阿吽の呼吸、アルファ・オメガをそしてヨハネ福音書の冒頭を連想します。
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%98%BF%E5%AD%97%E6%9C%AC%E4%B8%8D%E7%94%9F 【阿字本不生】
あじほんぷしょう/阿字本不生
サンスクリット語の五十音の最初である「阿([悉曇:a])」は何物からも生み出されることのない、本来的に真理そのものであるとする教え。真言密教の代表的な教説の一つ。真言密教ではあらゆる存在とことば(音声と文字)とが不可分であると説き、阿字には法身大日如来が象徴的に顕現していて、阿字を法身そのものと見る一方、森羅万象のすべてが大日如来の顕現と捉えていることから、阿字は万物の本源に位置付けられる。法然の『三部経大意』には、各宗でも阿弥陀の三字について解釈を施しているが「極楽世界に漏たる法門なきが故」(昭法全三九)に、阿字本不生をはじめとするあらゆる法門がその三字に収まっていると述べられている。ただし、同じく法然の『逆修説法』六七ろくしち日では名号が万徳所帰たり得る根拠は仏の一字にこそあるとされ(昭法全二七〇)、両著の主張は相容れない。前者の主張については法然に仮託した主張ではないかと推察されている。
https://www.miyagawa.com/wp/%E3%80%8C%E6%9C%AC%E4%B8%8D%E7%94%9F%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E4%B8%8D%E7%94%9F%E4%BD%8D%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E9%98%BF%E5%AD%97%E6%9C%AC%E4%B8%8D%E7%94%9F%E3%80%8D/ 【「本不生」と「不生位」と「阿字本不生」】より
「本不生」と「不生位」と「阿字本不生」
真言宗の僧侶の位牌において、位号のところに書くのが、「本不生ほんぶしょう」とか「不生位ふしょうい」という言葉です。
一言でいえば、さとりの世界を象徴した位号です。
真言密教の根本理念に「阿字本不生」という概念があり、「阿字より出でて阿字に還る」といわれます。
およそ世の中のあらゆる生きとし生けるもの、あるいはさまざまなものごとというものは、すべて縁が集まって生まれきたったものです。
縁によって生じたものであるから、もとよりはじめがあり、本源の大元であるわけです。
しかし存在の根本のあり方についていえば、本来無自他、執らわれのない、実体のないものであります。
つまり不生、本不生といわれる姿で、それがさとりの境地というものでしょう。
阿字とは、いのちの根源、ものごとの原点であり、その無量無辺にしてはかり知れないありようは、まさに真空妙有です。
いのちがよってきたるべき根源の阿字が不生にして不滅であることは、死もまた不生にして不滅ということです。
死ぬということは、とりもなおさず永遠なるさとりの世界に入ることであり、静かにしてやすらかな境涯に帰ることであります。
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「阿字」と呼ばれる、人間の知性と理解を遙かに超えた仏の「本不生」(本来不生の略語で本来何かから生まれたものではないという意味を持つ)
の特質を持った、あらゆる仏の本性をあらわす梵字を掲げ、各々の仏像を優雅に表現できるようにしています。
慈氏とはマトレーヤの訳語で、慈悲ぶかき者の意。
弥勒菩薩に同じ。密号の迅疾とは法輪を転じることの迅速なることをいい、纔発心転法輪(発心するや否や悟りを得て法を弘める)菩薩とも称す。
種字のアは通常は本不生(縁起・空の意)を意味する。
生とは生老病死を指し、輪廻の法を意味している。
すなわち、不生とは輪廻の世界を越えて涅槃=大慈に到達していることを表す。
弥勒は釈尊に継いで未来に成仏する菩薩で、現在は兜率天を住まいとしている。
その弥勒の浄土に死後上生したいという信仰が盛んである。
五鈷鈴は鈷鈴の一であり、五智とは金剛界の大日如来がその身に持っている智徳のすべてでありますが、四方にある四仏に四智を配当してあります。(資道什物記)
修験道では我々自身が阿字、即ち自身が本来不生のものと云う根源を悟ることにより、即身成仏できると考えるので、阿字不生の宝鈴をえりに懸け・・と観念するのです。
阿字不生は阿字本不生と同じで密教の根本義とされます。
不生とは元々あったもので後から造られ出来たのでないということで、阿は言葉の最初であり、一切諸法の根源であり、それを人格的に表すと大日となり、その機能が図示されたものが曼荼羅です。
修験道では我々が阿字、即ち自身が本来不生のものと云う根源を悟ることにより即身成仏できると考えます。
第七 覚心不生心
物質に実体性がない(無我)だけではなく、自分の心に起こることも、実体がなく、本来不生であると悟る。三論宗の境地。
「心に映るものは本来生じたり滅したりせず、心は本来静かに澄みわたっている。」
この時、心主(心の主体)は自由自在になり、物の有る無しに迷うこともなく、自利・利他の行為を心のままに成すことができる。
この絶対の自由の状態を心王という。
それを悟れば、「遂にとうとう、阿字門(万有一切の本源を不生阿字で象徴する部門)にはいったのである」と大師は説かれる。
本来生起しないとは、「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」の八つの不の意味である。
寂滅平等の真実の智恵に住して失うことがない。
https://blog.goo.ne.jp/igitanai/e/450b985f7f781f6a50e8f8b1d6874e0c 【袴谷憲昭の『本覚思想批判』について】より
暑い日が続く。蛍が飛ぶ季節になった。 川面に揺れる光を追いかける。袴谷憲昭の『本覚思想批判』を読んだ。
以前、硲慈弘の書いた『日本仏教の開展とその基調』を読んだときに、道元が本学思想を批判している箇所等があり、感心した記憶がいまだ新しいが、その批判をより鋭利にした内容になっていた。
要は、本覚思想は仏教ではない、というのが袴谷の主張だ。
彼によると、仏教のポイントは、時間と利他と言葉を重視するものであり、それに反する思想は仏教ではない、と断言するものだ。
したがって、不二、即などの考え方は、場所に根ざした考え方であり、言葉軽視に連結することになり、仏教ではない、と主張している。
確かに、不二や即などの思想は、体験重視の神秘主義に陥りやすく、自ずと言葉軽視に連結しやすい。
禅といっても、日本で言えば、道元と栄西などが有名だが、彼が批判する禅は、曹洞宗に属する彼の批判の対象は、栄西の臨済宗だ。教外別伝などの用語は、悟りは言葉では伝えられないことを意味していることから、もちろん仏教ではない、ということになる。
彼によると、本覚思想が流行りだすきっかけを作ったのは、中国で創造された『大乗起信論』にあるとしている。要は、中国の土着思想である老荘思想を仏教らしくアレンジして創造したことが本来の仏教を骨抜きにしてしまった、と主張している。
彼によると、黒田俊雄の顕密体制という概念も、本覚思想という概念に置き換えたほうがより明確になると主張している。その根拠は、日本における顕教、密教の双方に本覚思想が多大な影響を及ぼしているからだ、と主張している。
https://ameblo.jp/kkokrjp/entry-11897460099.html 【ヨハネによる福音書冒頭の言(ことば、ロゴス)は神の霊であり、キリストではない。】 より
6月30日の記事、聖書に書かれてある「この宇宙の初めと終わり」、 A to Z
http://ameblo.jp/kkokrjp/entry-11886513726.html で「この宇宙の初め、始まり」は創世記の冒頭、
1:1はじめに神は天と地とを創造された。
1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
(創世記)に書かれてる、と説明した。
この宇宙が始まる前には、神の霊(宇宙意識)ただひとつ(ひとり)だけが存在していて、その神の霊がこの宇宙を創ったのである。
これと同じことが新約聖書にも書かれてある。
1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2この言は初めに神と共にあった。
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
(ヨハネによる福音書)
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4っつある福音書のひとつ、ヨハネによる福音書の冒頭である。
私はこれは創世記の冒頭と関連している、というか同じだとしか思えない。
ここに「言(ことば)」(原典はギリシャ語のロゴス)とあるが、これは創世記の「神の霊」と同じだと思われる。
ロゴスの意味を調べると、
大辞林 第三版の解説
http://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9
ロゴス【logos】
①言葉。意味。論理。
②言葉を通して表された理性。言語・思想・理論など。
③宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法。
④キリスト教で,神の言葉。また,それが形をとって現れた三位一体の第二位格であるキリスト。ロゴス-キリスト。と載っている。
この中から日本語訳では、言(ことば、言葉)を取ったのである。
聖書の神は、この中の
③宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法。に近いかもしれない。
しかし、この意味自体がこのヨハネの冒頭の記述から導き出されたものではないか?とも思える。
そうすると、ロゴス【logos】の本来の意味は、①言葉。意味。論理。
②言葉を通して表された理性。言語・思想・理論など。ではないか?と考えられる。
日本語訳では、最も一般的な
①言葉。意味。論理。を採ったのだろうが、②言葉を通して表された理性。言語・思想・理論など。に注目していただきたい。
ここに「思想、理論」とあるが、これは「思考、想念、意識」あるいは「意識体、想念体」とも考えられる。
「意識体」とは、いわゆる「宇宙意識=神」である。
そうすると、
1:1初めに言があった。
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
とは、
初めに意識(宇宙意識=神の霊)があった。
その意識(宇宙意識=神の霊)が全てのものを創った。
となり、これは創世記冒頭の記述と全く同じ意味になる。
もし、このヨハネの冒頭が、
1:1初めに意識(神の霊)があった。
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
と日本語訳されていたら、印象は全く変わっていたはずだ。
私としては、この訳の方が適切だったのではないか?と思える。
それが「言(ことば)」と訳されてしまった為に、かえって色々哲学的に考え過ぎてしまったのではないだろうか?
では、「言葉と意識」の関係をもうちょっと考えよう。
人間は自分が考えていること、思考、思想、理念を相手に伝える時は言語、言葉を使う。
では、自分一人だけで何かを考えている時はどうだろうか?
人間は目を瞑って思考する時は「ことば、言語」を使って考えている。
夢ではイメージや絵、画像、動画を見ている(と感じている)が、覚醒している状態では言葉を使って思考、思索している。
では、この宇宙が始まる前はどうだっただろうか?
この宇宙が始まる前には、神の霊がただ一人だけ存在していた。
それは、「人間が暗闇、無音の状態で瞑想している、思考している」というのと同じ状況である。
そこには思考(意識)=ことばしか存在していない。
だから、神の霊=ことば、と言えるのではないだろうか。
ただし、ことばというのは「思考の表現、伝達の手段、道具」にしか過ぎず、本体はあくまでも意識、想念、思考の方である。
意識、思考の方が主体、主人である。
ことばはその道具、奴隷である。
この意味からでも、言(ことば)よりも意識、想念、思考、神の霊と訳した方が適切だった、と思える。
では、これをふまえてヨハネによる福音書の冒頭の記述をもう少し詳しく読んでみよう。
1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
創世記では「初めには神の霊しか存在していない」
だから、
>初めに言があった。
からも「言=神の霊」と言える。
>言は神と共にあった。言は神であった。
1:2この言は初めに神と共にあった。
この表現も「言=神(の霊)」としか解釈できない。
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
これも「言=神の霊が全て、万物、この宇宙を創った」という意味だ。
1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
これも「神の霊は(永遠に)生きていた。神の霊は人の光であった」
と訳し、考えた方がいい。
1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
これは創世記の
1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
と対応していて、同じようなことを表している、と考えられる。
特に「そして、やみはこれに勝たなかった。」という表現は、
22:3のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
(ヨハネの黙示録)
の先取り、予兆、伏線である。
夜=やみ、闇だからだ。
ここを意識して書かれた文であろう。
これは「光の子(天使)が闇の子(悪魔)に勝利して地上天国=天使王国が確立できた」
という神=人類の最終目標、最終到達地点を表している。
このように、創世記の冒頭とヨハネによる福音書の冒頭は、類似している。
どう考えても「同じ意味であり、同じことを表現してる」としか考えられない。
私は、聖書の真の作者(天使)は、
ヨハネによる福音書の冒頭と創世記の冒頭を、両者共にお互いを意識して書き、、(言葉、書き方は違っていても)同じことを表現した、と考える。
以前に「重要な事項は必ず二書以上に同様な意味の記述が見られる」
と説明したが、これもその法則にならってのことだろう。
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