武甲山 いまむかし

http://escience.html.xdomain.jp/saitama/sanchi/bukou/imamukashi2.html 【シンボル】より

秩父夜祭で武甲山に感謝する斎場祭がある「お旅所」(中央手前)と武甲山=秩父市熊木町

小鹿野町長留の剣武の実家から望む武甲山

金子兜太さんが住んでいた皆野町の家並みの先にかすむ武甲山

◇姿変わり果て揺らぐ崇敬

 武甲山(1304メートル)の名は、地元・秩父市と横瀬町の大半の公立小中学校の校歌に登場する。

 例えば、「武甲の山のみねのごと おのこは高き心もて」(1905年制定、秩父一小)や「たくましき 武甲の峰は 学舎の われらが理想」(70年、尾田蒔中)などだ。多くが武甲山の「たくましさ」をたたえ、「理想」と仰ぐ。

 皆野町立皆野中の校歌にもある。「連峰に白雲湧(わ)き 風早し武甲の空」。同町出身の俳人、金子兜太さん(90)が70年に作詞した。皆野小の校歌は金子さんの亡父の作だが、武甲山は登場しない。金子さんの詞には、こんな思いがこもる。

 「戦時中、トラック島で多くの戦友の死に直面したが、自分は生き残った。頭に浮かんだのは、千人針であり、神の加護であり、幼い時に見た武甲山だった。救い主、大きなものがすむ場所としてね。作詞時に、それが心に強く残っていた」

 古来、武甲山は近隣の人々に山の幸、水の恵みを与え、人々は「神のこもる山」として、信仰の対象にしてきた。山にかかる雲の流れから、日々の天気を占い、日照りの年は雨ごいのための登山もしてきた。

 毎年冬、大勢の見物客でにぎわう秩父夜祭は、秩父神社が武甲山の神に感謝する日でもある。巡礼者が訪れる秩父三十四札所も、中心にあるのは武甲山だ。シンボルとして崇敬の念を集めてきただけに、その名を冠した社名や商品名は、秩父地域でかなりの数になる。

 ずばり「武甲山」をしこ名にした大相撲の力士もいる。小鹿野町出身の宮本一輝さん(31)だ。2001年に初土俵。「秩父のシンボルだから」と後援者が命名したが、改めた。けがで成績不振が続き、周囲に言われたという。「あんなに削られた山の名では、ゲンが悪い」

 父親の猛治さん(60)は「削られて白くなるのは白星にも通じる」と迷ったが、折れた。親方の勧めで今年の初場所から「剣武(つるぎだけ)」に改名したら、奏功してか6勝1敗。春場所も幕下5枚目で4勝3敗と勝ち越した。

 武甲山を「救い主」と信じていた金子さんは、いま、山の変容ぶりを嘆き、怒る。「もう見ない。秩父の最良の山を聞かれたら、両神山と答えることにしている」

 県出身で、独特の画法で知られる文化功労者の洋画家高田誠さん(1913~92)は、50~60年代に武甲山を描き続けたが、その後採掘が進むと、対象を信州や山形に求めた。

 武甲山の山開きの5月1日、横瀬町の小中学校は古くから休校になり、児童・生徒が登った。未明に出発し、ご来光を待つ小学生もいた。だが、休校は小学校が8年前、中学校が15年前にそれぞれ中止された。

 武甲山の「秩父のシンボルの座」が揺らいでいる。

◇二つで一体、不可分の関係に

 武甲山と夜祭 約300年の伝統を誇り、国の重要民俗文化財に指定されている秩父夜祭と武甲山は、不可分の関係にある。夜祭は秩父神社冬季例大祭の付祭であり、例大祭は神の山・武甲山と一体だからだ。

 夜祭の12月3日夜、屋台・笠鉾(かさほこ)が集合する「お旅所」で催される斎場祭は、秩父神社の神職が武甲山に向かって豊作や無事を感謝し、水の神である龍神(りゅうじん)を山に戻す。龍神は、4月の同神社御田植祭の時に、武甲山の伏流水がわき出る今宮神社から分けられた水に宿るとされる。秩父神社とお旅所、武甲山は、地図でも同じ直線上にある。

 俗説では、夜祭が武甲山の男神と秩父神社の女神との年1回の逢瀬(おうせ)の日とされる。


http://escience.html.xdomain.jp/saitama/sanchi/bukou/imamukashi3.html 【山頂破壊】より

標高1304メートルの山頂付近から望む、標高1000メートル前後の「天空」に広がる石灰石採掘現場

山頂採掘によって、石灰石がない南側に移転した御嶽神社

◇反対すれば地元が敵に…

 1979年5月3日、武甲山で「最後の山頂を踏みしめよう市民ハイク」があった。参加した約5千人は、口々に「最後だ、最後だ」と叫び、「武甲山を守れ!」と書いた幕も掲げられた。翌年、1336メートルの山頂は破壊された。すでに近くの御嶽神社は75年に、山頂三角点は77年に1295メートル地点に、それぞれ移転していた。最高地点を1304メートルに定めたのは2002年だ。

 山頂破壊は、秩父セメント(現秩父太平洋セメント)など採掘3社が、協調して北側斜面を階段状に掘り崩し、最終的には石灰岩を山肌とする巨大な壁を出現させる出発点でもあった。

 「到底不可能」。当初は採掘会社側さえ、そう考えていた。山頂を含む鉱業権は会社側にあり、法的に問題はない。しかし、相手は「秩父のシンボル」だ。社内外に反対があった。当時の通産省高官も「武甲山を破壊してまで石灰石を掘る必要はない」と異議を唱えたという。

 だが、実行された。反対側を説き伏せたキーワードは「地元への貢献」だった。そのころ、すでに秩父市も横瀬町(当時は横瀬村)も、産業の主役は、繊維から石灰石採掘を含むセメント産業に代わっていた。両市町の人口が計7万人のころ、就業者は家族を合わせて1万人を超え、税収は両市町の30%前後になったとされる。セメント産業は雇用を確保し、自治体を支え、商店街を潤していた。

 加えて、別の「貢献」もあった。例えば、秩父セメントは戦前から、学校や市庁舎や町公会堂などの公共施設建設に多額の寄付を続け、1977年には1億5千万円をかけて建設した会館を市に贈った。

 山頂からの効率の良い採掘は、地元に「さらなる貢献」を期待させた。移転を余儀なくされた御嶽神社の宮司(故人)は「地元が潤うなら、と承諾した」と生前、関係者に語り、「武甲森林組合も仕方がなかったようだ」と、当時の組合長の息子の加藤嘉郎・横瀬町長は話す。

 秩父の自然保護団体「秩父山岳連盟自然保護委員会」の当時の会長で写真家だった故清水武甲さん(1913~95)は、そのころ、成田闘争の活動家から採掘反対闘争の支援を持ちかけられ、断っている。

 その会談に同席した現会長の浅見豊さん(76)は、当時の清水さんの思いに自身の思いを重ねて明かす。「本当は採掘を中止させたかった。だが、貢献を期待する地元の強い空気があった。反対を言い続けたら、地元を敵に回す。そう考えた」。結局、表だった反対運動はないまま、今も採掘は続く。

 「昭和の秩父人の一人として」と、市内の薬局店主片山誠二郎さん(85)が話した。「武甲山を何という無残な姿にしたのか。なぜ、市民運動までして守り通せなかったのか。そう思うと、慚愧(ざんき)の二文字が胸を突きます」

◇変容する山の自然保護に尽力

武甲山と清水武甲さん

 写真家として活躍する一方、原生林伐採禁止(1959年)など、秩父の自然保護運動に取り組んだ。変容する武甲山を撮り続け、写真集などで告発。70年設立の武甲山植物群保護対策推進協議会は、今も武甲山の作文や図画の募集を続けている。

 山頂採掘時は異議を唱えながら、次善の策も模索。公害防止や採掘跡地の緑化、採掘で姿を消す動植物などの保護・記録を採掘会社側に求めた。その結果、会社側に公害防止や緑化推進を約束させたほか、「武甲山総合調査報告書」(87年)や「武甲山資料館」(80年)として実現させた。採掘3社が同資料館の建設費や毎年の運営費を負担している。


http://escience.html.xdomain.jp/saitama/sanchi/bukou/imamukashi4.html 【希少植物】より

石灰岩の裂け目に咲くチチブイワザクラ=武甲山資料館提供

石灰石の岩壁で、曲がった茎の先に上向きの花が咲くミヤマスカシユリ=同

◇採掘の邪魔? 指定地転々

 春から初夏にかけて、秩父市の武甲山資料館に「チチブイワザクラ」と「ミヤマスカシユリ」の鉢植えが展示される。いずれも武甲山の石灰石の岩場で発見され、2000年に県の絶滅危惧(きぐ)種に指定されている。

 鉢植えは、武甲山の希少植物の保護や増殖を進めている秩父太平洋セメントが育てた。自生地も増殖地も非公開のため、いわば「出前サービス」だ。そこでは町場で希少植物を目にできる至福と、野生ではまず見られない現実の悲しさが同居する。

 この2種を含む自生地として1951年、国の天然記念物に指定された「武甲山石灰岩地特殊植物群落」も悲しい。何しろ、落ち度もないのに転居を強いられ、いま「危機的消滅寸前」(県レッドリスト)にあるからだ。

 最初の指定地は、武甲山北側の横瀬村(現横瀬町)で、現在、菱光石灰工業が採掘している宇根鉱山の通称「三ツ岩」。それが56年、村側の訂正により、東へ数百メートルほどの大棚沢付近に移された。理由は「保護に万全を期す」とされたが、奇妙なことに、大棚沢は「さしたる植物はない」と当時から指摘されていた。

 指摘は、移転から26年後の82年に裏付けられた。調査した植物研究者らは「ミヤマスカシユリとチチブイワザクラは確認できなかった」。「保護」どころか、まさに「名ばかり指定地」だった。こんな奇っ怪な「訂正」がまかり通った理由を、町教育委員会も文化庁も「古いことで分からない」という。大棚沢は88年に指定解除になり、現在の指定地は中腹の下丸山付近だという。

 想像できることは、「群落は石灰石採掘の邪魔にされた」ということだろう。48年、この一帯を管理する武甲森林組合が石灰石の鉱業権の譲渡を条件に、西武鉄道に秩父への延伸を要請し、53年に契約が結ばれていた。そのころの「村の空気」が当時の村の広報誌に残っている。「宝庫武甲山のあるところ、村の弥栄(いや・さか)は西武線延長、工場誘致にある」

 三ツ岩は70年代に採掘で消滅したという。見かねた秩父市の写真家清水武甲さん(故人)らが、70年に「武甲山植物群保護対策推進協議会」を結成。武甲山北側の市有林の植生豊かな一部を保護区にするよう市に要請したが、市有林そのものが採掘会社に売却寸前だった。市に聞く耳はなかった。

 こんな話が残る。三ツ岩が削られたころらしい。群落保護に奔走した地方公務員がいた。市や県などの担当部署に再三、保護を訴えた。その人に、市か県の「偉い人」が言い放ったという。「これ以上言い立てると、将来はないぞっ」

 高度経済成長期、企業は石灰石採掘に突き進み、自治体はそれに将来を託した。小さな花々やそれを守ろうとした人がはじかれそうな、官民の大きな力がうねっていた――ということだろう。

◇非公開の植物園設置し増殖

 武甲山の希少植物の保護・増殖

 1987年刊の「秩父武甲山総合調査報告書」は、武甲山の植物として900種以上を挙げる。中でも、ミヤマスカシユリやチチブイワザクラ、ブコウマメザクラなど30種を、石灰石の山・武甲山特有の植生として特筆している。

 これらの植物の石灰石採掘による絶滅を防ぐため、70年に武甲山植物群保護対策推進協議会が発足。79年には旧秩父セメント、88年には菱光石灰工業の協力で、横瀬町が保護・増殖を始めた。いずれも武甲山中腹に非公開の植物園を設置。増殖した植物を採掘跡地に移植する一方、例えば町は町立横瀬中学校に「武甲山植物園」を設け、40種以上を育てている。


http://escience.html.xdomain.jp/saitama/sanchi/bukou/imamukashi5.html 【大鍾乳洞と地底湖】より

武甲山の西側にある橋立鍾乳洞。鍾乳石や石筍、石柱があり、1936年に県の天然記念物に指定された

◇大水脈?膨らむロマン

 石灰石採掘によって、武甲山(1304メートル)は、約4億トンの石灰石や山頂、野生動植物など多くのものを失った。しかし、新たに得たものもある。「武甲山に大鍾乳洞や大地底湖がある――らしい」というロマンだ。

 きっかけは水だった。1974年ごろ、武甲山西側の石灰石鉱区で坑道から水が噴き出し、ほぼ同時に、約500メートル離れた所にわき出ていた日量1万トンの地下水が止まった。

 地元に言い伝えがあった。「武甲山東側の穴にニワトリを入れたら、約5キロ離れた西側の穴から出てきた」「どんな大雨でも、この地下水は濁らない」「目が退化した魚が地下水の流れ出る水路にいた」

 これらを推理し、ロマンを誕生させたのが、75年から秩父市議を2期務め、4年前に亡くなった熊崎三郎さんだ。「武甲山の東から西に流れる大地下水脈があり、それを坑道掘削で切った。石灰石の山に大水脈があれば、大鍾乳洞もある。濁らない水と目の退化した魚は、大地底湖の存在を示している」

 確かに武甲山には、全長140メートルの橋立鍾乳洞などがあるが、熊崎さんのロマンは規模が違う。埋蔵石灰石の厚さなどから、「全長2千メートル以上」と推測した。「採掘後は秩父の一大観光資源に」と意気込み、大駐車場やモノレール建設など、ロマンは膨らむばかりだった。

 だが、その後、この話は一歩も進んでいない。熊崎さんは鍾乳洞などの存在を確かめようと、秩父セメント(現・秩父太平洋セメント)や市に探索を働きかけ、引退後の87年には、市議会に「観光資源調査特別委員会」が設置されたが、成果はなかった。熊崎さんのロマンは「幻」のまま、いつしか消えた。

 今年2月25日付の埼玉新聞のコラムが、ロマンを再び浮上させた。「武甲山の地下には、橋立鍾乳洞とは比べ物にならない、大きな鍾乳洞と地下湖があるんだよ」。75年ごろ、中学生だったコラムの筆者にそう話したのは、「恐らく当時の秩父セメント職員」と書かれていた。

 熊崎さんの遺品には、「セメント鉱山」OBの証言メモがあった。「熊崎さんが言う鍾乳洞の中で作業をした」「実にきれいな鍾乳洞」「人が生活したらしい跡も」……

 仮に、これらの証言を信じると、取材中に聞いた「うわさ」が真実味を帯びる。「存在がわかると、採掘に支障が出るため、秩父セメントが入り口をふさぎ、社外秘にしている」。これが本当なら、ロマンは現実になるが、同社の見解は「存在はわからない。可能性があれば、いずれ調べたい」だった。

 仮に実在しても、採掘が続けば消滅するのでは――と危ぶむ声もある。だが、心配はない。発見した場合、市と同社が「有効活用を協議する」と契約書で決まっているからだ。市議時代の熊崎さんが仕組んだ、いわば置きみやげだ。

◇「発見したら活用へ協議」条項化

 観光資源と実地調査条項

 1983年3月に、秩父市と秩父セメントが、武甲山北側の武山市有林の売買の際に結んだ「土地及び鉱業権売買契約書」に、鍾乳洞絡みの条項がある。市議だった熊崎三郎さんが盛り込むのに尽力したとされる。

 その30条2項は「(秩父セメントは買った土地の)石灰石採掘過程または採掘後において、観光的価値の存する鍾乳洞及び地底湖を発見した場合には、採掘に支障のない範囲で、その有効活用について市と協議するものとする」。

 31条は、30条を含む同社の義務の履行状況確認のため、(市は)随時に実地調査や報告、資料の提出を求めることができ、(同社は)正当な理由なくこれらを拒んでならない、としている。


http://escience.html.xdomain.jp/saitama/sanchi/bukou/imamukashi6.html 【秩父のシンボル、議論百出】より

故・山中隆太郎さんが原画を描いた、世界の遺跡が点在する武甲山のイラスト

里王さんが出版した絵本「チチブの武甲さん」

◇「霊場巡り」「緑を」「現景観を」

 武甲山(1304メートル)の今後をめぐり、様々な提案が出ている。前回取り上げた「大鍾乳洞や地底湖を新たな観光資源に」も、その一つだ。いくつかを紹介する。

 ピラミッド、スフィンクス、マヤ神殿……。階段状のあちこちに世界の遺跡が20近く点在し、山頂は土盛りして破壊前の1336メートルに――。秩父市の工務店主・山中隆太郎さん(故人)が20年近く前に原画を描いた、武甲山を「世界の霊場巡りの場」として再生させる案だ。山中さんは「秩父のシンボルをなくすな」が口癖だったという。

 昨春、「未来の横瀬町」を描いた同町の小中学生の絵の中では、武甲山で大観覧車が回り、ジェットコースターが疾走していた。加藤嘉郎町長は「将来の話」として、「神の山にふさわしいモニュメントの制作」を思い描く。

 「緑」を求める提案も多い。国の「石灰石採掘跡地緑化技術指針」などで採掘会社は緑化を進めているが、むき出しの岩肌が「道半ば」と感じさせるらしい。さいたま市在住で広告企画会社を経営する里王(さとおー)さん(46)は昨秋、自費出版した絵本「チチブの武甲さん」で訴える。

 「身を削って秩父を助けてくれた武甲さんに、木を植えよう」

 武甲山のふもとに、兵庫県立淡路景観園芸学校のような教育研究施設を誘致し、修景の研究と緑化の実践を――。秩父市の秩父神社宮司の薗田稔さん(74)の提案だ。採掘には「地元が潤うなら」と沈黙したが、10年前から発言を始めた。神の山・武甲山を「地域再生のシンボル」として、「全体的修景を」と説く。

 久喜邦康市長も緑化に意欲を見せる。「採掘会社の緑化の進み具合を見ながら、薗田宮司提唱の研究施設の学問の力に加え、市民の力も借りて取り組みたい」

 「まず、採掘の中止を」という提案もある。武甲山植物群保護対策推進協議会長の浅見豊さん(76)だ。秩父夜祭の屋台町会顧問でもあり、「自然」と「夜祭の山」保護の立場から主張する。「まだ残る緑が削られていくのを黙視できない。それに、夜祭が世界無形文化遺産登録を目指すなら、夜祭と不可分の武甲山の、これ以上の破壊をやめさせたいと願うのは当然のこと」

 近畿大学の岡田昌彰准教授(景観工学)は「このまま、残しては」と書いている。「この地にセメント工業が立地し、神山の開発とともに一大産業都市の繁栄があったという史実を表す記号として、現景観を尊重することも(この山容を後世に残す)有効な方法の一つ……ではないか」(2008年、『土木技術』)

 さすがは「秩父のシンボル」というべきか、議論百出の趣だ。だが、採掘はあと80年以上は続き、計画では幅5キロ、高さ900メートルの巨大な石灰石の壁ができることになっている。さて、80年後の人たちは、どんな姿の武甲山を眺めているのだろう。=おわり

◇「人と自然が共生する環境づくり」担う

兵庫県立淡路景観園芸学校

 同県淡路市野島常盤の丘陵地に1999年4月、開校した。熊谷洋一学長。「景観園芸」は、人と自然が共生するまちづくり、環境づくりを担う新しい学問分野で、地域独自の風土や文化をいかしながら、花と緑による豊かな生活環境の創造を目指す、とされる。

 大学卒業以上の社会人を対象とし、景観園芸の専門家を育成する2年間の「専門職大学院課程」(定員20)と、景観園芸のボランティアを育成する「生涯学習課程」、園芸療法士育成の「園芸療法課程」の3コースがある。

 すでに二百数十人が卒業し、全国の自治体や造園会社などで活躍しているという。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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