陽のみちしるべ

https://www.sankei.com/west/news/161129/wst1611290019-n1.html 【伊勢、出雲、諏訪、高千穂、熊野…神々つなぐ「陽のみちしるべ」のナゾ 淡路島の伊弉諾神宮】 より

 伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀)に「陽のみちしるべ」と記された石碑がある。春分、秋分の日の太陽が通過する北緯34度27分23秒の緯度線に伊勢神宮(三重県伊勢市)、伊弉諾神宮、対馬海神神社(長崎県対馬市)が一直線に並び、冬至、夏至の日の出、日没の方角にも伊弉諾神宮ゆかりの神社が並ぶと説明されている。伊勢から対馬まで約680キロ。はるか昔、緯度や太陽の運行が分かったとは信じがたい。このことを“発見”した伊弉諾神宮の本名孝至宮司に「陽のみちしるべ」のナゾを尋ねた。

夏至は諏訪から出雲、冬至は熊野から高千穂

 各地の神社には伊勢神宮の方角に向かって拝むための「遥拝所」があり、伊弉諾神宮では真東を向いている。淡路は昔から伊勢信仰が篤いこともあり、太陽神の天照大神をまつる伊勢神宮と「何か縁があるのでは」と感じていた本名宮司は、設計や測量を行っている会社に正確な位置関係の計測を依頼した。

 その結果、伊弉諾神宮を中心に東は伊勢神宮内宮、西は対馬の海神神社が同緯度に並ぶことが分かった。それだけではなく夏至には諏訪大社(長野県諏訪市など)の方角から日が昇り、伊弉諾神宮を通過して出雲大社(島根県出雲市)の方角に日が沈み、冬至には熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)から日が昇り、高千穂神社、天岩戸神社(いずれも宮崎県高千穂町)に日没することが分かった。

伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行ルート

 「調べた方がビックリした」とは本名宮司。宮司によれば、春秋分の緯度線に対し、夏至は29・30度、冬至は28・30度と角度が1度違うが、それも合っているという。国内には8万以上の神社があり、地図に長い線を引けばどこかで神社にあたるだろうが、伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行ルート上にこれだけの社格の高い神社が並んでいることを単なる偶然と片付けるのは難しい。

 古社の創建年代ははっきりしない。古事記や日本書紀ではイザナギノミコト、イザナミノミコトが国生みのあと、伊弉諾神宮に祀られ、その子である天照大神が伊勢の地に遷座したのは11代垂仁天皇の時代としている。出雲大社も大国主命が天照大神に国譲りしたあとに創建されたことから、いずれも伊弉諾神宮よりも後に建てられたことになる。

 神話を実際の年代に当てはめるのは無理があるが、本名宮司は「何もないところから書かれたわけではなく、日本書紀の最初に国生みが描かれ、淡路が登場することには意味がある」と伊弉諾神宮の古さを強調する。記紀の伝承を西暦にあてはめると、伊勢神宮創建は紀元前5年ごろ、諸説ある研究では5~7世紀とされることが多いようだが、少なくとも1300年以上前に太陽の運行ルートを知り、遠く離れた地に宮を建設できたのはいったい誰なのか。

ピラミッドやストーンヘンジの「知恵」日本でも…

 本名宮司は今年日本遺産に認定された《『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」~古代国家を支えた海人(あま)の営み~》にも登場する「海人」に注目する。大陸と交流して航海や製塩技術にすぐれ、太陽や星の位置で航海していたであろう海人族。天文に通じていた可能性は否定できない。「古代人をバカにしてはいけない。現代人は地図を見てどうやって線を引いたかと考えるが、方角を決めて狼煙(のろし)をあげて距離を伸ばしていったのかもしれない。世界にはピラミッドやストーンヘンジなど太陽の運行に合わせたと思われる遺跡がたくさんある。日本人ができなかったと考える理由はない」と本名宮司は語る。

 果たして誰がどうやって何のために巨大な“線”を引いたのか。「淡路島のナゾ」というよりも、日本史のナゾといえるかもしれない。

https://www.sankei.com/region/news/180206/rgn1802060046-n1.html 【「海人」や「国生み神話」…淡路の古代史めぐりシンポ 】

 優れた航海術や製鉄、製塩技術で畿内の王権を支えた海の民「海人(あま)」や「国生み神話」など淡路島の古代史に関する最新研究を発表するシンポジウムが4日、淡路市浦の市立サンシャインホールで開かれた。文献史学と考古学の研究者3人が講演し、それぞれの専門分野から淡路島の歴史をひもといた。

 日本遺産に認定された《『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」~古代国家を支えた海人の営み~》の核となる古代史を深掘りして魅力を高めようと、島内3市などでつくる「淡路島日本遺産委員会」と県立歴史博物館ひょうご歴史研究室が主催。歴史ファンや地域住民ら約250人が訪れた。

 「国生み神話と古代の海人」をテーマに講演した同研究室研究コーディネーターの坂江渉氏は、イザナギとイザナミが天沼矛(あめのぬぼこ)で下界をかき混ぜ、したたり落ちた塩の雫が島になったとの伝承について、播磨国風土記にある類似伝承から検証。満潮で姿を消した砂州状の島の海上で、矛や剣を使って海水をかきまぜ土地の創造を促そうとする祭儀が縁起となったのでは、と指摘した。

 淡路市教育委員会の伊藤宏幸氏は「考古学からみた淡路島の海人」と題して、土器や墓などの発掘調査から分かる海人の実態を紹介した。製塩作業の効率化のため土器の脚台がなくなり大型化していく経緯を、市内の引野遺跡や貴船神社遺跡で出土した土器を例に解説。三原平野にある2つの遺跡から王権との関わりが想定される出土品が見つかったことを取り上げ、「海人と王権がどのような関係をしていたのか、さらに遺跡から検証したい」と話した。

 シンポジウムではその他、神戸大の古市晃准教授の講演もあり、3者を交えたパネルディスカッションでは、来場者からの質問に講師が答えていた。

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