http://suzuroya.blogspot.com/2017/05/blog-post_30.html 【2017年5月30日火曜日】より
『嵯峨日記』といえば落柿舎。その落柿舎の名前の由来については、去来の俳文、「落柿舎ノ記」に記されている。「落柿舎ノ記」は宝永三年(一七〇六)刊許六選の『風俗文選』に収められている。
ただ、この俳文の末尾にある、
柿ぬしや梢はちかき嵐山 去来
の発句は元禄四年の『猿蓑』にあるから、元禄三年秋までには成立していたと思われる。
「落柿舎ノ記」の解説はググればいくらでも出てくるので省略するとして、要するに庭に四十本もの柿の木がありながら一夜にして落ちてしまったので、この柿主の所有する柿の木の梢は嵐山に近いから嵐で散ったんだ、と洒落てみたというわけだ。
いくら嵐山だからって嵐で柿が散ったわけではないだろう。ネットで調べれば柿の落下の原因はいろいろ出てくる。不受精、強樹勢、ヘタムシ、カメムシ、落葉病など、柿の落下にはいろいろ原因があるが、一夜にして大量に落下したとすれば原因はカメムシの大量発生だろう。
ヒントは『嵯峨日記』の中にもある。
「落柿舎は昔のあるじの作れるままにして、処々頽廃ス。中々に作(つくり)みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさなこそ心とどまれ。彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、画(えがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、」
この「葎」が問題だったのではなかったか。カメムシは果実食で、杉や檜の実のほか、カナムグラの実も好んで食べる。また、カナムグラはつる性で、クズなどとともにつる性の植物はカメムシの産卵に用いられる。荒れ果てた庭は実はカメムシの繁殖に適していたのではなかったか。
『嵯峨日記』の文章はこのあと、
「竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ、 柚の花や昔しのばん料理の間 ほととぎす大竹藪をもる月夜 尼羽紅 又やこん覆盆子(いちご)あからめさがの山」
と続く。
柚の花や昔しのばん料理の間 芭蕉
柚子は今でも和食には欠かせない。昔はこの柚子を使ったご馳走がたくさん並べられたんだろうな、と元伊賀藤堂藩料理人らしい一句だ。
ほととぎす大竹藪をもる月夜
ただの竹やぶではなく「大竹藪」というのがいかにも荒れた感じを出している。「もる」は「漏れる」と「守る」を掛けている。
羽紅の句は赤くなった苺を持ってまた来たいという句だが、「覆盆子あからめ」は頬を赤らめた様子も連想させる。さすがおとめさんだけあって乙女チックな一句だ。
http://sybrma.sakura.ne.jp/281rakushisyanoki.html 【落 柿 舎 記 去 來】 より
嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。五とせ六とせ經ぬれど、このみも持來らず、代がゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王祥が志にもはぢよ、若鳶烏にとられなば、天の帝のめぐみにももれなむと、屋敷もる人を、常はいどみのゝしりけり。ことし八月の末、かしこにいたりぬ。折ふしみやこより商人の來り、立木にかい求めむと、一貫文さし出し悦びかへりぬ。予は猶そこにとゞまりけるに、ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるゝ聲、よすがら落もやまず。明れば商人の見舞來たり、梢つくづくと打詠め、我むかふ髮の比より、白髮生るまで、此事を業とし侍れど、かくばかり落ぬる柿を見ず。きのふの價、かへしくれたびてむやと佗。いと便なければ、ゆるしやりぬ。此者のかへりに、友どちの許へ消息送るとて、みづから落柿舎の去來と書はじめけり。
柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山
(注) 1. 上記の「落柿舎記(らくししゃのき)」は、岩波書店刊の日本古典文学大系92『近世俳句俳文集』(阿部喜三男・麻生磯次校注、昭和39年7月6日第1刷発行)所収の『風俗文選』によりました。『風俗文選』の校注者は、麻生磯次氏です。
2. 大系本の凡例に、「『風俗文選』の底本には『本朝文選』を再版した野田治兵衛尉板の五冊本を用い、野田弥兵衛尉板の九冊本を参照した」とあります。また、底本には句読点に「。」のみを用いているのを、通行の「。」「、」の符号を用いて段落を調えることにした、とあります。
3. 本文中、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号を用いているところは、引用者が平仮名を用いて表記しました。(「ころころ」「ひしひし」「つくづく」)
4. 本文の読みを補っておきます。(読みは、現代仮名遣いで示しました。)代(しろ)がゆるわざ 若(もし)鳶烏(とびからす)にとられなば 天(あめ)の帝(みかど) 商人(あきびと) 立木(たちき) 打詠(うちなが)め むかふ髮(むこうがみ)の比(ころ) 白髮生(おう)る 業(わざ) きのふの價(あたい) 侘(わぶ) 消息(しょうそこ)
5. 「このみも持來らず、代がゆるわざもきかねば」「立木にかい求めむと」について、大系本の頭注に、それぞれ「番人は柿の実を一度も届けて来ないし、柿を売って金に代えたという事も聞かない」、「木についているままひっくるめて買い求めようと」とあります。また、「王祥が志にもはぢよ」(あの王祥のやさしい心持に対して恥ずかしく思うがよい)については、後注に、「『晋書』の王祥伝に「丹奈有リテ実ヲ結ブ、母命ジテ之ヲ守ラシム、風雨毎ニ、祥輙チ樹ヲ抱イテ泣ク、其ノ篤孝純至此ノ如シ」とある。「丹奈」は赤いからなし」と出ています。「天(あめ)の帝のめぐみにももれなむ」(神の御恵みにも見放されてしまうだろう)についても、同じく後注に、「『風俗文選通釈』に「天のみかどゝは天智天皇の農民の辛苦をおぼしめしける御恵のほどにももれなんとにや、又は天道の恵みをいへりとするもよろしくや」とあるが、後説を採る」とあります。なお、語句の詳しい注釈等については、大系本の317頁の頭注を参照してください。
6. 向井去来(むかい・きょらい)=江戸中期の俳人。名は兼時。字は元淵。別号、落柿舎など。蕉門十哲の一人。長崎の生れ。京都に住み、堂上家に仕え、致仕後、嵯峨に落柿舎を営んで芭蕉を招き、凡兆とともに「猿蓑さるみの」を撰。その作風は蕉風の極致に達した。俳論「旅寝論」「去来抄」など。(1651~1704)落柿舎(らくししゃ)=京都市右京区嵯峨にあった向井去来の別荘。芭蕉がここで「嵯峨日記」を書いた。1770年(明和七)井上重厚が小倉山の麓の弘源寺跡に再興。現在の建物は明治初年に建立。おちがきのや。
(以上、『広辞苑』第6版による)
0コメント