金子兜太と美術史―兜太文学と美術史の系譜をめぐって―

http://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/kanekotoutatobijyutusi.pdf 【金子兜太と美術史―兜太文学と美術史の系譜をめぐって―】 より

熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹

1.美術史の流れ

3-15 世紀 :初期キリスト教美術 - ロマネスク - ゴシック - 国際ゴシック

14-16 世紀 :初期フランドル派 - ルネサンス - 盛期ルネサンス - 北方ルネサンス - マニエリスム- フォンテーヌブロー派

17 世紀 :バロック - カラヴァジェスキ - 古典主義 - オランダ黄金時代の絵画

18 世紀前半-半ば:ロココ - シノワズリ - ピクチャレスク

18 世紀後半-19 世紀 :新古典主義 - ロマン主義 - ゴシック・リヴァイヴァル

19 世紀写実主義 - ビーダーマイヤー - ハドソン・リバー派 - バルビゾン派 - マッキア派 - 移動派 - ラファエル前派 - 唯美主義 - ヴィクトリア朝絵画 - ジャポニスム - 印象派 - ポスト印象派 - 新印象派 - クロワゾニスム- 綜合主義(ポン=タヴァン派) - ナビ派 - 世紀末芸術 - 象徴主義(ロシア象徴主義) - アーツ・アンド・クラフツ運動 - アール・ヌーヴォー - 分離派(ウィーン・ミュンヘン・ベルリン) - 素朴派

20 世紀前半

フォーヴィスム - キュビスム - ダダイスム - 未来派 - ノヴェチェント - イマジズム - ヴォーテ

ィシズム - ブリュッケ - 表現主義 - 新即物主義 - ミュンヘン新芸術家協会 - 青騎士 - シュプレ

マティスム - 構成主義 - 新造形主義 -- バウハウス - アール・デコ - シュルレアリスム - エコー

ル・ド・パリ - モデルニスモ

20 世紀後半

アンフォルメル - 抽象表現主義 - コブラ - ネオダダ - カラーフィールド・ペインティング - ミ

ニマリズム - ヌーヴォー・レアリスム - ポップアート - フルクサス - コンセプチュアル・アート- ランド・アート - パフォーマンスアート - ビデオ・アート - インスタレーション - 新表現主義- アウトサイダー・アート - シミュレーショニズム - メディアアート - 芸術テロ -スーパーリアリズム

2.大正期~戦前昭和期における日本美術史概要

金子兜太が生まれた大正期の日本近代美術史のうち洋画の分野では、前衛美術の影響から自然主義的な官展の画風を嫌い在野の立場から反官展を表明する美術団体の結成が相次ぎ、大正元年に高村光太郎・斎藤与里らが中心となり、後期印象派やフォーヴィスムの画家が終結したフュウザン会、大正 3 年には二科会、大正 4 年には岸田劉生らの草土社が結成された。金子兜太の生誕した大正 8 年、熊谷では熊谷中学(現在の熊谷高校)の美術教師・大久保喜一を中心に県内最初の洋画団体「坂東洋画会」が結成されている。この活動は熊谷を中心に新たな美術運動が展開をしていたことを意味している。

一方、文部省は官展の停滞を打破するため大正 8 年に帝国美術院を設置し、従来の文展を廃止し新たに帝国美術院展示会(帝展)を開催し、帝展では従来の外光派的写実主義の画家が中心でありつつも、フォーヴィスム等の前衛画風を取り入れた独自のスタイルが生み出されていた。

昭和 10 年代になると戦争不安の色が濃くなり、自由な芸術活動に対する制限、弾圧が顕著となる。従軍する芸術家も増加し、また多くの美術団体が解散されるほか、政府の指導の下にさらに大きな団体に吸収されるなどの影響があった。昭和 18 年に結成された新人画会の靉光らのように抵抗する活動も見られたが小規模に留まっていた。戦時下においては国民の戦意高揚のため、藤田嗣治、宮本三郎、中村研一ら多くの画家が戦争画を描き戦争協力に加わることになった。

3.金子兜太俳句鑑賞

白梅や老子無心の旅に住む 『生長』しらうめ ろ う し む し ん たび す

この句は兜太が旧制水戸高校の一年(十八歳)の時、一年先輩の出沢三太(俳号珊太郎)に誘われて「水高俳句会」の発足句会に出席した際に詠んだもので、兜太自身も「文字通りの処女作」に位置付けている。二月、兜太は水戸の偕楽園を彩る梅の季節において、白梅と老子を結び付け詠み上げたことを明かしている。兜太は「北原白秋の詩で、老子の旅に触れた作品を読んだばかりだった」と語る。北原白秋の詩「老子」には「青の馬に白の車を引かせて、老子は幽かに坐つてゐた。はてしもない旅ではある、無心にして無為、飄々として滞らぬ心、函谷関へと近づいて来た。ああ、人家が見える、馭者は思はず車を早めたが、何をいそぐぞ徐甲よと、老子の微笑は幽かであつた。相も変らぬ山と水、深い空には昼の星、道家の瞳は幽かであつた」と記されている。中国、春秋戦国時代の楚の思想家である老子は「無心にして無為」からも分かるように自然無為の思想を説いた。この無心無為の道を眼前に捉え、そして白梅が咲いている。この意識内における視線の変化が俳句の中で描かれ、白梅と個人との対照性を躍動的なものとさせている。白梅の香りが漂い、寒さが残る寒中にも陽光の仄かな温かさが感じられる。

「旅に住む」との一節が兜太俳句の根底にある「定住漂泊」と通じることは偶然であろうか、必然であろうか。白梅との邂逅、その瞬間を経て兜太俳句の長い旅が始まったのである。

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 『少年』み お は えんてん ぼ ひ お さ

兜太は昭和二十一年(一九四六)、二十七歳の十一月下旬、一年三ヶ月間の戦後捕虜を経験し、トラック島からの最後の復員船「桐」で帰国した。この句はその船中で作句されたものである。敗戦濃厚の時期にあった日本軍の状況について兜太は次のように述べている。「戦争末期は戦闘より飢餓との戦いの方が深刻だった。朝目覚めると隣の人が冷たくなっている。餓死だ。それが日常である。餓死の人のおおかたが国に殉ずるといった志もなく、南の島に憧れてきた程度の人たちだった」。国威発揚のもと戦地へ後押しされた若者たちの意識は当初から国家には仕向けられずも、しかし国家の政策によって死するという悲劇の存在となったのである。兜太は彼らを「非業の死者」と称し、その憐れさを嘆いている。戦地では戦死した人々への慰霊の意が込められ、石製の墓碑が並び立つように建立された。南国の太陽の下、波打つ海際に面しながら、兜太は「炎天の墓碑」に死した人々への鎮魂の想いを寄せ、「私は島を去りゆく水脈の果てにいつまでも墓碑の姿を見つめていた」と語る。「墓碑を置きて去る」。これは戦争で亡くなった人々、そしてその家族たちの失意を代弁しているかのように思える。水脈の果てにて生じた

兜太の決意は戦後における新たなる覚悟へと変化し、戦争を非難し危惧する思想を形成するに至ったのである。されていったのである。この句は戦争の記憶と平和への希求を結び付ける意味を有し、兜太の反戦意識の高まりを告げる鎮魂碑的作品と解釈することができる。

彎 曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』わんきょく かしょう ばくしんち

この句は長崎の原爆に主眼を置いている。作句当時の兜太の日常と長崎について「神戸から長崎に移って三年居た。被爆から十三年経っていたが、爆心部の山里地区一帯はいまだに黒焦げの感じで、天主堂は被爆時のまま崩壊してそこにあった。黒焦げの大地に人は逞しく暮しをはじめてはいたのだが、痛ましかった」と説明している。この天主堂とは浦上天主堂のことであり、明治二十八年(一八九五)に起工し、大正十四年(一九二五)に完成するまで長い歳月を掛けて建立された。赤レンガ造りで当時は東洋一と称される規模の教会であった。しかし、この天主堂は戦争と原爆という苦難の歴史とともにある。第二次世界大戦末期の昭和二十年(一九四五)八月九日午前十一時二分に、アメリカ軍は長崎に対して原子爆弾を投下した。爆心地から北東へ約五〇〇メートルの位置にあった天主堂は、一瞬にして爆風で崩壊、火災で聖堂や司祭館の大半は焼失した。双塔の鐘楼や敷地内にあった聖人像などの石像も大破する壊滅的な被害を受けた。惨憺たる原爆被害を受けた長崎。その記憶を前に、兜太の想像が歩を進める。兜太は爆心地近くの戦後の状況を目にしながら、長崎原爆の脅威に着目したのである。「私の中に映像が動き出す。それは周辺の峠を越えてマラソンの一団が走って来たのだが、爆心部に入った途端、たちまち軀が歪み、焼けただれて、崩れてしまった」と。一句に触れる際の冒頭で動揺を与える「彎曲」については、その映像を追いながら兜太が見出した一語である。マラソンの一団が爆心地で彎曲し火傷し崩れ落ちる。この自身の解釈からは、一句に込められた壮絶なる着想性に気付かされるのである。この俳句によって兜太は前衛俳句の旗手として、更には平和思想の論者として位置付けられるようになっ

た。

無神の旅あかつき 岬 をマッチで燃し 『蜿蜿』む しん たび みさき もや

兜太は青森の津軽半島北西端に突出する岬である竜飛崎に行き、翌早朝、その突端に立った時にこの句を生み出した。その瞬間の情景について「タバコの火を点したとき、海に突き出ている岩肌に赤く映えた。あたりはまだ暗く、海峡の白波が目立っていた」と語る。本州と北海道を結ぶ青函トンネルの入口に当たる竜飛崎付近は標高一〇〇メートルの台地が続き、海食崖や海食洞があり、海上には奇岩が重畳している眺望からも地質学上の特異性を感じることができる。「たっぴ」の語源はアイヌ語の「タムパ(刀や突起の意)」で、「突き出た地」から「龍が飛ぶ」という語に転化した。また、太宰治が紀行『津軽』で、「鶏小屋に突っ込んだと思ったら竜飛集落だった」と描写したことで知られている。兜太はマッチで火を起こした数秒間に生じた岩肌への陰影に着目した。この視点の移ろいの中で、兜太の感性は「無神の旅」という語を引き出したのである。兜太は神と表現したことに関連して次のように語る。「私は、そのときも今も神・仏の存在を信じるが、特定宗教は信仰しない。その意味での無神論者である。岩肌の焔明りに、不図そのことを思って、何となく可笑しかったのである。いや、しみじみと神仏の存在を感じていたのである」。この言述には、生物と無機物を問わず全ての存在の中に霊魂が宿ると捉える「アニミズム」の思想が含まれているといえよう。海岸の風を受けながらタバコを燻らせる男、兜太と、鳥に姿を変えて行き交う無数の霊魂との語らいという想像に至らしめるのである。

林間を人ごうごうと過ぎゆけり 『暗緑地誌』りんかん ひと す

兜太は、昭和四十二年(一九六七)、北武蔵、埼玉県の熊谷市上之に転居した。この句はその転居後に感じた熊谷の風景を詠んだものである。自らの住まいを「熊猫荘」と呼んだ。兜太は句の描写について次のように説明している。「武蔵野の名残りの雑木林が多く、わが家の庭も雑木が多かった」。この自然風景の中に人間が登場する。兜太は、「その林間を歩いている人に、この土地の歴史を思い、背負ってきた運命を思う」と記している。これに加えて、自身の家族がここに住み始めたことへの想いを明らかにし、「そしてここに土地を得て住むようになった私たち夫婦の背負ってきた、これからも背負う運命を思っていた」と語る。轟くような音を意味する「轟々」または、喧しくも力強い一様を示す「囂々」から

も、雑木林を行き交う人々の流れが生命力溢れる情感として叙述されていることが分かる。兜太は運命や宿命とともにある人間の在り方に焦点を当て、雑木林を進み行く人間の可能性に希望を見出しているように思える。この句は北武蔵の熊谷の風景を表象することから、或る意味、熊谷らしさとは何かという解釈を併せ持っている。詠まれた当時、兜太が転居した熊谷の上之地区には多くの雑木林があり、ケヤキ、クヌギ、コナラ、アカマツなどの多様な樹木が育まれていた。屋敷林としても管理がされてきたが、市街地にも近い上之地区はその後において住宅開発などが進み、人々の生活を包み込むような雑木林は次第に減少した。この句はその当時の記憶を残すとともに、「不易流行」の意味や、時代変化に対する幾許かの達観を含んでいるとも感じられる。また、林間という表現については、現物の森林そのものとは異なる意識内での「森林」という解釈も可能である。自然の源泉であり、人々の知識の宝庫としての森林を意味しているのかも知れない。あるべきものへの着眼、なくなったものへの懐古などに想いを馳せながら、不易流行という林間の中で人間がいかに思索を進めているか、いかに歩行しているかという観点にも想像が広がるのである。

梅咲いて庭 中に青鮫が来ている 『遊牧集』うめ さ にわじゅう あおざめ き

この句は兜太俳句の中でも一つの記念碑的な側面を持って多くの人に愛好されている。兜太はこの句について「自家の庭に白梅紅梅が数本あって、白梅が咲くと春と知る。今年の春も白梅が教えてくれた。

戸を開けると白梅。気付くと庭は海底のような青い空気に包まれていた。春が来たな、いのち満つ、と思ったとき、海の生き物でいちばん好きな鮫、なかでも精悍な青鮫が、庭のあちこちに泳いでいたのである」と説明している。この句は、熊谷の上之にある自邸「熊猫荘」の庭を舞台として、その想像の景が訪れた時に咄嗟にできたとされ、「春到来を大いに喜んでいる作」と解釈を加えている。バラ科の落葉高木である梅は、早春になると葉より先に白や淡紅色、紅や黄色などの香りの強い花を咲かせる。葉は卵形で縁に細かく鋸刃に似た線がある。一方、到来した青鮫はネズミザメ目の海魚で、本州中部以南の暖海に広く分布している。性質は凶暴で、成長すれば全長約四メートルに達するとされる。体は紡錘形で、腹は白色、背が濃青色であることから青鮫の名称が付いた。梅の香り漂う中、大型の青鮫が泳ぎ回る光景を想像する。早春の日差しが海底まで辿り着き、力強く躍動する鮫を映し出す。こうした映像的な印象を含み、兜太俳句の真骨頂ともいうべき無類の迫力が感じられる一句である。前衛俳句の旗手である兜太が、自然を見て自然を主題とし詠んだことに対して、珍しくもあり、奇異なるとの指摘を受けたとのことであるが、この句について、兜太は社会と自分との関係を見つめる若き時の社会性俳句からの変遷として、自然や天然に着目した時期の作であることを明かす。また、兜太は「天然と人間を含めて自然」という認識に立ち、「草や木、動物たち」と称されるのは天然のもので、これに人間を加え、両方を含めて「自然」と呼称することを説明している。自然界を超越した一存在と一存在の語り合い。兜太の眼前には本物の青鮫が来ていたのかも知れない。

谷間谷間に満作が咲く荒凡夫 『遊牧集』た に ま た に ま まんさく さ あらぼんぷ

この句は兜太が俳句の重要な先覚者として評価する小林一茶との意識的繋がりを原点としている。兜太はこの句と一茶との関わり、更には兜太自身の生き方に準えて次のように記している。「小林一茶は六十歳の正月、荒凡夫で生きたい、と書きとめていた。つまり愚のままに生きたい。愚とは煩悩具足、五欲兼備のままにということ、とも書いていた。私は荒を自由と受け取っていて、人さまに迷惑をかけずにこれで生きられたら何より、と思っている」と。一茶を象徴する「荒凡夫」に一つの句の理念を想起し、影響を受けた兜太の自由を引き合いに出しながら、ここに兜太ありと高らかに語るようである。これに加えて、一茶の感性に着目し、一茶の場合は「生きもの感覚」―生きものを生きものとして自ら感応できる天性―に恵まれて、特に迷惑をかけることはなかったとの解釈が示されている。兜太はこの一茶に対する称揚を原点として、地元秩父の道を歩く瞬間へと意識が辿り着く。兜太は「一茶のような荒凡夫で、という思いのなかで、秩父の里山を歩いていると、小刻みに谷間があり、どこにも満作の素朴な黄の花が咲いていたのである」とこの句の情景を述べている。これは「一茶のようだ」と自らを捉えながら、道程を叙述したものである。小林一茶(一七六三~一八二八・宝暦十三年~文政十年)は、江戸時代後期の俳人で、現在の長野県の北部、北国街道柏原宿出身。若年より江戸に出て葛飾派の二六庵竹阿に俳諧を学び諸国を行脚した後に、晩年は故郷に定住している。生涯を通じて俗語・方言を交えた上での屈折した感情に基づく独自の作風を展開したことで知られる。句著作には『七番日記』『おらが春』

『父の終焉日記』などがある。兜太が著した『荒凡夫 一茶』の後書きには、「青年期から一貫して自分を支配していたのは、自由人への憧れでした。なかでも一茶の故郷・柏原と私の故郷・秩父が上武甲信の山続きであることが、余計に親しみと懐かしさを呼び寄せました。そこでますます病みつきになったのです。山というものは、案外奥深いものです」と記されている。本句はこの一節に含まれるような茶に対する視線と密接に関わり、兜太と一茶を結び付ける架け橋としての意義を含んでいる。

よく眠る夢の枯野が青むまで 『東国抄』ねむ ゆめ か れ の あお

作句後、兜太はこの句について芭蕉最後の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を反映させた本歌取りの句と述べている。松尾芭蕉(一六四四~一六九四・ 正保元年~元禄七年)は、自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現し、蕉風俳諧を打ち立てた。東北路への旅を始まりに諸国を旅し、『野ざらし紀行』『奥の細道』などの俳諧紀行集を著している。芭蕉は九州へ向かう途中の大坂で没し、その直前に詠んだ「枯野」の句は、「旅の途中で病床に臥していながら、夢の中では、なお枯野をかけめぐっている」『芭蕉事典』春秋社)との句意がある。病の中にありながらも再起を期して旅を想像する。それは現状に落胆し悲しみの感情も含まれているように思える一方で、空想の先にある希望が見出せる。この芭蕉句を起点として自身の句を捉えた兜太は、自由かつ楽観的な側面に重きを置いている。よく眠り、よく旅をし、思うがままに俳句を詠むことへの憧れと実践。このことは兜太が語る「漂泊」の特質であり、兜太俳句の世界観を形作っている一つの理念である。「枯野が青むまで」の表現では新たな芽吹きが予期され、先を見据えたような希望が見え隠れしている。芭蕉の一句を見つめながら兜太は「八十代にちかい自分の夢と、五十二歳で没した芭蕉の求めるものへのきびしい夢の違いに恐れ入った次第である」と語る。

これは俳聖に対する敬意の表れであるとともに、古典に対する確かな意識を含有している。兜太は「ともかく芭蕉は芭蕉、兜太は兜太、ゆっくり生きてゆこうの心意」と本句に潜在する芭蕉への意識を示しながら、自らの俳句と向き合う決意を強調している。芭蕉から兜太への俳諧史を傍観する時、この句は両俳人を結ぶ稜線として歴史的な意義があり興趣に尽きない。

おおかみに 螢 が一つ付いていた 『東国抄』ほたる ひと つ

「おおかみ」と「蛍」の描写は兜太の原風景と密接に関係している。そこには「産土」という概念が強く作用している。晩年を生きる兜太は次のように述べている。「七十歳代後半あたりから、生きものの存在の基本は土なり、と身にしみて承知するようになって、幼少年期をそこで育った山国秩父を産土(うぶすな)と思い定めてきた」と。産土とは生まれた土地を意味し、先祖伝来や自分の生地を出自意識をもって表現する言葉であり、その地の守護神を産土の神と呼ぶ。兜太は秩父を想いながら、産土とおおかみを結び付けて、「そこにはニホンオオカミがたくさんいた。明治の半ば頃に絶滅したと伝えられてはいるが、今も生きていると確信している人もいて、私も産土を思うとき、必ず狼が現れてくる」と語っている。ニホンオオカミは、ヤマイヌ(山犬)とも呼ばれるオオカミの一種で、食肉目イヌ科の哺乳類に分類される。かつて本州、四国、九州に分布していたが絶滅したとされる。秩父はヤマイヌの伝説による民俗文化が色濃く残されている地である。そして兜太は狼の幻想を見る。「群のこともあり、個のこともある。個のとき、よく見ると螢が一つ付いていて、瞬いていた。山気澄み、大地静まるなか、狼と螢、〈いのち〉の原始さながらにじつに静かに土に立つ」と。この句の醍醐味は狼と螢の対比にある。産土に息衝く狼の想像と、瞬く光陰の動的な印象が交わりながら、本句からは夏の一風景と強かな生命力が発せられている。

定 住 漂 泊冬の陽熱き握り飯 『日常』ていじゅうひょうはくふゆ ひ あつ にぎ めし

「定住漂泊」という兜太文学の基本思想ともいうべき主題がこの句の基礎となっている。兜太は、「定住漂泊こそ社会生活を営む人間の有り態と、私は考えていて、いま冬の陽を浴びて握り飯を食いながらも、そのことを思っている。そのせいか冬の陽ざしが妙に熱い。私自身その有り態にこだわり、ゆさぶられているせいだ」と本句について解説している。「定住漂泊」とは体験を通しての発見であり、生き方のひとつの提案であるとして、兜太は「とどめがたき漂泊心を、定住者こそエネルギーに、バネに」と語り掛ける。加えて、現代の状況にこの定住漂泊を当て嵌めながら、「現代において―相応の物質があり、日々を糊塗しうる小歓楽があり、ささやかな愛憎があれば、それが流魄を癒すというのであろうか。それだけに、定住漂泊者のみが、もがき、あせり、喚び、そして、ときに確然と無に立ち、ときに飄々と自然に帰してゆくばかりである」と言及している。そして、「彼らの屹立自体が、まことに孤立的なのだ。人は自分たちでつくってきた社会でなんとか生きてゆこうとして「定住」をもとめて苦労している。

そのためかえって、原始のアニミズムの世界を良き原郷として、そこに憧れて、こころさまよう」自著『酒やめようか どの本能と遊ぼうか』ということを提起している。兜太は自らを「荒凡夫」と呼び、アミニズム的な人間の存在理解に向けた俳句の可能性を信じ、「定住漂泊」の思想を基軸に据えたことが考えられる。冬の陽を感じながら握り飯を食らうという表現からは、この思想に対する兜太の情熱を見出すことができる。

陽の柔ら歩ききれない遠い家 俳誌『海程』より遺作ひ やわ ある とお いえ

兜太遺作の九句、その末尾に記された一句は兜太が生前に残した最後の作品となった。二〇一七年末から二〇一八年一月、二月に掛けて北武蔵の熊谷は近年稀に見るような厳冬が続き、珍しく降雪もあった。遺作の中には「雪晴れに一切が沈黙す」「雪晴れのあそこかしこの友黙る」「犬も猫も雪に沈めりわれらもまた」「さすらいに雪ふる二日入浴す」の四句を主題としている。熊谷は雪の少ない地域ではあるが、この時期における何度かの降雪のほか、赤城山から吹きすさぶ「赤城おろし」による寒冷風も例年以上に強く熊谷に本格的な冬の気候を齎していた。そのような中、気温は低いが陽光が街を照らし仄かな温かみを感じることもあった。この句からは、降り注ぐ柔和な光を身に受ける兜太の姿が想像できる。

自宅と施設の行き来の中で、車では間も無くであるが、歩くとなれば辿りつけない道を「遠い家」と表現している。兜太は死を意識して辞世の句を詠む発想はなかったといわれている。「死ぬことは他界に行くだけの話」とも捉えていた。芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の本歌取りとして、兜太は「よく眠る夢の枯野が青むまで」と詠んだ。この句からも分かるように「さすらい」を続けた兜太の思考は、最期に至るまで死を意識するのではなく、身近な日常にある生に目を向けていたことが分かる。この句は遠い家への想いを叙述したものであると同時に、それは熊谷か、秩父か、いずれにしても兜太の原郷を意味しているように思える。この句は兜太が生きたことを伝える証として、永遠に残り続ける重く美しき足跡となった。

4.金子兜太と美術史

金子兜太と熊谷を拠点に活躍した日本画家の大野百樹との交流は、熊谷市上之にある兜太の自邸「熊猫荘」への転居とも深く関わり、『戦後俳句日記』にもその経緯が詳細に記されている。兜太は百樹の人柄を信頼し、また同郷の秩父という点もあり、百樹の自邸の南側に家を構えた。一方、金子兜太と美術史との関連は、直接的な影響関係というよりは、社会性俳句にあるような社会と人間の関係性や、自己表現としての俳句の観点からも、当時の日本美術史と通じる部分があるように感じられる。

兜太俳句を一概に括ることは難しいが、戦後、戦場を回顧し悲惨な戦場について詠んだ句もあれば、古典の引用とモダニズムの表現が織り込まれた句もある。また、平和思想に根差した句もあれば、エロティシズムの境地にある句もある。想像上の描写に長けた句もあれば、蕉風にも通じる写生の句もある。

傾向と特色が時空を超えて往来する点は、柔軟性のある兜太俳句の特徴として解することができる。

兜太俳句における社会性と主体性について着目すると、戦後の兜太俳句が前衛たる代表として語られるようになったのは、俳句の存在意義を探究する中において、社会性に重きを置き、個人の存在における主体性を重視した点に由来していると考えられる。『金子兜太氏の世界』(『俳句』編集部 編 角川学芸出版)に所収されている秋尾敏「敗戦・実存・社会性―昭和二十年代の金子兜太」には、次の一節がある。「人間存在を軸に思想を組み立てようとする昭和二十年代の兜太の思想は、実存主義と呼ぶことができ、その立ち位置はジャン・ポール・サルトルに重なっている。この時期のサルトルは、マルクス主義に人間の主体性を取り戻そうとしていた」。戦後、兜太とサルトルによって語られた、現代における社会性と主体性の問題は直接的には一致するものではないが、その双方は文芸と哲学の領域のみならず広く市民に伝わり感受され、多くの影響を与えている。

兜太俳句に含まれる主体性は、風景と人間を対峙させながらも、あくまで協調と融合を求めているように思える。俳句には人間の精神が込められ、野の百合や空の鳥のように自由に紡ぎ表現できる可能性が内包されている。俳句を詠む、俳句を鑑賞する、その先には風景と自然と共存し共生し合う人間の姿をいかに描くか、いかに解釈するかという視点がある。また、兜太俳句は社会の中の人間、人間の主体性とは何か思考し、人間の存在そのものに関心を寄せ、理解しようと試みていることからも、実存主義の哲学にも通じているように思えるのである。この点から兜太俳句について再検討の触手を伸ばすことも可能であり、これにより兜太が詠み記した俳句が持つ新たな存在価値が見出せると筆者は感じている。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000