私の骨格自由人 ①

http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/10-1gall.html  【「私の骨格自由人」-1】   

「長寿の母うんこのようにわれを産みぬ」という句がありますが、金子さんをうんこのように産んだお母さんはどんな人でしたか。

一言でいうとかわいいおふくろなんですけどね。オレを満十七で産んでるんだ。親父と結婚したのが十六なんですよ。大正の初めですからね。

おふくろの印象は全くないんです。ただ、小太りのおふくろと思しき女性がいつも一緒にいたという記憶ですね。

お母さんの何か心に残るようなものはないですか。

そうね、心に残るって・・・・・母親が存命中は、私から見て、こういう特徴を持った母親であるというような思いはそうなくて、むしろ大変苦労している母親であると。

その理由は、親父が医院を開業した実家には、親父の祖父、祖母がいまして、その家には親父の他に兄弟として女が四人いたんです。

他に弟もいたのですが、これは酒を食らって荒川で泳いでいるうちに、心臓麻痺で死んじゃった。

家は豊かじゃないから、四人の姉妹はともに製紙工場に勤めていたのです。一番上は、なかなかの美人でして、製紙工場の指導員に騙されたのか言い寄られたのか知らないけれども、子どもができちゃうの。

その子どもを抱えた状態で製紙工場に勤めていたけれども、その間に結核になっちゃってね。

親父が祖父母のために隠居所として小さな家をつくっていましたが、その横に小部屋ををつくり、そこに結核で寝かされていました。

あの頃は結核は重病ですから、人はなるべく寄り付かないようにして、ばあさんだけで面倒をみるという生活をしておりましたな。まもなく死んでしまいましたけどね。

それから、四人姉妹の一番下のチエだけがまだ結婚せずに家にいたのですが、まんなかの二人が出戻りでした。

上から二番目の出戻りは、結構しっかりした女で助産婦になりました。

さっきもあなたがあげてくれた「うんこのように」というのは、その助産婦であるおばさんが私に話してくれたんです。

助産婦になり、一人娘を育て、これは別に住んでいました。近所でしたが、一応彼女は気をきかして別の家を借りて、そこで産婆をやっていた。

そこで盛りまして、結局自分の家をつくったんです。だけど年中、顔を出していました。

三番目のおばさんが、これが意地の悪い、きつい人でしてね。亭主が死んで、男の子二人抱えて戻ってきたんですよ。しかも、母親にとって不遇だったのは、二人連れてきた男の子の、上の子が私より一つ年下なんだけど、小学校は同級なんです。

あの頃は、七つ学校、八つ学校といって、一緒に入ったんですね。

やつが七つ学校、俺は八つ学校で入っていた。その関係がありましてね、非常にてめえの息子の方をかばって、兄貴の方の子どもは、自分の子どもよりも程度が悪いとか、成績が悪いとか、何か欠点を見つけてベラベラしゃべって歩くことが好きでしたね。

つまり、いじめたがる女なんです。うちの母親はわりあいにやさしい女で、こまかなこともケチケチしない女で、おっとりしていましたからいじめ甲斐があるんだな。

私も小学校の終わり頃になってよく家庭事情がわかりましたけれど、結局三番目の小姑がいたということが、おふくろにとって非常な不幸でした。

それから、親父のおふくろである、シゲというんだけど、これがまた意地の悪いばばあでね。よくおふくろをいたぶっていましたよ。

昔の農家ですから、その連中が同居しているわけです。だから、母親は、絶えずひやひやして、刃物の中に置かれているという状態だったのです。

それは、私も小学校の終わり頃になって、母親の状態がたいへんだと気づくようになりました。

母親も、めったに他人(ひと)に泣き顔を見せるような女ではなかったですがね。気が強いからというよりも、おのずからそういうことで自分の身を自分で庇って、ひとに見せないというような、そういう暮らし方になっちゃったのでしょうけれどね。非常につらい思いでいたということは分かっていました。

そこにもってきて、人間の不幸というのは重なるもので、小川町のおふくろの実家がつぶれちゃったんです。

おふくろの兄貴がぐうたらで、おふくろの親父が相当の金を残してくれたのですが、それを全部使っちゃった。というか、ひとに使わせられちゃった。事実上倒産しちゃった。

それまではおふくろの兄貴の方から多少の仕送りもあったりしたんだけど、今度は逆にこちらからお金を持っていくようになった。、

私が小学生になる頃で、よく、小川のおじさんにいわれて、親父から金をもらって、その金をもって小川町に持ち帰るという、メッセンジャーみたいな仕事をやらされていましたよ。

俺はとにかく皆野町の家にいるよりも小川の方が、そこで生まれて、おばあちゃんがいるわけだから、なんとなく居心地がいいんだ。

だから、私は小学校が終わり、中学校のなかばぐらいまでは小川が中心だった。

そういう関係もあって、没落した小川のためにお金を運んだという、そんな仕事もさせられていた。

幼くして大人の世界を知った、そういう意味ではませた少年でもあったわけですね。

長男で、大家族に育ったものですからね。人間関係については、あなたの言葉に従うとませた感覚を持っていましたね。だから、小学校六年ぐらいから、ズケズケ叔母に言うこともあった。

お母さんの愛情を強く感じたことで記憶に残ることはありますか。

そういうインパクトの効いた母との関係というのはないんですよ。母親はジッと耐えている、小太りの女という印象でずーっときています。母親の映像というのは、いつもそういう映像としてあったんですね。大学の休みで帰ったりしますと、庭の方で「あ、兜太来たね」と言って、ニコニコしながら来るんだけど、いかにも寂しそうで、ひとりぼっちという感じで来るんですよ。

奥様のどんなところに惹かれましたか。

特に性格だね。だから女房の持っている透明といえる感性の世界というのは、これは非常に魅力的でしたね。

いろんな亭主が、うちの女房はケツの上げ方が上手だとか、腰の振り方がうめェとか、いろいろ言うやつもいるけど、オレはそういうことは全然興味がない。感じなかった。不思議なんですな。

一般女性に対してもやはり資質を求めますか。

その女性の持っている資質の美しさというものが優先するので、それが優れた女性の場合は、肉体そのものも美しく見えてくる、魅力的になってくるだから性行為をした時の満足感が深い。

その資質のよさがが感じられない女性だと、いくらつき合っても、結局、ただ機械的につき合うということ。こちらの性欲を満たすだけに過ぎない。そういう思いがはっきりありますね。

金子さんが求める資質とはどういうものですか。

やっぱり、女房といっちゃおかしいけど、女性の場合は感性ですね。感性の柔軟さとか、鋭さとか。皆子の場合なんか冴えた感性、日常生活でいつもそれを感じる。随所にですね。

飯を一緒に食っているときの会話だって、それは感じられますね。それから一緒に旅行したとき、この女性の感性は素晴らしいと、こういうふうに思うわけですね。

そうすると、鈍感な女性はあまりお好きではないと。

全然ダメです。鈍感というのは私にとっては最悪ですな。鈍感な女性には全く興味がない。ただ、体型で好きでいえば、私はヤセ型のひとのほうがいい。中肉中背までいかない、それよりちょっとヤセめの感じの人がいい。

 金子さんが望む理想の死とはどんなものですか。

一番望んでいるのは「コロ往生」。

山頭火がよく、旅人たちと酒を飲むと、みな死ぬ話になるというんだよ。山頭火の記録の中に出てきますが、みんな異口同音にコロ往生を望んいると。コロ往生というのが、今考えられる最高の「場」だと思います。コロ往生というのは、コロッと死んでしまう。

よく、脳溢血なんかでぶっ倒れて、そのまま死んじゃうでしょう。あれは、よき「場」を用意したんだ。ああいう死に方がしたいね。とにかくテレテレ病んだり、治療したりして死ぬんじゃ、よき「場」とはいえない。その場でコロッと死ぬ。

脳溢血なんかでコロッと死んでしまうのはいいですよ。しかも自然死でしょう。自然死でコロ往生というのが一番いい。それがよき「場」だと思うのです。私はそれを望んでいます。

 医者を継がないことを、どうやってお父さんを説得したんですか。

親父の生活というのは、山国で周りが貧しかった。そこを自転車で往診していたわけです。

そこでトウモロコシを食ったり、漬物を食ったりして、野糞をして歩く、という医者の生活だった。だから体に苦労があったんですね。それは子供が見ていても分かる。よく、夜明けなんかに、あの頃は往診なんていうのは平気できましてね、「先生、来てくんなァ」って、戸をダンダンダンとやる。親父が夜中でも出ていき、夜明け時に帰ってきてコタツで寝ている、という風景をよく見ていまして、まあ、医者は大変だなと思っていた。

しかも、薬代、治療代というのは、貧しいから入ってこない。盆暮の集金で入った現金で生活をしている、という状態だったんですよ。

薬代の代わりに庭の木や庭の石ころを持ってきたり、食い物を持ってくるんですよ。

自分の家のトウモロコシとかナスとか、荒川でとれたアユなどを持ってきて、これで薬代にしてくんなァと言う。親父はそれを受け入れていた。それから赤ひげ先生なんていわれたりしたんだけど、とにかくそういうものをどんどん受け入れていた。

そういうことで、非常に暮らしは貧しかった。こんな状態で親父の跡を継いでも、経済的に非常にたいへんだから、良医にはなれない、人を救うことを唯一の目的としてやるような医療はできない。結局、食うことに追われているから、どこかで濁りが出てくる。こういう医者になってもしょうがない。オレはいやだと。医者にならないと言ったら、親父が、「うん、なるな」ってはっきり言った。お前の好きなことやれって言ってくれたんです。

時代の風潮として、軍人になろうなんていう気はなかったんですか。

全くない。軍人なんていうのはくそったれだ。全く軍人なんかになる気はない。それでいながら、秩父の大人たちの、戦争があって勝ったら俺たちは楽になるのだがなァという言葉が身にしみていた、海の底の魚の言葉として。だから大学を民族が滅びれば卒業して、いよいよトラック島に行った。

その時の自分の胸の内は、田舎の貧しい人たちのために戦う、日本民族が滅びれば日本はだめになるから、日本民族のために戦うと、こういう好戦派になる。オレが好戦的姿勢をとったのはその段階なのです。だけれども、学校で勉強していることは、はっきりと戦争は帝国主義戦争である、これは資本主義の罪悪であると。こんなもののためには死ねねェと、こういう思いが一方にあるわけですね。

三日間、岩手、宮城の海岸を歩いて、津波の被害の甚大さに絶句しました。津波の被害は、これは天然被害です。これはある程度やむを得ない。

だって復興はできる。

これはあなたの質問に出たら言おうと思ったんだけど、私がいま大事だと思っているのは、「即物」ということなんです。

「即物」で日本人は特徴があるわけですよ。「即物」というのは非常に大事だと。

「即物」と同時に、自然に甘えすぎている面があって、自然を畏れるというのが足りないんだ。

だもんだから、もっと畏れる面があったら、津波というものに対する防御措置を取れた。この津波の問題というのは解決できる。

さっきあなたが言ったように、ボランティアの人たちが活躍してくれて、いわゆる「即物」ということは、「ふたりごころ」に通じますから。

「即物」の富む民族は「ふたりごころ」の富んでいるわけですから、「即物」に恵まれ、ふたりごころに富んでいる民族が、お互いを救い合うということができて、お互いが救い合うことによって、津波被害というのはかなりに解消される。そおあとが補われる。

ところが原発被害というのは、ふたりごころでは救われないと思います。

放射能によってやられたわけで、これは人間同士の情愛の問題とは違ってきちゃった。

その辺が致命的な問題だと思うんですよ。

「即物」という言葉の意味を説明して頂けますか。

欧米の考え方は「対物」なんですよね。ものに対決する。だからこれは改造してしまえという考え方です。そこから自然科学が発達しているわけでしょう。

ところが東洋人の場合は、「即物」だと思うんです。物に即し、物と仲良くしていく。そこから「生きもの感覚」なんていうのも出てくるわけですけどね。

日本人は「即物」に恵まれた民族であると私は思っています。これは日本の短詩型なんかを見ればよくわかる。

ところが、物に即していく、自然と親しむあまりに、自然を畏れるということが少ないと思うのです。もっと畏れていれば津波に対する措置もとれたはずなんだ。

例えばもっと奥へ引っ込んで住居を構える。事件の直後に考古学者から聞いたんですけれども、縄文人は海から離れて生活しとったそうですな。

彼らの住居は、津波をちゃんと警戒しておったという。あれは自然を畏れるということのよさなんですね。恐れないからそうなっちゃったんです。

東電の原発なんかが、最初にプランを出した人が、津波の高さをもっと高くして、十何メーターで計算して原発の構造を考えていた。

それを東電が津波の高さを削って、それでコストを下げてつくったそうですね。そういうところに根本的に畏れるという気持ちがないんですよ。

その基本にある「即物」の気持も少ないですね。そのこころも少ない。銭儲けだけだ。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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