https://plaza.rakuten.co.jp/articlenine/diary/?PageId=3&ctgy=16 【芭蕉の紀行文を読む】より抜粋
佐藤勝明先生の「おくのほそ道」、まずは芭蕉の生涯をたどる。
貞享4年 1687年8月14日(旧暦)。鹿島神宮との領地の訴訟のために深川に仮住まいをして芭蕉と友人になった仏頂和尚を訪ね、芭蕉、曾良、宗波の3人は、鹿島に月見にでかけます。先週の続き。ところが雨!
鹿島紀行 本文
=ひるより雨しきりに降て、月見るべくもあらず。
麓に 根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。 すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。
暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。
月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。
かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。
おりおりにかはらぬ空の月かげも
ちぢのながめは雲のまにまに 和尚
月はやし梢は雨を持ながら 桃青
寺にねてまことがほなる月見かな 桃青
雨にねて竹おきかへる月見かな 曽良
月さびし堂の軒端の雨しづく 宗波 =
昼ごろから雨になり、夜になっても月は見えない。(雨の十五夜を雨月というそうです)仏頂和尚を訪ねてそこで寝ます。嬉しく楽しい再会!
暁のころに晴れ間がでてきたというので、和尚に起こされます。月の光、雨の音、その風情には言葉もありません。これでははるばる来た甲斐もない・・・と思いつつ、和尚の歌に触発され、続けて桃青(芭蕉)、曾良、宗波も句を詠みます。
不易流行の思いを詠んだ和尚。
雨後の流れる雲に月が走っているようだ・・・と思う予。寺に宿ってみんな敬虔な顔つきで月見をしている。
雨を待ちながら・寺に寝て、をふまえて、竹も起きあがる自分たちも起きる月見・・・と曾良
月見をしているお堂の雨のしずくを見ている宗波。
それぞれの視点でこの鹿島の月見を詠んだのです。この鹿島紀行で注目されるのは、和尚に起こされて感銘を受けるまでを文章に書き、月見以後は発句のみが記載されている。
そういう趣向になっていくらしい。
鹿島紀行で旅づいた芭蕉は、再び西へ旅立つ・・・のだそうです。
では、おくのほそ道 象潟
曾良日記では
15日 雨。吹浦泊
16日 雨。船小屋に雨をさけ。のち佐々木孫左右衛門宅で衣類を借り濡れた衣服を乾かし、うどんを食べ、ちょうど祭りで孫左右衛門宅に客があったので向かいの宿屋に移る。名主?の弟の今野加兵衛が様子を見に来てくれる。
17日 小雨。朝飯後景色を見ながら蚶満寺へ。昼よりやむ。夕飯後象潟を舟で遊覧。加兵衛は茶、酒、菓子など持参。帰って加兵衛の兄の今野又左衛門が来て象潟の縁起などの絶えたのを嘆く。
16日に、弥三郎=低耳が同行。彼は美濃の商人でこのあたりを歩いている芭蕉門下の人。この人のおかげで芭蕉は北陸路の宿を確保することができたそうです。
ではおくのほそ路本文
「象潟」
= 江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、 雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作(もさく)して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷 と、蜑(あま)の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽(はれ)て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟 をうかぶ。先、能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江 上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。=
江山水陸の風光数を尽くして、は、2通りの読み方ができるそうです。
1・今まで幾つもの美しい景色を見て象潟に着いた
2・象潟には幾つもの美しい景色がある
どちらにせよ、象潟の美しい風景を楽しみにしている予。
酒田の湊から山を越え磯をつたい、砂を踏み、その間十里。日が傾いた頃、着いてみると潮風は砂を吹き上げ、雨が降って鳥海山は見えない。
さくげんという16世紀の禅僧が中国に渡って、雨で景色が見えない中、蘇東坡の「西湖」の詩を思い想像したという。予もそれにならい、雨もまた良いと、雨が晴れた景色を思い、海人の苫屋にひざを入れて雨の晴れるのを待ったのでした。
これは、能因法師の「出羽の国にまかりてよめる」
*世の中はかくてもへけり象潟のあまのとまやをわが宿にして
に倣い、予も「あまの苫屋」を引き出してみたのでした。
翌日は好天。朝日の照る中、象潟に舟を浮かべ、まず、能因島に舟を寄せ、3年間こもったという跡を探します。その向こうの岸に上がれば西行法師の歌に詠まれた桜の老木=西行桜がそのかたみを残しています。西行のうた。
*象潟の桜は波に埋もれて花の上こぐあまのつり舟
江のほとりには陵があり、神功皇后のお墓という。しかし、ここに神功皇后が来たということを聞かない。どうしたことだろうか。
☆正確な日時をメモした曾良随行日記と創作としてのおくのほそ道、でしたが、各地で待っている多くの人たちに歓待されての旅は続きます。 最後の神功皇后の件は、観光客としての気軽な疑問・・・・だったらしい。
今週はここまででした!
古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」まずは芭蕉の生涯から。
貞享4年1687年秋、鹿島への月見の小旅行を「鹿島紀行」にまとめた芭蕉。鹿島紀行は月見までが文章で、その後は句集となっています。
この年の冬、芭蕉は再び東海道を西に向かいます。笈の小文の旅といわれるものです。
貞享4年10月、深川を発ち、熱田などを歴訪ののち、罪に問われた杜国が伊良子崎に隠遁しているのを訪ね、伊賀上野、須磨明石、岐阜、更級で月を見て善光寺にも参拝、貞享5年1688年8月下旬、深川に帰りつきます。
笈の小文は、江戸から須磨まで。芭蕉の自筆原本が残存。鹿島紀行によく似た構成で、はじめに文章がありのちは句集の形だそうです。
芭蕉の死後、宝永6年1709年乙州が「笈の小文」の名をつけて出版しました。
では、出立のシーンから。
=神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
*旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉
*又山茶花を宿ゝにして 由之
岩城の住、長太郎と伝もの、此脇を付て其角亭におゐて関送りせんともてなす。
(井出長太郎=主君も家臣も俳句に傾倒していた岩城の内藤家の家人)=
意味=貞享4年10月、神無月のはじめ、空模様は晴れるとも雨ともつかない様子な中、わが身は風に吹かれる木のような気分。
*初しぐれの中を出立する私は、これから旅人と呼んでもらうことにしよう♪どこか誇らしい芭蕉さん。
*そして、あのときのようにまた山茶花の咲く家々に泊まるのでしょうね。(野ざらし紀行の笠にさざんかの花びらの句を踏まえて、風流、風狂の旅を!)
皆が別宅に招いてくれたり、送別の会を開いてくれたりするので、何か特別の人になったような気がする芭蕉さんなのでした!
では「おくのほそ道」本文
= 此寺の方丈に座して簾を捲(まけ)ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやゝの関、路をかぎ り、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異な り。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理なにくふ神祭り 曾良
蜑(あま)の家や戸板を敷て夕涼 みのの国の住人低耳
岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る
波こえぬ契りありてやみさごの巣 曾良 =
蚶満寺の表座敷に座ってすだれを巻けば(白楽天の詩や、それを引き合いにした枕草子などを念頭に置いた予。
南には鳥海山が空を支えるかのように天に向かってそびえて、その山の姿は江の水にも影を映している。(こののち、江戸期に大地震があり、陸地が隆起して象潟は陸地になってしまったので、芭蕉の見た風景は今はない。恐るべき自然の力!)
南に鳥海山、西にむやむやの関(今は、にかほ市象潟町関)、東には秋田への道、北には海。
ここから松島との対比。松島は江のうち三里、ここは一里。見たところは松島に似ているが、違う点もある。松島は解放的で明るい。象潟は憂い悲しみ閉鎖的で暗い。
芭蕉は、そとうばの詩をふまえたさくげんの詩を、松島と象潟の印象に表現。しかし2つの間に優劣はつけていない。どちらも魅力的な風景なのだ。
それから5つの句が並びます。
*象潟や・・・雨に濡れているねむの花は、憂いつつ唐の美女西施がねむる姿を髣髴とさせる。
*汐越しや・・・降り立った鶴の足がぬれていかにも涼しげだ
祭礼 ここに文章を入れると散漫になるので書いていない。
*象潟や・・・祭りに皆は何を食べるのだろう
*あまの家や・・・漁師の家では戸板を出して団欒の夕涼み
*波こえぬ・・・みさごは海岸の岩に巣を作って、それは波が越えないという約束でもあるのだろうか
ここに2つの歌が想起される
*君をおきてあだし心を我がもてばすゑの松山波もこえなん
*契りきなかたみに袖をしぼりつつすゑの松山波越さじとは
みさごは、波が越えない(危険=無常)ことを信じて、そこに巣を作っているのだろう。
祭礼の日、年に一度のハレの日に、漁師の家族が食事をしている、そんな一家をほほえましく見た旅人が、みさごの巣に信頼関係を見てほっとする・・・・という一連の句が出来上がっている。
説明文を省いて、句によって読者に連想させているのです。
今週はここまででした。
佐藤勝明先生のおくのほそ道は、越後路でした。
まずは芭蕉の生涯から。
笈の小文の旅は、貞享4年10月。基角邸での餞別の会をはじめ、旧友、門人たちが招いたり訪れたりして名残りを惜しんでくれての出立でした。翌貞享5年8月下旬に深川に戻ります。(その年の10月に元禄になるらしい)
笈の小文の序の終わりのほう。
=西 行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友 とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣 を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。=
自分は俳諧の道を好んでやってきた、いろいろな時があったが、俳諧は、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶、などの風雅に続くものだろう。天地万物の創造主や、その作った自然の流れのなかに風雅がある。
花も月も自然の美。見たものが花でないとき、その人は夷狄と同じ、見たものが月でないとき、その人は獣と同じ。美と感じられる心に中にこそ美は存在するのだ。対象の中に美が見出せるようになってほしい。
この芭蕉の思いが、おくのほそ道の旅を通して、不易流行の考えにつながっていく・・・んですって!
では、おくのほそ道
前回の象潟の有名な句 *象潟や雨に西施がねぶの花 の漢詩
『飲湖上初晴後雨』 蘇東坡
水光瀲艶晴方好 水の光は艶として晴れてまさに良く
山色空濛雨亦奇 山の色や空は雨に煙るのもまた良い
欲把西湖比西子 西湖をあの美しい西施に例えれば
淡粧濃抹總相宜 雨でも晴れでもすべて良いのだ!
芭蕉はおくのほそ道に載せない句も「象潟懐紙」という俳句を残していて、蚶満寺に奉納したもの、低耳に与えたものなどが残っているそうです。芭蕉、曾良、低耳の三句など。
本文「越後路」
=酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百丗里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河 =
おくのほそ道も後半に入り、文章の省略が多くなります。
酒田から市振まで、16日間の行程を、これだけの文章にしてあるのだそうです。実際は、25日に酒田を発ち、26日大山、27日村上、7月2日新潟着。6,7と俳諧の集まり8日は高田で発句、9,10,11日と各地で俳諧、12日市振。
曾良日記によれば、12日「早川にて翁躓かれて、衣類濡れて河原で干す」の記述があるそうです。
本 文意訳 酒田に戻り名残惜しさに数日を過ごして、北陸道の行く手にかかる雲を見て、まだ先は長いのだなあと不安になる。加賀まで130里と聞いて、ねずの 関(山形県鶴岡市)を越え、出羽国から越後の国に入り、越中の国、市振の関に着く。この間9日(いずも崎と市振の間)暑気と湿気に悩まされ、病がでてし まったので記述できなかった。
(旅の後半にありがちな疲労感に包まれた予を演出した?)世阿弥の能楽における曲の構成、序・破・急の理論を取り入れた?
16日分を数行にまとめた上で二句を。
*文月や・・・6月が終わって7月になっていた。秋のはじまり。6日は、なぜ常の夜と違うのか・・・それは明日が年に一度の七夕だから。6日は直江津に泊まっている。この句は蕉風を代表する猿蓑にも載っている。
*荒海や佐渡によこたふ・・・雄大なスケールの句で、観念的になりがちな主題をさすがの腕前、らしい。
地上の荒海、天上の銀河、文月や、の句とあわせると、1年に一度の逢瀬のために天上の河を渡る星のドラマが浮かんでくる。説明がまったくないのに。
この部分の旅のことを、芭蕉は何度も書いて人にも渡しているそうです。自分でも気に入っている道中記。その名文をおくのほそ道では全て消去した潔さは、芭蕉の真骨頂、なんですって♪
この、荒海や佐渡によこたふ天の河の「よこたふ」は自動詞と他動詞が間違えている、という論争もあるそうです。また、実際の佐渡の空に天の河はよこたわら ない、という意見もあるそうです。また、これについて、「天空は時とともに回転する」という漢詩があることもわかってきたそうです。
今週はここまででした。教えていただかなければ、文月や・・・の句の素晴らしさに気づきませんでした!
今週のNHKラジオ第2放送、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、市振。
まずは、芭蕉の生涯をたどる。
貞享4年から5年にかけての「笈の小文」。先週は、造化に従う、という風雅論。「芭蕉俳諧を行おうとするものは、自然に従わねばならない。そこからおのずと美が見えてくる・・・・」芭蕉は「作」の人であると同時に「論」の人でもあったのです。では、笈の小文の中から芭蕉の発句を。
「冬の日」をともに巻いた杜国は若くして米問屋の主人になっていたが、取引上の罪で貞享2年(1685年)名古屋を所払いになっていた。その杜国を訪ねる途中の芭蕉。
*冬の日や馬上に凍る影法師 (弱い冬の日差しに、馬上で凍りついたような自分の影)
*鷹ひとつ見つけてうれし伊良湖崎 (鷹の初めてわたる所といへり・・・杜国の無事を確認できた喜び)
芭蕉は伊良湖崎から熱田、名古屋を経て伊勢で杜国と待ち合わせて吉野の花を見に行く。杜国は自分を童子に見立てて「万菊丸」という名を自分につけて旅を楽しむ。心はずむ2人。
*吉野にて桜見しょうぞひのき笠 芭蕉
*吉野にて我も見しょうぞひのき笠 万菊丸
楽しげな2人の句。しかし、杜国はそれから間もない元禄3年(1690年)に没!
では本文「市振」
=今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊 勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよす る汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あ した旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍 ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れど も、「我ゝは所々にてとゞまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。
*一家に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書とヾめ侍る。=
糸魚川市の市振というところで、親知らず、子知らず、犬も駒も越えられないという難所を行き、疲れて寝てしまっていたところ、表のほうの部屋から若い女2人の声がする。老いた男の声も混じる。
話の内容から察するに、2人は新潟の遊女で、伊勢参りに行くらしい。この関まで郭の雇い主の口利きで老人に送ってもらい、明日は故郷へ戻る男に文を書いて託しているようだ。
ことづてなどしやる也=言伝をしているようだ・・・・伝聞の助動詞
そして遊女が語る。白波の寄せるなぎさに身を投げ出して、夜毎に相手を代えて暮らすわが身。この世をみじめにおちぶれて浅ましくこんな暮らしをするようになった。
和漢朗詠集の
*白浪の寄する渚によをつくす あまの子なれば宿もさだめず
を引いて、こうした日々をおくるのは、前世の因縁もあり今のくらしのつたなさもあり、だから神仏の加護を得たく思うのだ・・・と遊女に語らせる。
それを聞きつつ寝入った予が、朝になって旅立とうとすると、その遊女が我々に向かって「これからの道がわからないので不安なので、見え隠れにでも、あなたたちについていきたい」と泣きながら申し出ます。
予は「かわいそうなことではあるが、我々はあちこちに寄り道するところがあるので、同行できない。人々の行くところをついていけば、神明の加護がかならずあることでしょう」と言い捨てて宿を発ちます。しかし、彼女たちを哀れに思う気持ちはしばらくやむことはなかったのです。
*一家に遊女も寝たり萩と月
遊女と、乞食同然の自分が同じ宿に居合わせた不思議。萩と月が自分たちを浄化してくれるようにも思えるのだ。
今週はここまででした。
佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、加賀の国に入ります。
まずは、芭蕉さんの生涯をたどる。
1687年~88年の笈の小文の旅の続きです。この旅では、野ざらし紀行の旅で出会い、今は三河の「こび」でひっそりと暮らす杜国と再会、ともに出かけた 吉野では、二人はどういう状況にあっても風雅を捨てない句を詠み合います♪
*吉野にて桜見せふぞ檜笠 (芭蕉)
*吉野にて我も見せふぞ檜笠 (万菊丸=杜国)
では、名古屋での句など
*いざゆかん雪見にころぶところまで (気負っていた野ざらしの頃よりも自然な風狂)
*かちならば杖つき坂を落馬かな (歩けば杖をついて無事であったものを、なまじ馬を借りたために落馬してしまった。「もの憂さのあまり」季ことば入らず・・・としているが、名所に(力を借りて)季語は入れなくても良しとした)
たまたまBSジャパンで「杏が歩く 恋する東海道」を見ていたら、杏ちゃんが4日市を越えて杖衝坂を歩いていた。距離にして100M,高低差は20Mとのことで、長身の杏ちゃんは、造作もなく登っていたけど、疲れた旅人には難所だったろうと言ってました♪
*さまざまの事おもひだす桜哉 (伊賀上野にて。20年前、芭蕉が青桃の頃に仕えた蝉吟の子、探丸の句会で)
*ひばりより空にやすらふ峠哉
*ちちははのしきりにこひし雉の声
*ほろほろと山吹ちるか滝の音
などなど、句境の進展が見られるらしい。では、おくのほそ道本文は、加賀の国
= くろべ四十が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠(たこ)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものを と、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、 かヾの国に入。
*わせの香や分入る右は有磯海
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。ここに大坂よりかよふ商人、何処と言者有。それが旅宿をともにす。=
黒部川の河口近く、川すじが幾つにも分かれているところがある、それを渡って、那古という浦に出た。この場所は義経記にも出てくる場所。そこで予は別の歌枕を思い出す。たこの藤浪である。万葉集の歌
*たごの浦の底さへにほふ藤浪をかざしてゆかむ見ぬひとのため
春でなくても初秋の情緒を味わってみたいと地元の人に尋ねると、「ここから五里ほど磯伝いに行き、向かいの山陰のほうではあるが、漁師のみすぼらしい家が いくつかあるだけで、宿を貸してくれるものなどいないでしょう」とおどかすので、あきらめて旅を続け、加賀の国に入った。
*わせの香や・・・心躍らせて大国加賀に入る。芭蕉は「大国に入りて句を詠む時は、その土地にあった大きなものを詠むこと」と言ってるらしい。広がる大海原・・・。
みちのくの旅のはじめのほうで *田一枚植えて立ち去る柳かな *風流のはじめやおくの田植歌
などの句以降、ここにきていきなりの「早稲の香」に、読者は時の経過に感慨を覚えざるを得ません。
この間、芭蕉は句を詠まなかったわけではなく、あえて「わせの香を」のみをほそみちに入れたのです。
曾良日記によれば、この3日ほど、残暑に苦しめられたらしい。
卯の花山、義経で有名なくりから谷を越えて、金沢に入ったのは七月十五日だった。ここで予は、大坂から来た商人の何処と会い、同宿する。(中尾本には、世話になったという記述があるが、ほそみちでは偶然の出会い、ということにしたらしい。
このあたりでの芭蕉の句。
*薬欄にいづれの花をくさ枕 (細川春庵にて)
*小鯛さす柳涼しや海士がつま
*熊坂が其の名やいつのたままつり
今週は、ここまででした。
まずは芭蕉さんの生涯をたどる。笈の小文は、須磨明石を訪れ、その地の様子を書いて終わります。芭蕉の没後、大津の門人「乙州=おとくに」によって編まれたものです。
旅はこのあと、京都~岐阜~大津~岐阜~名古屋~岐阜~木曽街道~8月15日、月見をするために更級に入ります。
その部分は「更級紀行」として自筆本があるそうです。鹿島紀行同様、途中まで文章の説明で後半は句集のような感じだそうです。
では、その中より「姨捨山」
*俤や姥ひとりなく月の友
(古今集の*わが心なぐさめかねつ 更級や姨捨山にてる月を見て)を踏まえて
*いざよいもまだ更級の郡哉
(さらしなに=去るをかけて、去ることができない)
善光寺にも行きます。
*月影や四門四宗も只一ツ
(宗派を問わない善光寺)
*吹とばす石はあさまの野分哉
更級紀行は、この句で終わり、後の旅を省いてある。世阿弥の序破急の考えか?
では本文「金沢」
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処(かしょ)と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのゞ聞えて、世に知人も侍しに、去年 の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
*塚も動け我泣声は秋の風
ある草庵にいざなはれて
*秋涼し手毎にむけや瓜茄子
途中吟
*あかゝと日は難面(つれなき)もあきの風
芭蕉と曾良は、金沢に来てはじめてたずねようとした一笑の死を聞きます。曾良日記によれば、15日、金沢に着いて宿を借り、竹雀、一笑に連絡すると、すぐに竹雀と牧童が来て、一笑は去年の12月に死去したと言います。
*塚も動け我泣声は秋の風
(ほそみちでは、峠や川を越えて関(国境)を越えてその土地の風雅の人と交わってきたが、金沢では、来てみたら会うのを楽しみにしていた一笑は亡くなっていて、もう会えなくなっていた)
16日、竹雀から迎えが来て、宮竹屋喜左衛門宅に移ります。そこに人々が集まってきます。
17日、翁は伊右衛門宅に招かれて行くが曾良は病気なので行かなかった。
18日、19日、人々が来る。
20日、句会。
21日、翁は門人たちと出かけるが曾良は薬をもらって休む。
22日、また薬をもらう。この日、一笑の追善法事。曾良は病気なので遅れていく。
23日、翁は門人たちと出かけるが、曾良は病気なので行かない。薬をもらい江戸への手紙チェック。
24日、金沢を立ち、人々に見送られて小松へ向かう。
おくのほそ道では、文章ではなく発句4句を並べることで小松までの道中を表現している。
*秋涼し手毎にむけや瓜茄子
(一泉の松幻庵での句会にて。瓜茄子は、盂蘭盆の供え物を連想させる)
*あかあかと日はつれなくもあきの風 (芭蕉の真蹟が多く残存する句)
小松というところにて
*しほらしき名や小松吹萩すすき
今週はここまででした。芭蕉に出会った金沢の人たちは、これを機に芭蕉に入門し、のちに加賀蕉門の中心になっていったのです。
笈の小文の旅から帰った芭蕉さんは、芭蕉庵にて門人たちとしばしのくつろぎ句会。
雪の夜のたわむれに「題を探りて米買の二字を得たり」としての句がある 「深川八貧」は、ふだん深川の芭蕉庵に出入りしている、志を一つにした門人たち(依水・苔翠・泥芹・夕菊・友五・曾良・路通)に芭蕉自身を加えて、杜甫の「飲中八仙歌」になぞらえ、たわむれに設定してみたらしい。
*米買いにゆきの袋や投げ頭巾 芭蕉 (投げ頭巾は、長方形の袋の頭巾)
「題を探りて」は探題のことで、詩歌の会で、与えられたいくつかの題の中から探りとった題で制作すること。 「米買の二字を得たり」というのは、当夜、真木買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊きおよび米買の八題を置いて句作し、芭蕉は米買にあたったの で、その句を詠んだという意味。 「米買ひに雪の袋」というのは、米買いに行くのに雪の中を提げてゆく姿の意で、「雪」に「行き」を掛けた。
ちなみに曾良は「水汲」路通は「飯炊き」。
気心知れた人たちとの「風狂」のひとときなのでした。
翌元禄二年の歳旦句は
*元日はたもとのひこそ恋しけれ
これは真蹟の懐紙も幾つか残り、「年が明けてもまだ旅が恋しくてやまず」という手紙にも添えられているそうです。
江戸に帰った芭蕉は、あちこち頻繁に手紙を書いて、
*あさ夜さをたれ松島の片ごころ (朝な夕な、誰かを待つという松島のことが心を離れない)
という句も書いて、二月末には杉風の別宅に移り、三月二十七日に深川を出て、ほそみちの旅に出立するのです。
では、おくのほそ道の本文。
前回、小松までの行程を四つの句で表現。和歌での「秋風」という言葉の持つ爽やかさや悲しみを四つの句で詠み分けながら、死生観、小松への道行きまでもを表した。芭蕉の構成意識のすごさ。
今回は太田神社
まずは曾良の日記より
24日、快晴、金沢を人々に送られて出立。小松着。
25日、小松を出ようとすると近所の人が北枝を通して「見るべきものがある」と止める。多田八幡に詣でて、実盛の甲冑や木曽殿の願書を見せてもらう。そのあと、山王神社の「こせん」を訪ねて句会をし、そこに泊まる。
26日、「歓生」の所に行き、五十句。*ぬれてゆくや人もをかしき雨の萩 翁
27日、人々が引き止めるのを振り切って出発。多田八幡に奉納する句を詠む。この句は、北枝が1691年に著した「卯辰集」に載っているそうです。
*あなむざんや兜の下のきりぎりす 翁
*幾秋か兜にのぞく鬢の霜 曾良
*くさづりの裏めずらしや秋の風 北枝
出立を止められて、斎藤別当実盛の兜を見たのは、予にとってたいそう幸運なことでした。次の太田神社の章は、すべてこの体験で書かれているからです。本文は
= 此の所大田の神社に詣。真盛が兜・錦のきれあり。往昔、源氏に属せし時義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇より 吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曽義仲願状のそへて此の社にこめられ侍るよし、樋口の次郎が使せし事 共、まのあたり縁起にみえたり。
*むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす=
(引き止められ、勧められて)太田神社に詣でます。そこには斎藤実盛の兜や布がありました。その昔、源氏の武将であったときに、義朝公から拝領したものだとか。見れば確かに普通の侍のものではなく、兜は菊の唐草の彫り物に金をちりばめ、龍かしら(兜の前面)には鍬形の飾りが打ってあります。実盛が木曽義仲との戦いに討ち死にした折、義仲がこの神社に齋藤実盛を手厚く葬ってほしいと願いの書状を送り、そのときに添えられたものという。義仲の忠実な家来、樋口の次郎がその使いをしたと、「まのあたり」縁起にあり、実盛の討ち死にを確かめた樋口の次郎の言葉「無慙やな」を使って句を作ってみた。
無慙やな・・・兜の向こうに特別な存在感のある実盛の生涯が見えて、500年の時を超えて実盛の姿を求める予、なのでした。
斎藤実盛は、源氏の兵として源義朝とともに保元・平治の乱をたたかい、義朝が敗れると母の縁故で平宗盛の家来となります。
父が討たれた二歳の義仲を短期間養育して木曽に送った人でもあるのでした。
木曽義仲の平家追討の折に、白髪を黒く染めて戦陣に出た実盛は、その義仲軍に討たれたのです。
おくのほそ道の前半は義経の足跡を追う旅でもあり、後半は木曽義仲を追う旅でもあるのです。芭蕉は自分の死後は義仲寺に埋葬するよう言い残し、弟子たちによって義仲のそばに葬られたのでした。
今週のNHKラジオ第二放送、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、「那谷」。その前に芭蕉さんの生涯。(あとで字句の訂正するかも)
おくのほそ道の旅から帰った芭蕉は、深川でおくのほそ道の余韻に浸りながらも、新しい旅を思い上方を目指します。
元禄2年8月21日、美濃大垣に着き、9月6日伊勢に旅立ち、9月24日、故郷伊賀上野にての句
*初しぐれ猿も小蓑をほしげなり
寒そうな猿に呼びかける、としか思っていなかったけど、初しぐれに風雅の心を寄せて猿よ一緒に旅をしよう。という意味もあるらしい。以後1691年元禄4年江戸に着くまでの二年間の上方滞在です。この句によって「猿蓑」が出来ます。猿蓑発句集の最後は
*ゆく春を近江の人と惜しみける
近江の人は、周囲にいる門人たちのことでもあり、また古の風雅の歌人たちにもつながるのです。
1690年元禄3年4月16日、芭蕉は石山の幻住庵に入ります。門人曲水の叔父の家だったところです。そこでの句
*まずたのむ椎の木もあり夏木立
源氏物語の「椎本=しいがもと」の
*立ち寄らむ蔭となむみし椎が本むなしき床になりにけるかな を連想させて曲水への感謝の句となっている。椎本は、宇治の姫君の元に通う薫の懊悩部分ね。
では本文「おくのほそ道」=「那谷」
曾良日記によれば、小松を発って27日の夕方山中温泉に着く。そこで8泊して
5日、芭蕉、北枝、那谷におもむく。(翌日、小松の句会に行くため)曾良は同行しない。那谷寺を訪ねたのは、山中温泉から小松に行く(戻る)行程だった。本文に「左の山際に観音堂あり」とあるのは、
小松ーーーーー山中ーーー那谷ーーー小松 という違う道を通ったため。
=山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
*石山の石より白し秋の風 =
山中温泉に行くところに、左の山際に観音堂がある。花山院が三十三ヶ所の巡礼を終えてから慈悲の仏の像を安置して那谷と名づけられたという。
花山院は冷泉帝の皇子で、984年17歳で即位するが、孫の一条天皇を即位させたい藤原兼家の陰謀により986年出家。江戸時代には花山院が三十三ヶ所めぐりの創始者ということになっていた。
定子さまの一条天皇には、こういう履歴があったんだ。たとえ本人は何もしないにせよ。
これまで、象潟、市振、などでちぎりや縁など人智を超えた大きなものを生きる姿から、金沢、小松で死を意識させられる経験。それがここで、仏・菩薩が衆生に示す慈悲に出会う。ここでの大慈悲が救いとなる。あえて行程を無視した意図は、ここにあるのではないか、ということでした。
そこから現実に引き戻され、岩山は珍しい奇石があり、そこに古い松が育っている。萱葺きの小さなお堂もある。
この石山の石よりも白くさらにその上を白山から吹く秋風は、大慈大悲の清涼感あふれる秋の風なのでした。
「山中」
=温泉に浴す。其功有馬に次ぐといふ。
*山中や菊は手折らぬ湯の匂 =
予は山中で早速温泉につかります。この温泉につかれば、長寿のために菊を手折る必要もない・・・「死」のイメージからの回復があるのです。山中温泉には八泊もしたそうです。小松の人たちは「芭蕉さんがもう一度戻ったのは、おいしい小松うどんが気に入ったからだ」と、この前テレビの番組で自慢していました。
今週のNHKラジオ第二放送、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」。
まずは芭蕉の生涯を辿る。ほそみちの旅から帰った芭蕉は、その後の上方滞在二年の間に、俳諧の古今集といわれる「猿蓑」を著します。編者は向井去来と凡兆。
去来は京で芭蕉が最も信頼した人。父と兄が儒教の祭司をする人だった。
凡兆は加賀出身の医者で、入門の日は浅いものの、猿蓑で大抜擢されるも、のちに蕉門から離れた。
猿蓑は、冬夏秋春の部立てでできており、この選集では自分たちの思いを押し出す意思が表れているらしい。
巻五の冒頭6句は、元禄3年(1690年)夏の興行。
*市中は物のにほひや夏の月 凡兆
*暑し暑しと門門の声 芭蕉
*二番草取りも果たさず穂に出て 去来
*灰うちたたくうるめ一枚 凡兆
*此の筋は銀も見知らず不自由さよ 芭蕉
*ただと拍子に長き脇指 去来
光景や登場人物像変化してゆき、作者が前の句の内容からゆたかに発想をふくらませていくのが見事、らしい。
ではおくのほそ道本文。「山中」
温泉に浴す。其功有明に次と云。
*山中や菊はたおらぬ湯の匂
あるじとする物は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩の むかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
*行ゝて(ゆきゆきて)たふれ伏とも萩の原 曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
*今日よりや書付消さん笠の露=
山中温泉は有馬の湯のような薬効があるという。それは不老長寿の「菊慈童」も必要ないような湯なのでした。
宿の主人は久米之助という14歳の少年で、予はそれを知り、菊慈童の句を詠んだのです。
少年の父も祖父も俳諧を好み、貞門の貞室(紙商人)が若き日にこに寄り、俳諧を知らなかったのを恥ずかしく思い、京に帰って貞徳の門人となって頭角をあらわし、俳諧を身につけてこの場所を再訪するとき、恩あるこの地では無料で指導したという。そんなゆかりもあるのでした。
少年はこれを機に芭蕉に入門します。
ここまでともに歩いてきた曾良は腹を病み、(足手まといになると判断したのだろうか)伊勢の長島に叔父が住職をしている寺があり、ここからは別れてそこに行くという。(曾良はかつて長島藩に仕えていただろうと思われる)
*行きゆきて・・・倒れ伏すようになろうとも、そこが萩の原なら本望だ。自分は風雅の道を求めて進むのだ。西行のうた*いづくにか眠り眠りて倒れふさんと思ふ悲しき道芝の露・・・・を踏んでいる。
という句を書きおいて行ってしまった。行く者の悲しみ、残るものの残念な思い、一羽のケリとなって雲の中で迷っているような気持ちだ。予もまた
*曾良がいなくなってしまった。今日よりは・・・同行二人の書付を消そう。
この1羽のケリの話は「 中国前漢の時代、蘇武とその友人李陵が匈奴に捕らわれたのに、蘇武だけが解放されることとなった。その際、蘇武が李陵に送った詩「李陵初詩」に「雙鳧ともに北に飛び、一鳧ひとり南に翔ける」とあるのを引いて。中島敦「李陵」、平家物語「蘇武」にもあるそうです。
おお!喜界が島の卒塔婆流しの次だわ!では、平家物語の一節を。
♪漢家の蘇武は、書を雁の羽につけて旧里へ送り、本朝の康頼は、波の便りに歌を故郷へ伝ふ。かれは一筆のすさみ、これは二首の歌。彼は上代、これは末代、胡国喜界が島、境を隔てて、世々は替れども、風情は同じ風情、あり難かりし事どもなり♪
NHKラジオ第2放送、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」
まずは芭蕉さんの生涯をたどる。「猿蓑」より。
それまでの俳諧の中心であった「貞門」「壇林」は親句といって、前の人の句を元に知識によって次をつけるものだった。芭蕉はそれに対する疎句=想像力を駆使して句を作り、俗ではあるが下品ではない、という境地を編み出した。
まずは猿蓑の恋の句
*草庵にしばらくいてはうちやぶり 芭蕉 (西行をイメージ)
*命うれしき撰集のさた 去来 (古今集をイメージ)
*さまざまに品かはりたる恋をして 凡兆 (平安の歌人に心を寄せて)
*うき世の果てはみな小町なり 芭蕉 (恋の遍歴ののちの老後)
類題の形式をとらず、発句集も配列によって面白みを出している。時雨の冬からはじまり・夏・秋、近江の人との春で終わる。
そして「続き」(配列)によって出る「模様」(味わい深さ)を出している。
夏の句から
*大坂や見ぬよの夏の五十年 蝉吟 (19歳の芭蕉が伊賀上野で仕えた2歳年上の藤堂家の嫡男蝉吟。彼の祖父は、5月6日、大坂夏の陣陥落の前日、討ち死にしている)
*夏草や兵共がゆめの跡 芭蕉 (義経が奥州平泉のいくさで討ち死にした場所で)
どちらも、戦で命を落としたもの。広く戦死者を追悼する趣。盛者必衰のことわりを。それにつなげて「虫尽くし」の句が・・・
*這出よかひ屋が下の蟾(ひき)の声 芭蕉
*かたつぶり角ふりわけよ須磨明石 芭蕉
*五月雨に家ふり捨ててなめくじり 凡兆
追悼の句のあとになぜ虫が出てくるのか。無常を前提とする荘子の「万物斉同」万物は道の観点からすれば皆等しく価値がある、を句の配列によって表現している・・・のだそうです♪
では、おくのほそ道本文より
『全昌寺』
大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、
*終宵(よもすがら)秋風聞やうらの山
と残す。一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもと まで追来る。折節庭中の柳散れば、
*庭掃て出ばや寺に散柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ =
芭蕉より先に旅立った曾良の日記では、大聖寺を出て全昌寺に泊まる。とあり、これ以降曾良日記には曾良の工程のみが書かれているので、今までの彼に感謝しつつ、私たちも曾良と別れなければならない・・・のです、とのこと。
山中で曾良と別れた予は、かつて大聖寺城があった場所の公害の全昌寺という寺に泊まります。ここはまだ加賀の国なのでした。
曾良も前夜この寺に泊まっていて、句を残していた。
*寝つけなくて、裏山から吹く秋風を一晩中聞いてすごしたことだ (この句は猿蓑にもあり、曾良の自筆の短冊も残っているそうです)
曾良日記では8月7日の朝、好天になったので全昌寺を出立、とあるので、芭蕉は7日の夜泊まったらしい。
一夜の隔ては千里離れているのと同じ。予もまた秋風を聞いて寝られず、横になったまま寝付けずに夜明けを迎えた。早朝の勤行の声が澄み渡っているのを聞いているうちに合図の音があって食堂に入ります。
今日は越前の国に入ろうといそいで出発しようとすると、若い僧たちが紙や硯をかかえて階段の所まで追いかけてきました。ちょうど庭の柳が散っていたので
*庭掃いて・・・寺に泊まった修行僧が一夜のお礼に庭を掃いて出立する姿
の句を、わらじを履いたままとりあえず書いてきたのでした。この部分で、読者は今までの旅の中での似たシーンを思う。たとえば旅のはじめの頃の那須で、馬を引く男から句を求められた思い出など・・・など。
この全昌寺は、芭蕉の宿泊した場所として、見所満載だそうです!
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