日 本 海ーその海と生物ー ①

http://www1.tlp.ne.jp/k-hamauzu/sea.html  【日 本 海ーその海と生物ー】 より                                                                                                              

1 日本海の海洋構造

 日本海は太平洋の付属海で、その大きな特徴は外海と繋がった海峡が狭く浅いのに対し中央がスリ鉢状で大変深いことです。その最深部は日本海の中央部に広がる広大な日本海盆のやや北側に位置し(北緯41°12′東経137°36′)、その深さは丁度富士山を逆さにした高さに僅か81mおよばない3,695mです。

 ところで、日本海はその表層を対馬暖流「暖流表層水」が流れていますが、その量は日本海全体の約1%程度で垂直的には日本海沿岸では100m程度の深さまで存在しますが、北からの"リマン寒流"と沖合の日本海中央海域の北緯39~40度付近で接し極前線を形成します。そして表層数十m程度から沿海州海域では数mの表層でリマン寒流と混合して消失することになります。リマン寒流と対馬暖流が接する前線ではお互いに入り込み、蛇行して複雑な形状を形成して幾つかの冷水塊を形成することになります。そしてこの入り込んだ複雑な海況がスルメイカ等の好漁場を形成することになるのです。

 そして対馬暖流の下層には他の海洋に見られない日本海特有の海洋構造が見られ特徴となっています1)。

 すなわち、対馬暖流の下層には沿岸で水深300m、沖合で水深100~200mに「暖流中層水」が存在します。その下には”日本海固有冷水”が存在するのです。さらにこの日本海固有冷水は水深200~300m「中間水」、水深300~1,000m「深層水」、及び1,000mから深海底までの「底層水」に分けられそれぞれ水温・塩分濃度に特徴があります。日本海固有水の水温は周年変化がなく、中間水5℃前後、深層水で1℃程度、底層水で0.5℃となっています。

 さらに日本海は外海と4つの海峡で接続し、対馬海峡の韓国と対馬の間の西水道は幅約68Km、平均水深96m、対馬と九州の間の東水道は幅約99Km,平均水深50mです。津軽海峡はその幅約20Km、平均水深114m、宗谷海峡は幅45Km、平均水深45m、間宮海峡は幅8Km、水深4~20mです。このことは大変重要なことを意味し、日本海が外海と隔離した状態にあり、一度汚染されるとその回復は不可能な海底地形をしていることを物語っているのです。

註1) 宇田・辻田・盛田・宮田・飯塚他共著『対馬暖流開発調査報告書第一輯』水産庁編1958.

2 日本海の名称

 「日本海」と言う名称はロシア皇帝アレクサンドル一世の命を受け、文化元年(1804)世界周航の折り、長崎にレザノフ使節と共に来航したクルーゼンシュテルン提督1)が江戸末期の文化12年(1815)に「海図(かいず)」にあらわしたことから一般化しました。「海図」に記載されたと言うことは非常に重要な意味があります。現在のように空の便が発達していない時代、海は最も重要な交通手段であり、全ての海運・海洋交通の関係者は「海図」を利用したからです。そして世界中に「日本海」と言う名称が周知されるようになったのです。

 ところで歴史的に最初に"日本海"と言う名称が地図に表記されたのは古く、日本では江戸幕府の成立の前年に当たる慶長7年(1602)北京でカトリック教の布教活動を行っていたイタリア人宣教師マテオ・リッチによって著された「坤輿万国全図2)(こんよばんこくぜんず)」です。この地図には漢字ではっきりと「日本海」と書かれており、これらは当時ヨーロッパにも伝わって行ったものと思われます。

 この他享保27年(1737)発行の「世界大地図帳」に収録されているマチアス・ソター編纂の日本地図に「日本の北の海」と記されています。又フランス人、ロベル・ボーゴンジイーは宝暦元年(1750)発行の「日本帝国図」に「日本海、メール・ド・ジャポン」の名を使っています。さらに江戸中期の地理学者山本才助は享和3年(1803)「訂正増訳采覧異言3)(ていせいぞうやくさいらんいげん)」を編纂し、その中に"日本海"の名称を記載しています。

 その他の呼び名として、日本の西の海・韃靼海(たたーるかい)・シベリア南海・朝鮮海・東海(とうかい)・朝鮮東海等がありますが、現在韓国では日本海を「東海(とうかい)」"トンヘ"と呼んでいます。

 近年韓国は竹島を実効支配すると共に日本海の名称を”東海”と改めるよう国連やヨーロッパ諸国等で熱心に働きかけています。そのためヨーロッパの学童の教科書には大半が日本海[東海]又は東海[日本海]と併記されるようになりました。韓国の人々が自国内でどう呼ぼうと一向に差し支えありませんが、世界に向って日本海という正式名称を変更させようとしている事は理不尽な行為であると思うのです。決して名称の変更も併記も許してはなりません。このままでいくとその内に日本海の名称が消えてなくなってしまう事が懸念されるのです。日本国政府も公式に認められているはずの「日本海」4)の名称がいつのまにか世界地図から消えてなくならないようあらゆる努力を怠ってはなりません。

1)クルーゼンシュテルン提督(Ivan.Fyodorovich Krusenstern.1770~1846);ロシアの偉大な海軍軍人・海洋学者・探検家。1803~1806にナジェージタ号(450トン希望号)・ネバー号(370トン首都の川の名)の二隻でロシアとして初めて世界周航を行い世界各地の地理・海洋・水路・民族の調査を行なった。特にオホーツク海・日本海・東シナ海・大西洋・北西太平洋の海洋観測を実施し世界で初めて深さ338mまでの水温の鉛直観測を行なった。彼はまだ海図に名称の記載のなかったこの海に”日本海”という名称を記載した最初の人である。「日本海」の命名の他黒潮を”日本海流”と記載している。無記載の海図であれば、例えば航海を命じた当時の皇帝アレクサンドル一世の名を冠するとか、「ロシア東海」・「シベリア南海」とかロシアの国威高揚につながる名称を記載しても差し支えないところ、この海が日本列島で7割がた太平洋から隔離された付属海であることの地理学的立地条件から日本海の名がふさわしいとしたのである。

 航海記の中で彼は「人はこの海を朝鮮海と名付けたが、朝鮮の海岸には極僅かな部分しかあらわれていないので、この海は”日本海”と名付けるがよかろう」と記している。これらの探検調査記録は『世界周航記』として著わされ名著として世界各国語に訳され、このオランダ語訳がシーボルトによってもたらされ、幕府天文方高橋景保との間で日本地図との交換書物の一冊でもある(シーボルト事件)。ここでも明らかなように海図上に書き込んだのはクルーゼンシュテルンであり、彼が「日本海」の事実上の名付け親ということになり、日本国はヨーロッパからこの名称を逆輸入したもので、日本人が勝手に付けたものではなく、第三者による地形学的にも適正な名称であるといえる。

 彼は当時世界最高の国際的教養人であり、ヨーロッパ各国の学術会員の称号を与えられ、後に海軍兵学校校長・海軍大将となりロシア海軍の育成に多大な貢献をした。なお『世界周航記』の日本に関わる箇所については羽仁五郎訳註『クルーゼンシュテルン日本紀行』1931がある。絈野(かせの)義夫著『日本海の謎』築地書館1982 p2~3に筆者加筆。

2) 坤輿;大地・地球と言う意味。

3)「采覧異言」;享保10年(1725)完成した新井白石の著書で、屋久島に潜入して捕まったイタリア人宣教師シドッチの取り調べ及びオランダ商館長からの西洋知識を纏め、7 代将軍家継に献上したもの.

4)「日本海」の正式名称が国際機関で認知されたのは1920年代の国際水路機関IHO

 (International hydrographic organization)の一連の会議で公式に決定したものである。

3 日本海の誕生

 日本海はどのようにして出来たのでしょうか。昭和14年(1939)に1つの仮説が提唱されました。(渡辺久吉1938,その他)

 それは『日本海周辺の地層には日本列島や隣接大陸のような1億年前の白亜紀から3400万年前の古第三紀の地層が欠如しており、新しい2000万年前の新第三紀の地層からなっていることから、新第三紀に激しい地殻変動があり、陥没によって海となったもので、それ以前は大陸であった』と言う説です。

 それでは、もし大陸の一部が陥没して海底となったとすれば、一般に、大陸の地層を形成している「花崗岩」で構成され、厚さ30Kmにもおよぶ"大陸地殻"であるはずです。ところが昭和32年(1957)旧ソ連の海洋調査船ヴィーチャン号(勇者という名の5,500トンの当時世界最大最新鋭の海洋調査船)によって、日本海の海底は大陸地殻でなく、一般に海底を形成している「玄武岩」で構成された厚さ数Kmの薄い"海洋地殻"であると言う大きな発見が有りました。日本海は太平洋に隣接する小さな"付属海"であるにも関わらず、太平洋と同じ海底地形を持った本格的な海だったのです。

 それではどうして日本海は海洋型の海底地殻を持った海なのでしょうか。この発見がきっかけとなり、大陸地殻がない理由について諸説が提唱されるようになりました。藤田(1972)はこれを解りやすくまとめて説明しています。それによると、

1)「大洋恒久化説」;日本海の深海部には元々大陸地殻が無かったという説(ワシリコウスキー)この説は元々大陸地殻が無かったというのだから話は簡単です。

 しかし新第三紀までは大陸であったという説をとるならば、その大陸地殻が何故海洋地殻になったのかの理由として三つの説が提唱されました。

1)「大洋化説又は塩基性化説」 ;現在の海は新第三紀になり大規模に陥没して大陸地殻はマントル内に沈み込み、改めてそこに火山活動で玄武岩の海洋地殻が形成されたという考え方(ベロウスソフ, ルーディッチ1960)。

2)深海部の地殻は新第三紀以前に大規模に隆起し、その為その部分が大規模に削り取られ、大陸地殻の大部分が失われた後、その不均衡を是正する為に急速に沈下した。その地殻が大洋型地殻と同じように見えるのだという説(牛来正夫1966)。

3)現在の深海部にはかって大陸地殻があったが、それが二つに割れて一方の大陸地殻が日本列島となり東に移動していった為、そこに大きな裂け目が出来大陸地殻の下にあった玄武岩層が引き伸ばされつつ海底に現れたと言う説。(寺田寅彦1934、村内必典1971)本質的にはこの説と変わらないが近年のプレート・テクトニクス(Plate tectonics.日本語に訳せば「板造構論」筆者加筆)の考え方と結合させた説が知られています。(松田時彦・上田誠也1971)1)

 現在考えられている説は、第三のプレート・テクトニクス説で今から2600万年以上前には大陸の一部であった部分に、裂け目が入り二つに割れて一方が東へ移動し、日本列島の基盤となり、そこに出来た大きな裂け目に大陸地殻の下にあった玄武岩が現れて海底が形成された、と言う「大陸移動説」が有力です。

 近年の古地磁気2)の研究から、東日本の基盤が反時計回りに、西日本の基盤が時計に移動したことが実証されたのです(鳥居他1985・浜野・当舎1985)。

 そして平成元年(1989)深海掘削船ジョイデス・レゾリューション号の日本海掘削によって、少なくとも2000万年以上前に日本海が誕生した事が解ってきたのです3)。

1)藤田至則著「日本海の起源」 『海洋科学』1972、3月号

2)古地磁気;岩石は磁性を帯びた鉄・ニッケル等を含んでおり、固化した時の地球磁場の方向に磁化しそれを保持ているので、この残留磁気を測定する事によりその岩石の当時の場所及び年代が推定出来る。

3)玉木賢策他著 特集「日本海ー誕生から現在までー」 『科学朝日』1990、5月号

4 対馬暖流

 対馬暖流は、黒潮の分流で奄美大島海域で分かれて、対馬海峡から日本海に流入します。海峡は、韓国と対馬の間の西水道が幅約68Km、平均水深96m、対馬と九州の間の東水道が幅約99Km,平均水深50mで狭く浅い地形です。

 対馬暖流の名称が初めて出てくるのは、今から130年前の1873年(明治5年)ロシア人の"スクレンク"が著した海流図1)からです。

 ところで対馬暖流は、対馬海峡から日本海に入って来ますが、その水量は1秒間に300万立方メートルで、これを新潟県庁を1杯の升として換算しますと、1秒間に16,000杯が流入していることになります。

 そしてこの海流は、日本の沿岸を北上し、新潟海域では佐渡海峡に入り込み北上する第一分枝流・その沖合を流れる第二分枝流、さらに日本海中央の海域を流れる第三分枝流の三つの流れと、朝鮮半島東岸を北上する流れがあります2)。これらの速さは、時速2Km程度と、ゆっくりした流れです。

 日本海を北上する三つの流れは、秋田県男鹿半島沖合で一つにまとまり、70%は津軽海峡から太平洋に流出していきますが、30%は更に北上し、宗谷海峡からオホーツク海に流出するものと、朝鮮半島沿岸を北上し、北からのリマン海流と混合するものとからなります。

 そしてこれらの温暖な対馬暖流が、冬季の冷たい季節風と接して、大量の降雪を日本海側にもたらします。

 また対馬暖流の勢力が次第に強くなる春季からは、豊かな南からの海の幸を運んでくれます。その中に晩春から来遊する"フクラギ"があります。体長30cmのブリの子を、新潟の地方名で"福来”(ふくらぎ)と言い、『福が来る』という事を意味しています。日本海は長い厳しい冬が過ぎると暖かく穏やかな春と海の幸を対馬暖流がもたらしてくれるのです。

注 1),2) 川合英夫著「日本海における海流像の変遷」 『対馬暖流』 日本水産学会編 恒星社厚生閣 1974 p7~26

5 日本海の生物相

 日本海に生息する"海産動物"は約1,200種で、その中で魚類が約550種、エビ・カニ類が600種、イカ・タコ類が約50種です。

 ところで、日本列島の近海には、世界の他の海域に比べて"海産動物"が多く生息し、魚類だけでも約2,700種がいます。これは同じ緯度の、ほぼ同じ広さの地中海で530種、北米西岸の海域で600種と比較しても、5倍もあり桁違いに多く、日本海でも2倍の魚類が生息しています1)。

 しかし私達が日頃食べている日本海で年間1万トン以上漁獲される、"大衆魚"は、イワシ・スルメイカ・サバ・タラ等14種にしか過ぎないことも大きな特徴です。如何にこれらの魚種が、私達にとって重要な食糧資源となっているかが解ります。

 さらに日本海の生物生息の特徴は、大西洋や太平洋の成立が、およそ2~3億年と推定されているのに対し、日本海の成立から、高々2500万年程度しか経過していないため、"真の深海生物"が存在しないことです。

 深海魚は一般にその起源が、古い地質時代に眼の退化や発光器等が発達して特殊化し、深海の環境に適応した「一次的深海魚」と、今から170万年前の若い、氷河時代以降に、寒冷の浅い海域から沿岸性の形態特徴を残したままで、深海の環境に適応した「二次的深海魚」に分けられますが、日本海にはこの「一次的深海魚」が生息せず「二次的深海魚」のみが存在するのです。

すなわち、北の海域の浅海の寒冷の生物が、日本海の冷い深海へ、その生活領域を拡大して行ったと考えられているのです2)。

註1)西村三郎著 『日本海の成立』 築地書館1973

 2)『創立百周年記念誌』新潟県水産海洋研究所発行1999 浜渦 清著「日本海海譜」 pp249~251

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