青森県の地名

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【青森県の地名】

 

(1) 陸奥(むつ)国

 青森県は、古くは陸奥国の一部で、青森県、岩手県、宮城県、福島県の全域と秋田県の一部を含んでいました。陸奥国は東山道八か国の一つで、大化改新の後東海道、東山道の最奥の国として「道奥国」が置かれました。『日本書紀』景行紀に「道奥」、『万葉集』には「みちのく」、『和名抄』には「陸奥」で、「三知之於久(みちのおく)」と訓じています。

 「道奥」ですから、常陸国、下野国などとの境ははっきりしていますが、蝦夷国と接する北限ははっきりせず、「道奥国」の領域は当初は福島県および宮城県の一部であったものが次第に北上していったものと思われます。

 7世紀後半には「陸奥(むつ)国」の名称が次第に定着したようです。「むつ」は、「みちのく」の「みち」の転とする説や、「陸州」から「六州」になり、「六」が転じたとする説があります。

 この「むつ」は、マオリ語の

  「ムツ」、MUTU(finished,end)、「(道の)終わるところ、地のはて」

の転訛と解します。

 

(2) 津軽(つがる)・平賀(ひらか)郡(庄)・鼻和(はなわ)郡(庄)・田舎(いなか)郡(庄)

 本州北端、青森県西半部の津軽(つがる)は、『日本書紀』斉明天皇元(655)年7月11日条に「津刈(蝦夷)」として記され、また斉明天皇4年4月条に「渟代・津軽二郡郡領を定めた」とあり、後に都加留、都賀路、東日流とも記されています。

 『延喜式』の郡名には見えません。

 中世には古くから津軽平賀郡、津軽鼻和郡、津軽田舎郡、津軽山辺郡(南北朝期における山辺郡の存在については疑問視する説があります。)などの広域地名として用いられ、天文年間の文書には東日流六郡として奥法(おきのり)郡、馬郡、江流末(えるま)郡、田舎郡、平賀郡、鼻和郡の名がみえます。(最初の三郡の実在については疑問視する説があります。)

 近世には天正18年の豊臣政権の奥州仕置によつて津軽氏の「当三郡(平賀・鼻和・田舎)および合浦(外浜・北浜)」の支配が認められ、寛文4年には津軽郡となり、平賀・鼻和・田舎三郡は「庄」と呼ばれるようになりました。

 明治4年の廃藩置県、同6年の大小区制を経て、同11年津軽郡は東津軽郡・西津軽郡・中津軽郡・南津軽郡・北津軽郡の五郡に分割されました。

 この「津軽(つがる)」の語源は、(1) 津軽平野の岩木川氾濫原の大湿地で、水に「漬かる」地、

(2) 津軽山地の「ツカル(連なる)」ところ、

(3) 本州の北の果て、「尽(つきる)地」、

(4) 「ツカ・カル」の約、いずれも崖の意で、日本海側の海食崖を指す、

(5) 「ツ」は浜、「カル」は漁業の意、

(6) アイヌ語では北海道に「ツガル」の類例はありませんが、「ツカリ・コタン(日本の手前)」とか、

(7) アイヌ語で「ツカリ・ショ(あざらしの集まる場所)」などの説があります。

 この「ツガル」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ・ル」、TUNGA-RU(tunga=decayed tooth,worm-eaten or rotten of woods;ru=shake,scatter)、「虫に食われたような(湿地が)・散在する(地域)」(「ツ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ツガ」となった)

  または「ツ・カル」、TU-KARU(tu=stand;karu=spongy matter enclosing the seeds of a gourd)、「スポンジ状の土地(泥炭が堆積した低湿地)の・上に位置する(地域)」

の転訛と解します。この地は、古代には十三(とさ)湖が大きく内陸に入り込んでおり、平野の大部分は岩木川の下流が曲流し、いたるところに湿地が散在する大湿地地帯であったようで、その状況を虫歯または虫に食われた木材(陸地)にたとえたか、または陸地といってもまだ土になる前のスポンジ状の泥炭堆積層が主体であったので、この地名が付けられたものと考えられます。

 以上の(1)平賀(ひらか)郡(庄)の地域は、おおむね旧南津軽郡碇ヶ関村、大鰐町、平賀町、尾上町、弘前市南部、黒石市西南部、中津軽郡相馬村の一部の地域に相当し、

(2)鼻和(はなわ)郡(庄)の地域は、おおむね現在の岩木川以西の弘前市、中津軽郡、北津軽郡南部の一部、鰺ヶ沢以南の西津軽郡の地域に相当し、

(3)田舎(いなか)郡(庄)は、平賀(ひらか)郡(庄)および鼻和(はなわ)郡(庄)以外の津軽半島から青森湾、津軽平野などにかけた広い地域に相当するとされます。

 この「ひらか」、「はなわ」、「いなか」は、

  「ピラカ」、PIRAKA(=pirakaraka=fantail bird)、「(山地から平野に移行する場所に存在する扇尾鳥の尾のような)扇状地(を主体とする地域)」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒラカ」となった)

  「ハ(ン)ガ・ワ」、HANGA-WA(hanga=head of tree;wa=definite space,area)、「(岩木山をはじめとする山岳地帯を含む、樹木の)樹冠のような高い(場所を主体とする地域)」(「ハ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ハナ」となった)

  「ウヰ・ナカ」、UWHI-NAKA(uwhi=cover,spread out;naka=move in a certain direction)、「(平野部から北の半島部の方向に)向かって・大きく広がる(地域)」(「ウヰ」が「ヰ」となった)

の転訛と解します。

(2-2) 夏泊(なつどまり)半島

 津軽半島と下北半島に抱かれる陸奥湾は、その最奥部の夏泊(なつどまり)半島を境に西は青森湾、東は野辺地(のへじ)湾に分かれ、また下北半島の湾奥は大湊(おおみなと)湾となっています。この夏泊半島から西が津軽、東が南部です。

 この「なつどまり」は、アイヌ語で「ノツ(岬)・トマリ(泊地)」の意とする説があります。

 この「なつどまり」は、

  「ナツ・トマ・リ」、NATU-TOMA-RI(natu=tear out,scratch,mix;toma=resting place for bones;ri=screen,protect)、「(湾を二つに)分ける・(船が)休息をとる場所を・保護する(衝立のような。半島)」

の転訛と解します。

(2-3) 黒石(くろいし)市・じょんから節・五所川原(ごしょがわら)市

 黒石(くろいし)市は、県中央部にある八甲田・十和田国立公園の西の登山口にある市です。昭和29(1954)年黒石町と山形、浅瀬石(あせいし)、中郷、六郷の四村が合併して黒石市となりました。市名の由来は、(1)市内を流れる浅瀬石川の自然堤防(クロ)から、(2)河流のくね曲がる曲流部の称の転、(3)黒い石のある川から、(4)クリ(暗礁)・イシ(石)の転、(5)蝦夷の住む土地を久慈須(くじす)、国栖(くにす)と呼んでいたのが転訛したなどの説があります。

 この黒石市は、民謡津軽じょんから節(曲中では「じょんがら」と歌われる)の発祥地とされています。じょんから節は、大浦城主津軽為信によって滅ぼされた浅瀬石城主千徳政氏の菩提所を守って浅瀬石川に入水した神宗寺の常縁(じょうえん)和尚の霊を供養した「常縁河原(じょうえんがわら)節」が「上河原(じょうがわら)節」となったことにはじまるという説があります。

 五所川原(ごしょがわら)市は、県北西部の岩木川の河岸にあり、津軽北西地方の政治経済の中心市です。昭和29(1954)年五所川原(ごしょがわら)町と榮、中川、三好、長橋、松島、飯詰の六村が合併して五所川原市となり、平成17(2005)年に金木、市浦の二町を合併しました。市名の由来は、(1)寛文年間ごろにこの付近で岩木川が大曲流し、五ヶ所に川原を作ったことによる、(2)岩木川上流の五所村のご神体が洪水のたびに流れ着くことからなどの説があります。

 この「くろいし」、「じょんから(じょんがら)」、「ごしょがわら」は、

  「クロ・ヒシ」、KULO-HISI((Hawaii)kulo=to wait a long time,to stand long;(PPN)hisi=(Hawaii)ihi=to strip,peel=(Maori)ihi=split,divide)、「(昔から)長く存続している・(自然堤防の上にある)細長い(集落。地域)」または「(昔から)長く存続している・(他の集落と)離れて孤立している(集落。地域)」(「ヒシ」のH音が脱落して「イシ」となった)

  「チオ・(ン)ガラ」、TIO-NGARA(tio=cry,call;ngara=snarl)、「唸り・叫ぶ(ように歌う。民謡)」

  「(ン)ガウ・チホウ・カワ・アラ」、NGAU-TIHOU-KAWA-ARA(ngau=bite,attack;tihou=an implement for cultivating;kawa=reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals;ara=way,path,rise up)、「(洪水で)荒々しく・鍬を入れたような・石がごろごろしている水路の・高くなった場所(自然堤防の上の。場所。地域)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」と、「チホウ」のH音が脱落し、OU音がO音に変化して「チオ」から「ショ」と、「カワ」の語尾のA音と「アラ」の語頭のA音が連結して「カワラ」となった)

の転訛と解します。

(3) 岩木(いわき)山

 岩木山は、津軽平野南西部に位置する二重式火山で、平野に孤立して円錐形の裾野を広げており、”端正で華奢な姿(太宰治)”をしているため、津軽富士の別名があります。山頂は、中央火口丘の岩木山(1625メートル)と外輪山の巌鬼山、鳥海山の三つの峰に分かれ、弘前市からは「山」の字の形に見えます。外輪山の西半分は、大きく爆発で破壊されています。

 この「いわき」は、(1) 「イハ(岩)・キ(接尾語)」または「イハ(岩)・キ(城)」で「石の砦」の意、

(2) 「ヰ(井)・ワキ(脇、湧)」で「岩木川に沿っている」の意などの説があります。

 この「イワキ」は、マオリ語の

  「イ・ワキ」、I-WHAKI(i=past time,beside;whaki,whawhaki=pluck off,tear off)、「むしり取られた(または引き裂かれた)(山またはそのあたり)」

の意と解します。

(4) 白神(しらかみ)山地

 白神山地は、北海道の白神岬(前出)の項で解説したとおり、「チラ・カハ・アミ」、TIRA-KAHA-AMI(tira=fish fin;kaha=strength,rope,boundary line of land etc.,ridge of hill;ami=gather,collect)、「魚の鰭のような・山の峯が(辺境の地に)・連なっている(場所。白神山地)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となり、そのA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「カミ」となった)

 また、白神山地の中の乱岩ノ森については、入門篇(その二)(平成10年12月1日書き込み)の中で解説しています。

 

(4-2) 鰺ヶ沢(あじがさわ)町・舞戸(まいと)・艫作(へなし)崎

 白神山地の北、岩木山の東に日本海に面して鰺ヶ沢町があります。中世末期から聞こえた港町です。その海岸部の南側の現在蛇行して流れる中村川の下流域は、おそらく古くは、細長い河口湖で、のち湿地帯であったものが現在は水田となったものでしょう。その河口は、海岸にほぼ直交する舞戸の丘の東壁にぶつかって流路を大きく変えて海に注ぎます。

 鰺ヶ沢町の西に深浦(ふかうら)町があり、その西端に細長く日本海に突出した難読地名として有名な艫作崎があり、その南北に岬に並行する形の小島または岩礁が点在しています。

 この「あじがさわ」、「まいと」、「へなし」は、マオリ語の

  「ア・チ(ン)ガ・タワ」、A(before names of places,the...of,belonging to)-TINGA(likely)-TAWA(ridge,calabash)、「あの(いわば)・(河口とそれに連なる低地帯が)瓢箪に・似ている(川が流れる地域)」(「チ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「チガ」から「ジガ」と、「タワ」が「サワ」となった)

  「マイ・ト」、MAI(to indicate direction or motion towards)-TO(drag,open or shut a door or window)、「(瓢箪の)口(くち)を塞ごう・としている(丘。その丘のある地域)」

  「ハエ・ナチ」、HAE(split,tear,cut)-NATI(pinch or contract)、「引き裂かれたように・細長い(岬。その岬がある地域)」(「ハエ」のAE音がE音に変化して「ヘ」と、「ナチ」が「ナシ」となった)

の転訛と解します。

(5) 十三(とさ)湊

 青森県北西部の十三(現在は「じゅうさん」ですが、江戸時代の中期までは「とさ」と呼んでいました)湖は、岩木(いわき)川の河口の潟湖で、かつては大きく内陸に入り込み、河口には、かつて三津七湊の一つに数えられた十三(とさ)湊が米や木材の積み出しで繁栄していました。”浅い真珠貝に水を盛ったような気品をもつがはかない感じの湖(太宰治「津軽」)”と描写されています。

 この「とさ」の地名は、「土佐」から人が移住したことによるとの説があります。

 この「トサ」は、マオリ語の

  「トタハ」、TOTAHA(bind,encircle with a band)、「帯を締めている(日本海と湖の間に細長い砂州がある湖)」

の転訛(原ポリネシア語の「トサハ」が、日本語では語尾の「ハ」が脱落し、マオリ語ではS音がT音に変化した)と解します。なお、土佐の「トサ」は、マオリ語の「トタ、TOTA(sweat)、蒸し暑い(土地)」の転訛と解します。

 

(6) 竜飛(たっぴ)岬

 津軽海峡に面する竜飛岬は、入門篇(その三)(平成11年1月1日書き込み)の中で解説しました。

 

(7) 袰月(ほろづき)海岸ー袰部川、大幌内川、小幌内川

 竜飛岬の東、東津軽郡今別町の袰月海岸は、津軽国定公園に属し、海食地形が発達した男性的な岩石海岸です。

 この「ホロヅキ」は、マオリ語の

  「ホロ・ツキ」、HORO-TUKI(horo=fall in fragments,landslip;tuki=beat,attack)、「山崩れに襲われた(海岸)」

の転訛と解します。

 下北半島の北東部、下北郡東通村に「袰部(ほろべ)川」があり、アイヌ語で「ポロ(大きい)・ペツ(川)」と解する説があります。

 この「ホロベ」は、マオリ語の

  「ホロ・ペ」、HORO-PE(horo=fall in fragments,landslip;pe=crashed)、「(粉々に)地崩れした(場所を流れる川)」

の転訛と解します。

 十和田湖に注ぐ川に、「大幌内(おおほろない)川」、「小幌内(こほろない)川」があり、この「ホロナイ」を「ポロ(大きい)・ナイ(川、沢)」と解する説があります。

 この「ホロナイ」は、マオリ語の

  「ホロ・ヌイ」、HORO-NUI(horo=fall in fragments,landslip;nui=big,many)、「(粉々に、大きく)地崩れした(場所を流れる川)」

の転訛と解します。

 また、宮崎県宮崎市南部の双石山(ぼろいしやま。509メートル)には、常緑広葉樹が繁茂する天然記念物双石山自然林があり、東にある加江田渓谷を含めた一帯は自然休養林となっています。この山の南東側は傾斜が緩やかですが、北から西側は急崖となっています。

 この「ボロイシ」は、マオリ語の

  「ホロ・イチ」、HORO-ITI(horo=fall in fragments,landslip;iti=small)、「小さな崖(がある山)」

の転訛と解します。

 

(8) 蟹田(かにた)町

 東津軽郡蟹田町は、陸奥湾に臨む津軽半島東岸の町で、後背山地はヒバの美林で知られています。

 最近、この町の大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡から出土した縄文土器および石器を最新の年代測定法で測定したところ、実に1万6千5百年前のものであることが判明して話題となりました。

 この町名は、古くは「神荷田」、「蟹多」、「神田」、「上田」と記しており、

(1) 「ハニ(埴)・タ(田)」の転、

(2) 水田に「蟹」がいたから、

(3) 川上から開発した「上(かみ)・田」の転、

(4) 蟹田川流域は製鉄が盛んで、「金(かね)」の転の「カニ」などの説があります。

 この「カニタ」は、マオリ語の

  「カ・ヌイ・タ」、KA-NUI-TA(ka=take fire,burn;nui=big,many;ta=lay)、「(炊事の)火が燃えるところ(住居)がたくさんある場所(人口の多い地域)」

の転訛と解します。

(8-2) 糠部(ぬかのべ)郡・階上(はしかみ)郡(海上郡)・北(きた)郡・三戸(さんのへ)郡

 青森県西半部の「津軽」に相当する東半部の古い広域地名は見あたりません。

 『日本後紀』弘仁2年7月29日条にみえる邇薩体(にさちて)村および都母(つも)村はいずれも上北郡かとされますが、不詳です(村名の解釈からは地域の特定はできません)。 

 中世では、『吾妻鏡』文治5年9月3日条ないし同月17日条には糟部郡、糠部郡、糠部駿馬の記事がみえ、この糠部(ぬかのべ)郡は本県東部の三戸郡・上北郡・下北郡と、岩手県北部の二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町などを含む広大な地域であったとみられます。鎌倉時代初期に郡内を東・西・南・北の四門と一戸から九戸までの九部(戸)に分け、一の戸に七ヶ村を配し、一牧場を置いたとされます(『大日本地名辞書』)が、強い異論も出されています。

 江戸時代に入って寛永11年8月徳川家光から盛岡藩に与えられた領地目録では糠部郡は北(きた)郡・三戸(さんのへ)郡・二戸郡・九戸郡の四群に分割され、郡名は消滅しました。このうち北郡は、明治11年上北郡、下北郡に分割されました。

 江戸時代に作られた一部の寺社の縁起や鐘銘にのみ階上(はしかみ)郡(海上郡とも)の名がみえます。『大日本地名辞書』は、「戦国以後に至り、糠部を階上(はしかみ)といひ、移りて海上郡の濫称あり、恐らくは糠部の別名にすぎず」とします。この階上は、青森県階上町と岩手県旧種市町との境の階上岳(種市岳、臥牛山とも。標高740m)の山名で、この麓にある古社を光仁天皇の御代にこの地に配流された藤原有家卿の終焉の地として縁起に糠部郡に代え階上郡の表記をしたことによるとの説があります。

 この「ぬかのべ」、「はしかみ」、「きた」、「(一から九まで)のへ」は、

  「ヌカ・ノペ」、NUKA-NOPE(nuka=deceive(whakanuka=boast,brag);nope=constricted)、「(駿馬の産地という)自慢する土地が・集っている(地域)」

  「パチ(ン)ガ・ミイ」、PATINGA-MII(patinga=flowing of the tide;(Hawaii)mii=fine-appearing,good-looking)、「(山の形が)流れるように・美しい(山)」(「パチ(ン)ガ」のP音がF音を経てH音に、NG音がG音に変化して「ハチガ」から「ハシカ」と、「ミイ」の反復語尾が脱落して「ミ」となった)または「ハ・チカ・ミイ」、HA-TIKA-MII(ha=what!;tika=straight,just,well;(Hawaii)mii=fine-appearing,good-looking)、「(山の形が)何と・全く・綺麗な(山)」

  「キ・タハ」、KI-TAHA(ki=full,very,say;taha=side,spasmodic twitching of the muscles)、「(その方向へ行くと寒さで)震えが・来る(地域。北)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

  「ノ・ヘア」、NO-HEA(no=from,belonging to,of;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(一から九までの)いずれかの・場所(地域)」(「ヘア」の語尾のA音が脱落して「ヘ」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 大間(おおま)崎

 下北半島の北西端に、北海道亀田半島の汐首岬と相対して、大間崎があります。

 この「間(澗。ま)」には、「湾または海岸の船着き場」の意味があります。

 しかし、この「オオマ」は、マオリ語の

  「オ・オマ」、O-OMA(o=the place of;oma=move quickly)、「潮流が速く流れる場所」

の転訛と解します。

 

(10) 尻屋(しりや)崎

 下北半島の北東端に尻屋崎があります。石灰岩からなる岩石海岸で、高さ約20メートルの海食台をなしており、周囲の海上には岩礁が多く、夏は霧、冬は暴風雪となることが多いため、海難事故が絶えない場所でした。

 この地名は、アイヌ語の「シリ(山、絶壁)・ヤ(陸岸、港)」からという説があります。

 この「シリヤ」は、マオリ語の

  「チリ・イア」、TIRI-IA(throw or place one by one,scatter;ia=indeed)、「(岩礁が付近に)丹念にばらまかれている(岬)」

の転訛と解します。

 

(11) 恐山(おそれざん)

 下北半島にある円錐形の火山で、中央に直径約4キロメートルのカルデラがあり、大尽山(おおづくしやま。828メートル)などの外輪山と釜臥山(かまふせやま。879メートル)などの寄生火山があります。カルデラ内には直径約2キロメートルの宇曽利(うそり)山湖(恐山湖)があり、北東の外輪山の切れ目から正津川が流出しています。恐山湖の周囲から噴出する硫黄ガスによって、岩石は黄白色となり、荒涼とした地獄を思わせる風景は、日本三大霊場の一つとなりました。7月に行われる大祭にはイタコ(巫女)の口寄せが行われます。

 この山は、古くは「於曽礼(おそれ)山」または「宇曽利(うそり)山」ともいいったようで、

(1) 恐山の名はこの地の菩提寺であるむつ市の円通寺の山号に由来する、

(2) 慈覚大師円仁が鵜(う)の導きで入山したから、

(3) 「オソレ」は、「襲う」で「山が重なっている」から、

(4) 「ウ(大きい)・ソリ(崖)」の意、

(5) アイヌ語の「ウソ・ル(湾の内側)」の意、

(6) アイヌ語の「ウソル(入り江の内)」の意、

(7) アイヌ語の「ウシ・オリ・コタン(湾内の村)」の転などの説があります。 

 この「オソレ」または「ウソリ」は、マオリ語の

  「オ・トレ」、O-TORE(o=the place of;tore=be erect,cut,split)、「割れている場所(山)」

  「ウ・トリ」、U-TORI(u=breast of a female,be fixed,reach its limit;tori=cut)、「割れている乳房(のような山)」

の転訛と解します。

 

(11-2) 田名部(たなぶ)・小川原(おがわら)湖・砂土路(さどろ)川・土場(どば)川・高瀬(たかせ)川・つぼのいしぶみ(壺の碑)

 上北半島の先端の山地の付け根に古くからこの地方の中心地として栄えた旧田名部町(昭和34年に旧大湊町と合併して大湊田名部市、同35年に全国初のひらがな表記のむつ市となりました。)があります。

 この「たなぶ」は、

  「タ(ン)ガ・プ」、TANGA-PU(tanga=be assembled;pu=tribe,bunch,heap)、「(さまざまの)人や商品が・集まる(場所)」または「(恐山などの)高い山地に・接している(場所)」(「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」となった)

の転訛と解します。

 上北半島の付け根にある湖沼群のうち最大の湖が小川原(おがわら)湖です。三沢・上北台地に刻まれた河谷の河口部が海岸砂丘で閉鎖されて生まれた湖で、南西岸から七戸川、砂土路(さどろ)川、土場(どば)川が流れ込み、しだいに幅を増しながらやや湾曲して、東北岸から高瀬(たかせ)川が流れ出して太平洋に注ぎます。 

 上北郡東北町に「日本中央の碑歴史公園」があり、昭和24年に同町字石文(いしぶみ)で発見された「日本中央」と彫られた石碑が保存されています。これは平安時代の歌人藤原顕昭が『袖中抄』に「陸奥の国の奥につぼのいしぶみがある。田村の将軍征夷のときに弓の筈で、ここが日本の中央であることを刻みつけたので、石文というのである」と記していますが、後世多賀城の門碑を門の脇の「坪」(ちいさな庭)にあるとして「つぼのいしぶみ」と呼んだため両者が混同され、源頼朝、西行法師、和泉式部などが歌に詠み、芭蕉も多賀城で感慨にふけったといいます。幕末に松浦武四郎が『壺廼考』でこれまでの諸説を検討し陸奥国海上郡坪村(現上北郡七戸町(旧天間林村))にあると主張し、明治9年天皇の東北行幸に際し宮内省が青森県に捜索を命じましたが、発見されませんでした。なお、田村麻呂の足跡は幣伊村(現岩手県)までで、その跡を継いだ文室棉麻呂の時代に都母(つも)村(上北郡かとされます)まで平定した(『日本後紀』弘仁2年7月29日条は出羽国の奏として賊に賊を討たせるとあり、同年閏12月11日条の棉麻呂の奏は官軍の行動地域を明示していない)ので、この「つぼのいしぶみ」伝説は棉麻呂であろうとする説がありますが、不詳です。

 この「おがわら」、「さどろ」、「どば」、「たかせ」、「つぼの」は、

  「アウ(ン)ガ・ワラ」、AUNGA-WHARA(aunga=not including;whara=burial cave or hollow trees where bones of the dead are placed;mouth of a wooden trumpet)、「(一種の木製の)ラッパの吹き口が付いた・(大地が空になった)湖」(「アウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「オガ」となった)

  「タ・トロ」、TA-TORO(ta=the...of,dash;toro=stretch forth,creep)、「(流れが)這うように・襲ってくる(川)」

  「トパ」、TOPA(fly,soar(whakatopa=soar,dart,swoop as a halk))、「(鷹が急降下するように)真っ直ぐに流れ下る(川)」

  「タ・カテ」、TA-KATE(ta=the...of,dash:kate,katekate=small cape to cover the shoulders)、「(湖の出口を塞ぐ)肩のような土地を・切り開いて流れる(川)」

  「ツポノ」、TUPONO(light upon accidentally,chance to hit)、「(かつて平安時代に)偶然に(発見され)明らかになった(石碑)」

の転訛と解します。

(12) 三内丸山(さんないまるやま)

 青森市の中央部を流れて青森湾に注ぐ沖舘川の右岸の台地上に、縄文時代前期中ごろから中期末までを中心とした他にあまり類例のない長期にわたる大規模な集落跡である三内丸山遺跡があります。遺跡名は、遺跡が沖館川右岸の字三内とその南に隣接する字丸山(その南の高台には陸上自衛隊青森駐屯地がある)にまたがっていることによります。

 この「さんない」は、アイヌ語地名としては、沖館川が大雨が降ると鉄砲水が出る川であることにより、「サン・ナイ」、(Aynu)san(山から浜へ出る)-nay(川)、「(増水が)流れ出る・川」の意とされます(山田秀三『東北・アイフ語地名の研究』草風館、1993年)。縄文時代には、北海道にも東北地方にもアイヌ族がいた痕跡がなく、北海道南部地方に7世紀以降にはじめてアイヌ族の痕跡が出てきますので、「さんない」は縄文語でつけられた地名で、仮にその後この地にアイヌが住むようになったとしても、この縄文語地名がそのままアイヌ語にあっても引き継がれたものと考えます。縄文語の「さんない」は、①および②の意味を合わせもつ地名であったと考えられます。

 この「サンナイ」、「マル(山)」は、マオリ語の

  ①「タンガ・ヌイ」、TANGA-NUI(tanga=be assembled,company,relay of persons(circumstance,time,place of dashing,etc.);nui=big,numerous)、「永く・続いた(または大規模な集落があった。場所)」

  または②「タネ・ナイ」、TANE-NAI(tane=eructate after food;nai=nei,neinei=Dracophylum latifolium,a shrub)、「(食事の後のげっぷのように大雨の後に)鉄砲水が流れる・灌木の生えている場所」(「タネ」が「サネ」から「サン」となった)

  「マル」、MARU(shelter)、「(人を保護する)集団居住地(砦がある。丘)」

の転訛と解します。

 

(13) 八甲田山(はっこうださん)・田茂萢岳(たもやちだけ)

 八甲田山は、青森県中央部の八甲田連峰の総称で、八甲田大岳(1,584メートル)を主峰とする10峰の火山からなる北八甲田連峰と、櫛ケ峰(1,516メートル)を主峰とする8峰の火山からなる南八甲田連峰の火山群に分かれます。これらの諸峰は、山麓は広く緩やかな裾野を持ち、湿原が数多く分布しますが、山体はドーム形または円錐形が多く急峻です。

 山名は、山上の「神ノ田」と呼ぶ湿地(ヤチ)が数多いところから、(1) 「糠壇(こうだ)の嶽」、

(2) 「八神田(はっこうた)山」、

(3) 「八耕田(はっこうた)山」、

(4) 「八甲田山」と呼ぶようになったといいます。

 この「ハッコウダ」は、マオリ語の

  「パツ・コウ・タ」、PATU-KOU-TA(patu=screen,wall;kou=stump;ta=lay,allay)、「壁のような切り株(に似た山)が並んでいる(連峰)」

の転訛(「パツ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハツ」となった)と解します。この「コウ、KOU(stump)、切り株」は、地名篇(その一)(平成11年4月1日書き込み)の「愛甲」の項で解説したものと同じです。

 また、北八甲田連峰の中の田茂萢岳(たもやちだけ。1,324メートル)の「タモヤチ」は、マオリ語の

  「タマウ・イア・チ」、TAMAU-IA-TI(tamau=fasten,love ardently;ia=current;ti=throw,overcome)、「(結びつけられた)静かに動かない・水流(=湿地)が・散在している(湿地が一面に多くある)(山)」(「タマウ」のAU音がO音に変化して「タモ」となった)

の転訛と解します。

 

(14) 十和田(とわだ)湖

 十和田湖は、青森、秋田県境にある二重式カルデラ湖で、南岸からもと中央火口丘であった牛の角のような二つの半島が湖面に突き出ています。面積59.8平方キロメートル、湖面標高400メートルです。

 古くは「十渡(とわた)の沼」、「十曲(とわた)湖」と呼ばれ、この語源は、

(1) 「ト(接頭語)・ワ(輪、曲)・タ(処)」の意、

(2) 「ト(鋭)・ワタ(湾曲)」の意、

(3) アイヌ語で「ト(沼、湖)・ワタラ(海中の岩、崖)」からとする説があります。

 この「トワダ」は、マオリ語の

  「タウ・ワタ」、TAU-WHATA(tau=beautiful;whata=elevate,hang,be laid,rest)、「(ぶらさがっているものがある)湖面に突き出ている半島がある・美しい(湖)」または「(高所で)静かに休んでいる・美しい(湖)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」と、「ワタ」が「ワダ」となつた)

の転訛と解します。

 

(15) 奥入瀬(おいらせ)川

 奥入瀬川は、十和田湖の東岸子ノ口に源を発して北流し、蔦川が合流する焼山付近まで渓流美を作り、焼山付近から東流して下流では相坂(おおさか)川と名を変えて太平洋に注ぎます。

 この名は、(1) 「アヒラセ(合ら瀬)」で川瀬に支流の小さい瀬が集まる渓流の意、

(2) 「オ(接頭語)・イラ(苛)・セ(瀬)」で「イラ(険峻な地形、急崖)」を流れる渓流の意とする説があります。

 この「オイラセ」は、マオリ語の

  「オイ・ラ・テ」、OI-RA-TE(oi=shout,shudder;ra=wed;te=crack)、「(瀬)音が・絶え間なく続く・瀬(川)」

の転訛と解します。日本海側の西津軽郡深浦町にも「追良瀬(おいらせ)川」が流れています。これも同じ語源です。

 

(16) 馬淵(まべち)川

 馬淵川は、岩手県北部の北上山地の突紫森(つくしもり)付近に源を発し、北流して青森県に入り、八戸市で太平洋に注ぎます。

 この名は、(1) 昔、名馬が主人を慕って入水したことによる、

(2) 「マ(間)・ベ(辺)・チ(地)」で山間の谷を流れる川の意、

(3) 「ママ(崖)・ベチ(淵)」の意、

(4) アイヌ語の「マク(奥)・ベツ(川)」の意、

(5) アイヌ語の「マ(沼)・ベツ(川)」の意、

(6) アイヌ語の「マ(静かな)・ベツ(川)」の意とする説があります。

 この「マベチ」は、マオリ語の

  「マ・ペチ」、MA-PETI(ma=white,clean;peti=heap up(whakapeti=gather))、「(水を集めて)増水する清らかな(川)」

の転訛と解します。

 

(17) 種差(たねさし)海岸ー蕪(かぶ)島

 種差海岸は、八戸市東部の蕪(かぶ)島から南東約10キロメートルの大久喜に至る海岸段丘下の海岸です。北部のウミネコが繁殖する蕪島、鮫角灯台、葦毛崎付近には、輝緑凝灰岩や玄武岩の奇岩が並んでいます。

 この「たねさし」は、アイヌ語の「タンネ・エサシ(長い岬)」からという説がありますが、疑問が残ります。

 この「タネサシ」は、マオリ語の

  「タネ・タハチチ」、TANE-TAHATITI(tane=male,showing manly qualities;tahatiti=peg or wedge used to tighten anything)、「男性的な風景の(奇岩怪石が)・しっかりと固定されている(海岸)」(「タハチチ」のH音および反復語尾が脱落して「タチ」カラ「サシ」となった)

の転訛と解します。

 また、蕪島の「かぶ」は、蕪と呼ばれる野生のアブラナが群生しているからとされていますが、この「カブ」は、マオリ語の

  「カプ」、KAPU(hollow of the hands,sprinkle,in the ceremony of KAWA(incantation))、「(手のひらの窪みに入るような)丸い塊のような(島)」または「豪快に水しぶきを上げる(島)」

の転訛と解します。

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