産土(うぶすな)の椋神社・秩父

https://www.minano.gr.jp/learn/%E6%A4%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE/【椋神社】より

皆野 椋神社 は延喜式により設置された式内社として、皆野町大浜に所在する。祭神は、猿田彦命、八意思兼命、大巳貴命の三柱である。蓑山中腹にある蓑神社を奥宮とし、県指定無形民俗文化財の獅子舞と町指定無形民俗文化財である神楽を伝承する。また町指定有形民俗文化財として桃山様式と伝えられる獅子頭を保存している。

また、皆野町出身の俳人 金子兜太 氏がかつて戦地へ赴き、そして無事に帰ってきたときに、 「生きて帰れたのは産土(うぶすな)の椋神社のおかげ」といった言葉を残している。 椋神社 には産土神(うぶすなのかみ)、すなわちその土地の守護神がいるとされ、命や身を守ってくれる「守護」の御利益があるとされてる。 皆野町へ訪れた際にはぜひ 椋神社を訪れ、安全祈願をし、そして歴史を感じてみてはいかがでしょうか。


https://www.town.minano.saitama.jp/haikunomachi/about/ 【俳句の町みなの】より

秩父札所をつなぐ道は信仰の道であるとともにさまざまな人や情報が行き交う道でもあり、巡礼者や旅芸人をはじめ、国学者や医者、俳人、歌人など文化人の姿が多く見られました。彼・彼女らの活動は地芝居や角力(すもう)興行の記録として残されており、また秩父郡に現在も残る歌舞伎や人形浄瑠璃として伝えられています。

俳諧についても幕末頃、農民の間では農閑期を中心とした俳句づくりが流行していたようで、明治以降、本格的に文芸活動に携わる人物も現れました。

秩父音頭を全国に広めた金子伊昔紅もそのような存在ということができ、俳人であると同時に、一般向けに柔剣道場や漢学を学ぶ場を設けた教育指導者でもありました。伊昔紅が皆野町で俳句会を催したのは昭和8年頃といわれており、秩父音頭が世に出るきっかけとなった明治神宮遷座10周年記念祭と時期が重なります。

「雁坂」

伊昔紅の活動は、後に長男である兜太(とうた)に「七人の侍」と称された「七彩(しちさい)会」を結成した潮夜荒(うしお やこう)や岡紅梓(おか こうし)をはじめとする皆野の俳人を産み、俳誌「若鮎」をはじめ、昭和31年まで200号を数え秩父の俳壇を先導する役割を担った「雁坂」として結実します。一方で伊昔紅は水原秋櫻子の新興俳句運動に当初から共感しており、石田波郷や加藤楸邨をはじめとする俳人とも交流がありました。

伊昔紅は「雁坂」廃刊に寄せて「会員の俳句水準は、地方俳句としては相当高いところにありました。当初側面から指導していただいた人達は、現在では新しい俳句の先頭に立つ錚々たる顔ぶれであり(中略)中央俳壇に押し出すこともそう難事ではなかったと思っております。然し私は最初からそう云う考えは持ちませんでした。飽くまで地方誌として、初心者の鍛錬の場を提供することで満足しておりました」と述べています。地方誌に徹する、この信念が俳句の町みなのを産んだといえるでしょう。

金子兜太と皆野町

金子兜太は金子伊昔紅の長男として大正8年(1919年)に小川町で生まれました。俳人である伊昔紅の活動が兜太を俳句の道へ導いたのは自然といってもよく、旧制高等学校時代には加藤楸邨を師として「寒雷」に投句しています。

「寒雷」

大学卒業後は日本銀行入行を経て海軍主計中尉に任官、南洋のトラック諸島で第二次世界大戦を経験しました。戦火や餓死により多くの同僚や部下を失うという体験が、戦後の俳句活動の原点となります。戦後は日本銀行に復職して組合活動に身を投じ、社会性俳句を次々と投句しますが、1960年代初頭の「有季定」「花鳥諷詠」への回帰運動をきっかけとして「海程」を創刊。妻・皆子に土で生きるようにすすめられて東京から熊谷へ転居し、小林一茶をはじめとする古典研究を通じて人間を含む自然の本源、いきものとしての人間の姿を見つめる視点を得ました。

兜太は生涯を通じて皆野町に住んでいたわけではありませんが、皆野を産土の地と呼んでいたとおり、人生の節目々々には皆野町を含めた秩父の姿が浮かんでいたようです。俳句を詠む下地を整えた父・伊昔紅との日々、「不思議と命が助かった」トラック島への出征と復員。そしてなによりも、「いのち」をみつめる視点を得るきっかけとなったのは秩父の風土でした。



http://haiku.life.coocan.jp/sumiko/06.html 【金子兜太の世界】より

悩むことはない 金子兜太

金子兜太先生の最新刊『悩むことはない』が文藝春秋から出版されました。

三部構成となっていて、第一部は一問一答形式で、兜太先生が日頃から抱いていることが著書からよく分かります。(人類は百年しかもたないなどと大体な予言まであります)

第二部は、お食事中の方や一部不快と思われる方は読み飛ばして下さい。兜太俳句の原点がよく伝わります。第三部は、トラック島での戦争体験談、平和のありがたさをしみじみと感じます。

燕や蝉やいのちあるもの相和して 金子兜太

この度、よみうりカルチャーの広告に兜太先生の新作が掲載されていましたので、ここに掲載します。

燕や蝉やいのちあるもの相和して 兜太

この三か月、被災の人たちは立派に復興への歩みを踏み出している。

私たちも外へ出よう。そして学び合おう。九十一歳の私もさらに十分に生を楽しもうと思っている。

(金子兜太 俳人・よみうりカルチャー浦和センター講師)

角川学芸出版から、2009年9月10日「金子兜太の世界」が発売されました。

本の中で、川崎展宏さんが、金子兜太さんの「産土(うぶすな)の神、いい言葉だなあ。

感謝しているよ。何しろ生きて帰れたんだからなあ」を引いて、「わたしは兜太さんの言葉に、素直になった」と書かれています。

金子兜太の世界―曼珠沙華どれも腹出し秩父の子―

平成12年8月1日(火)~11月26日(日)

秩父郡皆野町で育ち熊谷市在住の俳人・金子兜太氏の半生と、その作品世界の魅力を紹介しました。

 講演を聴きに、家族で参りました。先生の母親はまだ健在とのこと。とても羨ましい限りです。

(追記・金子兜太先生の母、はるさんは、平成16年12月20日に103歳の天寿を全うされました)

先生が仰るのには実家に帰ると未だに母親が、「与太が帰ってきた」と言うそうです。

与太というのは=不良ということで、大先生に向かって書くことは申し訳ない と思いますが、母親の心は年代が変わっても同じだなあとしみじみ感じました。

 私も俳句そのものは悪いとは決して思ってはおりませんが、五十、六十代に なってから趣味としてやるのはいいと思いますが、これを職業にして大成するには生易しい考えでは食べてはいけないと思います。

某主宰が「若い人には教えたくない。若いうちに世間からちやほやされるとろくなことにはならない」という 言葉を聞きました。私も全く同感です。

 果たしてこれからの若い世代が何人の方が俳人として残るかとても興味があります。職業を持って趣味として俳句をやるのは全く同感ですが、行き過ぎた傾向は感心しません。私も金子先生の母親と同じで俳人への道はどんなに険しい道のりなのか分かります。

 金子先生みたいに大成した方は別ですが、普通一般の考え方では俳人というと遊び人という見方が多いのが普通です。私どもの家庭ではあくまで趣味で続けていくのが一番妥当の道だと考えております。

これからの俳句の歩み

 私は最初、雅彦、美佳が、俳句を始めてから多少不安がありました。勉強に妨げるのではないかと、ハラハラして見ておりましたが、それぞれが、難しい資格試験に合格し、逆に俳句をやってることは、なにか張り合いが出来、楽しんでいるようなので安心しました。

私も、カルチャーなど参加して下手な俳句も型だけはできたようです。どこまで続くか分かりませんが、私たちはあくまで趣味でやっております。だから、どの句会にも属しておりません。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000