俳句の海に潜る

https://hiyakkoikiton.hatenadiary.jp/entry/20171108/1511027521 【俳句 アニミズム 芭蕉×酒堂】より

俳句の海に潜る

中沢新一と小澤實の対談集『俳句の海に潜る』、ふたりともたのしそうだ。

ふたりを結びつけたのは細見綾子の〈そら豆はまことに青き味したり〉。歳時記では解説されることのない蚕豆(そらまめ)のもつエロティックな象徴性、俳句なるもののつよさ。

中沢  俳句は必ず季語を立てないといけない。季語を立てる時は気象も関係する。四季の動植物の問題もある。動植物と気象を立てて、それを季語にして詠むという芸術の、一種のルールですね。すごく重要な問題だと思う。つまりそれは「人間の目で見るな」ということです。

貨幣、言語、権力といった社会性から離れていき、「言葉に作り替えられていない世界」をもとめる。これが松尾芭蕉の『おくのほそ道』だという。

「和歌は基本的に優美な文明に組み込んでいく。マイルドなかたちに自然を組み込んでいくことによって制圧するということが和歌の基本ですが、俳句はそれを否定した」(中沢新一)。

中沢  俳句で最悪の評価を与える時「月並(つきなみ)」という言葉がありますね。あの言い方はなかなかいい。記号的ということですね。

中沢新一と小澤實はいろんなことばを行き来するが《アニミズム》も《漂泊》もヒトの眼をすてて偏在する方法のようだ。正岡子規の〈小夜時雨(さよしぐれ)上野を虚子の来つつあらん〉。松尾芭蕉の〈川上とこの川しもや月の友〉。

「どんなに愛する相手であっても、その人や物との間には『無』の間隙が空いていなければならない」(中沢新一)

小澤  残酷さというのは俳句の魅力の一つです。


https://bookmeter.com/books/11279601 【俳句の海に潜る 感想・レビュー13】

こぐま

中沢さんが遠くまで石をぶんなげて笑いながら去っていき小澤さんがあとでその軌跡をていねいに分析するという感じ そのコンビネーションがいがいと良い 最後に置かれた虚子とアニミズムについての小澤さんのひとり反省会がすばらしく示唆に富んでいました 中沢さんは折口論も書いていたはずだが和歌の完全否定がそことどう辻褄あっているのかしりたくなった

naoudo

俳句雑誌「澤」主宰小澤實と人類学者中沢新一の対談。俳句という詩が世界を認識する最前線のもの。一句を作るということは死者と会話し交流すること。西行と芭蕉は自然に対して接触する表面を浸透膜のように薄くした。芭蕉のみちのくの世界は「文明によって完全に作り替えられていない世界」。全ての言葉を使って世界のすべてを詠む。後ろめたいものに本質がある。俳人は自分の体が動かなくなった時、ものすごい内部運動をし始める。日本人の心性の深いところには揺れ動いて流れていく「海」がある。船底の下にある無を感じ取る力。五七五の定型感。

komamono_rimi

出会えて良かった~ わくわくして久しぶりに内からエネルギーがわきました!! 西洋文明、西洋的思考を刷り込まれてる身としては、日頃うっすら違和感を感じつつも、整理されずじまいで混乱している。または無自覚であることが多かった。 この本のおかげで、ひとつ大きくはっきりした。俳句の技術を教養を身に付ける以前の大問題「俳句のアニミズム」。 アニミズムとは、西洋由来のニ元論的なものとは異とする。 一元論的アニミズム。相互貫入。人間的視点では見ないということ。私が韻文でやりたかったことだ。

かふ

芭蕉は海民という説は面白かった。短歌が中央の政治の基盤となる祈りの歌ならば、俳句は外部から揺さぶっていく自然への変貌と賛歌。自然=アニミズム。その前に『「神道」の虚像と実像』を読んでいたので神道に結びつけるのはどうかなと思ったけど縄文文化のアニミズムの信仰が蛇という話だったが、ヤマトタケルが退治する八岐の大蛇はそういう川=蛇を統治するということだった。あとアンデスなんかの太陽の光の軌道とか蛇で表す場合もあるとか。自然信仰を断ち切る刀と人神として考えればいいのか。それでも蛇のお守りは残る。

かふ

日本では明治までは舟による交通が発達していたというのはなるほど、芭蕉はてくてく歩く人のイメージだったので舟で旅していく芭蕉はなるほど新たな読みの視点だと思いました。明治以降なんですね、箱庭的な俳句は。

Asako Nakamura

面白かった!でも、他の方の感想にもあるとおり、中沢さんの言い方は断定的で、強引な感じを受けました。でも、俳句のすごさを感じられて興味深かったです。喩の発見こそすべての宗教と文化の始まり、なるほどと思いました。

タイコウチ

中沢新一と俳人小澤實の対談と、中沢新一による短い講演録が2本。松尾芭蕉や飯田蛇笏の話題を中心に、中沢の「アースダイバー」に引きつけて、俳句のアニミズムや古代性(縄文感覚)への志向が語られる。面白くないわけではないが、中沢新一の話はいつものごとく衒学的で大雑把、本書では和歌を貶め俳句を持ち上げているが、まあ話半分で、というところか。一方の小澤氏は中沢に対してなんとなく遠慮がちな印象でやや物足りない。<採る茄子の手籠にきゆァとなきにけり> 飯田蛇笏。<おおかみに蛍が一つ付いていた> 金子兜太。

メルセ・ひすい

ネタバレ深川・甲州・諏訪を漂い、縄文の古層へと踏みこむ。詩とアニミズムの回路をきりひらく、人類学者と俳人の対話を収録。ほか、中沢新一の講演記録なども掲載。『俳句』等掲載に書き下ろしを加えて単行本化。

袖崎いたる

詩学とは結局のところ言葉の物質化の方法論なのかしらね。本書は主に芭蕉の人と句を手掛かりに、水平方向へと地平を展開する文化が誤魔化そうとする所の垂直方向としての自然の古層へと触れようとする意志…としての俳句を考える。気になったのは小澤さんが俳句の評価に、所謂テクストとしての句に対して、作者がその句の醸すスペクタクルを実際に経験したのか否かをかなり重視していたこと。作者と作品は分けられるべきか否かの問題はビミョーな所だな。中沢さんの方は相変わらずトリックスターを譲らない。彼からすれば能年玲奈は縄文人(笑)。

がんちゃん

俳句はアニミズムであり、アヴァンギャルドであるという考察に思わず膝を打ちました。旧人類と新人類を分けた脳の働きやロゴスとレンマについてなど、とても興味深かった。仏教思想との共通点や芭蕉はアースダイバーだったという指摘にも納得。俳句をやってみようかな、などと不遜にも思ってしまいましたよ(笑)。

でろり~ん

中沢新一と俳句という結びつきが全然無かったので読んでみた。ほほう、そですかアニミズムですか。垂直方向ですか。アースダイバー? 相変わらずちと強引な落とし方も感じました。今回の対談相手、小澤實という人は知りませんでしたが、それも当然、俳句とか、ちっともだもんねえ。ま、好きではあると思うのだけれど、外縁から眺めているだけ。それでも伝わってくるものはありました、と思いたい感想でした。でも、アニミズムと日本人のアイデンティティって本当に普遍的確実なものなんだろうか。それ自体文化的なものだという気もするですよ。

くり坊

小沢新一(人類学者? 宗教学者?)と小澤實(俳人)の交流録で、対談と講演録と対談から派生したエッセイが収録されています。書名が『俳句の海に潜る』なので、俳句に興味のない読者はまず手に取りそうもない本ですが、普通に文化論として面白かったので、読者が限定されてしまいそうな点は、もったいないなぁと思います。でも、やはり俳句の話なので仕方がないか‥‥。(俳句といっても、芭蕉=「アースダイバー」説を語り合うので、俳句の細かいことは置いといて、芸術全般に興味のある読者が大掴みに読むのに適していると思います。)

吟遊

ニューアカの旗手であり、人類学者として学際的な活動を続ける中沢新一さんと、芭蕉をどこまでも尊ぶ姿勢の俳人、小澤實さんの対談。中沢さんが8割方しゃべっている気がする。笑 「俳句とアニミズム」のところ、小澤さんがアニミズム俳句と呼べそうなものを10ほど列挙するのが面白い。また、飯田蛇笏には両者とも思い入れが深いらしく、蛇笏に関する語りは読み応えがある。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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