http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より
第1節 松前藩の成立
織田、豊臣氏の出現によって戦国時代の戦乱から天下統一へと政情が動き、豊臣秀吉の没後慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いによって徳川幕藩体制が固まり、この時期以降を近世と呼んだが、明治元年以降の近代との間268年間は幕藩体制のなかの封建領主によって藩図内の統治行政が布かれたのが、近世の特色と見ることができる。
松前家第五世蠣崎慶廣は蝦夷他の領主である秋田桧山(現在の能代市)城主秋田安東実季の蝦夷他の代官的地位にあって、松前徳山館(大館の後名)の館主であったが、中世道南地方に点在した各館主の末裔をその指揮下に押え、同族連合の実質的な藩を構成していた。天正18(1590)年7月豊臣秀吉は小田原征伐を終了し、懸案であった奥州検地を実施した。奉行には前田利家、大谷吉継、木村重茲等が任命され奥州各地の検地を実施した。蠣崎慶廣は前田利家の津軽検地を知り、9月16日松前を発って津軽に渡り、前田利家父子に会い、仙北にいたって大谷吉継に会うなどの根回しをした上で、領主の秋田桧山の城主安東(安藤)実季に面会した。この年実季は僅かに16歳で、外交手腕と機を見るに敏な慶廣の行動と説得力に抗することが出来ず、蠣崎氏の自主独立を認めた。これによって蠣崎氏は一己の領主として、豊臣秀吉へ参向のため10月21日秋田湯川湊を発ち12月16日京都に到着した。
京都には前田利家らが先着していて、後から蝦夷島々主の来ること報告していたので、秀吉は未開ではあるが、帰遂の不明で広大な蝦夷島の島主の参着は、己の勢力の滲透の表れであると喜び、その来着を待ち望んでいた。到着すると秀吉は五千石を給し、まず休息をして長旅を慰すべしと命じた。同12月29日には聚楽第において慶廣は秀吉に謁して、蝦夷地の状況を報告し五千石は辞退したが、蝦夷一島の支配を認められ、とくに従五位に叙し、民部大輔に任じられた。これによって蠣崎氏は完全に安東氏の羈絆(きはん)を脱して独立し、直接秀吉の輩下の諸侯と同じ待遇を受けることになった。慶廣は天正19年2月1日暇を賜わり、呉服三、銀二百両を拝領して帰国の途に就き、3月28日松前に帰着した。
この年5月南部氏の支族九戸政実が宗家に反して独立を図った。南部信直の訴を受けた豊臣秀吉は、羽柴秀次を総大将とし、蒲生氏郷以下の諸将をもってこれを討伐したが、東北の秋田実季、津軽為信、仁賀保勝俊、小野寺義進などの諸侯に伍し、慶廣も出兵したがその一隊の中に蝦夷の隊があり、戦陣においても神出奇没で、“三河後風土記”によれば、「蝦夷人の発する矢は、敵に当たらざる事なく、縦(たと)ひ薄手の輩も死ざる者はなかりけり」として極めて注目をひいており、東北の諸侯の一人として、この期頃にはすでに活躍をしている。
松前家5世・初代藩主松前慶廣像(松前町・阿吽寺所蔵)
豊臣秀吉からの制書
文禄元(1592)年11月慶廣は松前を発ち京都に参勤したが、秀吉は朝鮮役督励のため肥前名護屋滞陣中であったので、慶廣は名護屋に赴いて、同2年正月2日秀吉に謁見した。秀吉は高麗征討の折、遠来の蝦夷島主の来着は思いも寄らぬことであり、誠に瑞兆であると、いたく喜び、近江に馬飼所三千石を給しようとしたが、慶廣はこれを辞退し、「今郷里に80余歳の両親あり、余命いくばくもないのに孝養を尽したいので、5、7年毎に参勤をしたい」ことを願い出、さらに木下吉政を介し、国政の章の下賜を願出たが、秀吉はこれを許し、次の朱印状を交付した。
松前に於て、諸方より来る船頭、商人等、夷人に対し、地下人に同じく、非分の儀申懸べからず。並に船役の事、前々より有来る如くこれを取るべく。自然此旨に相背く族(やから)の者有らば、急度(きっと)言上致すべし、すみやかに御誅罰を加えなさるべきもの也。
文禄二年正月五日 朱印
蠣崎志摩守とのへ
(原本漢文)
という普通大名に対する万石領知の朱印状とは全く異なるものであった。“新羅之記録”によれば、この各項は慶廣の強い要請によるもので、松前氏の蝦夷地における交易権を認め、商船、商人は松前氏の許可を得た者でなければ交易を認めないことと、松前氏の徴役権をみとめ、また、蝦夷人に対しても和人同様の待遇を与え、諸法度に背く者の処分を秀吉が委任するというものであって、この朱印の交付によって慶廣は、蝦夷島主という変則的な肩書ではあるが、事実上、蝦夷地の支配者となり、さらに大名に比肩される地位を獲得した意義は大きい。
同日慶廣は志摩守に任じ、毎年巣鷹を献上するため、津軽から大坂に至る公逓の許可証の交付を受けた。同月7日には慶廣は初めて徳川家康に謁したが、その時慶廣は樺太島から渡来した山丹(靼)織の道服を着ていて家康が珍しがったので、慶廣は早速脱いでこれを贈り、以後、親密の度合を増すことになった。翌8日にはさらに秀吉に謁し、すみやかに帰国して夷狄を鎮むことを命ぜられ、2月21日には関白豊臣秀次よりも秀吉同様の制書を受けた。
この叙任及び制書の交付を受けた慶廣は、音信をもって松前の老父季廣に報告し、前田利家から贈られた茶を桐の箱に入れて送った。父季廣は大いに喜び、一族、諸士、町人を集めて、この茶をもって大茶会を催し、この喜びを分ち合った。
帰国した慶廣はこの制書写を高札に掲げて諸人に示して、領主としての威光を公告すると共に、東、西の蝦夷の代表者を集めて、夷語に訳して読み聴かせて、その帰服を図った。これによって蝦夷は蠣崎氏に服従し、また、諸国よりの商船も増加し、松前の地は繁昌するにいたり、松前(蠣崎)氏の名声は次第に高くなってきた。
徳川幕藩での大名松前氏の誕生
豊臣秀吉によって大名格の扱いを受けた蠣崎慶廣は、時勢の洞察と外交手腕に勝れていて、天下の実権が徳川氏に傾いてくると、巧みに徳川家康に接近した・慶長元(1596)年慶廣は長子盛廣と共に大坂に参勤し、同2年帰国の際には父子打そろって大坂城西の丸において徳川家康に謁している。同3年8月秀吉が死亡し、天下の政務が家康の掌中に入りかけると同4年11月大坂城西の丸において第二子忠廣と共に家康に謁し、蝦夷地図と家譜を奉呈し、氏を蠣崎から松前に改めた。これは松前の地名のマツ・オマ・ナイ(女の住む沢)から採ったという説と、松前氏が大名として栄進するため特段の配慮を得た松(・上点強調)平(徳川)氏と前(・上点強調)田氏の名を冠したという二説があるが定かでない。
松前氏は慶長5(1600)年の天下分け目の戦、石田三成を総将とする西軍と、徳川家康軍の東軍との関ヶ原の戦いでは、遠国であることと、その時機を失したことにより参戦せず、以後は徳川幕藩に於いては外様大名として格付されているが、翌6年には長子盛廣が江戸にのぼり、次いで京都で家康に謁し、従五位下に叙し、若狭守に任じられている。“寛政重修家譜”において盛廣は藩主とされていないが、“松前家記”では、この前年(5年)6月国を盛廣に譲ったとしているので、松前家第六世に数えられている。さらに盛廣は慶長8年春の徳川家康の征夷大将軍宣下を受けるための上洛に供奉し、慶廣もまたこの年江戸に参勤し、11月には百人扶持を給された。
徳川幕府が江戸に開かれると、その体制のなかでの大名、小名の論功行賞、改廃が行われて行くなかで、同9年正月27日松前慶廣に宛て徳川家康からの黒印状が発せられたが、その内容は次のとおりである。
定
一、諸国より松前へ出入の者共、志摩守に相断(ことわ)らずして、夷仁と直に商買仕候儀、曲事(くせごと)となさるべき事。
一、志摩守に断無くして渡海いたし、商買仕候は、急度言上いたすべき事。
付(つけたり)、夷の儀は、何方へ往行候共、夷次第に致しべき事。
一、夷人に対し、非分申懸は堅停止の事。
右の条々若(も)し違背の輩(やから)に於ては、厳科に処す可き者也。仍(よつ)て件(くだん)の如し。
慶長九年正月廿七日 黒印
松前志摩守とのへ
(原漢文)
というものである。この制書は若干の文言の差はあるが、豊臣秀吉が文禄2年に蠣崎慶廣に与えたものと大差はないが、ここで徳川家康からこの制書を受けたことは、以前、松前氏が累代将軍代替の度毎に同文言の制書を受けて大名格付をされる慣例を作ったことの意義は大きい。
詳細に秀吉と家康の制書の差異を検討するならば、秀吉は商船の蝦夷に対する不法行為の禁止と、課税、徴役権を従来より有り来る如く徴収してよいとしているのに対し、家康は松前氏の交易独占権と徴役権を認め、さらに蝦夷との直商買を禁止して、蝦夷地の支配権を認めるというものである。しかし、この制書のなかで、「付、夷之儀者、何方へ往行候共、可(レ)致(二)夷次第(一)事」さらに「対(二)夷人(一)非文申懸者堅停止事」とあって、蝦夷(アイヌ人)に対して支配権までは認めていないことを示している。これは夷の事は夷次第という幕府の根本理念が、この制書に反映されたものと解することができ、松前氏も藩政のなかでその理念を踏襲せざるを得なかったものである。
普通、徳川幕藩に於て大名と格付されるものは、その領知内の米の生産高が幕府検地の一万石以上を有するもの以上を以って大名とし、それ以下のものを小名あるいは旗本と格付しているが、松前家の如く蝦夷他の支配権を認める文言をもって無高の大名に格付したことは、関東足利氏の末裔喜連川家を五千石で大名格付したのと全く異例の扱いであった。
徳川家康黒印制書(原本早稲田大学図書館所蔵)
福山館の築城
松前家の二世完廣が、永正18(1514)年上ノ国から松前に移り、安東直支配の大館を改装して徳山館と名付け、三世義廣、四世季廣と約100年を経過した。五世慶廣となって近世に入ると、それまでは天嶮を利用し、防禦に主力を注ぎ、居住性を無視した山城から、池構を巡らした小丘を中心とした城郭を築き、これを核として城下街を展開する都市城郭に変化しつつあった。特に徳山館は天正17(1589)年4月盛廣の居室から火を発し坐営から伝来の宝器、武器を焼いている(“福山秘府”)ので、居城修築の必要に迫られており、また、近世初頭に入ると各大名が挙って城郭築城をはじめた時期でもあったので、松前が将来海を通じて発展する可能性を考慮に入れ、徳山館の前方で海岸に近い福山の台地に築城を決定した。築城は慶長5(1600)年開始され慶長11年まで6年を経、同年8月完成した。この城の築城縄張は慶廣が直に行ったと思われ、完成と同時に藩主慶廣以下はここに移り、館の北方地域に寺町を創設し、元和3(1617)年から5年にかけて大館(徳山)内にあった各寺社が移転している。その後寛永6(1629)年には千軒岳金山の鉱夫を使役して石垣を修築するなど、その城郭体形を整えた。
徳川3代将軍家光制書(横浜市・松前之広氏所蔵)
大名の城を保有するのは幕府から城主大名と認められた者が、許可を得て築城したものを城と呼んでいて、おおむね五万石程度以上の大名でなければ城主大名にはなれなかった。したがって松前氏の場合は、それ以下の館又は陣屋に相当する小規模のもので、福山館と称されていたが、地元の松前では福山城、あるいは城下と称していた。
寛永14年3月館内の公廣居室から火を発し、硝薬に点火し、多くの建物を焼き、また、重代の宝器も失ったが、同16年新井田主計貞朝を奉行として上ノ国目名沢の桧材を伐り出して修造した。
寛文9(1669)年日高アイヌの首長シャグシャインの乱の時には物見櫓を急増した如くで“津軽一統志=巻第十(中)”によれば、「一領主松前兵庫(十世矩廣)屋敷城山寄せなり。但広間南向隅櫓一つ、四方に如(二)遠見櫓(一)三つ有(レ)之。西の方堀有。北の方板塀一方三十五間程、三方を囲、城の方柵有。狄町中へ乱入に及は、町中の者共皆々取籠可防棚なり。」と300余年前の福山館の縄張状況を示している。翌10年津軽藩士則田安右衛門筆の“狄蜂起集書”(原本市立弘前図書館蔵)には、更に福山館の状況を詳しく報告している。
城地形の覚
一、本丸南の方土手高さ四尺計、門ヨリ西はすみ矢倉土手無シ、塀計南何も堀無し、浜へのがけ也。
一、同西の方土手高さ四尺計堀ふかさ五六間程所に寄り、其内も広さ四間余も五拾間余も。
一、同北の土手高さ六尺計、所に寄り其内も塀のふかさ三間計、同広さ四間程も板塀也。但本丸と合也。
一、同乗土手高さ四尺計、所に寄り五尺程も、堀深のふかさ二間半余も、同広さ四間程。
一、二のくるわ東出て高五尺又は所に寄り六尺程も何も塀無し、北の丸迄なり。何もしや(棚)く立也。
一、北の丸土手高さ六尺程、所に寄り四五尺も、何も板塀也。
一、城より西に湯殿沢、北より南へ流る。広さ貳拾五六間程、所に寄り十四五間深さ五間又は四間程も、右の内川五間程の広さ也。
一、川原町の沢城より東北より南へ流、広さ八十間余も、此川六七間程も、沢のふかさ西は五間程、東は四間程。
湯殿沢、川原町ノ沢両辺城をはさみ申候。
とあって、川原町沢(大松前川)、湯殿沢川に挟まれた福山の台地上のこの館は、標高3~40メートルの高さの平山城で、外周には塀を巡らし、その内側には土手を盛り、要所には板塀を引廻すという極めて簡素な安普請であったことが伺われる。
享保2(1712)年松前へ渡った幕府巡見使有馬内膳、小笠原三右衛門らの記録した“松前蝦夷記”にも福山館の状況を詳しく次の如く記している。
居所 東西九十三間、南北百二十六間四尺。向南。
櫓 一か所 南東の角にあり。
物見 二か所 西の方。北西の方。
門 三か所 南の方、東の方。北西の方。
堀 西北の引廻し。から堀、西の方六十間許。水少々有之、東の方柵内通二十間許から堀あり。堀幅は何れも拾間より内の由。
塀 南外通柵内板塀、北の方板塀、前後半分半分、所々矢間有之。
右慶長五年築之、福山の館と言。
一、先年夷人蜂起の時、物見数個所当分建申由。
一、夷人え城と申為聞候故、諸人松前の城と唱中也。
一、侍屋舗八十軒許居所近辺に有之
外侍一人にて二軒程宛下屋舗持居候由
という規模であった。
その後宝暦4(1754)年8月馬形町の青山園右衛門の邸からの失火、青山火事によって南東角櫓が焼失し、後明和2(1765)年再建されている。
江戸の松前藩邸
大名が隔年参勤交代のため江戸出府する際の宿営舎として、各大名は幕府から土地の貸与を受けて藩邸を設け、正妻や子弟もここに居住し、幕府との連絡等のため江戸家老、公用人等を置いたが、これは藩の江戸出張所ともいうべきものであった。親藩、国主大名等は上・中・下の三屋敷を構えていた。江戸の松前藩邸がいつごろから設けられたかは定かではないが、承応2(1653)年の“武州古改江戸図”によると浅草誓願寺前にあり、天和元(1681)年の“武鑑”にも「七千石、松前兵庫頭、元誓願寺前」となっている。しかし、翌年火災によって焼失し、翌々3年浅草観音前に邸地千二百坪を拝領した。さらに元禄11(1697)年の火災後、谷(やの)蔵に千百四十一坪を賜って移っている。正徳5(1715)年幕臣細井佐治右衛門の邸地と交換し、下谷新寺町に移り、明治維新までこの地に居住した。この場所は現在の東京都台東区上野小島町に当る。天保9(1838)年には本所大川端の津軽越中守邸を拝領して下屋敷とした。また、第十七世藩主崇廣が幕府老中となったときは、江戸城常盤橋門内の老中有馬道順邸跡を上屋敷として使用した。
江戸藩邸が火災にあったのは、前後10回に及んでいる。
天和2(1682)年12月28日
元禄元(1688)年11月25日
元禄13(1700)年3月
元禄16(1703)年11月29日
享保3(1718)年11月11日
安永元(1772)年2月29日
文化3(1806)年3月4日
安政3(1856)年2月1日
このような江戸藩邸の火災焼出の場合、早急に再建が必要であったが、藩庫よりの対応は困難であったので、町奉行、桧山奉行等を通じ、有志の献金、あるいは借上金等によって、再建されることが多かった。
江戸藩邸には江戸留守居役、御使者番、取次役、吟味役、納戸役、詰組、医師、料理人、足軽、台所方、女房などかおり、また、仲間は在方各村から募集して隔年毎に江戸に送ったようで、“宮歌村旧記“によれば「正保二酉年より江戸詰中間二人宛被(二)仰付(一)候」とある。また、幕末時代になると諸般の事情が幅輳してくると家老級の者をもって、江戸詰家老としている。
徳川幕藩における松前氏の家格
徳川幕藩が成立したなかで、蝦夷地の領主である松前氏の処遇が異例の扱いを受けていたことは前項に記したとおりであるが、豊臣秀吉の蝦夷島主の待遇は、我が国の版図にも定かでない、北方の広大な島々の代表者を徴役権という秀吉の直接の領知を与えないかたちで認め待遇することによって、これらの島々を自己の勢力範囲の中に収めていった。
松前家五世の慶廣が徳川家康に初めて謁見したのは文禄2(1593)年のことで、肥前名護屋であるが、その際慶廣は山靼(さんたん)(アムール河付近)から樺太を経て蝦夷地に入って来た唐衣(サンタンチミプ)という珍らしい道服を着ていて、家康がこれを所望すると、即座にこれを脱いで進呈するなどの行為は、蝦夷島夷の代表者のかたちで、家康の歓心を買っていた面が多分に見受けられる。従って徳川幕府に於いては、秀吉の蝦夷無主としての朱印状に、若干の増訂をした家康の黒印状によって大名格付をして待遇をしてきたものである。
しかし、この大名松前氏は、天和年間(1681~83)ころ以降、しばらくは交代寄合席の小名の扱いを受けている。“北海随筆”(坂倉源次郎、元文三年筆)によれば、
一、国初の頃は松前家は賓客の御あしらひにて参観の時は往来御伝馬にて格別にてありしが、中頃幼主参観のおこたり有しより変易して其後ふたたびあらたまる事なし。
憲廟(将軍綱吉)御治世より今の格式にきわまれるよしなり。ただ以前の格はわずかに残りて嫡子乗輿の儀は御免、御鷹献上の時御伝馬を賜わる。
とされている。松前家の八世氏廣は19歳、九世高廣は6歳、十世矩廣は6歳で藩主になっていて、幼主は多いが、この三代間で、幕府が定める参勤(覲)交代の期間、特に松前家の定められた5年に一勤、或は三年一勤を無許可で違えたことは記録的にもないので、徳川幕藩体制の確立による諸藩への締付が、松前家々格の小名格下げとなったものと考えられる。
“誠斉雑記”(向山源太夫篤筆)によれば、松前か家慶廣(五世)の頃は万石の籍に列せしと見ゆるを後に及びて交替寄合の格に定められしも子細あるべき事にて、一つは其家資は万石に当れとも、領知の賦役なく、二には嶋夷の酋長(ママ)ともいうへきものにて、我が国の大名に比例しがたき故と見えたり。
つまり、松前家創業当初の五世慶廣のころは、米は穫れないので、万石以上の大名格付はできなかったが、領知安堵状の形式だけで大名格付をしてきたが、1600年代の後半に入り幕閣の力が強大になると、松前氏に対して賓客の待遇を与える必要もなくなり、天和元(1681)年の「武鑑」に見られるように、「御寄合衆七千石」という松前家の待遇の状況が表われている。
寄合席とは幕府の万石未満の小名ではあるが、特にそのなかで交代寄合(こうたいよりあい)席は、万石未満ではあるが、身分格式は大名に準じて、領地と江戸とを交代する家柄であるが、松前家は一時的にはこの家格に下げられている。
享保元(1716)年将軍家綱結納の際、幕命によって一万石格の献上をし、同4年十世矩廣父子は月次御礼格一万石以上に準ずることを命ぜられている。また、享保17年以降の「武鑑」には、大名の最末席として松前氏の名が掲げられ、「無高松前蝦夷一円先祖より代々領之」とされている。
藩主は多く従五位下に叙せられ、志摩守或は若狭守に任ぜられているが、八世氏廣、九世高廣は任官していない。また、江戸城営中の詰席は柳の間と指定されていたが、これは外様中大名の詰席である。
参勤交代
参勤(覲)交代とは大名及び交代寄合席の小名が、領国に1年在国し、1年は江戸に在府することをいうが、この制度は寛永12(1635)年の武家諸法度が制定されてから制度化されたもので、その目的は幕府の権力を各領主に示すと共に、この交代旅行によって各領主の財力を拡散させることにあった。
関ヶ原の戦以降、徳川氏と関係を持った外様大名の場合は、1年は在国、1年は在府と定められていた。松前家の場合、在所が遠国で、これに要する費用も多くかかるので、対馬の宗氏と共に、特例として三年一覲が認められ、その後五年一覲となっているが、その時期は不明である。交代は主に秋10月松前を発し、翌年2~3月江戸から帰国することを例とした。
出発の際は幕府から伝馬の令書と、儀衛に槍2槍を立てる五万石以上の格式をもっていた。この供揃は少くも170人以上の人数が必要で、その道中費用も嵩むところから、延宝2(1674)年、槍1本(五万石以下)にすることを許されている。槍1本の行列の場合は、その編成が80人程度である。藩創業当初参勤コースは松前から海を渡って、北津軽の小泊から津軽、秋田の領内を経て奥州街道を南下したが、“松前生水廣時日記”によれば、元禄5(1692)年藩主矩廣の帰国の際は、中仙道から宇都宮を経て奥州街道を北上し、青森からは東津軽を外ヶ浜(陸奥湾)添に進む松前街道を経て、津軽半島の突端の三厩に着き、ここから船で津軽海峡を渡航して松前に来着していて、この時期以降参勤交代はこのコースを利用している。この旅行の際は2月9日江戸を発足し、3月4日松前に帰着しているが、実質旅行日は26日を要しているが、降雨や海峡時化等の場合は40日も要することもあった。
この元禄5年の旅行日程を見ると、
2月9日江戸発足粕壁泊 10日中田昼、儘田泊、11日小金井昼、宇都宮泊、12日喜連川昼、太田原泊、13日蘆野昼、白川泊、14日須ヶ川昼、郡山泊、15日本宮昼、8丁目泊、16日桑析昼、白石泊、17日築貫昼、仙台泊、18日吉岡昼、古川泊、19日築館昼、金成泊、20日前沢昼、水沢泊、21日鬼柳昼、花巻泊、22日幸利昼、盛岡泊、23日澁民昼、沼久内泊、24日一戸泊、25日三戸昼、五戸泊、26日七戸昼、野辺地泊、27日小湊昼、青森泊、28日蟹田昼、平館泊、29日今別昼、三馬屋着、30日~3月3日までの4日間風待ち、3月4日東風天気能、別状なく昼四ツ時(午前10時)松前御安着。となっている。その間は朝七ツ時(午前4時)より六ツ時(午前6時)に出発し、夕八ツ時(午後2時)から七ツ時(午後4時)まで徒歩行進で、1日凡そ30キロ(七里半)程度の行進であるから、かなりの健脚者ばかりであったようである。
参勤に要する費用は凡そ一往復三千両を要するといわれたが、通常の年次でも藩庫の歳費は赤字の連続であったのに、このような増額負担は捻出の方途がなく、最終的には御用商人や場所請負人に御用金を課したり、借上金をしてその費用に充てるという事が多く、借りた場合でもその返済の能力がないため、公訴が続出したり、請負場所を細分増加してこれを請負せて返済分に充てるなどの苦肉の策が取られたこともある。
この参勤交代の費用の軽減のため、各村に布達してこの行列に加わる仲間を集めていた。供揃には駕籠舁(かごかき)や、荷物搬びの強力の若者が必要であった。徒士や足軽等は行列の実質的な儀衛の中心となり、仲間が専ら強力となった。行列の場合仲間を30名程度必要としたので、各村では名主、年寄等が相談して若者一人を差出し、その若者が参勤交代を経て、約半年間江戸藩邸の門番や雑仕事をしながら、江戸の風物を見学して帰り、地方の江戸文化の媒体者となり、これらの見聞知識を基礎に、将来の村造りの中核となっていたので、熊石村からもこれらの仲間が参加していたものと思われる。
第2節 和人地と蝦夷地
和人地の範囲
中世期の蠣崎(松前)季廣が、道南地方のうち、特に西道南地方をその勢力下に押え、天文20(1551)年には「夷狄之商舶往還之法度」を定め、西は上ノ国の天の川から東は知内村の知内川までの間を和人居住地としたが、これを“松前町史”(執筆者榎森進)は初期和人地と称している。これはこの地区以外にも東在茂辺地、箱館付近、西在では上ノ国の天の川を越えた北村、江指、泊付近にも多くの和人が居住していたと考えられるが、この初期和人地はアイヌ人との摩擦を避けるため、日本人(和人・シャモ)のみの居住地とし、それより奥地には一応和人は住まないという原則を決めたものと解されるが、実情に於いては、アイヌ、和人の混住地が多かったと思われる。
近世初頭以降、封建領主の松前氏が誕生すると、和人地の範囲も次第に拡大された。“新羅之記録”によれば、慶廣が文禄2(1593)年豊臣秀吉からの朱印制書を受けた際、松前にその制札を掲げ、東西の夷狄を召集め、「御朱印を披見させ、文言を夷語にて誦聆(よみき)かせ、此上猶ほ夷狄に対して志摩守の下知に違背し、諸国より往来の者某(シヤモ)に対し夷狄猛悪の儀有るに於ては、速やかに其旨趣を言上せしむ可し、関白殿数十万の人勢を差遣はし悉く夷狄を追伐せられのる可なりと仰付けらるるの由申聞かししの条、夷狄弥(あまね)く和平せしめ、諸国の商背心安く、数多の船来りて国内増々豊饒なり。」としている如く、蝦夷地に於ける和人数はこの時期より約70年後の寛文9(1669)年でも約1万5000人程度であって、人口的にはアイヌ人が絶対優位であったから、一度アイヌ人が蜂起した場合、蝦夷領主といえども7、80人の同族共同体の松前藩の力では、これを鎮圧することは困難であったから、日本中央政権の力を背景にこれを屈服しようとする意図がうかがわれ、また、これを利用して商権の拡大、和人地の維持拡大に結び付けようとする意図もうかがわれる。
和人地の変遷図
幕府は将軍代替の都度、巡見使を派遣してその領内の否曲を正している。松前氏領内の場合は、寛永10(1633)年将軍家光に代替の節の分部左京亮実信、大河内平十郎正勝、松田善右衛門等の第1回巡見派遣の際の慣例に従っている。
この行では7月9日松前に到着して藩庁で事情説明を受け、
十日江良町止宿、十一日比石(上ノ国町石崎)止宿、十二日上ノ国止宿、十三日乙部瀬茂内迄船にて巡見、夫より馬足不叶戻り泊り村止宿、十五日松前着逗留、十七日折か内(現福島町)、十八日知内、十九日茂辺地、二十日汐泊、石崎迄、夫より馬足不叶亀田に止宿、二十一日同所より尻内(知内)二十二日折か内、二十三日松前着逗留、二十六日順風にて小泊へ渡海。
(河野常吉文書“松前藩政”)
となっていて、その間は多くの和人の居住している地なので、巡見し、その他の地は馬足が叶わないので、特に乙部は瀬茂内(宇滝瀬付近の海岸)まで船で巡見したというから、この行では乙部村迄は巡見していないと思われるが、後の巡見使は乙部迄行き、ここから船で熊石方面を望見した上で、乙部村で泊り、西在地域の巡見を終っているが、この巡見使巡廻路をもって和人地と定めている。これは初期和人地(中世末期)の東西距離が凡そ100キロメートルであったのに対し、その距離は200キロメートルと約2倍に拡大され、和人居住地が年々増加してきていることが分る。
亀田番所は寛永年間には設置されていて、出入人改を主業務としていたが、これはアイヌ人居住地へ和人のみだりに往来することを禁じ、また、アイヌ人が和人居住地へ来て直商買をすることを禁ずる手段として設けられた番所であったから、和人居住地の東の入口は亀田で、それに海岸線が若干和人地として伸びていた。
これに対し、西側和人地の境界をどこに置くかについては、多くの議論がある。巡見使の巡廻は乙部村本村までで終っているが、これより北は和人地の村続きであるが、道路も不整備で馬足での通行は困難であるとして、船で沖からその地方を望視している。しかし、和人居住の西端限がどこであったかは、明らかではない。従って巡見使の第1回巡見のコース内をもって西北限としていたものと考えられる。
その後寛文9(1669)年の日高族長のシャグシャインの乱の際に、密偵として松前領内に潜入した津軽藩士の報告になる“津軽一統志巻第十”では、乙部村より熊石村までの状況を次のように記している。
一 おとへ 是迄二里狄おとな見候内 家五十軒程
一 たて 家三軒
一 こもない 小川有 家十軒
一 もない 川有 家十四軒
一 あいとまり 家五軒
一 とつふ 小船の澗あり 家十四軒
一 みつや 家十軒
一 岡内 家五軒
一 かわしら 小船の澗あり 家三十軒
一 大岩 家十軒
一 あいぬま内 川有狄おとなトヒシゝ 家四十軒
一 黒岩 家二十軒
一 平田内 小川有 家七軒
一 けんねち 川有、トヒシゝ持分 家十軒
一 熊石 トヒシゝ持分其外おとな狄有 家八十軒
一 関内 松前より三日路是迄馬足叶申候番所有是より秋地おとな彦次郎 家二十軒計有
これを見ると、乙部より以北熊石村迄の間には約280戸に近い民家があり、ここには「上口は熊石と申所、下口は亀田と申所迄、松前の者罷有候。狄も入交り申候由。」とあって、ここまで和人が北上定住し、現地のアイヌ人と混住していたことを示している。そして和人地の西側から進入しようとするアイヌ人から、西側最前線を守る場として相沼、熊石、関内の3ヵ所に番所を建て「松前左衛門、蠣崎次郎左衛門、浅利小左衛門、中野次郎左衛門、蠣崎釆女雑兵五百人程にて、上ノ国あい沼、熊石、関内三ヶ所を堅め罷有候事。」(前掲書)と警備の万全を期していて、ここまでを和人の北限地と考えての防備の配慮であったと考えられる。
その後松前藩が貞享2(1685)年に相沼内村に関門を建て(“松前家記”)、出入人を検査していて、以北に和人の住居は許されないはずであるが、実質的には以北の熊石村には多くの和人がおり、さらに増加の傾向にあったから、この不合理を是正するため元禄5(1692)年熊石番所が設けられたものと解することが出来、その段階では関内村は番所の以北にはあったが、熊石村の支村として扱われていたものと考えられる。ここで往々誤解を生むのは関内(・・上点強調)の地名が関所があったから、この地名が生まれたと考えられがちである。寛文9年のアイヌ人蜂起の際にこの地に関所が設けられたのは臨時的なもので、本来関内の地名は、アイヌ語のシユプキナイから発し、その語源は茅沢の意味で、この音訓を和人が漢字に当てはめたものである。
天明3(1783)年から寛政12(1800)年の熊石村の公式記録である“熊石村会所日誌”(門昌庵所蔵)によれば松前藩の觸書や通達は、城下から西在根部田村に伝えられ、それから「根部田村より熊石村、村々名主、肝煎中」として順次廻章されていたし、熊石村では、この時期には名主、年寄が決められていて、村として自立されており、さらに、この時期の記録に「西在八ヶ村」の名が出てくるが、これは江差近郷を除き、その西在八か村、つまり小茂内村、大茂内村、突符村、三ッ谷村、蚊柱村、相沼内村、泊川村、熊石村を指すものである。これらの経過を踏まえて考察した場合、近世初頭の1600年代の後半には、熊石村は和人地内の村として成立していた。
蝦夷地
近世初頭道南地方の一部に定着した和人のなかの武力集団の長である松前氏が、豊臣政権、徳川幕府から蝦夷島主という名の大名待遇を与えられ、津軽海峡の海岸から渡島半島の日本海側西南の一部の和人居位地をもてて和人地と定めた、その範囲は東は銭亀沢支村の石崎村から、西は熊石村まで凡そ200キロメートル間で、他の蝦夷地とその属島をもって先住アイヌ人の住む地としての蝦夷地と称せられる地域であった。
近世初頭に於ては、この蝦夷他の定義も極めて曖昧であった。それは蝦夷地自体の地理が不明であったからである。蝦夷地の地理が最初に登場するのは元和4(1618)年のジロラモ・デ・アンジェリスの報告書によれば、蝦夷島は韃靼半島(アムール河流域)の一つの岬とし、これを島と訂正した同7年の蝦夷国報告書の付図では、蝦夷島を東は国縫川、西は利別川をもって二分されていると描かれており、正保御国絵図(正保元―1644年)および元禄御国絵図(元禄15―1702年)においても、石狩低湿地帯から勇払川低湿地帯にかけて蝦夷地が二分されているように描かれている。これはこの時代に北上した和人が、その大河の河口に立ってこの大島が二分されたものを絵地図として描いたものと考えられ、このように蝦夷地という島は和人にとって正体不明の島であったので、その属島である唐太(樺太)や千島の島々は全く想像だけで描かれていたので、それらの島々にはどのような人が住んでいるのかは不明なので、その住民を総称して蝦夷と呼んでいたもので、それらの人の住む地ということで蝦夷地、或はアイヌモシリ(アイヌ人の島―蝦夷国報告書)と呼ばれていた。
和人の住む道南地方を、「和人地」、「松前地」、「口蝦夷地」と称したのに対し、アイヌの人の住む地を「蝦夷地」または「奥蝦夷地」と称して区分し、和人、アイヌ人居住地の接点の地域、即ち東は亀田、西は相沼内(後熊石)に番所を設けて、両者の接触を制限した。“北海随筆”では「西は熊石、東は亀田、両所に関所ありて、是より外は蝦夷地とす。此所にて往来を改む、故なくて蝦夷地の往来を禁ず」とあるし“蝦夷国私記”では、「熊石番所…上ミ下モも入ル番所にて、蝦夷地用向の者を改め通すなり、蝦夷人も此番所より松前地に来る事ならず、日本の者も城下町奉行衆の切手なくては通行かなわず境也」とあって、熊石番所の立地性格が、和人、アイヌ人の交通の規制が第一であったと記されている。
このように和人地、蝦夷地を設けて彼我の接触を避ける政策を松前藩が執ったのは、アイヌ人と和人の摩擦を避けることにあった。松前藩の蝦夷政策(アイヌ人対策)は、徳川家康の黒印制書と累代将軍の朱印制書に見る如く、「夷の儀は、何方へ往行候共、夷次第に致すべくこと」と、「夷人に対し非分申懸るは堅く停止の事」、「夷人と直に商買をしてはならない」と幕府の蝦夷政策の根本を示している。これは豊臣秀吉よりの朱印制書の下賜を受ける際、木下半助吉政へ松前家五世慶廣が、松前氏の希望として、「諸国より松前に来る人、志摩守に断り申さず狄の嶋中自由に往還し、商買せしむる者あるに於ては、斬罪に行う可き事。右の通り御判を賜はらんと欲するの旨言上す。」(“新羅之記録”下巻、読み下し文)という願望を秀吉の制書が叶えてくれたものであるが、徳川家康のそれは、これを基調として幕府の意図を強く打出していると見ることができる。
津軽一統誌中の蝦夷地図(市立弘前図書館所蔵)
つまり和人とアイヌ人との接触を断ち、夷の事は夷次第とする基本理念を藩政の柱とし、その接触は藩の許可を受けた者のなかで交易を通じて行うものであった。しかし、蝦夷地に定着した和人は年を追って北上傾向にあったので、和人北上の極限を定めてこれ以上奥地に入ることを許さず、その制禁の場として熊石番所が設けられて、この番所からの出国手形(出切手)所持者以外の通行は許さなかった。従って蝦夷地に在ったアイヌ人が和人地に入るのも制禁された。これは家康の制書でいう「夷の儀は、何方へ往行候共、夷次第に致し可く候」という条項に反するものであるが、しかし、一面それを許すことによって松前氏の許可を受けずして蝦夷と直に交易をしてはならないという別条が崩れることになるので、このような措置が取られたものと考えられる。それでは、なぜ、和人とアイヌ人との接触を禁じたのか、その根底には定着和人の防衛力の弱さがあったので、アイヌ人との対立を回避しようとした政策の一手段と見ることができる。
近世初頭の和人数は1万4、5000人(“津軽一統志巻十”)であるのに対し、アイヌ人の数は定かではないが、「日本人と接触する以前のアイヌ人口は、それほど多いものではなく、せいぜい2~3万であろうと考えられている。」(奥山亮著“アイヌ”)といわれてはいたが、近世初頭では、蝦夷他の人口ではアイヌ人が絶対優位にあり、しかも、狩猟民族であって、常に山野をかけめぐり、体力的に長けていたので、この人達と事を構えることは、和人の得策ではないとする考えから、和人地、蝦夷他の制度が出来たと見ることができる。
第3節 松前藩の特質
徳川幕府が成立し、大名、小名が配置されるなかで、米の生産を伴わない無高の領知を持ち、蝦夷島主いう肩書のみをもって大名格付された松前氏は、全く異例の扱いであり、その藩政の維持、運用も、他領主と大きく異なるものであった。
徳川幕府が成立し、徳川氏から領知を許された者が、その領知内の米の生産が検地によって一万石以上ある場合大名に格付され、以下は小名と格付された。その領主大名は、この米の生産を主体とした貢租によって、藩の運用と家臣への秩禄が維持されていた。しかし、米を生産しない松前家領内のそれは他領主に比肩はできなかった。従って蝦夷地という地域的特質、生産物の専買、交易経済の運用、移出入荷物に対する徴役によって藩の歳費と家臣の知行に充てていた。藩と家臣への扶持、知行に代わるものとして場所があった。場所とは年代によって若干の差はあるが、蝦夷地内沿岸部を七~八十か所に分割して、一つの場所を編成した。そして石狩川や尻別川のような鮭の大量に遡上し、収入の多いような場所は藩が直接経営して直領地とし、他の場所は藩の重臣遠の知行場所とした。この知行場所を拝領できるのは、寄合席、準寄合席(家老級)、弓の間席、大書院席、中書院席(用人、奉行、吟味役等)、大広間席、長炉席(中級士分)のもので、知行主、場所持と呼ばれて、一般士分の扶持人より上級に位置付されていた。一般の扶持人(士分、徒士、足軽等)は藩から扶持の切米を貰う外、藩の直領地へ向う商船(あきない)の上乗をしたり、鮭場の上乗をし、その収入に応じて賞与が支給され、それで生活をした。
知行主の家臣が釆領した場所は、半永久的にこれを運営したが、その運営の方法は商場(あきないば)制度といわれるものである。これは知行主が1年1回夏期に藩の許可を得て商船を仕立て、現地のアイヌ人の生活必需品を満積して直航し、現地人の生産物と物々交換をして持ち帰り、これを商人に売り、その利潤で生活をするのが、商場制度である。この商船の積載持参する物品は米、酒、麹、塩、たばこ、鍋、小刀、針、古着、反物、糸、漆器、耳環、きせるなど(“新北海道史”通説一)であり、現地交換して持ち帰る品々には、干鮭(からさけ)、鰊、鯑(かずのこ)、串貝、真羽、ねっぷ(膃肭臍の大きなもの)、こっぴ(あざらしの雌)、あざらし、熊皮、鹿皮、塩引、石焼鯨、寉、魚油、干鱈、らっこ皮、赤昆布、鱒等(高倉新一郎著“アイヌ政策史”)である。この現地人との交易は利益も大きく、「蝦夷へ代(しろ)物かえに行船々、折よき時は十増倍にもなり、若しあしき折には一ばいにもなりかねる。誠に此方の子供の智恵にも劣りおろかなるものゆえ、換へ事の分量もさたまりなし。」(“津軽紀聞”)という如く、アイヌ人の文盲、計数観念の不熟等につけ込んで巨利をむさぼるようなことが、しばしばあったといわれている。これら交易をして持ち帰った商品は、松前に出店を持つ近江商人が買い取り、その利益をもって生活するのが知行主であった。そのため手代や通詞(通訳)等多くの使用人を要したので、それらの人達の住居は広壮な家に住み、江戸では五千石の大身の旗本の屋敷と同様な結構な家であると、巡見使の報告書に見えている。また、このような商場制度は、「諸士の風運上金の多少を争ひ、商人同前の心がけにて、節義甚薄し。甚きものは市中に見せ店を持、手代名前にて賣買をなすもの有。」(平秩東作著“東遊記”)としての弊害があり、松前藩士は士商兼帯であると報告されている。これは封建武士社会では最も卑しむべき行為であったが、松前藩の特性からしてこれも止むを得ないことであった。
このような交易に用いられる物資の集約、航送、管理、さらにはこれら現地からの交易品の換価処分は総て、近世初頭から松前地方に出店を持った近江商人の両浜組合によって運営されていた。従って松前藩領内の経済運営は全く近江商人によって牛耳られていた。
このような商場制度は場所の豊凶、物価の変動、多くの運営上の問題、使用人の召使い等多くの問題をかかえていたので、これらの問題を解決するには知行主が直接場所運営をせず、これを商行為に豊富な経験を持つ商人に委託し、その利益配分を受け、知行に替えるという方法がとられるようになった。これを場所請負制度という。この制度の発祥は享保年間(1716~35)といわれ、宝暦年間(1751~63)までには藩直領地を含め、これが採用されるようになった。その例として
茂入夏商場證文之事
一我等支配所茂入夏所来々乙酉年より未甲午年迄拾ヶ年之間其元江相渡候。但シ壱ヶ年ニ小判七拾両ニ相定申処実正也。右年賦之内場所脇方より出人申懸件其元江苦労ニ相掛申間舗、尤場所蝦夷共江非分申懸間敷大切に商買等可致候事。
一公儀御法度大切に相守可申候事。
但し右左隣場所と境等出入致間敷候事。
一年々船上着之砌指荷油貳斗入二樽、とれ貝貳束、干鱈五束、走り身欠四千入壱本、いづし三つ、差出可申候。
以上
右之通相定證文取為替候上相違有間敷者也。仍而證文如件。
宝暦十三年癸七月廿四日
古田 右市■(丸印)
西川傳右衛門殿
代同 清兵衛殿
同 宇兵衛殿
(滋賀短大所蔵“西川家文書”)
この証文は、余市と隣接した茂入場所の請負の証文で、知行主古田右市が壱か年七十両の金額をもって近江八幡出身の近江商人■(角一)(なかいち)住吉屋西川傳右衛門家に委託したものである。古田家は最上家家臣であったが、故あって松前に渡り、元和8(1622)年松前家の家臣となったが、累代藩の用人、奉行、吟味役等に任じられ、この茂入場所を知行する場所持の家柄であった。この例証からしても松前家の知行、扶持の特異性を知ることができる。
松前藩の秩禄維持の財源に出入荷物役があった。松前、江差、箱館の三湊を経由する出入の荷物には一分の役が課せられることになっていたが、その課税収入は、天明4(1784)年藩庫歳入一万二百両に対し、凡そ五千両で、藩庫収入の三分の一を占めるという重要なものであった。この収入は幕府への報告であり、最少の収入のみの報告であるので、直領場所請負収入を加えると凡そ総収入は三万両である。この年前後の米価は一両に対し米一石であるので、実質収入は三万石となる。米本位で成立する大名は領内の米の収量が一万石あっても、藩庫の収入になるのは半分(五公五民)で五千石以下の収入よりないので、この例から見れば、松前家は優に六万石以上の力量を持っていたと推定される。時代がやや下るが、“近江藩蝦夷記録”によれば、天保9年より13年(1838~43)までの藩庫の平均収入は五万三千三十六両で、それの石高換算では、米八斗(一石は十斗)であるから、八万石以上の収入に相当するもので、これが松前藩庫の重要部分を占めており、また、松前藩の特色でもあった。
また、藩及び家臣の扶持の方法に和人他の村知行があった。西在(松前城下を除き、熊石村までの各村)36村の知行は、直領二十八か村、家臣知行地は八か村である。直領地については、藩が直接に定めた税役を課した。その税の種類には船役、昆布役、鯡取役、二・八出稼役(熊石以外の蝦夷地への追鯡役)等の漁業役のほか、村方役等を徴収した。家臣知行地については、これらの税は藩が徴収したが、これ以外の小物成役(小額の雑税)や勝手賄(漁・農業生産物の貢納)あるいは仲間・小者等の年季供出等が行われていた。また、直領地内に於ても家臣に対して鯡納屋場の給与が行われていた。これは海岸の納屋場(海浜地)の給与と、その地先海面の鯡漁業の漁業権を認めるという特殊なもので、その場所に直接家臣が出かけて行って鯡漁業の漁業を経営したり、これを他人に貸して、その貸賃を収入にするという扶持の方法があった。これは家臣が願い出て、藩庁が認可したようで“松前主水廣時日記”に「江差村にて松前自休さ上(ママ)り魚屋場、明石豊右衛門つばな御魚屋場」を用人と思われる小林磯右衛門が願いの通り許可したことが記されている。これら許可によって所有権を獲得した納屋場について、本人及び子孫の財産としての所持が許され、売買も自由であった。
門昌庵蔵“熊石村会所日誌”によれば、
永代売渡鯡場之事
一、鯡場所壱ヶ所
西ハ蠣崎将監殿場所、熊石村ノ畠中検地
有次第
東ハ杉村勝左衛門殿鯡場所
右之通り此度代金九両ニ売渡申処相違無之候。
右場所ニ付脇より構御座無く候条證人加判、仍而如件
蠣 崎 佐 士 判
宝暦拾年辰正月十五日
證人 熊石村家来 庄九郎
熊石村 吉左衛門殿
表書之通相見無相違候。以上。
辰二月十日
年寄 藤三郎 判
同 利右衛門判
同 三之丞 判
名主 平右衛門
と記されている。これは藩門閥の蠣崎左士が納屋場の権利を、経済的理由か、漁業を行わず不用になったためか熊石村の吉右衛門に九両で売却したもので、これには熊石村家来の庄九郎が証印を押し、さらに熊石村の名主、年寄も奥印を押している。熊石村の家来庄九郎というのは、この熊石村の納屋場の管理人であったと思われる。この証文で佐士の納屋場の西隣は藩門閥で家老の蠣崎将監(廣武―波響養父)の所有地であり、東は家臣杉村勝左衛門(多内)の所有地である。また、同史料によれば、蠣崎織人、松前傅吉、厚谷新下、戸沢専右衛門、目谷又左衛門等多くの家臣が納屋場を所有していたことが記されており、この知行の方法も松前藩特異のものであると見ることができる。
熊石村会所日記(門昌庵所蔵)
第4節 蝦夷地・和人地の接点としての熊石
熊石が北海道の近世の歴史上極めて重要な地位を占めてきたことは、第2節和人地と蝦夷地、第3節松前藩の特質ですでに述べたところである、この第4節に於ては、蝦夷地と和人地の接点としての熊石で、どのような事象があり、どう経過して来たかについて述べたい。
寛文9(1669)年に発生した日高の族長シャグシャインの蜂起の戦いで、主戦場となったのは日高の太平洋沿岸から内浦湾の国縫までであった。しかし、シャグシャイン軍が国縫金山を占拠した場合、当然の如く利別川を下り、沿岸を南下して熊石から和人地に殺到することが想定されたし、また、余市の族長八郎右衛門やサノカヘン、ケララケ、カヱラレチ等の族将らが、この乱に雷同し、その付近の同志を糾合して、日本海側からの和人追放の戦いをしようという動向も現われた。そこで松前藩はその進入を熊石で喰い止めようとして、松前左衛門、蠣崎次郎左衛門、浅利小左衛門、中野六郎左衛門、蠣崎采女等が雑兵500人を率いて関内、熊石、相沼の三か所に塞門を築き西の和人地の入口を防禦する体制をとった。これは後の相沼、熊石番所と異なり、あくまでこの乱に対する備えであった。
この乱の際、熊石から「瀬田内辺迄は、兼々松前えしたがい申蝦夷共にて御座候」(“津軽一統志巻第十下”)であって、松前藩に対し協力的態度をとり、藩もこれら日本海沿岸のアイヌの族長説得のため、相沼内の族長トヒシシを派遣し、このトヒシシの説得が成功し、日本海側は戦乱を見ることがなかった。その当時、前掲書によればトヒシシはアイヌの代表者として相沼内に居住し、その勢力の範囲は関内まで、それ以北瀬田内までは、瀬田内の族長彦次郎の持分であったと記録されている。
さらに元禄5(1692)年の“松前主水廣時日記”によれば、4月3日「瀬田内三蔵、相沼内ちころなつかい御目見申上候」とあるが、この両人はそれぞれ彦次郎、トヒシシの子孫で、西部のアイヌの代表者として松前家第十世藩主矩廣に謁見したことが記録されている。この謁見のことを御目見または御目見得と称し、松前藩の公式行事であった。
アイヌ人は古来物々交換による交易を行なってきた。それは贈与と答礼の形で、自分の持ち余るものを他人に与え、その返礼としてその土地に産しないものを持ち帰るという礼式交易で、これをウイマムと称した。このウイマムが松前藩の成立後は御目見得という公式接見行事と変化したものである。
蝦夷の族長は、「時を定めて船を艤(ぎ)して日本領に来、領主を拜して土産をささげ、領主よりその代表として贈物を受けて帰航することをシャムウイマムといい、その船をウイマムチップ、それによってえた酒をウイマムサケ、あるいはウイマムトノトと呼んだが、ウイマムとは邦語の『お目見得』の訛化であるといわれている。」(金田一京助“アイヌ研究”)と記されている通り、アイヌの代表的族長に初期交易の姿を持続させながら、一方では領主の松前氏に参勤をさせ、松前氏からは返礼の形で珍らしい土産を与えて返す。その過程では、アイヌが謁見の場合、謁見場に武器を飾ったり、参入するアイヌ人が平身低頭して手をつないで通る等、服従の形式を儀式の中に取り入れていた。これはアイヌ人の「高貴の賓客を饗応に興行するもの」(高倉新一郎“アイヌ政策史”)というオムシャの方式に発していて、市立函館図書館所蔵の「蝦夷国風図絵」(小玉貞良筆)に見る如く、当初は(元禄期ころまで)は、アイヌの族長たちを賓客あしらいをして、大広間に対等に並び、土産を交換し、久濶を叙すオムシャの儀式が酒宴の形で行われたものである。これが近世中期以降になって、蝦夷地の領主松前氏の藩政整備と、和人定着人口の増加、さらには経済的優位とが重なって、このウイマム、オムシャの儀式を領主への服従の儀式に変化させて行き、領主は座敷内にあって、アイヌの族長達はその下方の土間に蓆を敷き、そこに座して礼拜し、ここで形式的には全く服従を表すように変化して行く。
このようななかで、和人地との接点にある相沼内の族長は、常に西蝦夷地を代表する族長として、松前藩の公式行事の中に組み込まれ、巡見使が蝦夷地に来た場合は乙部まで出向いて表敬訪問して、謁見のオムシャの儀式を行い、さらには前述の如く、毎年4月西部を代表する族長として領主にウイマムに参勤するを例とした。このほか最上徳内筆の“蝦夷草紙”(巻之一)によれば「一、松前より西の方に、日本道風三十里ばかりにして。見市といふ村あり、此処に代々岩之助〔原註 古は蝦夷にしてその名をイハンノシケと云ふ。という百姓あり。平日は日本の野郎鬢(びん)なれども、冬になれば月代(さかやき)を剃ず、蝦夷の体にかへて、正月七日に領主へ吉例に出る。領主は書院の前庭に荒菰を敷てこれに居らせ、領主より濁酒を給はる也。これ蝦夷の遺風なり。」(“北門叢書・第一冊”)となっていて、正月7日には、領主城内の年賀謁見礼のなかにも、西夷代表として、この岩之助か組み込まれている。これは寛文9年時の相沼内のトヒシシ、元禄5年の相沼内のチコロナッカイ、さらには岩之助(寛政3=1791年)と、累代相沼内から熊石までのアイヌの族長が、西夷の代表者とされていたものである。
松前藩が相沼内をもって和人地・蝦夷地の境界としたのは近世初頭の寛永年間(1624~43)と考えられるが、徳川幕府の第1回蝦夷地巡見使の派遣は、寛永9(1632)年の将軍秀忠が職を家光に譲った後の寛永10年7月、分部左京亮実信、大河内平十郎正勝、松田善右衛門が巡見使とし松前に来た。この巡見は西在にあっては、7月9日江良町泊、11日比石泊(現上ノ国町字石崎)、12日上ノ国泊、13日乙部瀬茂内迄船で巡見、それより西は馬足叶わずとして、ここから引き返し、東部は亀田から汐泊、石崎(共に函館市)まで巡見し、さらに松前に帰り、ここから帰航している。この第1回の巡見を以って凡そ和人地としているが、西部の場合は、乙部から相沼内までは道路も不整備で巡見不可能ということで、乙部から(か)船で沖合から熊石、相沼内方面を望見したもので、その後の巡見使の来着は、
②寛文7(1667)年6月、佐々木又兵衛、中根宇右衛門、松平新九郎
③天和元(1681)年7月、保田甚兵衛、佐々木喜三郎、飯川傳右衛門
④宝永7(1710)年6月、細井佐治右衛門(千二百石)、北條新左衛門(三千四百石)、新見七右衛門(千六十五石)
⑤享保2(1717)年6月、有馬内膳(三千石)、小笠原三右衛門(千五百石)、高木孫三郎(七百石)
⑥延享3(1746)年5月、山口勘兵衛(二千石)、神保新五左衛門(千五百石)、細井金五郎(千八百石)
⑦宝暦5(1755)年6月、榊原左兵衛(二千石)、布施藤五郎(千五百二十石)、久松彦左衛門(千二百石)
⑧天明8(1788)年7月、藤沢要人(千五百石)、三枝重兵衛(千八百石)、川口久肋(二千七百石)
⑨天保9(1838)年5月、黒田五左衛門(千五百石)、中根傳七郎(二千石)、岡田右近(千石)
の9回であるが、後の8回は総て第1回の慣行に従って蝦夷地のうちの和人地を、巡行することになっていた。この巡行査察では蝦夷地に生活する蝦夷人(アイヌ人)生活に触れる機会がなかったので、乙部村宿泊の場合西夷の代表族長が同族を引連れ、旅宿を表敬訪問して、ウイマム、オムシャを興行し、それにアイヌ人男のメッカ打(槌打)と女の鶴の舞を上覧に入れ、これによって巡見使はアイヌ人の風俗、慣習を体得して帰ることになっていたが、これも第1回の巡行の慣例に従って、その後も続けられ、それに参加するアイヌ族長と同族は常に相沼内、見市等熊石地方の人達で、稀には久遠、太櫓、瀬田内等から参加する場合もあった。この巡見使の乙部宿泊所における礼について、天明8年の巡見使に同行した地理学者古河古松軒正辰の詳しい報告書“東遊雑記巻之第十四、十五”によれば、この巡見使謁見に参加したのは、相沼内ではなく、久遠の代表と太櫓と瀬田内の男6人、女8人のアイヌ人であったが、乙部村では
宿の主近江屋兵左衛門と云者、町にての豪家なり、此所は行戻の所故に、荒々と記せり。乙部浦百餘軒の町にて、漁士斗の町にて家居悪からず。此地に於ては先例ありて、蝦夷御巡見使御三所へ御目見に出る事なり。
御目通りへ出る夷人、都合十四人なり。扠(さて)御前へ出る時には、蝦夷の礼式にや、男夷ばかり、女夷は女夷斗りに手と手を取組、雁のつらなりしやうに並び立て、夫より各頭を低くさげ、足を横へ横へと踏みて庭へ通りて、男夷はむしろの上に胡座し、両手を組みて膝の上に置て、頭はさげずして座せり。女夷は砂上に横ひざにして座せり。頭の髪は赤熊天窓(しやぐまあたま)にて、壱人の衣服は日本の地黒の絹に五色の糸にて、祝義着にする惣縫の小袖を、蝦夷衣に仕立直せしを着て、年の頃五十餘に見えたる一人は郡内縞、此外何も日本の古着を直せし衣服なり。中には蝦夷の製するアツシと称する衣もあり、是はアツシと言、木の皮を以ておりしものなり。日本の布に似たるものなり。
婦人の頭も髪を切りて、五、六寸斗にして前後左右へ童子の天窓のごとく撫たらせしものにて、耳際より後の方は剃てあり。衣は男夷とおなじ仕立にして、是も日本の古着木綿の紺の染もやうなる物なり。帯は日本の眞田、或はアツシあるひはくけ紐など有て、男女とも二重まはして前にむすびてあり。男夷は髪二、三寸、或は五、六寸ぼうぼうとはへ、眉毛黒くながし。
と謁見に入ったときの状景、風俗を評しているが、つぎ謁見の儀式については、
さておのおの座定りて、通詞役山田文右衛門出て、一札を読聞ける。
此度御巡見被遊御下向御目見被仰付
其上御酒被下候間難有頂戴可仕
右の文言を云ひわたす。音聞なれざるゆゑに、至ておかしき、口はやなる言語なり。夫より給仕人、男夷には椀の大なるを図のごとく箸を一本づゝ上に置く、一人に一つづゝ配り付る事なり。婦夷は汁椀を配るなり。酒を何れも請て、上なる箸を何れも酒の中にさし入れて、口の中にて何やらん唱へ、一雫づゝ外へちらす事なり。
というが、これは儀式の場合に、アイヌ人は必ず椀に酒を入れ、その上に木を弊った棒のイクパスイを乗せる。このイクパスイが神様と自分の間の仲介をしてくれる神聖な道具であって、筆者はこれを箸と表現している。その酒宴のうちに、次に
婦夷六人とも立上りて、鶴舞と称する蝦夷の曲をなす。此時婦夷一人、楽の譜に似たる事を謡ふ。夫より残りの婦夷、のこりなく手を打て拍子を取て、フウフウと云てくるりくるりと舞へるなり。おかしきのみにて、何というべきよしもなき舞なり。蝦夷地は家に嘉義ある時は、此鶴の舞をなして祝す。
この鶴の舞が終わると、次の男夷の弓矢の的射を供覧した上でメッカ打(槌打、しない打、すづ打、シユト打)が行われる。
夫よりしてシナヘ打ちといふ事を御覧に入るゝ。埓もなき芸ながら、蝦夷人の兵術のやうなる芸にて、法のある事といへり。男夷残りなく立て肌をぬぎて、一人左の如きものを背に負ふ。一人は前よりして両の肩を押て居る事にて、二人ともに屈したる躰に居る事なり。一人は左の如きものをもって、さもいさましき躰にて、いろいろの法をなす。その外の夷、脇の下おさへ、腕をのべかがめしてホンホンとならし、おのおの飛上り庭中かけ廻れば、擲棒を持し夷は勢ひかゝりて打たんとするを、婦夷出て声を揚て歎く身振をするなり。その後飛びかゝりて、彼背負ひしものゝ上を叩く事なり。是を入かはりはり擲き合なり。此時には男夷・婦夷ともにホミホミホミといふて、さてさて恐ろしき事なりといはんばかりの風情なり。―略―
このシナヘ打、あるいはメッカ打、シユト打、槌打というのは喧嘩口論しての上で行われる場合、或は警罰として行う場合、又は悪魔を払う場合に行われるが、どの場合でも打たれた者は意趣遺恨は持たないことを原則としている。この行事が終わって、
又初のごとく蝦夷へ酒を下されて後、蝦夷の角力をとりて御覧に入れしに、肌ぬぎにて取合事にして、外に違ひし事なし。右の蝦夷芸終りて文右衛門その役人も召され、是より蝦夷界、松前侯の領し給ふ行程を尋ね給ひしに、僅に三里余とおのおのいふ。是は古しへよりも御巡見使へ申上来りし定法の里程と聞え、図のごとくホコシの崎までは、三十里もある事と見えたり。東の山の峯を界とせしものにて、此界へはやうやう二、三里の間と思はれ侍りしなり。何にせよ古例ありて、此乙部浦より先へは御巡見使の至り給はざれば、如何やうのよき所ある事にや、幾里ある事にや知れずして、もと來りし道へ引き返る事也。
(三一書房刊、日本庶民生活史料集成、第三巻)
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