ムスカリのつぼみを守る朝日かな 五島高資
The buds of grape hyacinths
rising sun is watching over them
for a bright future Takatoshi Goto
https://www.sankei.com/life/news/170115/lif1701150013-n1.html 【寒さあればこそ花も咲く…寒波の入試センター試験 1月15日】 より
アサガオの鉢植えが2つある。1つには絶え間なく光を当てる。もう1つには長い時間、箱で覆って闇を与える。箱を取り去った後に等しく光を当て続けると、つぼみをつけて花開くのは、闇を与えた方だという。
▼チューリップの球根は夏のうちにつぼみを宿す。そのまま暖かい中で育てても開花はしない。10度以下の低温に3、4カ月さらして初めて、つぼみがうずき始める(田中修著、『植物のあっぱれな生き方』)。長い夜を経て、風雪の試練を越えてようやく花は咲く。
▼生き物には体内で時を刻み、生活のリズムを整える仕組みがある。「生物時計」という。苦難や挫折により人が磨かれていくのは、植物と同じく針が冬を感知している証しだろう。若者にも、可能性の芽吹く「春」に備えて耐えなければならない厳寒の季節がある。
▼大学入試センター試験がきのう始まった。折しも日本列島を覆ったのは「数年に1度」の強い寒波である。各地に大雪を降らせ、試験時間の繰り下げなどに慌てた会場もあった。「雪は天から送られた手紙である」の詩情には遠い、受験生泣かせの試練だったろう。
▼小欄はセンター試験の前身となる共通1次試験を受けている。正しい答えを割り出しても、塗りつぶすマークシートの枠が1つずれただけでおしまいになる。鉛筆を握る手は震え、冷えた指先に思考が止まる。そこに身を置いて初めて分かる、厳しい「冬」だった。
▼寒さを通り越して、痛みが骨の髄を走るような一句がある。〈すさまじき垂直にして鶴佇(た)てり〉斎藤玄。受験生もまた、容赦ない吹雪の中で両足を突っ張る孤独な存在に違いない。針は確実に前に進んでいる。「天からの手紙」が「サクラの便り」へと形を変えるまで、あと少し。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498742995.html 【斎藤 玄(さいとう・げん)】より
青き踏むより踏みたきは川の艶 斎藤 玄
(あおきふむ より ふみたきは かわのつや)
大正3年北海道函館市生まれ。
昭和13年杉村聖林子に誘われ、西東三鬼に師事、「京大俳句」に拠り作句を始める。
15年「壺」創刊、主宰(二度の休刊あり)。
石川桂郎のすすめで石田波郷に師事、「鶴」同人。蛇笏賞受賞。句集に『玄』『狩眼』『雁道』など。55年旭川で没。
他の作品に、
すさまじき垂直にして鶴立てり たましひの繭となるまで吹雪けり
凍鶴の佇ちては神にそよぎけり 死期といふ水と氷の霞かな
地吹雪や倒るる馬は眠る馬 癒ゆる日のために見ておく夏大空
などがある。
西東三鬼や京大俳句という新興俳句(あるいは無季俳句)と、「古典と競う」と称した石田波郷の格調高い俳句と、両方の洗練を受けた、というのがユニークである。
現代俳人の中にもそういう人はいる。
新興俳句(あるいは前衛俳句)と伝統俳句の両方を経験してはいるが、私の知る限り、やがてはどちらかに落ち着くようである。
(別にそれが悪いというわけではないが…)
斎藤玄の場合、両方の良さをダイナミックに融合しているように思える。
「青き踏む」というのは、草が萌えいづる春のよろこびを表現した季語である。
季語というのは、京都の季節・風土をもとに決まっている。
作者は、その「青き踏む」よりも、きらきらとした「川の艶」のほうが「春の喜び」があるのだ、と言っている。
おおげさに言えばこれは「青き踏む」の季語の本意を否定している。
わが地、北海道では、この川の輝きにこそ、春の訪れがある、と言っている。
雪解け水をたっぷりと含んだ川が陽光を受け、きらきらと輝いているのだろう。
わが風土、大地を高らかに讃えている。
既存の季語の本意を否定するという新興、前衛の精神、そして風土や自然の息吹を愛する伝統俳句の精神、そういったものがダイナミックに混在している。
少し理屈っぽい表現という感じもあるにはある。
しかし、「川の艶を踏みたい」という瑞々しい詩的感性はやはり素晴らしい。
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