武蔵坊弁慶

https://senjp.com/benkei/ 【弁慶とは~武蔵坊弁慶の逸話や最後の地となった衣川の戦いと弁慶の墓など】 より

武蔵坊弁慶(むさしぼう-べんけい)は熊野別当・湛増の子で、紀伊国出身ともされますが、生年も不詳で出自や生い立ちはよく分かっていません。

幼名は鬼若ともされます。

京で育ち比叡山に入った鬼若(弁慶)でしたが、修行にも身が入らず乱暴ばかり働いていたので、追い出されたとされます。

そして、自ら剃髪すると「武蔵坊弁慶」と称して、四国に渡りますが乱暴を繰り返し、のち、播磨の書写山圓教寺では堂塔を火災に合わせてしまったと言います。

そして、怪力無双を試すべく、弁慶は千本の太刀を奪おうと決意し、京に戻ります。

道を通る武者を襲っては太刀を奪い、その数は999本となり、あと1本で目標の1000本と言う所まできました。

最後の1本を奪うべく五条大橋で待ち受けている所に、笛を吹きながら歩いてきた源義経がやって来たため、弁慶は襲撃します。

しかし、源義経(牛若丸)は、欄干を飛び交うなど、身軽な身のこなしで避けると、弁慶を返り討ちしました。

この源義経に降参した弁慶は、それ以来、源義経の家来となったと言うのが、伝説な訳ですが、もちろん後世に作られた創作と言って良いでしょう。

実際に、どのような経緯で源義経の家来になったのか?は、不明と言えますが、武蔵坊弁慶は7歳~17歳の10年間、書写山で修行したとされています。

武蔵坊と言うからには、どこぞやの寺にあった宿舎「武蔵坊」で生活(修行)していたと言う事になりますが、比叡山西塔の武蔵坊にいたとする説もあります。

下記は書写山・圓教寺にある「弁慶の鏡池」です。

いたずら書きをされた顔が映ったことから、弁慶が激怒したと伝わります。

弁慶の鏡井戸

下記は同じく、書写山円教寺にある護法石と言い、弁慶のお手玉石とも呼ばれています。

護法石(弁慶のお手玉石)

そして、弁慶は荒法師でありながら、忠臣としてその生涯を源義経に捧げたのです。

弁慶と源義経の像

平家討伐では功名を立て、源義経が兄・源頼朝と対立すると、鎌倉・腰越にある満福寺から京を落ちるのにも同行しますが、この時にも、山伏に姿を変えると言う弁慶の智謀と怪力で、源義経一行を助けました。

奥州へ逃れる際、加賀の安宅の関では、山伏に扮しているところを番人・富樫左衛門に見破られます。

山伏の証明でもある「勧進帳を出せ」と言われため、弁慶は持ち合わせの巻物を広げて、朗朗と読み上げました。

難なく切り抜けられそうでしたが、富樫左衛門の部下が、傘で顔を塞いでいる者が、源義経に似ていると言いだします。

疑われた源義経を、弁慶は自らの金剛杖で「「お前が義経に似ているために、あらぬ疑いをかけられてしまったではないか」と、何度も何度も打ち据えました。

富樫左衛門は主人を痛めてでもと言う、弁慶の心情に感じ入り、騙された振りをして源義経の一行の通行を許したとされます。

そして、無事に関を越えた弁慶は、心ならずも主を殴ったことを泣きながら謝罪したと言います。

奥州にたどり着いた源義経の一行は、衣川館(高館)に屋敷を与えられました。

平穏無事に過ごせると思ったのも束の間で、源義経を迎え入れた藤原秀衡が死去すると、後を継いだ藤原泰衡は鎌倉幕府から「源義経を捕縛せよ」との圧力に耐え兼ねられなくなります。

衣川の戦い

1189年閏4月30日、再三の鎌倉の圧力に屈した藤原泰衡は、照井太郎ら500騎にて、衣川館(高館)を襲撃しました。

迎え撃ったのは、源義経の主従である武蔵坊弁慶、鈴木重家、亀井重清らがわずか10数騎であり、多勢に無勢・・。

弁慶は、源義経が籠った堂の入口に立って薙刀を振るって防戦し、無数の矢を受けて立ったまま絶命したとされ「弁慶の立往生」と語り継がれています。

武蔵坊弁慶

下記は弁慶や源義経の最後の地とされる、平泉・義経堂(衣川館) です。

平泉・義経堂(衣川館)

そして、世界遺産でもある平泉・中尊寺の参道には「弁慶堂」も建立されており、下記のとおり弁慶と源義経の像が奉納されています。

弁慶と源義経の像

その中尊寺の入口手前にある小さな緑地に、弁慶の墓と伝わる石碑があります。

中尊寺のバス停近くです。


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24322980W7A201C1AA2P00/ 【信仰の山に弁慶の伝説 書写山円教寺(もっと関西)】より

天台宗の別格本山で「西の比叡山」とも呼ばれる円教寺(えんぎょうじ、兵庫県姫路市)は、書写山(371メートル)の山上にある。紅葉の名所でもあり、秋には多くの観光客でにぎわう。歴史ある寺には様々な伝説が残るが、源義経の従者、武蔵坊弁慶が少年時代に修行したというのもその1つだ。

室町期の大講堂

ロープウエーを降り山道を登ること15分あまり、紅葉に彩られた摩尼(まに)殿が現れる。舞台造りの建物はこの地にあった桜の生木に観音像を刻んで本尊としたため、と伝わる。本尊は室町時代の火災で焼失。建物も度々の火災で焼失し、現在のものは1933年に再建された。

本堂にあたるのは、さらに5分ほど歩いた山上の大講堂だ。室町中期の建築で、食堂(じきどう)、常行堂と「コの字形」に並ぶ様子から「三之堂(みつのどう)」と呼ばれている。歴史を経た木造建築独特の重厚感の中に、どこか柔らかい印象がある。総務部長の金子峻祐さんは「柱の面とりを広くしているから」と説明する。

円教寺は966年、平安時代の僧、性空(しょうくう)によって創建された。書写山は素戔嗚尊(すさのおのみこと)が山頂に降り立って1泊したという伝説があり、古くから信仰の対象とされていた。山の名も「素戔(すさ)ノ杣(そま)」に由来するという。皇族や貴族の信仰があつく、986年に来山した花山法皇は「円教寺」の名を与えて大講堂を造立した。

弁慶の少年時代の言い伝えが残る井戸

寺が最も栄えたのは鎌倉から室町時代。最盛期には2万7千石もの領地をもち、千人規模の修行僧を抱えた。境内に200ほどの小院や別院など塔頭(たっちゅう)があったといい、金子峻祐総務部長は「山の平らなところはほとんど塔頭だった。現在のように木々が茂る山の様子とはだいぶん違っていただろう」と話す。

状況が大きく変わったのは戦国末期。豊臣秀吉による播州攻めの際、見晴らしがよく兵糧の調達にも都合がよいからと、円教寺に本陣が置かれた。秀吉は僧侶たちを山から追い出し、のちに領地を没収。江戸時代に800石までは取り戻したものの、かつてのような繁栄はなかった。

「鏡井戸」の逸話

弁慶が使ったと伝わる机があるのは、1階部分が写経道場、2階が展示館となっている食堂だ。

丸太を荒く削ったような長さ2メートルほどの机はいかにも重たそうで、弁慶ほどの怪力でないと持ち運べないだろう。弁慶の伝説は各地にあるが、ゆかりの品は珍しい。2011年に国立文楽劇場(大阪市)で「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」を上演した際には、同劇場の展示スペースに貸し出されたそうだ。

大講堂と食堂の間にあるのは「弁慶の鏡井戸」で、弁慶が顔を洗ったとされる。源義経の主従を描いた「義経記」によると、昼寝をしていた間に顔に落書きをされた弁慶が寺の小坊師らの笑いものにされる。「鏡井戸」に映った自分の顔を見て大激怒し、小坊師らとけんかになったことがもとで、大講堂をはじめとする山内の建物が焼き尽くされたという。

暴れ者の弁慶らしい逸話だ。真偽のほどは定かではないものの、書写山周辺は雷が多く、雷で建物が焼けることが度々あったという。摩尼殿や三之堂も焼失した記録が何度かあると伝わっており、金子さんは「こうした事実と弁慶の伝説が組み合わされたのではないか」と話す。

文 大阪・文化担当 小国由美子

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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