水・パン・もうふ」「SOS」と、道幅いっぱいに白い粉で書かれた文字が並んでいました。被災地をヘリコプターが空撮した写真に写っていたものです。書いた人の悲痛な声が聞こえました。「水、パン」の水は命の水です。

 寒さ募る避難所には、心身を暖める「水」があります。お風呂や温かいみそ汁です。

 被災地に冷たい雨が降りつづき地盤が緩めば、余震が新たな土砂災害につながります。絶望で濡らす非情な水もあります。

 目、耳、口の自由を2歳で失ったヘレン・ケラーが最初に覚えた言葉は「水」であったといいます。

 サリバン先生がヘレンの左手に井戸水をかけ、右の手のひらに指で「W-A-T-E-R」と書いた。それが、「私の手を流れる、すばらしい、冷たい何か」についた名前であることを知ります。水が魂を目覚めさせ、「光と希望」を与えてくれたと、自伝で回想されています。

 水は一滴々々が集まり、岩をも、山をも砕く荒々しい試練を与える働きから、人の気持ちに寄り添える優しさまでを持っているのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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