明智が妻の話

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/yugen.htm 【島崎又幻】

(生年不詳)より

 島崎味右衛門清集<きよため>。伊勢の神職で師職家(伊勢神宮の神楽を奉納する家柄)であったが、神職間の勢力争いに破れて逼塞していた。芭蕉は、貞亨5年2月『笈の小文』の旅の折にも、また元禄2年『奥の細道』の後、伊勢神社遷宮に参拝した折にも、又幻を訪ねて止宿している。この時、又幻19歳、落ちぶれた貧しさの中で又幻夫婦が懸命に尽してくれたことに感銘して、『明智が妻の話』を書いて贈った。

又幻の代表作

木曽殿と背中あはする夜寒かな


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/tanpen/akechi.htm 【明智が妻の話

(元禄2年9月 46歳)】より

真蹟懐紙

 将軍明智*が貧のむかし、連歌会いとなみかねて、侘びはべれば*、その妻ひそかに髪を切りて、会の料に供ふ*。明智いみじくあはれがりて、「いで君、五十日のうちに輿にものせん」と言ひて、やがて言ひけむやうになりぬとぞ。

                         ばせを

月さびよ明智が妻の話せむ

(つきさびよ あけちがつまの はなしせん)

       又玄子妻に参らす*。

俳諧勧進牒

伊勢の国又幻が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに

見えければ、旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心

ばせ、今更申し出でて、月さびよ明智が妻の咄しせむ

滋賀県大津市坂本の西教寺境内の句碑(牛久市森田武さん撮影)

 伊勢の神職で蕉門の又幻<ゆうげん>は、神職間の勢力争いに敗れ、この頃、貧窮のどん底にあった。芭蕉は奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣の折り、又幻宅に止宿した。貧しさにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受け芭蕉は感激して、後にこれを贈る。

細川ガラシャ夫人ゆかりの西教寺の石仏(同上)

ガラシャ婦人(1563-1600)は、 安土桃山時代のキリシタン大名細川忠興の室。明智光秀の女(むすめ)で名は玉。ガラシャはキリシタン洗礼名。関ヶ原の戦いの際、人質として大坂城に入城することを拒み、自刃した。(『大字林』)

将軍明智:明智光秀.安土時代の武将。通称、十兵衛。織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任(これとう)日向守と称した。次いで丹波亀山城主となり、毛利攻めの支援を命ぜられたが、信長を本能寺に攻めて自殺させた。わずか13日で、豊臣秀吉によって山崎に破られ、小栗栖(おぐるす)で農民に殺され、悲運の最期を遂げる。(1528?-1582)

侘びはべれば:<わび・・>と読む。意気消沈しているさま。

会の料に供ふ:連歌会の費用を捻出した、の意。

又玄子妻に参らす:この一文を又幻の妻に与える、の意。


https://news.yahoo.co.jp/articles/5bba79fc6ca3049504b39d7e0263b4e19125fd30 【こんなところに明智光秀の娘が!? 大阪・玉造にいる細川ガラシャはキリシタンだった】 より

大阪市中央区にあるカトリック玉造教会。右の石象がガラシャ

織田信長に仕え、謀反を図り「本能寺の変」を起こした明智光秀を描いたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。いよいよ物語も佳境を迎え、徐々に信長と光秀との間の溝が元に戻らぬほどに深まった様子がうかがえる。一方、光秀の娘・たま(演:芦田愛菜)が細川家に嫁いだ。この「玉」は、のちに明智光秀の娘として壮絶な人生を送ったとされている。彼女の姿が大阪市の玉造で見ることができるのを、ご存知だろうか。

【写真】細川ガラシャの石像をアップで見る

場所は、カトリック玉造教会。建物向かって右手にある女性の石像。これが明智玉=細川ガラシャだ。

ここは、細川家に嫁いだ玉が暮らした屋敷跡であるそう。教会内には、京都府出身の美術家・堂本印象による壁画がある。向かって右には、『最后の日のガラシャ夫人』。中心には堂々と『栄光の聖母マリア』が掲げられていて、右側に玉=ガラシャが描かれている。

玉は、15歳で細川家に嫁いだ。夫である忠興の父は、光秀の盟友かつ同じ信長の家臣だった。政略結婚だが、夫婦仲は良かったようだ。しかし結婚から4年後、光秀が信長に反旗を翻し「本能寺の変」が発生。信長の死後すぐに、光秀は豊臣秀吉に敗れてしまう。

玉は、「謀反人の娘」。豊臣方の人間である忠興とは離婚した。しかし忠興の愛情は冷めることはなく、世間の目から逃すために京都の山奥に幽閉した。2年後、秀吉の計らいで玉は大坂に戻ることができ、細川屋敷で暮らし始めた。その場所がこの玉造だ。夫が仕える秀吉が建てた大坂城の近くにある。

教会から北に向かうと、「細川越中守忠興屋敷跡」がある。この地には屋敷内の台所と伝えられている「越中井」がある。

さて、別名「ガラシャ」とは何かと思われた方もいるだろうか。彼女はキリシタンなのである。洗礼後に授かった名前が「ガラシャ」なのだ。玉は元より禅宗を信仰していたが、味土野から大坂に戻った3年後に改宗した。秀吉が宣教師の追放令を出した直後のこと。

当時のキリスト教の広まりや、キリシタンだった侍女からの影響など、さまざまな理由は考えられる。しかし当時の玉の状況を考えると、幽閉からの解放後の憂鬱、反逆した父への思い、変化していく忠興との関係性……その日々がいかに壮絶だったのか、想像に難くない。玉はキリスト教に出会うことで、心に落ち着きを取り戻し始めたといわれている。また気性の激しい性格から穏やかになったとも。

その後、徳川方につくようになった忠興は、上杉征伐に出陣。敵方の石田三成がガラシャを人質にしようとしたが、彼女はそれを拒否し、自死を選ぶ。しかし「キリスト教では自死は許されない」ことから、家老に刀で胸を突かせ、この世を去った。

なお、カトリック玉造教会がこの地に建てられた理由は、「細川屋敷があったから」ではないそう。直接的な所以がないならば、この場所に決めた者の「引き」の強さに驚く。もうすぐで大河ドラマ『麒麟がくる』はクライマックスを迎える。どのような結末を迎えるのか、見届けたい。

▽カトリック玉造教会内の壁画の下絵は、 京都府立堂本印象美術館に所蔵されている。堂本印象美術館は、画家の堂本印象自らが設立。 日本画のみならず彫刻や陶芸など、 堂本印象の世界観が堪能できる。 順次日本の近現代美術に関する展覧会も開催。

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