金色堂・ミイラ・義経伝説…世界遺産 平泉に残るナゾ

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2600N_W1A720C1000000/ 【金色堂・ミイラ・義経伝説…世界遺産 平泉に残るナゾ】 より

「国宝」第1号の中尊寺金色堂(文化庁提供)

6月、世界文化遺産に登録された平泉(岩手県平泉町)。平安時代の11~12世紀に奥州藤原氏が独自の文化を発展させた地域として知られるが、最近ではより幅広く東アジア史の視点から見直そうという研究も進んでいる。黄金の金色堂、藤原氏3代のミイラ、源義経伝説の誕生――。文化遺産の深い理解に役立つよう、平泉に残るナゾについて最近の動きを探ってみた。

なぜ一地方政権が黄金の仏堂を建立できたのか

平泉の中核施設である中尊寺・金色堂は日本の「国宝」第1号だ。らでん細工の巻柱や透かし彫りの金具、漆の蒔絵(まきえ)など平安当時における建築、美術・工芸の粋を集めている。さらに幅約5.5メートル四方の堂内には「皆金色」と呼ぶ装飾が施され金箔で覆われている。文字通り黄金一色の世界だ。平安時代の一地方政権でなぜ可能だったのか。

平泉からは当時のアジア各地からもたらされた多彩な文物が出土している。斉藤利男・弘前大教授は「日本から事実上独立した、東アジアにおける現代の『新興国』のような存在」と位置づける。それを支えた資源が当時の貴重品「馬、金、鷲羽」だったという。鷲羽は朝廷の儀式に欠かせなかった。

さらに奥州藤原氏は中国・宋との交易で京都を経由しない直接ルートを持っていた。酒田などからの日本海ルートで博多を経由。中国側の貿易港だった寧波(明州)につなぐ海路で中国の白磁製品などを入手した。四耳壺(しじこ)、水注など高級品が多かったという。宋版の教典も輸入し、一方初代・藤原清衡は中国で「千僧供養」という仏事イベントを果たしている。

交易路は東シナ海全体に拡大して象牙、サイの角、紫檀材なども平泉にもたらされた。金色堂のらでん細工に使う夜光貝は奄美諸島周辺が産地。後には太平洋ルートも開拓し愛知県の渥美、常滑窯の陶器などが平泉から大量に出土している。豊富な資源を利用した貿易立国を実現した。奥州藤原氏の富裕さと繁栄は当時から知られ、平安末期の東大寺再建には第3代・秀衡は源頼朝の5倍の黄金を寄進したという。

3代続けてミイラになった理由は

中尊寺金色堂には奥州藤原氏歴代当主である清衡、基衡、秀衡3代のミイラと頼朝に敗れた第4代・泰衡の首が安置されている。日本の権力者で3代にわたってミイラ化され保存されている例は平泉だけだ。初めて本格的な学術調査が行われたのは1950年(昭和25年)。保存状態は良好で、例えば清衡は身長約160センチメートルで没年は70歳以上。血液はAB型で晩年は脳梗塞などで倒れ左側半身に障害があったようだ。

斉藤教授は「中国仏教の『生身往生』思想によるもの」と指摘する。奥州藤原氏は法華経を根本教典とする天台宗を柱とした。ただ京都仏教を模倣したのではなく、中国から直輸入したものだったという。

当時の日本仏教では、神仏習合が進み神社制度が整備されていったのに対し、平泉は寺院中心を維持した。「夷賊調伏、王権擁護」といった国家の論理は慎重に退けられていた。

アジア諸国でも唐滅亡後の五代十国諸国や遼、北宋、クメール王国などで仏教立国を目標とする動きが出てきていた。「奥州藤原氏は宗教面で東アジアのグローバルスタンダードを目指していた」(斉藤教授)という。

この地でどうして義経伝説が生まれたのか

日本史のヒーロー、源義経。活躍していた時期は治承4年(1180年)に平泉から駆けつけて兄・頼朝に参陣する「黄瀬川の対面」から平泉・衣川館で自害した文治5年(1189年)までで10年に満たない。歴史に登場するまでの前半生もナゾが多い一方、義経が実は生存していたという多くの伝説を生み出した。平泉という土地が義経伝説を生み出したともいえる。

義経が京都・鞍馬を脱出し平泉に向かう「奥州下り」。その決行には奥州藤原氏から法皇側近の関係者、源氏、平家までを含んだ幅広い人的ネットワークの支援があったことを保立道久・東大史料編纂所教授が明らかにした。

孤独な青年が自立して未踏の地に赴いたわけではなかったようだ。義経研究の中から、奥州藤原氏が京都の公家を政治顧問格などとして積極的に迎えたり、朝廷の中枢人脈を開拓しようとしていたことが明らかになってきている。

義経が北方に逃れたという伝説は新井白石や水戸光圀らが取り上げ、江戸時代に何度もブームとなった。さらに大正期にベストセラーになった「義経=ジンギスカン」説まで現れた。背景にあったのは平泉時代からの蝦夷ヶ島(北海道)との密接な結びつきだ。

北海道との交易ではオオワシ、オジロワシの鷲羽が珍重され、さらにアザラシの皮も特産だった。交易圏は北海道全島をカバーし、沿海州、サハリン地域まで拡大。その権益を独占的に管理することが奥州藤原氏の富の源泉の一つだったようだ。平泉の北方に隣接する「衣川遺跡群」は北に開かれた街で北方世界との窓口になっていたという。

震災からの復興を目指す東北地方。平泉と周辺地では観光連携への動きも始まっている。訪れる機会があれば東北史に潜むナゾ解きに挑戦してみてはいかがだろうか。

(電子整理部 松本治人)


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