いのち 荒々しく自由に ①

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-384.htm  【いのち 荒々しく自由に】 より

                    俳人 金 子  兜 太(とうた)

一九一九年、埼玉県生まれ。昭和一八年、東京大学経済学部卒業、加藤楸邨に師事。同年、日本銀行入行。一九年より終戦まで、海軍主計中尉としてトラック島に赴任。二一年復員、二二年日本銀行に復職。神戸、長崎など支店勤務を経て、四九年証券局主査を最後に定年退職。かたわら「寒雷」「風」に参加、前衛俳句の旗手として頭角をあらわし、三○年第一句集「少年」刊行。三一年現代俳句協会賞を受賞、伝統にとらわれない独特の作風を不動にした。三七年俳誌「海程」創刊、六○年より主宰。五九年現代俳句協会会長を経て現代俳句協会名誉会長。「海程」代表。句集に「少年」「金子兜太句集」「旅次抄録」「遊牧集」「皆之」、著書として「一茶句集」「放浪行之」「種田山頭火」「俳譜有情」「わが戦後俳句史」「兜太のつれづれ歳時記」「蜿蜒」ほか。

                     ききて 山 田  誠 浩

ナレーター:  戦後、前衛俳句の旗手として、「五七五」の世界に新たな潮流をもたらした俳人金子兜太さん。季語や花鳥諷詠に拘らず、現代社会に生きる人間の現実を切り取ってきました。

 

     銀行員等朝より螢光(けいこう)す烏賊(いか)のごとく

     湾曲(わんきょく)し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン

 

金子さんは、戦争で多くの仲間の死を体験しました。以来、戦後の社会や人々の生き様を読み続けてきました。八十九歳の今、その目は草や木にも通じ合ういのちの世界に注がれています。

人間がどう生きるか。その答えはいのちの本当の姿にあると感じています。

 

 

金子:  「鶯神楽(うぐいすかぐら)」というんですね。これは嫁さんが調べて、こういうのを付けてくれているんだ。「鶯神楽」知らない名前だね。木というのも馴染んでいると同じ生き物という感じが強いわけなんだよ。だからこれこう幹なんかなぜたりすると友だちの肌に触ったりしているような気がしたりね。いい気持なもんですよ。寒紅梅を行ってなぜたりね。向かい側にカリンの木があるんだけど、カリンの木なんかの幹なんかやっていると、なんともいい気持になりますな。気持が非常によくなる。歳のせいもあるでしょうな。庭の梅を詠んだ句に、

 

     梅咲いて庭中に青鮫(あおざめ)が来ている

 

ちょうど寒紅梅が後半の時期に入って、白梅や普通の紅梅が咲き出す。重なる時期があるんですよ。その時期が春の盛り上がるという感じですね。

 

山田:  それを詠まれたのが今の歌ですか。

 

金子:  ええ。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」

 

山田:  「青鮫が来ている」?

金子:  その頃から既にずっと庭全体が、朝なんか特に青さめているんです。海の底みたいな感じ。青っぽい空気ですね。こう春の気が立ち込めているというか。要するに、春のいのちが訪れたというか、そんな感じになるんですね。それで朝起きてヒョイと見てね、青鮫が泳いでいる、というような感覚を持ったんですよ。それですぐできた句なんですけどね。私の場合だと、見たままを、そのまま丁寧に書くということよりも、それを見ることによって感じたもの、その感じたものからいろんなことを想像して書く、というふうなことがほとんどなんですね。想像の中にうそが入ったり、ほんとが入ったりしていい加減なんですけどね。それが自分では面白いんで。

 

山田:  「前衛俳句の旗手」と言われていた金子さんが、自然を見ながら、そうやって俳句を詠むというのは意外な気もしますけども。それは前衛俳句の社会的なものを詠んでいらっしゃったけども、今の自然に向けていらっしゃる目もどっか通底するものはあるんですか。

 

金子:  まったくそうなんですね。それで今言われたような「前衛俳句」なんて言われた時期は、おっしゃる通り、社会と自分という関係をいつも見ていました。そこで見ていましたね。だけど同じ目で、現代はいわば天然のものですね。これはやっかいな言葉なんで自分では注意して遣っているんですが、私は、「天然と人間を含めて自然」という言い方をするんです。「草や木、動物たち」と言われるものは天然のもので、それと人間も同じような生き物なんだけど、一応人間というのは別枠のもので、それで両方ひっくるめて「自然」と呼ぶようにしているんですけどね。人間を見るのと花を見るのと変わらない。そういう状態になっていますね。前衛の頃はもっぱら人間と社会ばっかりみておったんですけどね。そこからいつの間にかそうなりました。

 

山田:  そうですか。

 

金子:  勿論、「五七五」あればいい、と。あと自分の肉体に結び付けばいい、と。これが自分のいのちのままに振る舞っていることにもなるんだ、と、こういう思いですかね。

 

 

ナレーター:  金子さんのいのちへの深い思い、その源流は故郷にあります。

 

 

金子:  春になってきてこう芽吹くでしょう。この辺の感じは非常に記憶に残っているんですね。秩父ということを思うと記憶に浮かび出る風景です。昔から残っているんじゃないかな。これは子どもの頭に。春が来たという悦びもあるでしょうけどね。

 

 

ナレーター:  金子さんは、大正八年に生まれました。かつてニホンオオカミが棲んでいたという険しい峰々に囲まれた秩父。ここで金子さんの命が育まれたと言います。

 

 

金子:  向こうの家がちょいちょい見えますね。あれが皆野町(みなのまち)で、私の故郷です。

 

山田:  どの辺ですか。

 

金子:  キラキラ見えているところ、山の向こうに。屋根が見えているでしょう、たくさん。荒川がこう行っているでしょう。そこの小高い山とキラキラした荒川との境面辺りが私の育ったとこですね。山の向こうです。夕焼けになった時―ちょうど西ですよ―ちょうど赤く染まって、補陀落(ふだらく)とか言うでしょう、浄土の世界。ああいう感じになるんです。

 

ナレーター:  金子さんの少年時代、秩父の山里は昭和恐慌のただ中にありました。主な産業であった生糸の相場は安定せず、人々は食べるのに精一杯でした。町の開業医だった金子さんの家も例外ではありませんでした。そんな中、楽しみにしていたのが、父親が自宅で開いていた句会でした。夜になると重労働を終えた農村の青年たちが集い、生活の実感を思い思いに詠んでいました。時には喧嘩になるほど活発に批評しあう青年たち。そんな生活と深く結び付いた人間臭い俳句が金子さんの原点です。

 

 

金子:  昭和恐慌の頃で、農村も不況でして、それだからあんまり仕事がないという状況だったのかな。それから勿論長男でも上の学校へなかなか行けないというような、そういう状態でしたね。ですから知的要求に飢えていたんですね。そういう青年たちが句会があると言ったら、みんな集まっちゃったんですね。句会に行ったらそういうものが満たされるという思いがあったんじゃないでしょうか。

 

山田:  頻繁に句会があったんですか。

 

金子:  月一、二回でしょうかね。とにかく元気でした。それで句会の後は必ず酒を飲みましてね。酒がないと句会じゃない、というふうなことをいう人がいましたね。それで母親がもっぱらその世話をしておったんです。ところが元気のいい人たちですから酒を飲むと喧嘩をするというのが普通でして、その喧嘩が面白くて我々は行って見ているというような。そして母親はそれに腹を立てていて、もっぱら私に向かって、「兜太、俳句なんか作っちゃいけないよ。俳句は喧嘩だからね」って。「喧嘩ばかりしている人間というのは、これは人間じゃないんだよ。俳人と書いて、どう読むかわかるかい。喧嘩するなんかする人は、人偏に非で人間に非(あら)ずなんだよ」って、よく言われまして。私はだから旧制中学時代は俳句を作らずにきました。作っちゃいかんと思った、ほんとに。

 

山田:  そこにいた人たちが詠んでいらっしゃった俳句なんていうのはどういうものだったんですか?

 

金子:  いくつか覚えていますよ。その句会の席上で評判良かった句で、

 

     霧晴れて?(ぶな)の木(こ)の芽のいま芽立つ

 

ちょうど山麓(さんろく)ぐらいのところに住んでいる農家の人でしたけどね、まだ若い人で。農家は朝早いしね。霧の山を背負って畑に行くわけでしょうね。そのうちに振り返ったら、さぁっと霧が晴れて、そうしたら?(ぶな)がみんな芽を吹いていた、というのは壮観な風景ですね、新鮮で。それからこれはかなり先輩の人―先輩と言ったって、四十ぐらいですが、

 

     山風の荒(あら)らべる日なり栗拾う

 

山の風がごうごうと吹いて―これは秋ですね―「山風の荒(あら)らべる日なり」わぁっと激しく吹いている。そういう中で栗を拾っている。「荒らべる」なんていう言葉は新鮮な感じでしたね、山の人が遣うと。そんな句を覚えています。まだ子ども心に覚え込んじゃって。

 

山田:  やはり秩父の人たちの暮らしの中からとらえた風土が、

 

金子:  まったくその通りですね。

 

山田:  それは金子少年としては、そういう人たちの暮らしの様子とか生き方というのをどういうふうに当時眺めていらっしゃったんでしょうか。

 

金子:  とにかく貧しかったな、ということで、大変だなあ、という思いで。その頃の映像を今思い出しますと、秩父盆地全体がこう海の底のような感じで、その中を魚がみな泳いでいる。そういう風景です。魚が人間たち。海の底の魚の感じ―深海魚といったらいいのかな、その感じでした。澱(よど)んでいましたね、ドロンとした感じの。成長していって、それで出沢珊太郎(でざわさんたろう)という変な先輩に旧制高校の時に捕まって、それ以来俳句に入っているわけですが、その俳句に入るようになった途端に、私の体の中にはそこで見てきた知的な野生の人たち―知的野生に満ちた人というかな、そういう人たちのことがずっと出てきまして、俳句はこういう人たちが書いて、こういう人たちを書く。こういう人たちが書いて、こういう人たちを書くもんなんだ、と思い込んでやっていました。だから花や鳥を書くもんだと全然思わなかった、ということですね。人間を書くもんだ、と思い込んだのもそこからです。

 

山田:  じゃ、子どもの頃は俳句には全然近づかなかったけれども、その後ご自分で作られるようになった時には見事にそのことが影響しているわけですね。

 

金子:  そうです。俳句はこの人たちのためにあるんだ、と思っているぐらい、といってもいいかな、そう思っていましたね。ある時、「花鳥諷詠だ」と聞いても、そんな限定があっていいのか。そんなふうに限定する必要ないじゃないか、と、こう思っちゃった。

 

山田:  今おっしゃいましたように、旧制水戸高校に行かれてから俳句をなさるわけですけど、そうすると、その学生時代は戦時の統制下の軍国主義の世の中ですよね。

 

金子:  ええ。郷里がそういう貧しい状態で、それでしかも貧しいものの克服というか、打開はね、戦争が何よりだ、というふうな大人たちの思いが普通になっていたんですね。戦争というのは善いものだ、と。戦争そのものは善いものでないが、戦争によって救われるしかない、というふうな、そういうかなり絶望感に近いものがあったようですね。現に秩父の盆地から一村落が全部あげて満州移民なんていうのをやっていますから。そういうふうな人たちのグループを実際に駅で乗っているのを見た記憶もありますしね。だから、「戦争によって貧乏から救われる」というのが、子ども心に前から染みていたんでしょうかね。同時に一方で、学生の頭では帝国主義戦争であって、どっちも市場獲得のための侵略戦争であって、それがぶつかっているだけだ、と。理屈の上ではわかっているから良くない。良くないんだけども、一方では子どもの頃から戦争によって救われる、という思いがあるから、私自身は極めて曖昧な、何故か烏賊か蛸みたいな、戦争に対しては非常にふらふらした人間でしたですね。

 

山田:  そうすると、俳句というのはどういうところで思考していかれたということですか。

 

金子:  出沢珊太郎が句会をやるので、その高等学校の英語の先生の長谷川朝暮(ちょうぼ)、吉田両耳(りょうじ)という両先生のお宅を代わり代わり借りて、そこで句会をやっていたんですが、その長谷川先生、吉田先生、そういう人たちが、みんな私の言葉でいうと、「自由人」だということです。「自由人」という印象がありましてね。非常に何か時代に対して、まったく賛成はしていないんですね―十五年戦争に賛成はしていない。内心は非常に批判的なんですが、そういうこともあんまり見せないで、飄々と自分の好きなことをやっている。自分の生活ペースを絶対崩さない、そういう方だった。それを私は、「自由人」と、後から名づけているんですけども。自由人たちと一緒に俳句をやるということによりまして、この人たちが作るようなものならば自分もやれる。だから自由人への憧れというのが自分の中にあったんですよね。それだけはっきりしていますね。それがあるから俳句をやっているという面が自分でもありましたね。

 

 

ナレーター:  昭和十八年、金子さんは、東京帝国大学を卒業し、日本銀行に就職します。しかしほどなく海軍を志願。激戦地南方での任務を希望しました。昭和十九年(1944)に配属されたのは南洋トラック島。二百人の部下を預かる下士官となり、食料や武器の調達などを担当しました。トラック島は当時度重なる空襲に見舞われていました。しかし当初金子さんは人間の命の重さを深く実感していませんでした。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000