忍者説もある松尾芭蕉~旅に生きた俳人の知られざる51年の生涯まとめ

https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2020/12/23/117496 【忍者説もある松尾芭蕉~旅に生きた俳人の知られざる51年の生涯まとめ】より

「誰か一人、江戸時代の文化人を挙げて!」

なんて言われたら、皆さんは、どなたを思い浮かべます?

主観バリバリで言わせて貰いますと、最も多いのは【松尾芭蕉】ではないでしょうか?

俳句の大家として知られ、紀行録『おくのほそ道』は今なお日本人に多くの影響を。

「旅に生きた人」としても有名ですが、生涯そのものも旅のようでした。

ただし、前半生は「やむを得ず」旅をしていて、後半生は「自ら望んで」旅立っているというイメージでしょうか。

今回は芭蕉の人生を追いかけてみましょう。

※名前については「芭蕉」で統一させていただきます

松尾芭蕉の両親は平家と忍者の末裔だった!?

芭蕉は正保元年(1644年)、伊賀上野にて生誕。二男四女の次男でした。

父方は平家末裔の家柄ともされていますが、身分は高くないのであまり関係はなさそうです。

名字帯刀は許されていたようです。

また、母が忍者で有名な百地氏の出身だったため、これを「芭蕉忍者説(隠密説)」の根拠とする人もいるとか、いないとか。

忍者の血統らしいというだけで本人=忍者ってのは、さすがにチョット強引。まぁ、ありえないでしょう。

その辺はさておき、芭蕉は若い頃からけっこう苦労をしていました。

彼が13歳の時に父が亡くなり、兄が家督を継いだものの、暮らし向きは決して豊かではなかったからです。

六人きょうだいのうち四人が姉妹、さらに母親も養わねばならない――となると男二人でもシンドイですよね。

元の身分が高くないこともあってか、芭蕉が初めて主人を持ったとき、文学やその他学問に関するためではなく、台所の小間使いのようなことをしていたといわれています。

なんという才能の無駄遣い……というのも後の活躍を知っているからですな。

主人とは、伊賀の侍大将・藤堂良清の跡継ぎで藤堂良忠という人でした。

芭蕉より2歳年上で、この人が俳句を得意としていたため、芭蕉も俳諧の世界に入ったようです。

良忠の俳号は「蝉吟(せんぎん)」といいました。

歳の近い主人に真面目に仕え、趣味も同じにして親しくなれば、士分に取り立ててもらえるかも……。後年になって、そのような発言をしていたようです。

最も古い作品は1662年の小晦日

なにはともあれ、良忠に仕えたことが、芭蕉が俳諧を始めるきっかけにもなったことは間違いありません。

寛文二年(1662年)の末、立春をお題としてこんな句を読み、二年後に入集(にっしゅう)しました。

「春や来し 年や行けん 小晦日(はるやこし としやゆきけん こつごもり)」

現在わかっている中では、芭蕉の最も古い作品です。

口に出してみるとちょっとつっかえるような、未熟さを感じられるような気もしますね(個人の感想です、生意気でサーセン)。

この句をきっかけに、芭蕉はいくつかの俳句集に入集するするようになり、俳人として歩み始めました。

寛文六年(1666年)には、芭蕉が参加した中で最古とされる連句も記録されています。

「貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧」と呼ばれるもので、松永貞徳という俳人への供養を目的としたものです。

松永は、芭蕉の主人である藤堂良忠(蝉吟)の師匠の一人と考えられている人物です。

蝉吟が発句し、別の師匠である北村季吟も参加。

若き日の芭蕉は、先達や主君の間に立ち交じれて、晴れがましく思ったことでしょう。

しかしこの年、蝉吟が24歳の若さで亡くなるという、悲しい出来事にも遭遇しました。

芭蕉は、遺髪を高野山報恩院に納める一団に参加。

主人の菩提を弔った後、職を辞して俳人として行きていくことを決めたようです。

単なる主人だけでなく、同好の士でもあり、そして士官の糸口になり得る人を失い、途方に暮れたことでしょう。

処女句集「貝おほひ」を奉納後、江戸へ

しばらくは伊賀上野あたりに住み続けた芭蕉。

ときに京都の俳人に教えを受けたり、句集に選ばれたりしていました。

寛文十二年(1672年)。

数年してようやく考えがまとまったのか、処女句集「貝おほひ」を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納し、俳諧師として江戸へ下ります。

ところが、です。

地元で多少名前が知られるようになっても、江戸ではそう簡単には行かなかったようで、再び上京。

蝉吟の師匠だった北村季吟に師事し、延宝二年(1674年)三月に作法書『俳諧埋木』の伝授を受けました。

これでようやく一人前と認められたワケです。意地悪く考えると、この時点で芭蕉の句には、まだまだ改善すべきところが多かったのかもしれません。

延宝三年(1675年)あたりから再び江戸へ出向きます。

詳細な住処はハッキリとしておりません。

江戸の俳人と交流を持ち、彼らのパトロンだった磐城平藩主(いわきたいらはんしゅ)・内藤義概(ないとう よしむね)の江戸屋敷へ出入りするようになった、ということはわかっています。

この内藤義概という人は、小姓騒動というお家騒動の当事者として知られています。

詳細については以前の記事に譲るとして、パトロンとしては悪くありませんでした。

少なくとも、芭蕉にとっては一つの契機になりました。

ここで芭蕉は、意気投合した俳人と一緒に俳句集を刊行し、華々しく江戸俳壇にデビューすることができたからです。

無職はマズイ!ということで帳簿付けのオシゴト

芭蕉は様々な句集を発行。興行に参加したりして、名を上げていきます。

しかし、当時の俳壇では「俳句をどう詠むべきか」ということて派閥論争が激しくなっており、芭蕉を含めて辟易している人もいました。

また、生活苦からか、延宝五年(1677年)には、水戸藩邸「分水工事」の帳簿付けの仕事をやっていたこともあります。

芭蕉のような、いかにも文化人なタイプがこの手の仕事をするのはちょっと意外でしょうか?

これは「無職だと目をつけられる」という当時の社会制度にカギがありますので、軽く触れておきましょう。

現在の戸籍に近い制度として、江戸時代には【宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)】というものがありました。

元々はキリシタンを取り締まるため、「誰がどこの宗派を信仰しているのか、どの寺に所属しているのか」をまとめた台帳です。

時代が下るにつれ、ほとんどの地域でキリシタンがいなくなると、次第に戸籍や人口調査の役割が強くなりました。

ここで関わってくるのが、当時の司法にあった「連座」です。

誰かが罪を犯した時、罪の重さによってはその家族にも罰が与えられる……というもの。

古い時代の中国では「三族(九族)皆殺し」などの「族誅」などが連座の最たる刑とされていました。

この場合の「族」は現在の「親等」に似た意味でして。

王朝や時代によって対象が変わってくるので、一概に「三族はどこからどこまで」というのは難しいところです。

なんとも恐ろしい話であり、何かコトが起きたら、周囲としてはたまったもんじゃありません。

そこで救済措置。

江戸時代の場合は、本人を勘当してしまえば連座から逃れることができました。

あるいは、連座にならぬよう、はじめに離婚や勘当をしてから事に及ぶ……というケースもあります。

元禄赤穂事件では大石内蔵助良雄が。大塩平八郎の乱では大塩平八郎が。

それぞれ妻を離縁してから決起していました。

離縁の場合は実家に帰ることになるので、司法的な問題はないといってもいいのですが、勘当の場合は話が別です。

勘当されると宗門人別改帳から名前を外され、「無宿(むしゅく)」「帳外(ちょうはずれ)」と呼ばれる状態になります。現代でいえば「無戸籍者」が近いですかね。

江戸幕府は、こうした無宿や帳外は犯罪率が高く、非常に警戒していました。

芭蕉も、無職のまま、そう思われたくなかったんですね。

旅の中で生きることを考え始める

話を戻しましょう。

芭蕉は上記の通り、伊賀上野の地に生まれ、江戸にやってきた新参者です。

俳諧の世界では名を知られてきているとはいえ、当局からすると「腹に一物持っていてもおかしくないヤツ」「俳諧師とか言ってるが、食いっぱぐれればドロボーでもなんでもやるつもりでは?」ということになります。

芭蕉はそういった疑いを避けるために、公の仕事を一度でもして、疑われないようにしたのでしょう。

しばらくして、俳句の批評なども行うようなったあたりには名も上がり、無宿の疑いはかからなくなったようです。

現代で言えば、売れないミュージシャンやお笑い芸人がようやくテレビに出て認知されたって感じでしょうか。

いつの時代も世知辛いものですね。

しかし、この辺から徐々に厭世的な気分になっていたようで、ひとつところに落ち着くより、旅の中で生きることを考え始めます。すると……。

俳句にもその特徴が顕れ始めます。

当時の旅に欠かせなかった「笠」を題材とした句を多く詠むようになったり、自ら笠を作ったりしたのです。

どうも彼は「笠」=「風雨から身を守るもの」=「庵に通じる」と考えていた様子。

そして貞享元年(1684年)8月、芭蕉は初めて長期間の旅に出ることにしました。

江戸を出発した松尾芭蕉は……

江戸を出発した芭蕉は、東海道を西に進むと、伊賀~大和~吉野~山城~美濃~尾張へ。

故郷・伊賀に一度戻って年を越し、木曽、甲斐を経て、貞享二年(1685年)4月、再び江戸へ戻る……という、なかなかのハードコースでした。

途中で伊賀へ寄ったのは、この旅の前年に他界した母親のお墓参りのためだったそうです。

この旅は『野ざらし紀行』にまとめられています。

書名は、出発の際に詠んだ「野ざらしを 心に風の しむ身哉」から来ています。

長い旅へ出るからには、途中で行き倒れて死んでもおかしくはない――そんな悲愴な気合が込められていたんですね。

ちょっとメンタルヘルス的に心配になるような句ですが、むしろ旅の中で芭蕉の心中はだいぶ健全になったようで、後半には少しずつ前向きさや素直さが伺える句が出てきます。よかったよかった。

以降「旅に出ては道中で俳句を詠み、帰ってきてから句集にまとめて刊行」というパターンを何度か繰り返しました。

現代の旅ブロガーみたいですね。

そして元禄二年(1689年)3月。

とうとう江戸の庵(芭蕉庵)さえも人に譲ってしまい、弟子の河合曾良(かわいそら)を伴いながら『おくのほそ道』の旅に出ます。

白河関跡 芭蕉と曾良の像

当時45歳の芭蕉には、かなりハードな旅程東北・北陸を半年かけて踏破。

美濃から伊勢を経て郷里・伊賀に帰る、またしてもかなりの長距離コースでした。

当時45歳の芭蕉が計画するには、かなりハードな旅程です。

芭蕉も曽良も無事にやり遂げているのが何よりですが、知人友人からするとハラハラしたでしょうね。

この旅の後は、上方で一時滞在しては著作を行い、また引っ越すという生活を二年ほど続けています。

そして元禄四年(1691年)10月に江戸へ戻り、翌年5月に新しく庵を建てて、しばらく江戸に落ち着きました。

こうしてみると、俳人というより「引っ越しが趣味な人」みたいに見えてきた。まぁ、葛飾北斎には勝てませんが。

三年ぶりの江戸俳壇は決して愉快ではなかったようです。

が、新しい俳人・志太野坡(しだ やば)と宝生沾圃(はっとり せんぽ)に期待をかけて指導。

志太野坡は三井越後屋の番頭を務めていた才人で、元は芭蕉の弟子である宝井其角(たからい きかく)に俳諧を教わっていました。

芭蕉からすれば、孫弟子が直弟子になったようなものですね。

服部沾圃は、かつて能役者をしており、内藤義英に仕えていました。

義英とは、前述の内藤義概・次男であり、小姓騒動では割りを食って江戸に隠遁しつつ、芭蕉らと交流していたと言われています。

そこで沾圃とも縁ができたようです。

「義仲公の隣に葬ってほしい」

彼らの成長に満足したのでしょう。

芭蕉は江戸での新しい風を上方の俳壇にも伝えようと、元禄七年(1694年)5月、もう一度西へ旅に出ました。

しかし、寄る年波もあってか、体調は優れなかったようです。

運の悪いことに、この年9月には大坂在住の弟子たちの確執をとりもつために伊賀から足を運んでいます。

よほどの心労があったらしく、そこで倒れて10月12日に息を引き取ってしまいました。

享年51。

旅の疲れのせいなのか、ケンカの仲裁が直接の原因なのかはわかりませんが、弟子たちはさぞやるせない気持ちになったでしょうね……。

芭蕉は死に際して、辞世とともに一つ遺言を残しました。

「近江の義仲寺(ぎちゅうじ)、義仲公の隣に葬ってほしい」

義仲公墓/photo by Earthbound1960

wikipediaより引用

源平時代の武士――特に源氏でありながら敗者となった木曽義仲(源義仲)や源義経などに感じ入るものがあったようで、芭蕉は彼らに関する句をいくつか詠んでいます。

義仲寺にも何回か立ち寄っていました。

松尾芭蕉の墓/photo by Earthbound1960

wikipediaより引用

なぜ義仲が一番だったのか?

こればかりは、本人のみぞ知るというところで……乱暴者な義仲からすると「え、なんでアンタみたいな文化人が俺の隣に?」と困惑したかもしれません。

義仲寺は元々、合戦を生き延びた巴御前が義仲を弔ったところだといわれており、巴御前自身のものとされるお墓もあります。

現地を訪れて、芭蕉の心の内を想像してみるのもいいかもしれませんね。

なお、木曽義仲の記事については以下の関連記事から御参照いただければと存じます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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