梅咲いて庭中に青鮫が来ている

https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12478847260.html?frm=theme 【金子兜太作「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」について】 より

2018-02-24 00:03:00

テーマ:金子兜太

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🔴「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」について。

あるサイトでこの句について、金子兜太さん自身が解説しているものを見つけました。一般に金子兜太さんの俳句はよく分からないとよく言われますが、この句もその一つかもしれません。これからはおそらく金子兜太さんの他の句についても様々な解説が行われることになると思います。

以下は、金子兜太さん自身の解説です。

(金子)ちょうど寒紅梅が後半の時期に入って、白梅や普通の紅梅が咲き出す。重なる時期があるんですよ。その時期が春の盛り上がるという感じですね。

(聞き手、Y氏)それを詠まれたのが今の句ですか。

(金子)ええ。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」

(聞き手)「青鮫が来ている」?

(金子)その頃から既にずっと庭全体が、朝なんか特に青ざめているんです。海の底みたいな感じ。青っぽい空気ですね。こう春の気が立ち込めているというか。要するに、春のいのちが訪れたというか、そんな感じになるんですね。それで朝起きてヒョイと見てね、青鮫が泳いでいる、というような感覚を持ったんですよ。それですぐできた句なんですけどね。

私の場合だと、見たままを、そのまま丁寧に書くということよりも、それを見ることによって感じたもの、その感じたものからいろんなことを想像して書く、というふうなことがほとんどなんですね。想像の中にうそが入ったり、ほんとが入ったりしていい加減なんですけどね。それが自分では面白いんで。


https://ameblo.jp/hiuchi0321/entry-12354933400.html 【梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太】 より

2018-02-22 18:08:39

テーマ:ブログ

    梅咲いて庭中に青鮫が来ている   金子兜太  1981年 『遊牧集』より

俳句界の巨人とも言われた金子兜太が一昨日,98歳の生涯を閉じた。

晩年は,社会派というよりも反戦派の色彩が濃い俳人という印象だったが,私には,許容範囲の広い(懐の深い)方だという印象が強い。

俳句を始めた頃,金子の俳論を読んだ。岡野隆の短歌論とセットになった本だった。

わかったような,わからなかったような…。

ただ,いくつかの句は印象に残った。

その1つが標記の「梅咲いて~」の句である。

ある俳人の鑑賞では次のように書いていた。

「早春の、梅の咲き出した早朝の、空がやっと白んできた頃に見た幻想であろう。先日、長谷川櫂が『現代俳句の鑑賞101』に「これは幻。梅には鶯、魚であればせいぜい池の鯉と決まっている日本の詩歌の常識に飽き足らぬ人の見た凶暴な幻である。」とあるのを読んで、凶暴な幻というのに戸惑いがあった。ところで、早春の青鮫の幻想は、作者の心理的のどんなところから来ているのだろうか。白白とした静謐ななかに潜む、春の蠢き、怖さかもしれない。作者はそんな予知的な感受のデリカシーが強い人なのであろう。韻が5,

5,9である。句の作りから見ると、梅と青鮫だけでは、読者のなかに感応の不協和音が立つ。「庭中に」という措辞が緩衝材の役割を果たしている。

庭という限られた具体的な空間が散漫にならず、この奇異な青鮫が、読む側に、多少奇異ではあるが、入りこめるのだと思う。」と。

で,この「庭中」は「にわなか」と読むのか,「にわじゅう」と読むのか。おそらく,上記の読みでは,「にわなか」と読ますのだろう。

しかし,私は,春のいつ(朝昼晩)の幻想なのか,青鮫とは何かのメタファーなのか,それとも季節の空気感のようなものか,と思考した。そこで,早春の早朝は密かに荘厳に青く地を這うように流れ来る,というイメージを思い描いた。梅と青鮫の色の対比もあるかも知れない。白梅でなければならないという説もあるが,そこはどうだろう。

金子兜太自身の自句解説はあるが,一旦公開された俳句は,自身の思いからは離れて,読み手のものになる(坪内稔典)。

また,俳句もエクリチュール一般もそうだが,書き手は明確な書く内容の意思をもって文字化できている(している)わけではない。そこには,本心というフィクションとエクリチュールというフィクションのあいだに一種の「ズレ」「差異」=「誤読」が生じていると文芸批評家のポール・ド・マンは言う。その制作過程で「誤読された作品」は,読み手によって「誤読」される,という二重構造の誤読があるということになる。俳句の鑑賞は,なべて解釈である。その解釈が,オーディエンス=「座」の共感を得られたら,それは,とりあえず「いい鑑賞=解釈」となるのだろう。

金子兜太の俳句を読み返しながら,少し硬いことを考えた次第である。

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