https://09270927.at.webry.info/201612/article_3.html 【旅 610 遊行柳(ゆぎょうやなぎ)】 より
3月の末に甥の結婚式が長野であり、家族で出席した。いい結婚式であった。1月に義父が亡くなり、暗い年明けになったが、甥の結婚式もあり春とともに少し明るい気持ちになった。東日本大震災の後、旅も含め東北へ出かけることが多くなった。私が落とすお金などは微々たるものだが、それでもささやかなる一助になればよいという思いもある。特に私用で福島に行くことが多い。
今回も福島からの帰りに、何ヶ所か寄った。主な目的は那須国造碑と宇都宮の二荒山神社だが、その周辺でも寄り道をした。
遊行柳(ゆぎょうやなぎ)
那須国造碑へ向かうため国道4号線を南下して、白河から国道294号線を南下した。白河で阿武隈川を渡ったが、阿武隈川はここまで上流にきて少し川幅が狭くなったように感じたがまだまだ広い。阿武隈川はここより5~6km上流でいくつかの支流に分かれるので、その上流では川幅が狭くなるようだ。
国道294号線に入り、途中、柳の並木があり、遊行柳の案内が出ていたが通り過ぎた。しかし、「ああ、芭蕉の遊行柳か」と気づき、芭蕉も『奥の細道』でここを通ったのかと思い、戻って寄ることにした。
福島県の須賀川では芭蕉は少し長く逗留したようで、そこには芭蕉記念館もある。その手前の白河から福島県となり、東北地方とされる。その東北へ入る前の栃木県の那須町芦野に遊行柳がある。栃木県側には黒羽とか黒磯とかの“黒”が付く地名がありが、福島県に入ると白河など“白”が付く地名があり、東北との境に白と黒のコントラストがあることを指摘する人もいる。
『 館山城址
「館」は「たち」とも「たて」ともいい、国司・郡司などの官舎を意味し、多くは土塁や堀を巡らした城塞をなした地方豪族の居所をいう。館山(たてやま)の地名は、現在の千葉県にある里見氏の居館跡や那須余一誕生の地と伝えられている「高館城」(たかだてじょう)が知られている。
芦野氏第2の城館である「館山城」は、切り立つ岩山の丘陵地形を利用した要害で、前館、中館、後館に区分され、東側を流れる菖蒲川を天然の掘りとした極めて堅固な山城である。山頂や山腹には土塁や郭(くるわ)跡の遺構がわずかに残っている。
芦野の地は奥州との境に位置し、室町時代には北に白河結城氏、東に佐竹氏、南に宇都宮氏と対峙し、抗争を繰り返した。この城の築城は応永年間(1394~1428)と伝えられている。この時期は、個人戦法から集団戦法への変化に伴い、武士の居館が平城(芦野氏居館)から山城へと移行し、戦略的な変革時期でもある。
その後、狭隘な地形と飲料水などの条件から、戦国時代の天文年間(1550年頃)に、東方にある御殿山(芦野城)を築城し、移転したと伝えられている。この間(約150年間)、芦野氏はこの地を拠点に那須氏の一翼として活躍したのである。
江戸時代以降、廃城となった館山城は、芦野石の石切場となり、その面影をしのばせている。ここに、芦野八景の一つ「八畳石」があったが、芦野小学校建設の時にその礎石として利用され現在はない。
芦野石は国道294号線沿いの地域で産出される地場産品である。準硬石で加工がしやすく石塔・墓地外柵・倉庫・石垣・石塀・門柱などに使用され、現在は、公園・広場の敷石にも幅広く利用されている。
芦野地区地域づくり委員会・那須町 』
説明板には「那須余一」と書かれていたが、一般的には「那須与一」と書かれている。与一は弓の名人だったので、「与」の字が充てられるようになったのだろうか。与一は源平合戦の屋島で、扇を射た功によって那珂川流域に広大な所領を与えられ、その子孫も長くこの地で繁栄した。
芦野氏は那須七騎の一つとされる。那須七騎とは那須与一の子孫だと伝わる。下野国の那須氏を中心とした武家連合組織で那須七党ともいわれる。主家の那須氏の他、一族の芦野氏・伊王野氏・千本氏・福原氏、重臣の大関氏・大田原氏の七家からなる。主に室町時代から戦国時代にかけて活躍した。それぞれ非常に独立性が強く、しばしば主家の那須氏に背く事もあった。江戸時代は那須衆として幕府に仕えた。
国道294号線沿いに、『遊行庵』と言う無料休憩所があり、そこの駐車場に車を駐めるのがいいのだが、Uターンして芦野宿の中を通って戻ったので気づかず、細い農道の脇に車を駐めた。『遊行庵』に気がついたのは帰りであった。
標柱には「国指定名勝 町指定史跡 おくのほそ道の風景地 遊行柳」とあったが、平成27年3月10日に遊行柳が国指定「おくのほそ道の風景地」の名勝に指定されたのだという。
来てみて分かったことだが、遊行柳は湯泉神社(上の宮)の参道にあった。どうも遊行柳は湯泉神社(上の宮)と縁がありそうだ。
参道を行くと柳の前に桜があった。まだ、咲く前であったが、咲くと柳の緑とのコントラストがきれいだろうと想像した。
参道の左右に1本ずつ柳の木が植えてあるが、左側の地元産の「芦野石」の玉垣に囲まれた方が、長年にわたって植え継がれてきた「遊行柳」だという。
現地石碑より
『 遊行柳の由来
遊行柳の伝説は、遊行巡化を宗旨の生命とする時宗の遊行上人と時衆が、昔この地で朽木の柳の精霊を済度したという、仏教史上の広義の史□と、その伝記地としての広義の史跡とを内容としている。
その大要は、昔々の遊行上人(宗祖上人ともいう)が巡化で芦野を通られたとき、使用の杖が根づいて、年古いつしか朽木の柳・枯木の柳とよばれる巨樹になった。星移り遊行19代尊皓上人の文明3年(1471)当地方遊行あり、その時、柳の精が老翁と化して出現、上人に古来の道を教えて後、化益をうけて成仏し、その歓びに
草も木も洩れぬ御法の声きけば、朽ちはてぬべき後もたのもし
の一首を献じた。上人返しに、
おもいきや我法の会にくる人は 柳の髪のあとたれむとは
とあ□、柳の精は消えうせた。
以来、柳は遊行柳とよばれようになり、傍らに寺が立ち楊柳寺となったという。「藤沢智寰覚書の説」
別説は遊行14代太空上人巡化の時、縁の精の女性が出現、救いを求めた。上人は六時礼讃の日中法要を修して、化度し、精は成仏したという。「遊行寺の記録の説」
それ以来、遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり、その道案内は修験南岳院がする例となり、これは今に伝承されている。
地域の伝承は上述の内の前例の筋書きであり、観世信光作の謡曲遊行柳もこの系列にあり、本伝記の流布発展に大いに寄与した。
これらは草木国土のような非情物までが、念仏の助力によって皆悉く成仏するという、法華経に基を発する大乗仏教の所産であり、感激的な済度談であり時宗の絶対的念仏思想の端的な表現である。
なお本柳には、道の辺の柳、清水流るるの柳 などの別名がある。これは西行の
道の辺に清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ立とまりつれ
の新古今集にのる一首によるものであり、この歌はここで詠んだものとの伝えあり、謡曲でもこれを取り入れている。これら別名は主に文芸の世界で用いられ、この世界でも多彩で見事な花を咲かせた。
代表的なものをあげると、道興の回国雑記(文明18年・1486)を初見として、蒲生氏郷紀行にも見え、江戸時代になると、玖也・宗因・三千風等の作品あり、次いで芭蕉奥の細道に「田一枚」の句あり、さらに桃隣・蓮阿・青房・北華・馬州等の作品が続き、蕪村に反古衾の「柳散り」の句がある。その後は暁台・白雄・風耳等が続き、現代に至るも宗教・歴史・芸能・文学関係の来訪絶えることなく、そのかみの芳躅が偲ばれている。 』
拓本をとる人がいるが、その後きれいにしていかないので、彫り跡に白く残り一部読みにくくなっていて、はっきり読めない部分がある。このようにマナーが悪いことから、寺社によっては拓本禁止の貼り紙を出しているところがある。
碑文により、遊行柳は時宗の遊行上人に関係し、楊柳寺という寺まであったことが分かった。
碑文に、
「それ以来、遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり、その道案内は修験南岳院がする例となり、これは今に伝承されている。」 とあるが、南岳院は楊柳寺の一部を継承したものと考えられている。
現在子孫の南岳院氏に遊行柳関係の文献が約40点ほど所蔵されており、最も古いものは遊行42世南門(尊任)上人から芦野民部資俊への礼状であり、寛文8年(1668)のものだという。他に染筆類に、48世、50世、53世、54世、55世、56世、57世、59世、61世、63世、64世のものがあるという。
最近でも平成3年には遊行第73世・一雲上人もこの遊行柳を訪れたそうだが、その後遊行上人が訪れているのかは知らない。
遊行第73世・他阿一雲上人は、島根大学名誉教授で1990年(平成2年)3月に遊行73世藤沢56世の法燈を相続し一雲と号した。翌年に遊行柳を訪れたことになる。一雲上人は2004年(平成16年)8月に94歳で 遷化。
現在は、遊行74世藤沢57世・他阿真円上人が法主であるが、恐らく遊行柳を訪れているのであろう。
遊行柳の傍らには、芭蕉の句碑が立っていた。
「 田一枚植て立去る柳かな 」 芭蕉
句碑は寛政11年(1799年)4月に建てられたもので、碑面下部に「江戸 春蟻建」とある。
芭蕉(1644~1694)がここを訪れたのは、元禄2年(1689年)4月19日(新暦6月6日)で、那須の殺生石と温泉神社を参拝したのち遊行柳に立ち寄ったようだ。
『奥の細道』には、以下のようにある。
『 又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某(ぐんしゅこほうなにがし)の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ 。
田一枚植て立去る柳かな 』
意訳すると、
『 また、西行法師の歌「道のべにしみづ流るゝ柳かげしばしとてこそ立どまりつれ」と詠まれた柳の木は、芦野の里にあって、田んぼの畔道に残っていた。ここの領主である戸部某(こほうなにがし)が「この柳をぜひお見せしたい」と折にふれて語っていたので、ぜひ一度見たいものだと思っていたのだが、ついに今日こうして柳の陰に立ち寄ることができた。
田一枚植て立去る柳かな 』
この郡守戸部某(ぐんしゅこほうなにがし)とは、芦野3000石の領主で旗本の芦野民部資俊(あしののみんぶすけとし)のことで、江戸蕉門の一人で俳号桃酔(とうすい)といった。芭蕉は何らかの理由があって、芦野民部資俊の名を隠したのである。
先に、「南岳院氏に遊行柳関係の文献が約40点ほど所蔵されており、最も古いものは遊行42世南門(尊任)上人から芦野民部資俊への礼状であり、寛文8年(1668)のものだという。」と書いたが、芭蕉が遊行柳を訪れたのは元禄2年(1689年)であるから、遊行上人の礼状が書かれた翌年のことである。
芦野資俊は元禄5年6月26日に死去したが、元禄2年に芭蕉が芦野を訪れたときには江戸ではなくて芦野に居た可能性が高い。
現在、遊行柳のある湯泉神社(上の宮)への参道の両側は水田で、約330年前の芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」は、今の風景の中でも通用しそうな感覚であるが、もしここに楊柳寺が建っていて、修験南岳院の修験者たちが出入りしていたのであれば、また違った佇まいがあったのかもしれない。
現地案内板より
『 遊行柳
諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳 ともいう。伝説によると文明の頃(1471年)時宗19代尊皓上人が当地方巡化の時、柳の精が老翁となって現れ上人から十念と念仏札を授けられ成仏したという。
いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。
後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現れ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の発展等に関する貴重な伝説地である。
那須町教育委員会 』
遊行柳の向かい側にも柳が植えらていた。
こちら側には、西行(1118~1190)の「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌碑と、昭和23年(1948年)に建立された与謝野蕪村(1716~1784)の「柳散清水涸石処々」の句碑があったが写真を撮らなかった。
蕪村がここを訪れたのは芭蕉が訪問した約55年後ごろらしい。その時、詠んだ句が、
「柳散清水涸石処々」(やなぎ散り、しみず涸れ、石ところどころ) である。
意訳すると、
「遊行柳を訪れてみると、その葉はすでに散り、西行が「清水流るる」と詠んだ清水も涸れはてて、川床にはところどころ石が姿を現している」 と言ったところか。
蕪村がここを訪れたのは神無月のはじめの頃だったという。陰暦の10月は冬であるが、この句からは冬だからではなく、既に遊行柳周辺が荒廃しているような感覚を受ける。蕪村の句から、「歌枕の地に来てみたが、大したことがなくがっかりした」というか諸行無常というか残念な感じを受けるのは私だけであろうか。
芭蕉訪問からわずか50年余りで、遊行柳周辺は変わってしまったのであろうか?
また、西行の「道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌は、『新古今集』『山家集』にある。
しかし、この歌は『新古今集』に夏の部で題知らずとして載っている歌で特定の柳を詠んだものではないという。
西行紀や西行物語によると、京都において題詠であり、しかも鳥羽院の求めによって詠まれたもの、院の障子の絵図を詠じたという。また、絵図の賛として詠まれたものだとされる。
確かに西行は天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、文治2年(1186年)にも東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行っているが、この歌は旅で詠まれたものではない。
それではなぜここの遊行柳が、西行の歌に詠まれた柳であることになったのであろう。
西行は、花、とりわけ桜を愛したことから、室町の初め、西行の庵にある老木の桜を題材に謡曲「西行桜」が世阿弥によって作られた。
私は、西行の
「 ねかはくは 花のもとにて 春しなん そのきさらきの 望月のころ 」
が好きである。ここには西行が愛した「花(桜)」と「月」が入っている。
謡曲「西行桜」に感化されたのが観世信光(1435~1516)で、室町後期になって、西行が那須・芦野で詠んだとされる、「道のべに……」の歌の柳を主題にして、謡曲 「遊行柳」を創作した。観世信光は、他に「紅葉狩」や「船弁慶」「鐘巻」(「道成寺」の原型)を作ったことでも知られる。
「紅葉狩」の舞台は信濃国戸隠である。戸隠、鬼無里の鬼女伝説と内容的に関連している。
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観世信光の活躍した戦国時代、能を楽しむ階層も変化し、幽玄で趣ふかい能よりも華やかでスペクタクルの能のほうがもてはやされるようになり、信光の作品にもそういった曲趣の作品が多くなった。しかし信光晩年の作品である「遊行柳」はそういったショー的な作風ではなく、世阿弥以来の幽玄を基調とする作品で、老境にあった信光の心情が反映されているとも言われる。
謡曲「遊行柳」の概要は次のようなものである。
「 一遍の教えを受け継ぐ遊行上人の一行が東北地方の白河の関にやって来ると、老人が現れ、昔の遊行上人が東北巡行のさいに通った古道を教え、そこに生えている名木「朽木の柳」に一行を案内する。
むかし西行法師がこの柳のもとに立ち寄って歌を詠んだという故事を教えると、老人はその柳の蔭に姿を消す。
夜、一行が念仏を手向けていると、老柳の精が登場し、上人の念仏に感謝し、柳にまつわるさまざまな故事を語り、弱々と舞を舞う。やがて夜も明け、柳の精は上人に暇乞いして消えてゆき、あとには朽木の柳だけが残っているのであった。
人跡絶えた古道のほとり、人知れず朽ち果てる運命にあった老柳は、念仏に巡り逢い救われる身となったことを喜び、華やかな昔を思い出して旧懐の舞を舞ったのである。 」
現地説明板より
『 謡曲「遊行柳」と朽木柳
謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関の辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ……」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。
夜ふけ頃、更に念仏を唱え回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞を通して念仏の利益を見せる名曲である。
朽木柳については、宗祖遊行上人が芦野巡化の時、使用の杖が根づき「朽木柳」「枯木の柳」と呼ばれる巨木になったとの説がある。
星移って遊行19代尊皓上人巡化の折、老翁姿の柳の精が出現して上人を案内したとのいわれから、やがて「遊行柳」と呼ばれるようになったという。何代も植え継がれて来た。
謡曲史跡保存会 』
この謡曲によりここの柳が、西行が詠んだものだと喧伝され、そして定説になっていった。
遊行柳には時宗の関係者だけでなく、謡曲の関係者の訪問も多いという。
芭蕉は西行に対して憧れに近い感情を持っていたように思う。奥州への旅も西行の訪ねた所は是非行きたいという熱意が感じられる。
西行に私淑していた芭蕉は、「道のべに……」の歌の柳は、ここの柳を詠んだものではないことを知っていたのかもしれない。しかも植え替えられた何代目かの柳を見ても感激しなかったのではないだろうか。
それでは、なぜここを訪れたのかというと、芦野資俊に勧められたことや、謡曲の舞台であったからではないか。
『奥の細道』は紀行文でもある。芭蕉は有名な神社仏閣を廻り、観光地にも寄っている。江戸時代は旅をする余裕もでき、旅の案内書がよく売れたという。今でも旅行案内書の雑誌はよく売れるように、江戸時代にもニーズはあった。芭蕉の『奥の細道』はその文学的価値は勿論、旅案内書としても好評を博したと考えてよい。今でも芭蕉は東北の観光大使である。
西行を追って芭蕉が旅したように、芭蕉を追って子規や蕪村が旅をし、現在でもそれに続く旅行者は多い。
旅の案内書としては遊行柳では、西行の歌に触れないわけにはいかない。しかし、芭蕉の思いは謡曲の「遊行柳」の方にウエートがあったのではないか。
「 田一枚植て立去る柳かな 」の解釈は、
西行法師ゆかりの遊行柳の下で感慨にふけっていると、近くの田一枚の田植えが終わってしまうほど時間が過ぎ、やがて芭蕉は立ち去ったという解釈が一般的だ。
しかし、私は先に述べたように芭蕉の思いは謡曲の「遊行柳」の方にウエートがあったと考える。
俳句は短い言葉の中に思いや感情が凝縮され、それ故に解釈には個人の自由が許される余地がある文学だと思う。それは絵画の鑑賞にも似ている。また、そういう自由な発想を生むような句が良い句なのだろう。
この句の中で田植えをしているのは誰なのだろう。考えられるのは、田の持ち主の農民、あるいは芭蕉自身かもしれないが、私はそこにもう一人“柳の精”を加えたい。
芭蕉は遊行上人のように、謡曲の中の柳の精の舞を見ているのである。柳の精は田植えをする早乙女と共に舞うように苗を植えているのかもしれない。そして立ち去るのも柳の精である。
「 田一枚 植て立去る 柳かな 」
芭蕉の後を追ってここを訪ねた蕪村は、「柳散清水涸石処々」と詠んだ。
蕪村は芭蕉のように柳の精の存在も感じられず、清水も涸れてしまい、ただ石がところどころにあると淡々と述べている。
それは柳の葉が散ったのではなく、柳自身が散ったのであり、清水が涸れたのは、柳が枯れたことを暗示し、非情である草木よりも更に冷たい石が点々と残る有様を示した。石は墓石であるのかもしれない。それは死ではあるが、成仏でもあるのだろう。そして死は新しい生への始まりなのかもしれない。
蕪村の、
「春の海 終日のたりのたり哉」
「さみだれや大河を前に家二軒」
「菜の花や月は東に日は西に」 などは、解釈などいらずストレートに胸に入ってくる。
私は芭蕉も蕪村も好きである。だから勝手な深読みをしているが、実は、「田一枚植て立去る柳かな」も「柳散り清水涸れ石処々」もそれほどよい句だとは思わない。
ただ、俳句も字面だけで表から見るよりも、俳句の背景を知って裏から見た方が面白い場合があることを芭蕉の句で知っているので、こうして現地に行って調べてからいろいろ考えて解釈するのも一興だと思っている。 (「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠んだとされる立石寺では芭蕉の勉強をさせてもらった)
風景も、表からより裏からの方が趣がある場合がある。今回、遊行柳の風景でも、それを感じた。
湯泉神社(上の宮)に参拝を終えて、参道を帰ろうとしたとき見た遊行柳は、もしかしたら精がいるかもという感じに見えた。
湯泉神社(上の宮)は、楊柳寺の鎮守だったのかもしれない。境内には那須町指定天然記念物の大きなイチョウがあった。
このイチョウの推定樹齢は400年、幹回り610cm、樹高35mである。
神社の背後は岩山であった
湯泉神社(上の宮)周辺は緑地環境保全地域になっていた。
現地案内板より
『 芦野緑地環境保全地域
この鏡山周辺の地域は、湯泉神社(通称:上の宮)の大イチョウや松尾芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」の句で有名な遊行柳など、歴史的、文化的遺産と一体となって良好な緑地環境を形成している区域で、県民の健康で文化的な生活の確保のため、緑地環境保全地域に指定されています。
貴重なみどりが失われつつある今日、私たちは祖先が残してくれたこの優れた緑地環境を将来にわたって継承していくことは、たいへん大切なことです。
指定年月日 昭和51年1月31日
指定範囲 8.19ha
栃木県 』
「上の宮」があるのだから「下の宮」もあるだろうと探して行ってみた。
下の宮は「健武山湯泉神社」という。桜のつぼみがふくらみかけていた。開花も間近であろう。この神社にも大きな杉の木があった。
現地説明板より
『 栃木県指定天然記念物 湯泉神社のおおすぎ 1本
所有者 湯泉神社
昭和32年8月30日指定
樹高 46.5m
目通り周囲 6.51m
古くから神木として、大切に保護されており、樹齢は700年以上と推定される。この境内には他に目通り周囲5m以上のすぎが2本あり、ともに神社の尊厳を保ち、数回の落雷にあいながら、今よく残っている。
栃木県教育委員会・那須町教育委員会 』
大杉の一部は合成樹脂で保護されていて痛々しい。
「東日本大震災 自然・文化遺産復興支援プロジェクト 支援事業対象遺産 公益財団法人日本ナショナルトラスト」とあり、この大杉は自然・文化遺産復興支援プロジェクトで守られているようだ。
天然記念物で東日本大震災に遭ったとはいえ、特別に守られていることに違和感を感じた。
確かにこの木も生きてはいるが、東日本大震災の悲しみと苦しみから立ち直ろうとする生きている人々にお金を遣うべきではないかと思った。
延命治療を拒む人がいるように、この樹齢700年以上とされる大杉も自然のままでその生命を終えるのがよいように思う。
この大杉こそ遊行上人に十念を授けられ成仏するのが相応しいようにも感じた。
祭神は、大己貴命、事代主命、三穂津姫命、建御名方命、誉田別命である。
江戸時代、芦原は旧奥州街道の関東最北端の宿場町として栄えていた。しかし、明治以降開通した東北本線も国道4号線もこの町を通らず、宿場町の歴史は終わり、今は静かな田舎町である。
芦野から国道294号線を5kmほど南に下った伊王野には道の駅「東山道伊王野」があるように、古くは東山道が通り、東山道は伊王野から三蔵川を遡り県道76号線を通り白河関へ続いていたと考えられている。
つまり、旧奥州街道を通る芭蕉が遊行柳を訪れることは街道から外れることにはならないが、もし西行がここを訪れたとしたら東山道から外れることになり不自然である。
また、柳の精が室町時代に遊行上人を招かざるを得なかったのは、街道から外れていたためであると考えられる。
東山道から外れた遊行柳に西行や遊行上人が来るためには一工夫必要であり、それが謡曲「遊行柳」の柳の精の役目になったとも考えられる。
芦野から国道294号線を15kmほど南下すると、黒羽である。芭蕉は「奥の細道」160日余りの行脚中、黒羽には14日間滞在した。愛弟子がいたこともあるが、少し長すぎる逗留には何かの事情があったのだろうか。
最後に遊行柳を見学しているときに気になったことを記す。
私の柳のイメージは葉が付いた長い枝が垂れ下がっているもので、夜などはその下に幽霊でも出そうな感じのものである。
秋田県湯沢市の小町堂で見た柳の垂れ下がる枝は地面に付くほどだったのを思い出す。
しかし、遊行柳は少し違うように感じた。初めはまだ4月で葉が茂っていないためだと思ったが、少し気になったので帰ってから調べてみた。
日本ではヤナギと言えば一般に枝垂れ柳(シダレヤナギ)を指すことが多く、私のイメージも枝垂れ柳だったのだ。
ヤナギの漢字表記には「柳」と「楊」があるが、枝が垂れ下がる種類(シダレヤナギやウンリュウヤナギなど)には「柳」、枝が立ち上がる種類(ネコヤナギやイヌコリヤナギなど)には「楊」の字を当てる。これらは万葉集でも区別されているという。
遊行柳の近くに嘗てあった寺の名は「楊柳寺」でまさにヤナギの寺であったのだ。そして、この遊行柳は「柳」ではなくて「楊」であった。
ヤナギの種類は多く、日本でも30種を軽く越えるヤナギ属の種があるという。
ヤナギは古くは奈良時代以前から奈伎良(ナギラ)とも呼ばれた。水分の多い土壌を好み、よく川岸や湿地などに生えている。
柳といえば彦根城の堀端にある井伊直弼が青春時代を過ごしたという埋木舎(うもれぎのや)にあった柳を思い出すが、あれも「柳」ではなくて「楊」だったように思う。
( 関連記事 『旅502 彦根城(3)』 )
空海が中国を訪れていた時代には、長安では旅立つ人に柳の枝を折って手渡し送る習慣があったという。
西行は出家して高野山にも入った。西行は四国を旅し、讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えられる。西行の四国の旅は弘法大師(空海)の遺跡巡礼も兼ねていたともいわれる。
西行は空海を通して、柳と旅人との関係を知っていたのかもしれない。
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