https://toyokeizai.net/articles/-/159191 【「虐殺者」織田信長は、ここまで残酷だった
そこまでやる?「本当の姿」を知っていますか】より
山岸 良二 : 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師
誰もが認める「戦国最大のヒーロー」のひとり、織田信長。
当時、武田信玄など戦国大名の何人かも抱いていた「天下統一」を掲げ、まだ日本に伝わって間もない新兵器「鉄砲」にいち早く着目し、その天才的軍事センスで並みいる強敵・難敵を次々と撃破。
「関所の撤廃」や「楽市楽座」などの諸政策は、旧態依然とした社会全体に広く影響を与えるなど、彼の斬新な発想力には「非凡な才能」があふれている。
しかしその一方で、信長は時に、度を超した「残虐性」「残酷性」も垣間見せた。よく知られる「比叡山全山殺戮(さつりく)」「一向一揆殲滅(せんめつ)」などの大量殺戮も行っており、同じ戦乱の時代に生きる戦国大名の中でも、その事例数は群を抜いている。
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本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、ヒーローとして語られることの多い織田信長の「残虐性」について解説する。
信長は、本当に「英雄」なのか
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「戦国時代を象徴する最も偉大な人物」といえば、真っ先に「織田信長」を挙げる人は多いでしょう。
若くして尾張(愛知県西部)を統一した彼は、「海道一の弓取り(東海道で1番の軍事力)」と呼ばれた今川義元を「桶狭間の戦い」で破り、その名を世にとどろかせます。
やがて京の都に上洛して近畿一帯を支配下に置くと、最新兵器の鉄砲を大量に装備し、無敵の武田軍も撃破しました。「家臣団の城下町集住」や「楽市楽座の推進」など旧来の慣習にとらわれない斬新な手法を積極的に取り入れたのも信長です。
しかし、実際の信長には、「猟奇的」ともいえる残虐な一面があったのも事実です。敵対する相手に対してはもちろん、自らの家臣に対しても、時に容赦ない冷酷な仕打ちを行いました。
信長には、数々のたぐいまれな「天才的資質」がありましたが、それと同時に、常人には理解しがたい「嗜虐性」「残酷性」も持ち合わせていたのも、歴史が示す事実です。
今回は、「ヒーロー」や「英雄」として語られることの多い織田信長の「影の部分」について解説します。
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
希代の天才であり、残虐な危険人物
Q1. 織田信長はどのような人物ですか?
1534年、尾張守護代の庶流に生まれました。幼少期より破天荒な素行を繰り返しますが、しだいに頭角を現し、ついに家督争いに打ち勝って尾張を統一します。
その後、「鉄砲の導入」や「楽市楽座の推進」など慣習にとらわれない斬新な手法で天下統一に邁進するものの、1582年、家臣である明智光秀の謀反によって、京都の本能寺で生涯を閉じました。
Q2. 有名な「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」の歌にある「強引な性格」は本当ですか?
本当です。知恵を絞って「鳴かせてみせよう」の豊臣秀吉、タイミングを待ち続けた「鳴くまで待とう」の徳川家康に対して、信長のやり方は性急で強引さが目立ちます。
たとえば信長は、かなりの「骨董コレクター」で、その収集には余念がありませんでした。
特に、「名物」と呼ばれる最も価値の高いものについては、その所有者の意志がどうであれ強引に供出させたりカネで買い取ったりと、多くの名物を自らのコレクションにしています。
それらに加えて、後述するように、自らに従わない者に対しては「大量虐殺」も繰り返しています。
Q3. 「神をも恐れぬ豪胆さ」だった?
神仏への信仰がなかったわけではありませんが、彼は死後の世界や心霊など「理屈の通らない迷信のたぐい」にはかなり懐疑的だったようです。
実際に、彼が建築にかかわった安土城や旧二条城の石段や石垣には、破却した「墓石」や「石仏」なども資材として用いられていました。当時は現代よりも祟りや怨霊が一般に信じられていたことを考えると、こうした行為は衝撃的です。
Q4.人間に対しても「残虐だった」のですか?
はい。信長は「恨みを抱いた相手」にはいっさい容赦しません。
たとえば、かつて信長を鉄砲で暗殺しようとして失敗し、指名手配中だった「杉谷善住坊(すぎたに・ぜんじゅうぼう)」という男が3年後、ついに逮捕されました。
このとき、信長は通常の斬首ではなく、体を頭だけ出した直立状態で道端に埋め、その首を「行き交う人にノコギリで引かせて殺す」という残忍な処刑を行いました。
またあるとき、宣教師が連れてきた黒人を見て、その「黒さ」に疑念をもった信長は、黒人を裸にして家臣にその背中を「剣山」や「金タワシ」などで削らせたという記録も残っています。真偽は不明ですが、本当ならかなりの「残虐な行為」です。
Q5. 信長は「大量虐殺」も行いました……
そのとおりです。信長は数々の戦いにおいて、私たち現代人の想像を超えるような「残虐性」を発揮しています。
織田信長による「残虐行為」のうち、数ある中から代表的なものをいくつか挙げてみましょう。
いったい「何万人」が被害に遭ったのか
【1】 長島一向一揆殲滅
1574(天正2)年7月、それまで2度にわたり信長の侵攻を妨げ、彼の弟や重臣が失われるなど織田勢を苦しめた伊勢長島の一向一揆に対し、信長はほぼ総動員に近い大軍を率いてこれを殲滅しました。
籠城する一揆軍に対し、包囲による干殺しのほか、最後は城をまるごと焼き討ちし、男女二万数千人が殺害されたといわれています。
【2】 越前一向一揆殲滅
1575(天正3)年8月、朝倉氏滅亡後の越前(福井県)では一向一揆が台頭し、信長の支配が及ばなくなっていたため、再び越前を取り戻すべく、信長は侵攻を開始します。
このときの戦闘で一揆勢約2000人が討ち取られ、さらに捕虜となった1万2000人も容赦なく処刑されたといわれています。
【3】天正伊賀の乱
1581(天正9)年9月、信長からの支配を拒み自主独立を掲げる伊賀惣国一揆に対し、信長は大軍を率い、伊賀(三重県西部)へ至るあらゆるルートから侵攻を開始しました。集落や寺院はことごとく焼かれ、逃げ場のない人々は一方的に殺戮されました。
一説では、「伊賀全体の人口9万のうち、およそ3万余が殺害された」といわれています。
Q6.よく知られる「比叡山焼き討ち」は?
1571(元亀2)年9月、越前(福井県)の朝倉氏に協力して反信長連合に加担していた比叡山延暦寺は、信長からの再三の中立勧告に背き続けたため、ついに攻撃を受けます。
このとき、すべての堂宇は放火され、寺の僧侶はおろか山麓の町から避難してきた一般信徒も含む多くの人がことごとく殺害されたと伝えられます。
死者数は『信長公記(しんちょうこうき)』で数千人、宣教師フロイスの書簡では約3000人、貴族の日記にも3000~4000人とあり、多くの人命が失われたと記されています。
近年の研究調査では、文献に見られるほどの大規模火災を証明する遺構が見当たらず、「もっと小規模なものだったのでは」という疑問の声も上がっていますが、規模はともかく、古くから「都の護り」として崇められてきた比叡山をも恐れず、焼き討ちしたことは事実でしょう。
Q7.信長は、ほかの戦国武将に比べても、特に残酷でしたか?
残酷だったと思います。もちろん、戦乱の時代なので残酷でない武将はいませんが、それでも信長の行った殺戮の数は、戦国時代でも「突出」しています。
Q8.信長が「突出して残酷だった」理由は?
本人の性格によるところもありますが、幼少期から織田家の家督を継ぐまでのあいだの苦労や、それ以降の尾張国統一に至るまでの「周囲の人間に対する不信感」といった心労がストレスとなり、彼の「残虐性」を大きく加速させた可能性があります。
また、この時代はほとんどの戦国大名にとって、「自国の領土を守ること」が戦いの主な目的でした。そのため「局地的な紛争」がほとんどで、大量の死傷者は出ませんでした。
ところが、信長は15代将軍、足利義昭を奉じて上洛することを決心した時点から、「天下統一」「天下布武」つまり武力により天下をわが身におくことを目的としたため、つねに「他国への強引な侵攻」が続きます。
その結果、必然的に戦いの規模は「全面戦争」にならざるをえず、多くの犠牲者を生むことになったのです。
歴史を学ぶことは「人間の本質」を知ること
ある正月、信長は家臣を集め、新年を祝う酒宴を開きました。宴もたけなわの頃、彼は「今日は珍しい趣向がある」と言い、広間に何かが運び込まれます。
家臣たちが目を凝らすと、それは金箔に覆われ黄金色に輝く「ドクロ」。前年に滅ぼした宿敵、浅井・朝倉氏の首を加工したものでした。
家臣たちは言葉を失ったまま、その様子をじっと見守っていると、信長はドクロに酒を注ぎ、家臣に飲むことを強要。拒めない彼らは身を震わせながら次々と「ドクロの杯」に口をつけたといいます。
その一方で、信長には「優しい人柄」を表すエピソードも残されています。
秀吉の妻「ねね」の訪問を受けた信長は、彼女から夫の女性問題に関する悩みを聞かされます。ほどなくして信長は、彼女に手紙を送り、「まったくとんでもない男だ。あなたほどのすてきな女性に、あの禿げ鼠(秀吉)はもったいない!」と彼女を励ましたというエピソードも残されています。
織田信長は、信頼していた部下の明智光秀に裏切られ、「本能寺の変」で生涯を閉じます。しかし、織田信長という「偉大な英雄」の登場なくして、現代に続く日本の歴史はまず考えられないでしょう。
そんな信長にも、人間として「いろいろな面」があったのも事実です。人間は「複数の顔」をもつ多面的な存在で、歴史を学ぶことはそうした「人間の本質」を知ることでもあります。
歴史には、小説以上に「人間を考える材料」が満ちあふれています。ぜひ日本史を学び直すことで、「身近な人をより深く知るきっかけ」にしてください。
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