https://colorfl.net/fujiwarakiyohira-miira/ 【死因を語る藤原清衡のミイラ 】
https://r-ijin.com/fujiwarano-hidehira/ 【藤原秀衡を5分で!なぜミイラにした?源義経、平清盛との関係は?】より
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)といえば、奥州を制しトップに君臨した奥州藤原氏の三代目です。
平泉(岩手県)を拠点とし、独自の文化で栄華な世を築き上げていました。
今回、藤原秀衡のかんたんな経歴、なぜミイラになったか、源義経、平清盛との関係についてご紹介します。
藤原秀衡、プロフィール
名前:藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら) 出身地:奥州(現・東北) 生誕:1122年
死没:1187年11月30日 享年:66歳(死因・脊椎カリエス) 時代:平安時代末期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
藤原秀衡は、1122年に奥州藤原氏二代目の父藤原基衡(もとひら)と母は安倍宗任(むねとう)の娘のあいだに生まれました。
秀衡の時代は、奥州藤原家の全盛期とも言われ、もっとも優美に輝いていました。
朝廷から鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を命ぜられ、現在の東北一帯を支配する権力を持ち、アジア諸国との貿易により安定した財政を誇っていました。
祖父の藤原清衡(ふじわらのきよひら)の時代から、仏教による新しい国造りを目指していたこともあり、寺院の建設に対してとても積極的でした。
秀衡も、京都の平等院鳳凰堂をイメージした無量光院(むりょうこういん)を建てます。
調査によれば、平等院よりも大きな建物であったことから、その先に見据えた世は、京都を超える大都市を想定していたのかも知れません。
「源平の戦い」が起こっても、どちらともなく中立の立場を保ち、冷静に世の動乱を遠く奥州から見守っていたのでした。
晩年は、後継者争いが起こらぬように後継者を決めるも、最期の遺言には「義経を大将軍にせよ」残しており、奥州藤原家の繁栄と義経の今後の活躍を大いに期待していたのかも知れません。しかし、義経は若くして襲われて追い詰められ、自害しています。
藤原秀衡は、脊髄に炎症が起こる「脊椎カリエス」により66歳で亡くなりました。
なぜミイラにした?
なんと藤原秀衡はミイラになっていました。
ミイラと言えば、誰もがすぐに古代エジプトをイメージするかと思います。
現代の調査において、秀衡は人工ミイラ化か自然ミイラ化か、詳しい事は不明とされており、未だに多くの謎が残っています。
また仏教に即身仏という瞑想しながら絶命することでミイラとなり、人々を救う教えが存在します。
朝廷内の争いや武家同士の争いが絶えない動乱の世を冷静にみつめ、奥州を統治していた秀衡は、今後も藤原家の繁栄を願いミイラとなり見守ることを決めていたのかも知れません。
源義経との関係は?
藤原秀衡と源義経との関係について。
源義経は、牛若丸と名乗る幼少期と、兄・源頼朝と対立したときの2度にわたり、秀衡の元に訪れています。
「平治の乱」で、父・源義朝が平清盛に殺されると、義経はお坊さんとなるために寺に預けられたのでした。
しかし父の無念を晴らそうと誓い、武士として生きるために、寺を出て秀衡を訪ねます。
我が子のように愛情を注ぎ成長を見守りますが、兄である頼朝が打倒平氏を掲げ兵をあげると、一緒に戦う為に秀衡の元を去ります。
その後、平氏滅亡へと大活躍し朝廷から位を貰うなど武士として功績が認められると、今度は兄の頼朝と対立し命を狙われるのでした。
その時にまた義経は秀衡を頼ります。義経は父の姿を知らずに育ったために、秀衡を実の父のように慕っていたようです。
平清盛との関係は?
平清盛との関係について。
平清盛は、各地で平氏に対する打倒平氏の不満の声が聞こえると、源氏の力を恐れ、平氏滅亡を避けるために、藤原秀衡に頼朝を倒すように願い出ています。
しかし、平氏源氏の敵味方にはならずに、中立を保っていました。
東北で独自の文化を築き上げていた秀衡率いる奥州藤原氏の軍事力や財政力は、思うままに政治を取り仕切った平清盛でさえも、魅力的で頼りにするほどの絶大な力を誇る存在だっと言えます。
まとめ
ということで、
藤原秀衡を5分で!なぜミイラにした?源義経、平清盛との関係は?でした。
藤原秀衡をかんたんに語るポイントは、
・奥州藤原氏の最盛期を築いた
・なぜミイラになったかは未だ謎のままだった
・逃げ延びてきた源義経を2度も手厚く保護した
・清盛に厚い信頼を寄せられ頼朝を倒すように命じられた
・平氏源氏の敵味方にならずに中立を保った
https://all.hokanko.jp/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A0%82%E3%81%AB%E7%9C%A0%E3%82%8B%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E5%9B%9B%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B 【平泉金色堂に眠る藤原氏四代のミイラの謎に迫る】より
はじめに
世界遺産平泉の中尊寺金色堂。そこに眠る3体のミイラと1体の首級。
平安時代末期、約100年にわたり栄華を極めた奥州平泉。その象徴的な建物が、金色に輝く中尊寺金色堂でしょう。
この金色堂の須弥壇には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体が安置されています。そして、奥州藤原氏四代当主である泰衡の首級も安置されています。
このミイラには多くの謎があり、未だその謎は解明されていません。
今日は、この謎に迫りたいと思います。もちろん、謎の解明はムリなので、管理人の独自の分析を書きたいと思います。
1950年の学術調査
金色堂に眠る三体のミイラと一体の首級。これには以前から多くの謎がありました。
しかし、その謎は学術調査により解決されました、と書きたいところですが、まったく解決していないのです。学術調査が行われたのが昭和25年(1950年)なので、当時の科学的な調査は現代から見れば決して高くはない。しかし、調査に参加したメンバーは当時の最高レベルの学者たちで、これは、現代から見ても決して引けをとらない。そうそうたるメンバーにより調査がなされました。
1950年に朝日新聞文化事業団による学術調査が実施された。調査は朝比奈貞一(理学博士)を団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男、ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎、地元岩手県の郷土史における先駆者として知られた社会経済史学者の森嘉兵衛などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影を含む科学的な調査が実施された。調査の結果は『中尊寺と藤原四代』という報告書にまとめられている。
中尊寺金色堂、Wikipedia
この学者チームでさえ解き明かせなかった謎があります。金色堂に眠るミイラの謎とは何なのでしょうか。
金色堂学術調査の経緯
中尊寺金色堂に眠る四体のミイラ。今では誰もが知っていることですが、実際は、昭和25年まで誰も知らなかったのです。
金色堂に奥州藤原氏のミイラが安置されていることは中尊寺の極秘事項でした。戦後直ぐの昭和25年に学術調査で金色堂の須弥壇の下に安置されているお棺が開かれるまで、ミイラになった藤原氏の遺体があることなど当時の人は誰も知らなかったのです。
確かに、噂としてはあったようですが、当時の学者たちはそれを誰も信じていなかったのです。江戸時代にミイラを観たという記録(『奥羽観蹟聞老志』6) 1719年完成の仙台藩地誌)、『平泉雑記』(相原友直著)1699年頃があるものの、その信憑性は大いに疑われており、それに関心を示す者など誰もいなかったのです。
学者先生はなぜ、「そんなものあるはずがない」と考えたのでしょうか。
それは、高温多湿な日本にミイラ化した遺体など残っているはずかない、という”当たり前”の発想です。即身成仏した僧侶の遺体がミイラ化されている事例はあるものの、それは、通常とは全くことなる亡くなり方をしたからです。断食により、身体から脂肪分を極度にそぎ落とし、断食により骨と皮ばかりになっていた僧侶がミイラ化することはあるでしょうが、通常の生活をしていた人がミイラ化する。それも、三体揃ってミイラ化するなど常識的に考えてあり得ないことだったからです。
もし、そんなこともあり得るかも知れないという仮説を立てるなら、そのようなミイラの存在を示す必要がある。これまで、数百万人もの日本人が死亡しているのに、ミイラ化した遺体の発見は、特殊な例を除いて皆無である。
ところが、昭和24年、中尊寺は金色堂内に藤原三代および秀衡の息子の 忠衡 の首が実在することを公表します。中尊寺の意図は、金色堂とそこに祀られている藤原氏のご遺体の永久保存にありました。金色堂、それを覆う覆堂、そして、四体のミイラの状態が危機的状況にあると危惧を抱いた上での公表だったと考えられます。
これに目を付けたのが、朝日新聞社でした。朝日新聞社は、まさにこの年(1949年)、周年事業(70周年)として、「朝日新聞文化事業団」を設立しました。この事業団の目玉となる最初のビッグプロジェクトがこの金色堂に眠る奥州藤原氏三代(プラス1代)の遺体の学術調査となります。
事業団からの打診を受け入れた中尊寺は、共同で、遺体の保存処置のための開棺調査を行うことになります。
金色堂に眠るミイラの謎とは?
金色堂のミイラの謎は、主に次のようなものです。
なぜ、ミイラになったのか? 人工的にミイラとしたのか自然とミイラ化したのか?
首は誰のものか? 忠衡か泰衡か?
そもそも、なぜ、ミイラが金色堂に埋葬されているのか?
金色堂のミイラにまつわる謎はだいたいこんな所ではないでしょうか。
調査団のメンバーだった津田左右吉氏は以下の五点を疑問としてあげています。
「中尊寺のミイラについての諸問題」最終報告、津田左右吉、1955
1. 遺体の同定について
2. 藤原四代の遺体は自然ミイラか人工ミイラか
3. 奥州藤原氏の出自
4. エミシの人種的系統
5. 藤原四代の遺体にみられる「貴族化」現象
なぜ、ミイラになったのか? 人工的?、自然?
1950年(昭和25年)3月22日~31日、中尊寺と朝日新聞文化事業団によって、中尊寺金色堂の須弥壇の棺が開かれ、奥州藤原氏四代のミイラ化した遺体に対する学術調査が行われました。
まず、この年代に着目頂きたい。戦後、わずか5年しか経っていません。当時の日本は進駐軍の支配下にありました。
1951年(昭和26年)9月8日、日本政府は「サンフランシスコ講和条約」(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書上では正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、その講和条約の発効日まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。
連合国軍占領下の日本、Wikipedia
現代から見ると、「何でそんな時期に?」と思いますが、文化財の消失が相次いだ時期でもありました。むしろ、この時の調査があったからこそ、現在、我々が金色堂を見ることができると言えるかも知れません。この調査が行われるまで、金色堂にミイラが安置されていることは中尊寺の極秘事項だったようです。
もし、この調査がなかったなら、金色堂が修復されることはなかったでしょう。膨大な国家予算を使い、金色堂を甦らせるという国家プロジェクトもなかったでしょう。現在では金色堂の復元は不可能なのです。技術者がもういないので。
金色堂にある三つの須弥壇の中から、三体のミイラと一体の首級が見つかりました。
三体のミイラは、中尊寺に伝わる伝承では、中央が初代清衡、向かって右奥が二代基衡、向かって左奧が三代秀衡とされてきました。しかし、この学術調査の結果、これが覆ります。向かって右奥が三代秀衡、向かって左奧が二代基衡という結論に到ったのです。
その根拠は?
実は、これがよく分からない。万人が納得できる説明になっていない。そこで、少し詳しく見ていくことにしましょう。
「建築学的にみると中央、向かって左、同右の順(につくられた)と思われるという。この点について石田茂作は建築様式から、毛利登は棺内の遺品から、長谷部言人氏は遺体の状況から考察を加え、須弥壇に向かって左が基衡壇、右が秀衡壇であろうと推測している。」
遺体の同定について、5), p.13参照
秀衡の遺体とされるもの
Image: 秀衡とされる遺体。金色に輝く内外金箔貼りの棺が異彩を放つ。
昭和25年の学術調査とその検証
昭和25年に行われた学術調査の参加者は誰だったのでしょうか。調査結果は報告書にまとめられています。それを見ると、メンバーが分かります。
藤原四代遺体の科学的研究の意義(柴田雄次)[東京都立大学]
遺体に関する諸問題(長谷部言人)[東北大学]
遺体の人類学的観察(鈴木 尚)[東京大学]
藤原四代の血液型・指紋・歯(古畑種基)[東京大学]
レントゲン学的にみた藤原四代(足澤三之介)[岩手医科大学]
藤原四代の遺体と微生物(大槻虎男)[お茶ノ水女子大学]
中尊寺のミイラとともにあった植物のタネ(大賀一郎)[関東学院大学]
鼠害と虫害について(森 八郎)[慶応大学]
理化学的調査(朝比奈貞一)[国立科学博物館]
遺体の保存処置についての一考察(櫻井高景)[東京大学]
金色堂の設計と遺体の安置(石田茂作)[国立博物館]
副葬品について(毛利 登)[国立博物館]
平泉の文化と中尊寺(津田左右吉)
奥州藤原氏と蝦夷の文化(田澤金吾)[国立博物館]
中尊寺遺体の文献的考證(森 嘉兵衛)[岩手大学]
北方の王者(大佛次郎)[作家]
報告書執筆者のことを少し詳しく調べましょう。出身大学と調査時点での年齢が分かると、調査団の力関係を推測することができます。
報告書執筆者の生没年・調査時年齢・調査時肩書き・専門・出身大学
柴田雄次(1882年1月28日 – 1980年1月28日)【調査時点】68歳、東京都立大学初代総長(東京帝国大学理学部教授、東京大学名誉教授、東京帝国大学卒)
長谷部言人(1882年6月10日 – 1969年12月3日)【調査時点】67歳、東北大名誉教授、人類学者、解剖学者(東大理学部教授、東京帝国大学卒)
鈴木 尚(1912年3月24日 – 2004年10月1日)【調査時点】36歳、東京大学理学部助教授(長谷部言人グループ)
古畑種基(1891年6月15日 – 1975年5月6日)【調査時点】58歳、東京大学医学部教授(東京帝国大学(医科))
足澤三之介(1907年- ?)【調査時点】43歳、岩手医科大学放射線科教授(レントゲン撮影・解析)(東京帝国大学医学部卒)
大槻虎男、(1902年11月1日 – 1995年1月18日)【調査時点】47歳、お茶の水女子大学教授、微生物学者,植物生化学者(東京帝大理学部植物学科卒)
大賀一郎(1883年4月28日 – 1965年6月15日)【調査時点】66歳、関東学院大学、植物学(東京帝国大学理学部卒)
森 八郎(1911年5月7日 – 1988.7.1)【調査時点】38歳、慶應義塾工学部助教授、害虫学(東京帝国大学農学部卒)
朝比奈貞一(1901 – 1978)【調査時点】48歳、団長、国立科学博物館職員 、生物学(東京帝国大学化学科卒)
櫻井高景(1916 ? – ?)【調査時点】33歳、東京大学農学部林学科助教授、合成樹脂(東京帝国大学工学部応用化学科卒)
石田茂作(1894年11月10日 – 1977年8月10日)【調査時点】55歳、東京国立博物館陳列課長、仏教考古学(東京高等師範学校卒)
毛利 登(1902年12月14日 – 1987年1月20日)【調査時点】47歳、東京国立文化財研究所修理技術研究室長、美術史(東京美術学校卒)
津田左右吉(1873年10月3日 – 1961年12月4日)【調査時点】76歳、???、東洋史学(東京専門学校卒)
田澤金吾(1892年1月12日 – 1952年9月26日)【調査時点】58歳、国立博物館調査課:文化財専門審議会専門委員(早稲田大学理工学科)
森 嘉兵衛(1903年6月15日 – 1981年4月8日)【調査時点】46歳、岩手大学教授、歴史学(法政大学経済学部)
大佛次郎(1897年10月9日 – 1973年4月30日)【調査時点】52歳、歴史小説・ノンフィクション作家(東京帝国大学法学部政治学科)
注)生年?は卒業年より推定したもの。
ここで着目すべきは、遺体の鑑定を行ったのは誰? ということです。なんと、鈴木尚先生じゃありませんか。まさか、ここで再びお名前を拝見するとは思ってもいなかったので感激です!
藤原氏四代の遺体を人類学的に調査したのは、東京大学理学部人類学教室助教授(当時)の鈴木尚氏でした。
鈴木尚って誰よ? えっ、知らないの? 和宮様のお墓を掘り返して、遺体の鑑定を行った東大の先生ですよ。本サイトでもご紹介しています。
この金色堂学術調査は、東大学閥で固められたメンバー構成のようです。上のリストを見ると、確かにほとんどの先生方が東大出身者です。それ自体は悪いことではないのですが、問題となるのは、結論が一人の有力者(権威者)によって左右されてしまう恐れがあること。鈴木尚氏は長谷部言人氏のグループに所属する研究者だったようです。
須弥壇の左右に埋葬されている遺体が誰のものかという重要な判定を、明確な根拠を示すことなく、伝承とは逆の判定にしてしまった。これは、この分野の専門家が指摘していることで、素人の歴史家の指摘ではありません。
そこで、これについて掘り下げて調べてみました。
そもそも中尊寺に伝わる伝承とは何なのでしょうか。その出典は?
これは、明確に確認できます。
鎌倉時代後期(14世紀初頭)に書かれたと考えられている「中尊寺経蔵文書」に「金色堂は三間四面、中檀は阿弥陀の三尊、清衡の建立なり、左の檀は基衡の建立なり、右の檀は本尊同じ、秀衡の建立なり」という記述があります。問題は、左の壇、右の壇とは、どこから見てのことなのか。この答えは明確で、「本尊から見て」と考えるというものです。
左大臣・右大臣の並び方も、下々の者から見ての右左ではなく、天皇から見てという視点です。このため、「中尊寺経蔵文書」の記述は、拝観する人から見てではなく、本尊から見てという解釈が用いられました。これは、平安時代末期から鎌倉時代という時代背景を考えれば妥当な推論と言えるものでした。しかし、調査により、これが覆ります。
この時のメンバーは既に鬼籍に入られているのですが、調査に参加したF氏のご遺族の話として、「M博士のツルの一声で決まった」と生前、F氏が話していたそうです。3)
メンバーリストを見ると、F氏とは古畑氏でしょう。すると、M博士とは一体誰なのか。Mのイニシャルになる名字を持つのは、毛利登、森八郎、森嘉兵衛のお三方がいます。「博士」のタイトルを持っているのは、森八郎氏(農学博士1952)と森嘉兵衛氏(経済学1951)ですが、学術調査時点(1950年)では博士号を持っていませんね。職歴や年齢から考えると、M氏とは、文部省から技官として派遣された毛利登氏のことではないかと思います。
古畑氏は調査結果・報告書の記述に不満だったようですが、管理人から見ると、古畑氏が主張した人工ミイラ説の方がおかしいと感じます。
まあ、ツルの一声も結果が間違っていなければ、結果オーライなのですが、本当のところはどうなのでしょうか。
大体が、ここら辺までの情報はネットで調べれば簡単に見つかります。Wikipediaでさえ、「上述の診断結果と合致しないことから、遺体に関しては所伝どおり左壇 = 基衡、右壇 = 秀衡とする見方もある」と書いてあります。
今から70年も前の報告書を根拠に話を進めるのはいかがなものかと思います。実は、この問題はとっくに解決しているのです。Wikipediaの執筆者が勉強不足ということでしょう。
1950年の調査の際、遺体に固着した絹をはがしたものや、棺の内貼り、枕などの絹製品が保存されています。三つの棺の中にあった絹の13C固体高分解能NMRスペクトルを調べた結果、学術調査団の結論は誤りで、伝承の方が正しかったという結論が得られています。 3)
これは2007年の論文(寄稿文?)に書かれているのですが、とても面白い文章になっています。
執筆者の中條利一郎氏は、東京工業大学名誉教授・帝京科学大学名誉教授・中国科学院化学研究所名誉教授・東京文化財研究所客員研究員。東京工業大学の教授を長く勤められた方のようです。高分子物理学の専門家です。
文字で説明されてもよく分からない。そこで金色堂の内陣配置図を作ってみました。中尊寺が公開している配置図に基づいています。
方位磁石を入れてみました。これを見ると、南西壇、北西壇と書かれても、意味不明なことが分かると思います。
中尊寺が公表している図では、このような配置になっています。
三つの須弥壇のうち、中央は中央壇であり初代清衡を安置。
向かって左奥(仏像から見て右)は西南壇であり二代基衡を安置。
向かって右奥(仏像から見て左)は西北壇であり三代秀衡と四代泰衡の首を安置。
中尊寺では、共同で行った学術調査の結果を尊重し、報告書記載のままの配置になっています。
この図を作っていて不思議に思ったこと。それは、三つの須弥壇の上に鎮座する三体の阿弥陀如来は、いったいどこを見ているのか、ということです。方角としては南南西です。阿弥陀如来たちの視線の先にあるのは、何なのでしょうか。
暇な方は考えてみて下さい。
ついでに書きますが、この調査は、朝日新聞文化事業団がスポンサーになっているようです。この事業団は、調査の前年、1949年に朝日新聞社の周年事業(70周年)の一環で設立されたもののようです。
この調査に参加したメンバーの多様性、専門性を見ると、改めて朝日新聞社の本気度を感じます。
中尊寺側の思惑は、金色堂と四体のミイラの永久保存にありました。中尊寺が寺に伝わる伝承とは違う遺体の配置を受け入れたのも、国による金色堂修復事業につなげるために、文部官僚を味方に付けたかったのかも知れません。
四人のミイラ化した遺体からは、何かの薬物を塗った形跡も内蔵を取り出した跡も見出せません。調査メンバーの意見が分かれます。やはり、自然にミイラになったとする方が矛盾が少ない、という考えが優勢だったようです。
しかし、四体揃ってミイラ化している謎については誰も触れたがらない。仮説すら思いつかなかったということでしょう。
金箔と『ふるや紙』
現在、日本で金箔が作られているのは金沢です。なんとそのシェアは98%というからオドロキです。では、金沢の金箔はいつの時代から作られ始めたのでしょうか。これが分からないらしい。「加賀藩初代藩主・前田利家が、文禄2年(1593)に豊臣秀吉の朝鮮の役の陣中より、明の使節団の出迎え役を申し渡され、武者揃えの槍(やり)などを飾るため、領地の加賀、能登で金箔、銀箔の製造を命じる書を寄せているのが始まりとされています。」と「箔一」という金箔会社のHPに書かれています。
中尊寺金色堂に使われている膨大な量の金箔はどこから来たのでしょうか。誰が作ったのでしょうか。
その原材料である砂金には事欠かない奥州藤原氏。当然、領内で作ったものと考えられます。その作り方は金沢に伝わったものと同じでしょう。金箔の作り方には選択肢が一つしかありません。それは、1000分の1ミリまで延ばした箔をさらに1万分の1ミリまで延ばす箔打ちの作業。金を和紙ではさみ、それを何枚も重ねたものを金槌を使って上からたたいて延ばす。
金箔を大量に作るには、金箔を挟む特殊な和紙も大量に必要になります。この和紙のことを『ふるや紙』と言います。祇園の舞妓さんが、お化粧直しに具合がとても良いと広まった あぶらとり紙 のことです。 2)
この金箔製造の副産物である『ふるや紙』は平泉ではどうなったのでしょうか。金を延ばす過程で紙の繊維はボロボロに切断されてしまうため、再生紙としては使えないように思います。
管理人は、 この『ふるや紙』が遺体を入れる金箔貼りのお棺の中に詰められていたのではないかと考えています。
最初は、金箔貼りのお棺による防虫・殺菌作用があるのかと思ったのですが、その機能はむしろ、金箔の下地として塗られた漆にあるようです。
ミイラが自然にできたと主張する場合の最大の問題は、遺体の背中が綺麗だったことでした。自然にミイラ化したのであれば、内蔵が溶解して蒸発する段階で、背中の部分が破れたり、腐敗が進行すると考えられるからです。しかし、背中は綺麗だった。では、遺体からしみ出る水分と油分(脂肪)はどうなったのか。この状況を説明するには、紙おむつのように、たっぷり吸収、表面さらさらという素材が遺体の下に敷きつめられている必要があります。
遺体がミイラ化するためには、腐敗を遅らせ乾燥させるために水分と油分を吸収し取り除く必要があります。これに『ふるや紙』はうってつけの素材だったのではないでしょうか。水分を吸着する素材はいくつかありますが、油分があると話は別です。界面活性剤でも使わないと油分をはじいてしまうからです。
「あぶらとり紙」に使われるほど親油性の高い『ふるや紙』のような素材は、当時入手可能な素材の中ではちょっと思いつきません。
この謎が解けると、「泰衡の首」がミイラ化している謎が解けるのです。
実は、これが最大の謎と管理人は考えています。
文治5年9月3日(1189年10月21日)、藤原泰衡は比内郡贄柵で郎従の河田次郎に殺害されました。泰衡の首級は6日、陣岡に布陣していた頼朝の元へ届けられます。届けられ首級は、首実検の後でさらし首にされます。さらされていた期間は不明ですが、二、三日ということはないでしょう。少なくとも五日以上。
そもそもなぜ首をさらすのか。その答えは、祟りが怖いから。首を公衆の面前にさらすことで、たくさんの人が首の前を通るため、「首になった人」は誰を恨んだらよいかが分からなくなる。だから、一定期間、たくさんの人の前に首をさらしておく必要があったようです。
誰を恨んだらよいか分からないほど多くの人々を見た首は、もう用済みです。弔いたいと申し出る人に払い下げ。
ここで問題なのが、たぶん、一週間あまり、野外にさらされていた首の状態です。季節は10月の末。東北の冬は直ぐそこまで来ています。首が腐るとまではいかなくても、腐敗が始まっていたと考えられます。
その後、払い下げられた首級は、刀で切られた顔を縫い合わせ、秘密裏に金色堂の秀衡の棺の中に納められました。
通常であれば、泰衡の首級はそのまま腐り、頭蓋骨だけになっているはずです。ところが、首級は屍蝋化していました。このことから、棺にミイラ化を促進する何らかの機能が備わっているのではないかと考えられます。
最初は棺に貼られていた金箔を疑ったのですが、金は安定元素で、人畜無害。ご承知の通り、人間が金箔を食べてもそのまま排出されます。すると、金箔の下地となる漆にその効果があるのではないかと考えました。
漆は抗菌効果に優れた素材であり、古くから食品を保存する容器などにも使われてきました。それが漆塗りの重箱です。冷蔵庫も保存料・保存剤もない時代、漆塗りの重箱に食べ物を入れることで腐敗を防ぐことができる、ということを誰もが知っていました。
漆による抗菌作用により、腐敗の程度を遅らせることは可能です。次に問題となるのは、人体に大量に含まれる水分と油分をどうするのかということです。これらをできるだけ速く除去しなければ、いずれは腐敗することを避けることはできません。そこで登場するのが、金箔製造の副産物である『ふるや紙』の存在です。
箔打ちの過程で数万回と叩かれた和紙の繊維はズタズタに切断されており、水分でも油でも強力に吸着できる性質を持つようになる。遺体からしみ出る体液を吸収するために、これがお棺の中に詰められていたのではないでしょうか。
紙なので、800年の間に消えてなくなっても不思議ではありません。石灰を入れたのなら、お棺の中にそれが大量に見つかるはずです。遺体を一定期間乾燥処理してから金色堂に埋葬・安置したのではないかと、仏教伝来以前の殯(もがり)の風習を引き合いに出す人もいますが、それでは、泰衡の首のミイラ化は説明できません。
土の中に埋葬するのであればそのような心配は不要ですが、金色堂の須弥壇の下に棺が置かれる埋葬方式では、遺体に防腐処理が不可欠です。そうでなければ、強烈な腐敗臭と大量に発生するハエ、ウジ虫に悩まされることになります。そのような状況は、金色堂に遺体を安置するという方式を採用する時点でだれでもが考えること。
ミイラが自然にできたか人工的だったかを議論すること自体がナンセンスです。防腐処理をするのは当たり前。それをどうやったのかを考えるべき。そして、その答えは、既に述べた通りです。
ミイラが自然にできるわけがありません。金色堂のミイラが自然状態で四体揃ってミイラ化など、ギネスブックに登録できる快挙です。
ミイラ化するために遺体の臓器を取り除くなど、エジプトのミイラづくりから発想を得た稚拙な見解に過ぎません。
どちらの説も堂々巡りの議論に終始しています。まったくもって、問題外の着眼点という気がします。たぶん、誰もまじめに考えていないのです。歴史の謎って、そんなことだらけのような気がします。
文献至上主義者の落とし穴
調査報告書に記載があるからといって、それが調査結果を正確に反映しているとは限らない。その具体的な事例をご紹介します。
秀衡の首について、調査報告書には「円形2ミリほどの穴があり、太い鉄釘が眉間から打ち込まれている」と記載があります。しかし、これは誤植で、22ミリが正しいそうです。そう述べているのは、遺体のレントゲン撮影を担当した足澤三之介岩手医科大学教授の息子さんである開業医の足澤輝夫医師。
Image: 藤原泰衡の首級
一度発表された報告書は、もし、誤記、誤植が見つかっても、執筆者はどうしようもありません。その訂正が可能なのは、本が再販される場合でしょうが、報告書の場合、これはあり得ない。正誤表が添付されるのは、あくまでも出版前に見つかった誤記・誤植でしょう。
後年の歴史研究者は報告書の記述が正しいという前提で話を進めますが、まさか、肝心の数値の部分が誤植だとは夢にも思わないでしょう。しかし、このようなことはよくあることだと、管理人は考えます。報告書の執筆者、あるいは、執筆者が亡くなっている場合には遺族などの意見も収集しておく必要がありそうです。文献至上主義の落とし穴です。
管理人が困ったのは、以前和宮の記事を書くために、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』 鈴木尚・矢島恭介・山辺知行、東京大学出版会、1997.12、を読んだときのことでした。誤植のあまりの多さに読むのが嫌になるほど。東京大学出版会って、誤植のチェックをしていないのではないかと思えてきます。
1958年から1960年にかけて増上寺の徳川家墓地が発掘調査されました。和宮の墓地もこの時、発掘されています。しかし、この時の調査報告書が刊行されたのは、1967年12月25日になってからでした。調査が終了してから7年もの間、報告書が刊行されることはなかったのです。
金色堂の場合も同様です。学術調査が行われたのは、1950年(昭和25年)3月22日~31日のこと。この半年後には、『中尊寺と藤原四代 中尊寺学術調査報告』(朝日新聞社編、1950.8.30)が刊行されます。これはいくら何でも速すぎる(早すぎる?)。調査結果を分析している暇などないでしょう。
しかし、最終報告書である『中尊寺御遺体学術調査 最終報告 中尊寺編』(1994.7)が刊行されたのは、40年後の1994年になってからでした。
当然、調査に参加された多くの先生方は、鬼籍に入られています。あまりにも遅すぎる最終報告書の刊行と言わざるを得ません。誤記を訂正できる人も誤植を指摘する人もいなくなってしまいました。
おわりに
すみません! いつものことですが、執筆途中で記事をアップします。記事はまだまだ続くのですが、それを待っていると、書いている方が飽きてしまう(笑)。
とりあえず版でアップします。いつものように、この記述が消えたときが最終稿です。完全なる未定稿でのアップです(このサイトの特色になってしまいました)。
このように書きながら、放置している記事も散見されますが(汗)。
要は、このまま書き続けるかどうかの管理人のモチベーションを維持するための途中段階でのアップということです。これまでにかなりの時間を費やしており、これ以上、どの程度時間を割けばよいのかという判断材料が、記事に対するアクセス数です。誰も読まない記事に時間をかけても、モチベーションは下がる一方です。
この記事は、管理人が書きたい「義経北紀行伝説」の前段の部分です。ここにあまり時間をかけたくないので、簡単に書いています。
【出典】
1) 「【開棺】中尊寺金色堂学術調査65周年語り【調査】~第四夜~ 泰衡の首と蓮の話」、togetter
2) 「ふるや紙とは」、ユタカ株式会社
3) 「文化財と高分子科学 -中尊寺の遺体で使われている絹を例に-」、中條利一郎、高分子56巻8月号(2007年)pp.603-607
4) 「泰衡の頭には22ミリの穴 レントゲン調査で分かった藤原4代 足澤医師が講演」、盛岡タイムス、平成22年9月20日
5) 「再考・奥州藤原氏四代の遺体」、埴原和郎、日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 13, 11-33,1996-03-31
6) 『奥羽観蹟聞老志』:国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。ただし、どの巻に書かれているかは不明。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1445115324?__ysp=5aWl5bee6Jek5Y6f5rCPIOODn%2BOCpOODqSDjgarjgZw%3D 【Yahoo 知恵袋】より
aki********さん
奥州藤原氏のミイラについて
なぜミイラとして残っているのか気になります
意見・考え等お願いします
ひざの上の猫がByakuです。さん
昭和25年の学術調査では、清衡と秀衡のミイラには内臓摘出痕が発見されています。二代基衡のものは損傷があって発見できなかったようです。それが清衡は肛門をくり抜くような形で、秀衡は下腹部を切る形のものであったために後世に施したものとは思えず、明らかに両者では施術の時代が異なる。つまり死後早い時代での処置であったろう。と推測されています。
死体の内臓摘出は明らかに腐敗防止が目的と思われるので、人為的なミイラ作りが行われたものとされています。
民俗学的に見ると、北方民族の一部にそうした葬送の儀式を行っていたと思われる部族もあるので、藤原氏という地方民族にそうした風習があったのではないか?とされています。
棺は防腐効果の高いヒバ材であったり、漆による密封がされたりしたことも残った要因とされています。
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