http://ktymtskz.my.coocan.jp/A/sea0.htm 【日本海繁盛記】より
(高田宏著 岩波新書208 1992年刊)
近世から近代にかけて日本海には北海道から佐渡・能登をへて大阪へ至る海上の道があった。鰊しめ粕、米、木材などを運ぶこの大動脈の主役「北前船」は、人びとの勇気や気概ものせ、沿岸各地を繋いでいた。海商や船乗りたちの足跡を出身地や寄港地にたどり、海に結びついた暮らし、その豊かでのびやかな文化を再発見する歴史エッセイ。
筆者 高田 宏
1932年京都に生まれ,石川県大聖寺町(現加賀市)に育つ
1955年京都大学文学部卒業
現在 作家、著書 「言葉の海へ」(大仏次郎賞・亀井勝一郎賞受賞、新潮社)、「雪日本心日本」(中央公論社)、「『吾輩は猫でもある』覚書き」(講談社)、「雪古九谷」(光文社)、「木に会う」(読売文学賞受賞、新潮社)、「言葉の影法師」(筑摩書房)、「われ山に帰る」(岩波書店)、「猪谷六合雄」(リブロポート)、「山へ帰った猫」(PHP研究所)、「森物語」(世界文化社)ほか多数
日本海の近くの町で育った。
石川県江沼(えぬま)郡大聖寺町(だいしょうじまち、いまは加賀市の一部)が私のふるさとで、町から徒歩一時間前後で塩屋、片野、橋立(はしだて)などの海辺に出られる。
昭和二十年(一九四五年)八月十五日も朝から片野の浜に行っていた。夏休みだったが、数日前から毎日、海洋訓練で海へ出かけていた。中学(旧制)の一年生だった。
この日も潜水泳法などの訓練を受けていたのだが、正午に重大放送があるから各自帰宅して聞くようにとのことで、訓練は早めに打ち切られた。駆け足で家に帰り、父母と並んでラジオの前に直立して正午の放送を聞いた。雑音がまじり天皇の言葉もよく分がらなかったけれども、敗戦ということは理解できた。裏の井戸端で泣いた。
片野の浜は小さい頃から夏になると泳ぎに行っていた海岸だ。日本海に面した海辺に橋立、片野、塩谷の町が並ぶ。更に西南の九頭竜川河口に三国がある。
蝉時雨(せみしぐれ)の村を通り抜けると小さな砂丘の向こうに砂浜がある。砂丘の上から振り返ると白山がひろびろと見えていた。中学から高校の六年間、私はよくこの浜に独りで立っていた。夏の海水浴にも行ったが、浜に人の姿を見かけなくなる秋から冬、そして春に行くことが多かった。大学に入って京都で下宿するようになってからも、夏と冬に帰省したときには浜へ出かけた。
とりわけ冬の日本海を見るのが好きで、雪を踏んでたびたび出かけたものだ。横なぐりの吹雪のなかで、マントの襟(えり)を両手でにぎりしめ、暮れてゆく海に無数の白い波頭がおどるのを見ていた。
海のとどろきが天地をみたして響きわたり、耳もとを吹雪の風が唸ってゆく。家のことも学校のことも頭から消え、いまどこにいるのかさえ、あやふやになる時間だった。
限りない自然の力にとりかこまれて、時代からも浮遊していた。めずらしく風のない夜の海に、牡丹雪が降りしきるときもあった。黒くうねる波がゆったりと浜へ寄せては返してゆく。 ときに思いがけず長い波が足もとまで寄せてきて、砂浜の雪をさらってゆく。
黒い海にきりもなく雪が降り込む。暗い空から絶え間なく雪がわき出てくる。見ていると、ふっと雪が止まり、海が上昇してゆくように錯覚するときがある。
学校から帰ってひと走り、落日の海もよく見に行った。季節により、天候により、一度として同じ光景はないのだが、たとえばもう二学期の始まっている初秋、残暑のころの海に、赤い巨大な太陽が沈んでゆくとき、金と赤にきらめきわたる海がひっそりと鎮まる夕凪の時がやってくる。夕陽に染まった空と海がしんと静まり、浜に寄せた波が引いてゆく砂の音だけが聞こえてくる。雪の海も落日の海も、秋の強風に砂の飛ぶ海も、私を敬虔にした。
宗教感情とはちがうだろうが、ほかにふさわしい言葉を思いつかない。
数学で習う無限はどうしても理解できなかったけれども、海辺の時間は自然の無限性を感得させてくれた。
日本海を見て育ったためか、ほかの海にはなじめないところがある。太平洋は明るすぎるという気がする。
もちろん太平洋だって、黒雲が低く走る下に荒れまわる日もあるのだが、太平洋岸は日本海岸に比べて晴れている日が多く、どうもあっけらかんとしている。 雨の日の太平洋でも、そんな気がする。数年前、プエルトリコへ出かけたとき、朝夕ごとにホテルの窓から目の前にカリブ海を見ていたが、あの海は私のなかの海とはまるっきり別のもので、絵はがきを見ているような気がしたものだ。
日本海という海はしかし小さな海である。アジア大陸の東、日本列島弧とのあいだにある面積一〇四万平方キロメートルの縁海にすぎない。太平洋の一五八分の一の面積しかない。
大西洋の属海のカリブ海と比べても約半分の広さの海だ。内海である地中海の三分の一強といったところ。アメリカ合衆国の九分の一の面積で、テキサス州とニューメキシコ州を合わせたほどの、こぢんまりとした海だ。
それに、この海はほぼ閉ざされた海だ。もともとアジア大陸の東縁部であった陸地が数万年前に陥没して湖になり、やがて海峡によって外海と通じるようになった海である。
間宮海峡(タタール海峡)、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡、関門海峡の五つの海峡の水深が一〇〇から二〇〇メートルという浅い海峡で、オホーツク海、太平洋、東シナ海に通じている。
私が見て育った日本海は、この小さな海の日本列島側のごく一部分にすぎない。
その後、北海道から対馬までのいろいろな海岸で日本海を見てきたが、対岸の朝鮮半島東側も沿海州も知らない。
日本海は小さい。地中海の1/3、アメリカ合衆国の1/9しかない。しかしこの海は、小さいからこそ古くから人びとが往来してきた海なのだ。そのうえ、五つの海峡ができたことによって黒潮の分流である対馬暖流が日本列島沿いに北上し、その末流が冷やされてリマン寒流となって大陸沿岸を南下するといった海の道ができた。
リマン寒流はウラジオストック付近で枝分かれして東南へ流れ、対馬暖流と合して隠岐・能登方面へ向かっている。
ほかにも小分流があるが、ともあれこれらの海流に乗れば船の往来に便利である。
リマン寒流はゆっくりと流れているが対馬暖流は流速〇・五~一・○ノットとかなり速い海流である。
対馬暖流はまた、日本海沿いの日本列島の気候を温和にしてくれている。
この暖流がなかったら、シベリアから吹き出してくる冬の低温の季節風に直撃される。
対馬暖流はこのきびしい寒風を暖め、やわらげてくれている。
そして、対馬暖流から立ち上る大量の水蒸気を吸収した北西季節風が、列島の脊梁山脈にぶつかって日本海側に雪を降らせる。
雪はつめたいものと思われがちだが、雪の温度は摂氏零度もある。
マイナス三〇度四〇度という乾いた寒風に比べたらよほど高温なのだ。
雪国には屋根の雪下ろしをはじめ雪中生活の苦労はいろいろあるけれども、雪は寒風から人びとの暮らしを守り、また田畑や山林を雪で覆って保護している。
私のふるさとの暮らしは、日本海のおかげて営まれてきたのだ。
この本の主題である北前船(きたまえぶね)はもちろん日本海あってのものであるが、はるか昔からの日本海往来が私のふるさとの暮らしを豊かにし、文化を育ててきている。
そして何より、日本海から運ばれる湿気が田畑をはじめとして人びとの暮らしをおだやかなものとしてくれ、冬の降雪が寒風をやわらげてくれ、雪国特有の生活と感性とを育ててくれている。
冬の日本海に降りしきる雪や逆巻く吹雪は、私のなかに深く根を下ろしているが、考えてみると、あれはどこの海にでもある光景ではない。
日本列島の日本海側が世界でいちばんの雪国であるのも、日本海という海があるからだ。
そこに育った私は自分を「雪国人」と呼んでいるが二言いかえればそれは「日本海人」ということでもある。私は日本海という海の子だ。私の遠いご先柤様たちも、雪に育てられ、日本海に育てられてきた。
子孫の私はいまは太平洋岸の東京に暮らしているが、私のなかには日本海人の血が流れている。私は日本海の子だ。
あとがき 一九九一年十一月 高田宏
「北前船(きたまえぶね)」」という言葉を知ったのがいつだったかは思い出せないが、少年時代に近くの瀬越 * は村出身の大金持のおかげて村の人びとは税金を払わなくていいこと、そして大金持は船で儲けたのだということを聞いていたので、その存在はおぼろに知っていた。
* 瀬越 海辺の塩谷の東隣の村。
中学・高校ではその瀬越や塩屋や橋立という、かっての北前船村に友達がいた。
それぞれの村へよく遊びにも行ったし、海を見るのが好きだったからそのへんの日本海をよく見に行った。
北前船の歴史は知らないままに、北前船のふるさとに触れていたわけだ。
牧野隆信氏の『北前船』(初版一九六四年)を読んだのは三訂版が出た一九七一年だ。
そのときはもう北前船という名称を知っており多少の知識を持っていたが、この本で北前船への興味がかき立てられた。
それから二十年、折り折りに北前船のことや和船の歴史などを読み、旅のついでに北前船に縁のある港や土地を歩いてきた。
本文にも書いたが主なところだけを挙げれば、北海道の焼尻島、奥尻島、小樽、江差、松前、函館、本州日本海側では深浦、酒田、新潟、出雲崎、佐渡の小木・宿根木、伏木、輪島、福浦、金石、三国、敦賀、小浜、境港、隠岐、温泉津、浜田、下関、あとは瀬戸内海の島々や諸港といったところだ。
江差と福浦と三国にはそれぞれ三回、橋立・瀬越・塩屋にも数回ずつ出かけている。
私のふるさとに近い村々の船乗りたちが海を渡ってそれらの土地に立ち寄っていることを、それぞれの土地に残るさまざまな痕跡に見て来て、私のなかで次第に北前船と北前乗りの男たちが親しいものになっていった。
牧野氏の北前船についての本は出るたびに読んできた。
氏は私の高校生のときの日本史の先生である。
荘園経済の仕組みなどについて戦後歴史学界の新しい研究成果をふまえた授業をしてもらったものだ。
氏はその後、北前船研究に打ち込まれて、氏を中心にして橋立に北前船の里資料館が開設された。
北前船セミナー(日本海海運史セミナー)の第一回はこの資料館の囲炉裏のある大広間で開かれた。
その後も毎年、橋立てセミナーが開かれ各地の北前船研究者が集まっている。
セミナーの常任講師と言ってもいい和船史の泰斗(たいと=権威者)石井謙治氏とも旧知の間柄だ。
私が編集していた雑誌で一九七三年に「日本の海洋民」という特集を組んだときにお世話になったのが最初だが、実は私の家から歩いて三分ばかりの同じ町内に石井氏のお宅があり、船についての疑問が生じると御教示を得に出かける。
散歩や買物の途中でお会いすることもあるが、『木に会う』という本を書いたときにはそのなかで船材としての木のことを書くために石井氏のお宅を訪ね数時間にわたって教えていただいた。
何年か前から、瀬越村という一つの村を主人公にした小説を書いてみたいと思っていた。
それはいつか改めて書くかも知れないが、今回書いたこの本も、歴史書でも研究書でもない、一種の長編エヨセー、歴史紀行といったものである。
牧野・石井両氏の数々の著書をはじめ多くの方々の研究を使わせていただいたが、史料はごくわずかしか引いていない。
詳細をお知りになりたい方は本文中に書名を記しているのでそれらの専門書をお読みくださいますよう。
図版・写真等について編集の富田武子さんの手をわずらわせた。
各地の資料館や教育委員会の方々など多くの方のご好意をいただいた。
旅先でお世話になった方々も多い。
小さな本だが、たくさんの方々のおかげで生まれたものだ。
あつく御礼申し上げます。
https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/data/db/maizuru/knowledge/tsushima_current.html 【対馬暖流とは】 より
日本海の表層は、北緯40度付近を境に南部と北部に分けることができます。 南部の表層には、東シナ海の大陸棚斜面を流れる黒潮水を主な起源とし、 対馬海峡を通って流入する高温・高塩分水(以下、暖水)が広がっています。 その大部分は津軽海峡を通って太平洋に、一部は宗谷海峡を通ってオホーツク海に流出します。 この暖水の流れが対馬暖流です。 日本海北部の表層には対馬暖流より低温・低塩分の海水(以下、冷水)が広がっており、 また、日本海の約300m以深は水温0〜1℃程度、塩分34.1程度でほぼ均一な「日本海固有水」で占められていますが、 日本海南部の表層は、対馬暖流によって高水温・高塩分の状態に維持されています。
暖水と冷水との境界には、東西に延びる極前線(亜寒帯前線)と呼ばれる水温・塩分の不連続線が形成されています。 100m深における2、5、8、11月の月平均水温(1985〜2010年の平均)の分布(図1)をみると、日本海の極前線は、 北日本や朝鮮半島の近海を除くとおおむね北緯40度付近に位置し、 対馬暖流が岸に沿って流れている北日本の近海ではおおむね岸と平行に位置しています。
100m深の水温の平年分布図と極前線の平年の位置 100m深の水温の平年分布図と極前線の平年の位置 100m深の水温の平年分布図と極前線の平年の位置 100m深の水温の平年分布図と極前線の平年の位置
図1:100m深の水温の平年分布図(単位:℃)と極前線の平年の位置
左上:2月、右上:5月、左下:8月、右下:11月。海洋大循環モデルとデータ同化の解析結果による。平年値は1985〜2010年の26年平均値。白線は極前線の平年の位置で、100m深における月ごとの極前線の指標水温(重岡, 2010)を用いて位置を決定した。
対馬暖流の流路
対馬暖流は黒潮に比べると、流量で約1/10、流速で約1/4の弱い流れで、黒潮のように連続した流路を形成することは稀ですが、 対馬暖流が流入・出する対馬海峡や津軽海峡に近い海域では、比較的安定した流路をとっています。
100m深における2、5、8、11月の月平均水温(1985〜2010年の平均)の分布(図1)において、 水温の水平勾配が大きく等温線の間隔が狭くなっているところには、等温線に沿って水温が高い側を右にみる方向の流れが存在し、 等温線の間隔が狭いほど強い流れとなります。 対馬海峡から隠岐諸島に至る海域には等温線の間隔が狭くなっているところがあり、 これとは別に、朝鮮半島の東側にも等温線の間隔が狭くなっているところがみられ、いずれも対馬暖流の流路に相当すると考えらます。 対馬暖流の流路に相当する部分の水温の水平勾配を季節ごとに比べてみると、8月および11月は2月および5月に比べて大きく明瞭なことから、 対馬暖流の流れは、冬季および春季に比べて夏季および秋季に強いという季節変動をしていることがわかります。
対馬暖流の勢力
対馬暖流の厚さは、水深が150m程度の対馬海峡や陸棚地形の影響で、200m程度に抑えられています。このため対馬暖流の流量の増減は、 平面的な広がりの増減となって現れると考えられます。そこで、日本海において、100m深水温が10℃以上の海域の面積を、対馬暖流の勢力の指標としています。
対馬暖流の勢力は3月に極小、12月に極大となるような季節変動をしています。また、十年を超える長い周期の経年変動がみられます。
対馬暖流の勢力の経年変動
図2:対馬暖流の勢力の経年変動(1985〜2010年)
海洋大循環モデルとデータ同化の解析結果による、100m深の水温が10℃以上の海域の面積時系列。図中の赤線が月の実況を、黒丸(●)が実況の年平均値を示している。黄色の線は1985〜2010年の過去26年間の平均値を示す。濃い青は、「平年並」の範囲をあらわしている。ここでは、「平年並」の範囲を、1985〜2010年の26年間に出現した月ごとの対馬暖流の勢力の、上位1/3および下位1/3の事例を除いた範囲と定義している。薄い青は、1985〜2010年の26年間に出現した、上位1/10および下位1/10を除いた範囲を示している。
参考文献
重岡裕海,2010:測候時報,第77巻特別号,S109-S118.
https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN1/soudan/kairyu.html 【北海道周辺の海流】 より
北海道周辺海域の海流には、暖流系の対馬暖流とその分枝である津軽暖流・宗谷暖流および寒流系の親潮と東樺太海流がある。一般には暖流は夏季に勢力が強く、寒流は冬季に優勢になる。
北海道周辺海流図
北海道周辺の海流の大勢図
対馬暖流
対馬暖流は本州北西岸を大小の蛇行を繰り返しながら北上し、津軽海峡西口付近で流量の大部分が津軽暖流として津軽海峡に流入する。残流はさらに北海道沿岸を通って北上し宗谷海峡でその一部をオホーツク海に流入させ、末流はサハリン西岸沿岸にも達する。この暖水の流れは日本海の中で最も顕著なものである。
この海流は日本海の8~9割を占める日本海固有水(水温 0~1℃、塩分34.0~34.1)の上を200メートル程度の厚さで流れ、日本列島から遠ざかるにつれて薄くなる。夏季における流速は1ノット内外で、ところによっては1.5ノット以上となるが、冬季の流速は著しく微弱であり混とんとしている。
* 1 ノットは、時速約1.8キロメートル
津軽暖流
対馬暖流は津軽海峡の西口付近で二分して大半は津軽暖流となって津軽海峡を東進する。海峡を抜けてからすぐ南下する場合(冬季に多い)と、襟裳岬の南西方40海里(約74キロメートル)付近まで達してから南下する場合(夏季に多い)があり、流速は1~3ノットで、冬季よりも夏季のほうが比較的強い流れとなっている。この流れには潮位差の大きい太平洋の潮汐と潮位差の少ない日本海の潮汐が大きく影響しており、時刻により流れは大きく変化する。
宗谷暖流
対馬暖流の末流の一部は宗谷暖流となって宗谷海峡に入り、さらに北海道北岸に沿って南東流し、知床岬沖まで達する。その流帯は距岸約40キロメートル以内にある。その末流は数分枝に分かれ、一分枝は北転してオホーツク海に去るが、一分枝は根室海峡に入り、他の分枝は国後水道などに入って南下する。流速は春季~秋季には約1.5 ノットで、夏季には3ノットに及ぶ所もあるが、冬季には流れは衰退する。
親 潮
千島列島の東側を南西方へ進む親潮は、東経150度~151度および東経146度~147度から南下する分枝がある。一部は更に北海道南岸東部に沿って南西方へ進み、津軽暖流に合流し、東経142度~143度付近を南下する。
流速は0.5ノット内外で、冬季・春季は夏季に比べて流れの勢いが強くなる。
東樺太海流
オホーツク海にはおおむね反時計回りの環流があって、その最も顕著な流れがサハリン東岸に沿って南下する海流で、冬季には流速0.5ノット内外で北海道北岸の沖合まで達するが、春季~秋季の流れの勢いは弱いと思われる。
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