雄島と芭蕉句碑(松島)

https://blog.goo.ne.jp/tanbo161/e/f6ff994e0c986c1661f3ca04dc131cde 【雄島と芭蕉句碑(松島)】 より

松島の雄島に芭蕉の句碑を訪ねた。

波打浜から島に渡る道は震災に伴う護岸工事中のために閉ざされていて水族館跡側から磯道をくぐって「渡月橋」の袂に着いた。

「渡月橋」は建て替えて間もないようで鮮やかな朱色が島の松と波面に影を写して輝いていた。

この島は全体が修験・霊場だったといわれているように、至る所に岩窟が彫られ、松の林のあちこちに古いお堂や数えきれない程の古い石碑が林立している。

岩畳を登りついた島の中程に「雄島」についての案内板があった。

雄島(御島)は「立ち返りまたも来て見ん松島や雄島のとまや浪にあらすな」(藤原俊成)、 「心ある雄島のあまの袂かな目やどれとはぬれぬものから」(後鳥羽院の宮女源師光の女)と詠まれている松島の歌枕である。

芭蕉が元禄2年(1689)5月、瑞巌寺に詣でた後雄島を訪れている。

「おくの細道」には雄島の印象を「雄島が磯は地つづきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。埒、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂、松笠など打ちけぶりたる草の庵閑に住なし、いかなる人とはしられずながら,先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。」と寄稿している。

芭蕉の句碑は「奥の細道」の標柱を左に下りたところに曽良の句碑と並んで立っていた。

芭蕉の句碑には 芭蕉翁 朝よさを誰まつ志まぞ片心 と彫られていた。

この句は「おくのほそ道」の旅へ出る直前の元禄2年(1689年)の春に詠まれたもので「桃舐集」にある。、句意は「松島に心惹かれるのは朝夕に誰か待っているからか、そうだと嬉しいが 私の片思い」

碑の右脇に「勢州桑名雲裡房門人」、左脇に「延享四(1747)丁卯十月十二日建立」、後に「仙臺冬至菴連 ・・・・」とある。

曽良の句碑には、

この松島での句 松島也鶴に身遠可禮本とゝ幾壽(松島や鶴に身をかれ本ほととぎす) 曽良

      信州諏訪産 同郷 素檗建之  とあった。

句趣「松島の壮麗な景色の中をほととぎすが鳴いて通った、ほととぎすよこの松島には鶴のすがたがふさわしいから鶴の姿になって鳴き渡ってくれ」というもの。

※ 諏訪の俳人藤森素檗が曽良の100回忌を記念して文化6年(1809)に建立したもの

このほか、島には、奥の細道や芭蕉にかかわる碑をはじめ、いろいろな歌碑なども建てられている。

 ◆ 芭蕉翁松島吟並序碑 白文之記

この碑は、寛政元年(1789年)に雄島の最北端に建てられた石碑で、高さは2メートルほど。瑞巌寺の「おくのほそ道」碑と同じ松島湾の章段が刻まれている

そもそもことふりにたれと松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖を恥す東南より 海を入て江の中三里浙江の潮をたたふ島々の数を尽して欷つものは天を指臥するものは波に匍匐あるは二重にかさなり…千早振神の昔大山すみのなせる業にや造化の天工何れの人の筆をふるひ詞を尽くさむ

朝よさを誰(たが)まつしまぞ片心

と碑文の最後に芭蕉の句碑にある同じ句が添えられている。

 ◆ 加賀の千代女の句碑

芭蕉翁松島吟並序碑の近くにあり、碑の高さは1メートル弱、

「□満佐礼亭幾亭月遠見千松島」

「だまされて来て月を見る千松島」の句碑の最初の文字「だ」の部分が欠けていた。

千代女は、加賀国松任の表具屋に生まれ、17歳にして蕉門十哲の一人各務支考に師事、52歳の時に剃髪し素園と号した。

「朝顔やつるべとられてもらひ水」の句で知られる。

島にはいくつかの古い堂宇が建っている。

 ★ 南端の小高い岬に「頼賢堂」がある。

その脇に説明板があり、堂の中に立つ「頼賢の碑」の詳細な説明が書かれていた。

頼賢堂は国の重要文化財指定の「頼賢の碑」の六角系の鞘堂で、頼賢の徳を讃えた碑である。

頼賢は、弘安8年(1285)に雄島の妙覚庵に入って以来、22年間島を出ることなくひたすら法華経を読誦し見仏上人の再来と仰がれた僧である。碑は、頼賢没後の徳治2年(1307)に弟子達が師の供養と頌徳のため建立したものといわれている。

碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の10世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名。

ただ、堂は柵で囲まれており中を見ることはできなかった。

 ★ 北の端に「瑞巌寺塔頭 妙覚庵敷」なるものがある

妙覚庵敷は、見仏上人の修行する場所(見仏堂跡)で、享保17年(1732)になって、僧良哉が一庵を建てて六時念仏の道場にしたいと懇願したのに応え、瑞巌寺第105代天嶺性空が、三万人からの布施を集め建立したものといわれる。その後、荒廃して建て直され、最後の堂宇は瑞巌寺に移築され近年まで執事寮として使用されたといわれる。

そこから一段低いところに、更に古い時代の修験窟跡がある。

 ★ その東側には「雄島島内最古の板碑」があった

板碑は、板状の石材を加工・整形し、種子(梵字)、造立年月日、供養の趣旨を記した文章(願文)などを刻んだ、中世における石造供養塔の一種で雄島には相当数の板碑がある

この板碑は弘安8年(1285)のもので、この板碑に彫られた種子「バン」は大日如来をあらわし、あらゆる災厄苦難を除き・将来への道が明るく開けるよう、福徳と長寿を授けるものといわれる。

 ★ 雄島の説明書きの前の高いところに「座禅堂」がある。

この坐禅堂は「把不住軒」とも呼ばれ、寛永14年(1637)石巻の笹町元清が、雲居禅師の隠棲所として建てたもので、ここから、松島湾に点在する島々を見晴らすことができる。

正面に「把不住」の(新しい)扁額をが掲げられていた。

 ★ 御島真珠稲荷大明神

渡月橋から島への入口に「正一位 御島真珠稲荷大明神」がある。

中にある本殿は痛みが激しいようで相当古いものと思われた。

島への入口にあるの案内図に挿絵で示されているが、特段の説明はされていなかった。

島の入口にあることから「島の守り神ではないか」と思いながら戻った。

数々の石碑を写真に収めたので、あとで分析してみることにしたい・・・・・・・

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