那谷寺・山中温泉

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno33.htm 【奥の細道(那谷寺・山中温泉 元禄2年7月27日~8月5日)】より

 山中の温泉に行ほど、白根が嶽*跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼*とげさせ給ひて後、大慈大悲の像*を安置し給ひて、那谷*と名付給ふと也。那智、谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也*。

石山の石より白し秋の風(いしやまの いしよりしろし あきのかぜ) 

 温泉に浴す。其功有明に次と云*。

山中や菊はたおらぬ湯の匂(やまなかや きくはたおらぬ ゆのにおい)

 あるじとする物は、久米之助*とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室*、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて*、洛に帰て貞徳*の門人となって世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云*。今更むかし語とはなりぬ。

7月27日:4日ぶりに快晴。小松の諏訪宮の祭礼と聞いたので参詣。午前10時頃、引き止める門人達を後にして小松を立つ。夕刻6時頃、山中温泉に到着。和泉屋久米之助宅に草鞋を解く。夕立あり。

7月28日:快晴。医王寺参詣。夜、雨。

7月29日:快晴。芭蕉は、近藤如行宛に書簡。

8月1日:快晴。黒谷橋へ。

8月2日:快晴。

8月3日:雨、降ったり止んだり。夕方に至って晴れるも、夜また雨。

8月4日:朝になって雨止む。午後3時頃に止むも、夜中再び雨。

8月5日:朝のうち曇。芭蕉と北枝は那谷へ行く。曾良は、体調優れずここで芭蕉と別れて先に立つ

石山の石より白し秋の風

 「那谷」の秋は、ここ白山の白い石よりもっと澄明な秋だ。風水から、秋の色彩は白と決まっている。

那谷寺境内にある「石山の石より白し秋の風」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)

山中や菊は手折らぬ湯の匂

 謡曲『菊慈童』に、周の国の慈童が菊の露を飲んで不老長寿を得たとする話。これを題材として、薬効のある山中温泉のお湯ならば、菊の露など飲まなくても700年の不老長寿が得られるに違いないと、宿屋の主人桃妖への挨拶吟。

江沼郡山中町山中温泉医王寺の句碑(同上)

白根が嶽:<しらねがたけ>。白山。一年中雪に覆われているところからこの名がついたとされる。

花山の法皇、三十三所の順礼:<かざんのほうおう、さんじゅうさんかしょのじゅんれい>と読む。第65代花山天皇は、愛する后が死んだ悲しみに国事を怠り、やがて落髪して西国巡礼の旅に出た。そして長徳元年6月1日にここ那谷に来たという。

大慈大悲の像:<だいじだいほのぞう>と読む。千手観音菩薩像。那谷寺の観音堂にある。

殊勝の土地也:霊妙な土地だの意。

温泉に浴す。其功有明に次と云:<いでゆによくす。そのこうありまにつぐという>と読む。有明は有馬(温泉)の誤植。その温泉の薬効は有馬温泉の次だという、の意。

「那谷」:<なた>と読む。本文にあるように「那智」と「谷汲<たにぐみ>」の2文字を合 わせて作った名前だという。 小松市那谷町の真言宗那谷寺。

久米之助:石川県加賀市山中温泉の宿屋和泉屋の主人甚左衛門。当時14歳。久米之助は幼名。この時、芭蕉から俳号を貰い桃妖<とうよう>と名乗る。挑妖の名付けについては、愛情のこもった「桃の木のその葉散らすな秋の風」なる句がある。また、ここを去るに当たって「湯の名残り今宵は肌の寒からん」、「湯の名残り幾度見るや霧のもと」の2句を残してもいる。

貞室:<ていしつ>。安原貞室。貞門の中心的俳人。

風雅に辱しめられて:俳諧にかかることで侮辱されたという事件があったというが不明。この事件と久米之助の父(一部には祖父とも言う)との関係が読めない。

貞徳:<ていとく>。松永貞徳。貞門俳諧の祖 。

判詞の料を請ずと云:<はんじのりょうをうけずという>と読む。貞室が有名になってからも、この村からは俳諧指導の謝礼を受け取らなかったという話。

全文翻訳

山中温泉に行く道々は、白山を後ろに見ながら行く。左の山際に観音堂がある。花山法皇は西国三十三ヶ所めぐりを完遂されて後、千手観音菩薩像をここに安置され、那谷と名付けられたという。那智と谷汲の二字を分けて組み合わせたとのことだ。

さまざまな奇石があり、松の古木が並べ植えられており、岩の上にかやぶきの小堂が作ってあるなど、まことに霊験の豊かな有り難い地である。

石山の石より白し秋の風

山中温泉につかる。この温泉の効能は、有馬温泉に次ぐといわれている。

山中や菊はたおらぬ湯の匂

この宿の主人は、久米之助といって未だ少年だ。久米之助の父は俳諧好きの人だった。京の安原貞室が若かりし頃、ここに来て、俳諧のことで、この父から無知を指摘されたことがあったという。都に戻った彼は、発奮し、松永貞徳の門に入って学び、後に名人貞室として知られるようになった。名をなして後、貞室はこの村の人々からは判詞の点料を取らなかったという。そんな話もいまは昔語りである。

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