http://mitsusima.jugem.jp/?eid=310 【弥生時代・対馬での神功皇后伝説】 より
★神功皇后(170年生~269年)………仲哀天皇(『古事記』『日本書記』に記されている第14代天皇)の皇后。『日本書記』などによれば、201年から269年まで政事を執り行った。200年に夫の仲哀天皇が急死した後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応仁天皇)を妊娠したまま海を渡り、対馬の北端の鰐浦から出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したと言われている(三韓征伐)。……『Wikipedia』より
★三韓征伐(新羅征伐)………『日本書記』で、ヤマト王権の正当性を主張するために倭(九州の王朝)の歴史を自らのものとして記述するために、主人公の神功皇后が行ったとされる新羅出兵物語。
対馬では、神功皇后の実在の可能性が高いとする一つの根拠として、対馬に数多く残る皇后の新羅への出征時および凱旋時の対馬寄港の伝承が、全体の物語の構成としても不自然さがない(リアリティーがある)ことが挙げられています。
★神功皇后の新羅征伐に係わる対馬に関する記述ー1『日本書記』……「冬十月の己亥(きがい)にして辛丑(しんちゅう=3日)に和珥津(☆1・わにつ=鰐浦)より発ちたまふ。時に飛廉風(かぜのかみかぜ)を起し、陽候浪(うみのかみなみ)を労(いたつ)かずして、便ち新羅に至る。…… 」と記述されている。
☆1・和珥津(わにつ)………対馬の北端、上対馬町の鰐浦(わにうら)
対馬の北端の鰐浦に宿泊中、人質とした新羅の奈勿(なもち)王の子、微叱己知(みしこち)が奪還される場面で、「人質とした新羅の奈勿(なもち)王の子、微叱己知(みしこち)と新羅の使者毛麻利叱智(もまりしち)等と神功皇后が見張りとして随行させた葛城龍津彦(かづらきのそつひこ)と共に対馬に至り、鋤海(さひのうみ)の水門(☆2・みなと)に宿る。」
☆2・鋤海(さひのうみ)の水門(みなと)は、鰐浦(対馬北端、上対馬町の鰐浦)と同じ地ではないかと推定されている。
★神功皇后の新羅征伐に係わる対馬に関する記述ー2『対州神社誌』……「神功皇后御征韓の役を終わらせ給い、帰途対馬をよぎらせ給う御時、佐賀(峰町佐賀、対馬中部の東海岸)の浜に八幡を建て給い、木坂山に鰭(ヒレ)神を祭らせ給う」とある。そして「津島紀事…☆2」に「皇后は佐賀の浦に斎庭をしつらえ、三韓出征の折、宗像神から授かった『振波幡』、『切波幡』、『振風幡』、『切風幡』、『豊幡』、『真幡』、『広幡』、『拷幡』の八旌の旌籏と鈴とを浜辺に張り巡らし、捕虜の釈放(放生会の初め)や矛舞など凱旋の祝いを行った。次いで八旒の旗をこの地に蔵し国土守護の『うけひ』をせられた。仁徳天帝癸丑の年に、佐賀八旒(峰町の東海岸)を木坂(峰町の西海岸)に遷して廟主となし、神功皇后となし、神功皇后を奉祭しこの社を一宮と称した。さらに継体帝丁亥の年には、応神天皇以下の神を木坂の伊豆山に奉祀し、この神功・応神両神廟を八幡宮と称えた」とある。
☆2・津島紀事………対馬府中藩士の平山東山(ひらやまとうさん1762~1816)が郡奉行の任にある時、視察のため来島した幕臣士屋帯刀(たてわき)に命じられて対馬の史誌を編修し、幕府に提出したもの。
★神功皇后の新羅征伐に係わる対馬に関する記述ー3『海神神社☆3(対馬市峰町の西海岸)神社明細書』………一宮を木坂伊豆山(対馬市峰町木坂)に奉祀した由緒「神功皇后新羅より還御の時対州面の要害を御船より巡検し給ふ時、木坂山を叡覧ありて、此の山は神霊強き山なり、彼の山頭に鰭神等祭祀し異国降伏祈らんと宣ひ、武内大臣を奉じ、神籬磐境(ひもろぎいわさか)を定め、斎祭り給ふとなり」とある。これは、厳原町の八幡宮(新宮)の清水山由緒に同種の記述がある。
☆3・海神神社(かいじんじんじゃ)………対馬市峰町木坂にある神社。対馬国一宮。社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八旒を峰町に納めたことに由来するという。籏は後に現在地の木坂山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇運烈風が攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。統一新羅時代(8世紀)の銅造如来立像(国の重要文化財)が収蔵されている。
★神功皇后の新羅に係わる対馬に関する記述―4『対州古蹟集』………「神功皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州に留玉ふを廟主とす。其の鈴ニ口宝とす。=〔八旒の旗の内〕ニ口は府〔厳原〕の八幡宮に分置し、ニ口は豊前の宇佐宮に分ち、又ニ口は黒瀬城〔現・金田城(対馬市美津島町)〕に納むと。今、州(対馬の)中に伝もの六口也」と記述されている。
★神功皇后の新羅征伐に係わる記述―5………「仁徳天皇の御宇、異国の賊船数百艘西方海上に顕れた際、木坂(対馬市峰町の西方)の伊豆山の頂より神風が強く吹き起こり、異船ことごとく行方知れずになった」との言い伝えがあるが、後に白髪翁が現れて、「是即ち気長足媛尊(神功皇后)の祭り置せ給ふ国主和多都美の御神霊の為す所よと喜ひて」(海神神社明細書)と、仁徳紀に八幡と鈴が木坂に遷された由縁が分かる。さらに国府(厳原)と黒瀬と宇佐へと鈴と八旒が遷された。これに関連して、現在、八幡宮の総本社とされる宇佐由緒では、欽明天皇三十ニ年に八幡神が現れたとなっている。
0コメント