https://kaigen.art/kaigen_haiku/ 【◆金子兜太 私の一句】 より
雪の吾妻山あずまよ女子高校生林檎剝く 兜太
「九四歳の荒凡夫」の収録で来福。収録終わり頃、女子高生が林檎を上手に剝き「福島自慢の林檎、放射能検査済です。安心して召し上がって下さい」と。兜太先生は一切れ、二切れと頷きながらゆっくり味わっていらっしゃった。帰り道「若い人に辛い言葉を使わせる世の中はいかんなぁ」と、風評被害で苦しむ福島を気遣って下さった。冷たい風の中、吾妻山は福島をしっかり抱いていました。句集『百年』(二〇一九年)より。宇川啓子
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 兜太
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太
その人を伝うるに選句眼を以てす。たとえば、選に入りせば喜びに浸る。それに裏付けられし句業の中で句を探す。われ百パーセントの句でなく、「俳句界の傑作」に思いを馳せる。すると掲げし二句を得る。前句は誰もが興奮せど五七五の壁あり、三句体の幅を広く持ちて成らす。後句は当時の出産事情と絡ませ長寿を活かす。かような句から「存在者・金子兜太」が浮かび上がる。前句『暗緑地誌』、後句『日常』より。鈴木孝信
逢うことが便ち詩とや杜甫草堂 兜太
平成7年、金子先生を団長とする現俳訪中団一行二十名、四川省訪問。杜甫草堂を会場に日中詩人、俳人による合同句会が開催された。四川省の参加者十名、自作の漢俳を披露。熱気に包まれた。当時中国に漢俳という詩型が生まれて十五年。内陸のこの地までこれほど漢俳が浸透していたとは、と先生、大そう喜ばれた。掲句は戴安常の漢俳を受けての一句。句集『両神』(平成7年)より。大上恒子
梨の木切る海峡の人と別れちかし 兜太
昭和40年8月、金子兜太師は皆子夫人同行で、青森の「暖鳥」俳句大会特別選者として来県、故徳才子青良師の感化を受け、会友として参加した頃であった。下北半島の尻屋崎へ吟行した折の句。伝統を主体的に取り込む表出の見事さと、俳句の力強さを感じた思い出の一句なのである。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。須藤火珠男
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 兜太
高校の時、詩歌に造詣の深い音楽の先生から「蟹かつかつと瓦礫あゆむ」は「作者の強い反戦の思い」と教わった。私達生徒は、リズム感あるフレーズを始終口にした。長じて海程入会三年目の平成23年、広島で全国大会があり、師を川崎千鶴子さんと平和公園(爆心地)をご案内した。慰霊碑の前で静かに佇まれた師。ご自身の句が平和に役立つよう常に願っておられた師との郷土でのかけがえのない思い出と共に大切にしている句である。句集『少年』(昭和30年)より。寺町志津子
霧の村石を投ほうらば父母散らん 兜太
金子先生が熊谷の新居に移られた折に、今は亡き先輩と共に先生宅に訪問しました。その帰り際に上掲「短冊」を頂く。以上は半世紀も前の昔のことですが、それ以来我が家の「家宝」として大事にしています。先生が育った秩父は山峡―なので霧が深い―山国を出ることなく暮らす老父母への愛情―を句にされたものと鑑賞。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。本田日出登
無神の旅あかつき岬をマツチで燃し 兜太
掲句と兜太先生を教えてくれたのは、故徳才子青良先輩であった。この句で兜太先生を知り、「海程」の会員となった記念の句である。1962年8月、先生は「寒雷」青森支部俳句大会特別選者として初めての来県。大会の翌日竜飛崎吟行をし、朝の暗い岬に立ちタバコの火を点し岩肌が赤く燃えたという。私は先生の心が燃えたと読み取り、思い出深い一句である。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。後藤岑生
ほぐれたりひぐらしが湧くよ 兜太
五・五・三の破調ですが、繰り返し読んでいますと十七音の呼吸で体に入ってきます。「ほぐれたり」の語感にどこか懐かしい響きが、また「湧くよ」という先生独特の捉え方に時間的経過と美しい感覚の世界が立ち上がってきます。新同人になった年の全国大会で先生から出身地を訊ねられ「長野県伊那です」「そうだ伊那の顏だ。伊那は君の様な顔容の人が多い」緊張の糸がほぐれた一瞬でした。句集『日常』(平成21年)より。横地かをる
暗黒や関東平野に火事一つ 兜太
師・金子兜太に、私を繋げた一句です。俳句でもと模索しているさなか、この句に出合いました。浮かんだ景は――上りの夜行列車。関東平野に差し掛かったあたり。真っ暗闇にぽっと火。「火事だ」禍々しくも美しい。不遜だが、その火に希望も見える。窓に映る顔、沈黙と葛藤と静寂。――窓に映るその男の声が聞こえたように思いました。これが俳句か、と衝撃でした。そして「私の師はこの人・金子兜太」と決めた一瞬でした。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。鱸久子
男鹿の荒波黒きは耕す男の眼 兜太
昭和58年10月、俳句を学びたいと思い立って、八郎潟畔の句会の門を叩いた。その夜の会場は、「海程」同人の舘岡誠二さん宅。句会の室に、全紙の大きさで掲げられていたのが挙句。句の中の黒きのように、墨痕鮮やかな大字、男鹿の荒波が聴こえて来るような気がした。俳句を始めようとした日に出会ったこの句に励まされて、今日まで俳句を作って来た。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。竪阿彌放心
霧に白鳥白鳥に霧というべきか 兜太
昭和49年10月、皆子夫人と共に九州入りの折、当時三歳の長男と三人で九重レークサイドホテルで出迎え、同人になって初の出会い。ホテルの前の山下湖に白鳥三羽が悠然と遊ぶ夕景が今も目に浮かぶ。掲句は、ここでの作品。「白鳥・九重」と題した23句のなかの一句。茫漠たる大自然のなか、日銀という組織を離れた胸中は自然回帰かなど懐かしい一句。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。有村王志
確かな岸壁落葉のときは落葉のなか 兜太
平成29年、金子先生から戴いた色紙に記された句。かすかな春の気配と共に、先生の優しい励ましが深く心に沁みた。この句は先生が日銀福島支店勤務の暮らしの中で、自己確認の心意を込めてつくられたという。どんな状況でも、淡々と受け止め、諦めず、想像力を働かせ、切り抜けて行こうと、今あらためて、この句を噛み締めている。句集『少年』(昭和30年)より。本田ひとみ
東にかくも透徹の月耕す音 兜太
句と絵の今風に言えばコラボ。左下に薄墨色の闇に月の絵。30年くらい前になろうか金子兜太・森澄雄二人展の即売会があった。新聞紙上にそのいくつかが紹介された。その新聞の切り抜きの一枚を額に嵌めた。今も壁に掛かったままだ。日暮れの早い山峡の厳しい自然。東の山の端に冷気を誘う月。急かされる山人の暮し。日本の原風景アニミズムの世界観だ。いったい季語は月か耕しか。季感は。『詩經國風』(昭和60年)より。金子斐子
じつによく泣く赤ん坊さくら五分 兜太
以前、BS俳句王国という番組が松山から発信されていた。四月には必ず金子先生が主宰。その収録で来る途中、飛行機の中での出来事だとおっしゃっていた。が、自選自解では列車の中での句とおっしゃっている。私の思い込みだったのだろうか。この「さくら五分」は、もう先生だけのもの。「梅咲いて」と同様に誰でもが使えるものではないフレーズだと思っている。今も私の車の後部座席には左義長師とにこにこおしゃべりしている姿がある。『東国抄』(平成13年)より。山内崇弘
左義長や武器という武器焼いてしまえ 兜太
私の郷里山梨と金子先生の郷里秩父は山一つ隔てた所にあり、気候も風俗も似ており、少し荒い気質などは懐かしいような恥ずかしいような気分ですぐ馴染みます。カルチャーの後など先生は秩父訛で皆とよく歓談されました。「ほんな危ねえもん武器なんか火にくべて燃やしてしめえ!」と言っている晩年の先生の顔が見えます。句集『日常』(平成21年)より。黒岡洋子
霧過ぎて白露おきてこの碑錆ぶ 兜太
多賀城碑と題したこの句の先生の書、私の書斎に飾ってある。平成15年の壺の碑俳句大会に出席された先生から頂いた。この日、鳴子温泉に先生と同宿。お風呂で椅子を並べたので「先生背中流しましょうか」と聞いたら「オーッ」と頷かれた。先生の背中は真っ白で豊か。「先生背中白いですね」と言ったら「うん母親譲りだからな、長生きするよ」と言われた。句集未収録作品。中村孝史
定住漂泊冬の陽熱き握り飯 兜太
わが郷土はご存知の通り、東日本大震災・原発の原子炉水素爆発事故により、避難せざるを得ない生活に見舞われました。家族で七年もの漂泊生活を送り、冬の陽の熱さ、温かい握り飯の美味しさ、有難さを実感持って味わいました。兜太先生のずばりとした感情表現を身に付けようと努力しているところです。帰還して畑作やら盆踊りに興じ、「原郷」として、人生漂泊に親しんでおります。句集『日常』(平成21年)より。江井芳朗
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太
傾斜地を好み群集して咲く曼珠沙華は、計画性があり、咲き終わると次の年の斜面の高さを定めて葉を伸ばす。緻密さを秘めて兜太師に相応しい。そこを天真爛漫に行動する子供達は人間力が強い。兜太師も精力的である。最近この句は、戦後東亰の小石川行舎から秩父に帰還時のものと知った。衣料不足をものともせぬ秩父の子の勇健さにも触れた、多面性の句と思われてきた。句集『少年』(昭和30年)より。成井惠子
どれも口美し晩夏のジャズ一団 兜太
平和と自由の象徴のジャズに託し、奏者との一体化を「どれも口美し」と瑞々しく捉えた。その解放された高揚感は晩夏のひかりの中へ。日比谷公園、おそらく野外音楽堂に満ちていた。それは希求していた自由を手にした歓びでもある。戦後の風景を淡彩に叙した。この斬新さに魅了される。美しいリリカルな句、と思う。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。田口満代子
華麗な墓原女陰あらわに村眠り 兜太
寒雷から海程への歩みを確定させてくれたのが師の『定型の詩法』である。その中で「造型俳句」というものが態度の確保された手法であることを学んだのがこの句の成立について述懐された一文である。このことを体感的にも確かめたくて句の生まれた野母半島は三回訪れた。この自然風土にあっての精神風土の形成かとその後の私の歩みにとっては信念ともなった。『金子兜太句集』(昭和36年)より。野田信章
潮かぶる家に耳冴え海の始め 兜太
「海程」創刊、という前書きのある句。昭和三十七年四月が創刊である。創刊に対する強い決意が窺われる句である。〈潮かぶる〉に、これから起こるであろうことを予感し、〈耳冴え〉に、冷静に対応し、各種の困難に立ち向かう決意があふれている。「海程」という海の始まりである。この後の昭和六十年に、主宰誌へという新たな潮をかぶることになる。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。川崎益太郎
海とどまりわれら流れてゆきしかな 兜太
夫人を伴って、オホーツク海を旅した折に詠まれたといわれる掲出句。海は原初のままの姿でそこにとどまるが、現実のわれらは人間社会の日々に帰ってゆくよりほかないと書く。作者特有の情感が、不変の大自然・海という悠久のいざな存在に、人界の摂理を切なく響かせ、その造語「定住漂泊」へと誘う。〈海程海隆賞北村美都子君〉の為書とともに、兜太先生より賜った真筆の一句である。句集『早春展墓』(昭和49年)より。北村美都子
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島 兜太
私が金子兜太先生が海程人であると認識し偉大であると感じた一句。それまでの私は、俳句も「海程」も金子兜太でさえも、知らなかった。しかし、この句に出会い「俺の」の自由性に感動した。俳句が楽しくできそうな瞬間だった。金子兜太先生や「海程」の諸先輩や皆様に刺激を受けてきた。その中でも金子兜太先生は断トツである。『金子兜太句集』(昭和36年)より。奥野ちあき
「どもり治る」ビラべた貼りの霧笛の街 兜太
港に近い街の片隅のガード下、霧笛の響きがやるせない。石原裕次郎出演の映画の一場面を見るようだ。汚い落書きやビラがところ狭しと書きなぐられ貼りめぐらされている、そのなかに、吃音矯正のビラにこころを惹かれた。自身が若干の傾向を隠し持っているためか、体とこころの乖離を体験しアイデンティティの回復を果たせぬまま、日々を漂流している体制のなかの少数派の立場を思いやって考えているのか、このままでは終わらせないストーリーの続きを感じさせる組立てを見せる作品だ。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。竹内義聿
猪が来て空気を食べる春の峠 兜太
掲句の「春の峠」は、幾つ目の峠であろうか。歩いて歩いて終に辿り着いた異空間。そこは猪・狼・鹿・蛇・熊・人等が自由に存在し、平和に暮らしている。殊に空気が旨い―峠。師兜太が願う真の平和希求の眼差しが見える。海程賞受賞(第23回・昭和62年)の副賞として戴いた陶飾板にこの句が記されている。我家の唯一の家宝です。句集『遊牧集』(昭和56年)より。大沢輝一
青年鹿を愛せり嵐の斜面にて 兜太
この句で詠まれている「嵐の斜面」とは、厳しい現代社会の漠然とした不安の譬えであろう。鹿は青年にとって「癒し」の象徴であり「愛情」の拠り所でもある。人間誰しも一人では生きてゆけない。煩わしくとも人間関係の中で心の支えや繋がりを求めて生きている。鹿を愛する青年の姿は全ての人々のシルエットとなって、その愛は能動的であれ受動的であれ、嵐のような現実社会に癒しを求めて立ち向かうのである。『金子兜太句集』(昭和36年)より。近藤亜沙美
被曝の人や牛や夏野をただ歩く 兜太
先の東日本で発生した大地震と巨大津波、福島第一原発の事故は、被害が甚大で深刻な事態を引きずったままだ。一部の地区で、原発避難指示は解除されたが帰還者は少ないようだ。原発の事故によって、荒れた田畑や野原をただうろうろと歩くことしかできない人や牛の物寂しい姿を描いて、被曝の悲惨さ、むなしさを呟くように書きとめたもので、読む者の心に沁みてくる。「海程」(平成23年8・9月合併号)より。関田誓炎
林間を人ごうごうと過ぎゆけり 兜太
父と一つ違いの先生の、明晰で磊落な人柄に海程の最大の魅力を感じていた。海程なればこそ私のような者が俳句を続けられたのだと感謝しかない。今世この地に生を受けた我々は、それぞれが様々な荷を負い、出会い別れて生きてゆく。まさに「ごうごうと」だ。更に時空を超えてこの地この林間に生きた幾多の時代の人の姿をも思わせる、この句の詩の力に圧倒されて止まない。『暗緑地誌』(昭和47年)より。藤原美恵子
白い人影はるばる田をゆく消えぬために 兜太
養蚕教師だった祖父は、母の実家へ婿養子に入った後、小学校の代用教員をしていました。でも、曾祖父(舅)に農業に専念するよう頼まれ、戦争から復員後は農業一筋。その祖父を思い起こさせる、大好きな句です。金子先生が七年前、無言館の成人式にいらした折、「母は農家の出身だから」と言ったら、「農家が一番いいだ」と力強くおっしゃってくださいました。句集『少年』(昭和30年)より。清水恵子
海を失い楽器のように散らばる拒否 兜太
兜太と言えば「造型俳句」。神戸から長崎、そして十年振りに東京に帰ってきた時期に重なり、掲句は長崎時代の作である。海に囲繞された長崎が海をなくしたとは、楽器のようにとは、拒否とは何か興味は尽きないが、踊るような高揚感と確乎とした意思が、やがて「海程」の創刊へと雪崩れ込んでいく。前衛俳句のひとつの頂点を成す一句である。『金子兜太句集』(昭和36年)より。並木邑人
山峡に沢蟹の華はな微かなり 兜太
沢蟹は山の沢の石の下などにひっそりと生きている。それを「微かなり」と捉えている。二本のはさみをかざし、足を左右に開いて、踏ん張っている姿は美しい。自然の中にけなげに生きている生き物の美しさを「華」はなと捉えている。「華」はなと言い、「微かなり」と言ったところ、作者の産土である「山峡(秩父)」に生息している生き物に対する作者の温かいまなざしが感じられる。句集『早春展墓』(昭和49年)より。内野修
夕狩ゆうがりの野の水たまりこそ黒瞳くろめ 兜太
先生が三重県にいらした時、書のお手伝いをしたことがある。その折、「何でも良いからお前さんの近所の話をして」と言われたので、畑を荒らす猪や猿や鹿のこと、狢や蛇との闘いのことなど話した。それらを一々うんうんと頷いて面白そうに聞いていらした。あの時先生は私の話から言葉を狩っていたのではないのだろうかと、先生の好奇心一杯の目の輝きとともに、時々懐かしく思い出す。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。奥山和子
赤い犀車に乗ればはみだす角 兜太
掲句は連作十句の中の、兜太がアレゴリーの手法を実践した一句である。怒りや興奮、そして強烈なエネルギーをイメージさせる赤い色は、疾走する犀そのもの。アレゴリー的に言えば、例えば好景気の高度経済成長の時代を暗示していそうな。だが出る杭は打たれるの諺もある。はみだす角、、、、、もそうだろう。当時昭和元禄と呼ばれていた浮かれた日本に警鐘を鳴らしていたとも。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。宇田蓋男
猪は去り人は耕す花冷えに 兜太
十三年前、東京から会津に移住した際、兜太先生に色紙を頂き、そこにあった句。猪の句としては「猪が来て空気を食べる春の峠」、東北の句としては「人体冷えて東北白い花盛り」が知られる。それらに比べればインパクトは弱いかもしれない。しかし花冷えの中の耕しの姿はまさに会津の風景だった。当時の私の身上を慮ったような句で金子先生のはなむけの気持ちを強く感じた。〈編注:『東国抄』(平成13年)に「猪は去る人は耕す紅葉冷え」の一句がある。恐らくこの句を踏まえ、春三月、会津に帰る作者を思って揮毫されたオリジナル作品と推察する〉田中雅秀
鶴の本読むヒマラヤ杉にシヤツを干し 兜太
この句に対し「腕力で詩を創るのは叡知で田を作るよりもむづかしい《百句燦燦》」と書いたのは塚本邦雄である。しかし兜太はその並はずれた膂力によって俳句に鮮烈な詩を出現せしめた。鶴の本を読むというナイーブな感性の持主と、丈高いヒマラヤ杉の下枝にシャツを干す男臭い人が同一人物であることはいうまでもないが、その対照するがごとき存在感こそ詩の存在理由といえよう。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。白井重之
小鳥来る全力疾走の小鳥も 兜太
平成十六年、海程新人賞の授賞式に金子先生から「軽やかな句を」と戴いた色紙。爽やかな秋の空、透明な空気感、自由に飛ぶ生命感あふれる小鳥。中には全力疾走の小鳥も。生きとし生けるものへのアニミズム。「小鳥も」という下語の四音が疾走感とエネルギーを強調している。この句は先生からの温かく大きな励ましと思う。私の作句信条でもある大切な一句。句集『両神』(平成7年)より。室田洋子
くろくなめらか湖うみの少女も夜の妻も 兜太
句集『早春展墓』(昭和49年)の冒頭の道東旅行の作から。道東の湖は摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖と神秘的な湖が多い。夜の湖畔に仕事の手を休めて独り立つ少女のシルエットが滑らかであり、艶っぽい。横に連れ添う妻の横顔も普段より華やぎ、セクシーである。山々の稜線に囲まれた夜の湖面が黒く神秘的である。ふと、湖畔のアイヌの悲話の伝説が胸裏を過る。十河宣洋
長生きの朧のなかの眼玉かな 兜太
この句に会った時、ルドンの一枚の絵と重なった。田舎生活ですり込まれた世間の目と違う根源的な眼に捕えられた。もう一句「霧のなか動かぬ眼玉やがて破裂」を知り、師が破裂するほど凝視していたもの、朧の中で生きていた眼玉に迫りたいと願っている。師とはお話することも叶わなかったが、句を通して背を追い続けられること、自然の中に師の眼を感じられる一瞬があることを幸いに思っている。句集『両神』(平成7年)より。黍野恵
富士たらたら流れるよ月白にめりこむよ 兜太
平成二十七年に、金子先生から戴いたこの色紙。壮大な、動かない自然と動く自然との融合。すこし俗(?)な言葉の裏に、それ故に尚のこと浮き彫りになる、夢幻の世界。富士山のなだらかな、しかし鋭い稜線が月白に突き刺さる情景は、神々の妖しくも秀麗な交合とも思え、加えて先生のシャイな心も仄見えて、私の愛誦句のひとつとなった。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。茂里美絵
唯今二一五〇羽の白鳥と妻居り 兜太
昭和五十九年の瓢湖での作。恐らく湖畔に掲示されていた白鳥飛来数を、そのまま取り込んだ。大きな数詞、そして字余り。しかし定型感に全く破綻がない。ばかりか弾む息遣いの生き生きした韻律。かつ臨場感。ズームアップされた犇めく白鳥と妻との美しく耀きあう一瞬(存在としての妻と白鳥)。兜太六十五歳・皆子五十九歳。命の高揚と華やぎと。句集『皆之』(昭和61年)より。藤野武
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