http://osanpo246.blog.jp/archives/5741168.html 【古典講読「芭蕉の紀行文をよむ」第31回】より
NHKラジオ古典講読「芭蕉の紀行文をよむ」の第31回(10月31日)放送を聴いた。
前回は初瀬で万菊と唱和する箇所、葛城山から三輪、多武峰、臍峠などを過ぎて行く箇所、瀧門や西河の滝を見る箇所、吉野で桜狩りをしたり、苔清水を訪ねたりする箇所などを扱った。
高野
ちゝはゝのしきりにこひし雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊
和歌
行春にわかの浦にて追付たり
きみ井寺
吉野から高野へ場所が移動した。高野は現在の和歌山県伊都郡高野町にある高野山のこと。弘法大師が開いた日本有数の聖地であり、真言宗の金剛峯寺がある。ここでも記述はいっさいなく句だけが置かれている。
予の句は「ちゝはゝのしきりにこひし雉の声」で雉が春の季語。奈良時代の僧侶である行基が詠んだとされる『玉葉集』所収の和歌「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」をふまえたもので、歌では山鳥の鳴く声であったのを雉の声とし、亡き両親への思慕を詠んだ。雉の鳴く声を聞くと父母のことがしきりに恋しく思われるという意味になる。
ここでの万菊の句は「ちる花にたぶさはづかし奥の院」で、ちる花が春の季語。奥の院は寺社で本堂・本殿より奥深い場所にあり、秘仏や祖師の像などを安置しているところのこと。高野のそれは弘法大師の廟がある一帯を指し、特に有名だ。「たぶさ」は髪の毛を頭の上に集めて束ねたところで、もとどりとも言う。一句の意味は、いまは落花のとき、この奥の院ではたぶさを残したままの俗体でいることが恥ずかしく感じられるというもの。
続いて「和歌」の前書きで「行春にわかの浦にて追付たり」の句が置かれる。季語は行春で春。和歌の浦は現在の和歌山県和歌山市南部の海岸で、前書きの「和歌」もこれを指す。万葉以来の歌枕だ。一句は、この和歌の浦において行き過ぎていこうとする春に追いついたことだという意味。名高い和歌浦で暮春「形姿」を満喫したことを表している。
この後「きみ井寺」の名称だけが掲げられ、また句がない。和歌の浦の東岸にある金剛宝寺護国院のことだ。この後に句を書いたものの抹消することになり、前書きだけ残ったのではないかと推定されている。
この後は旅論といった内容になり、自分の旅はどのようなものであるかということが語られていく。重要な内容を持つものだが、吉野、高野、和歌の浦などと直接的な関係があるわけではなく、なぜこの位置に置かれているのかはわかっていない。
跪はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の実をうかがふ。
踵は足のかかとのこと。「跪はやぶれて西行にひとしく」は、旅をすれば自ずとかかとが傷つき、それは彼の西行も同じだったはずだと言いたいのだろう。ここから『西行物語』に見られるひとつの逸話を思い寄せる。西行が天竜川の渡船場にいるとき、人がいっぱいだから降りろと頭を打たれ下船させられた話だ。これも修行の姿だと物語のなかの西行は怒ることもない。旅をすればそうした苦難もあるということを「天龍の渡しをおもひ」と表現した。
そして別の逸話を思い出し「馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ」と書く。これは『徒然草』106段で証空上人が馬から堀に落とされ、いきまいては見たものの、その愚かさに気づき、恥じて帰ったというものだ。馬を借りるときはその話を思い出すと言っている。こうした古人の話を思い出し、自分の苦労などなんでもないと思っているのだろう。
そして海浜・山野の美しい景色に接しては、造物主の優れた技を見て取り、あるいはすべての執着から離れた修行者の跡を慕い、風雅を愛した人の真実を探ろうとするとある。すばらしい自然の美を味わい、優れた古人の心に触れる。それが私の旅なのだということなのだろう。無依は執着することのないことを言う。
猶、栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕にかへ晩食肉よりも甘し。とまるべき道にかぎりなく、立べき朝に時なし。只一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿からん、草鞋のわが足によろしきを求めんと計はいさゝのおもひなり。
ここでは道中に願うことが記されている。まず、すみかを離れている以上、器物に関する願いは何もないと述べる。旅を続ける身であれば、ものは邪魔なだけ。立派な道具類など自分には関係ないと思うのも当然といえば当然だ。また、無一物なので道中の不安といったものもないとある。空手は手ぶらで何も持たないことを言う。途中の愁いとは、たとえば盗賊に襲われたりする心配といったことをここでは言っているのだろう。襲われたとしても、奪われるものなど何もないと言っているわけだ。物欲からの離脱ということが書かれた。
「寛歩駕にかへ」はかごに乗ることに代えてゆっくり歩くということ。寛歩はゆるやかな歩みのことだ。「晩食肉よりも甘し」は夜が更けてから食べる食事は、肉よりも美味に感じられるということ。江戸時代、基本的に獣の肉は食べないことになっているから、ここでの肉は魚や鶏のそれと見て良いだろう。歩き疲れ、空腹になって食べれば何だってうまいというわけだ。ここでも贅沢とは無縁の旅の有り様が記される。そしてそれは物質的には乏しいけれど自由に満ちたものなのだ。
「とまるべき道にかぎりなく」は、どこで泊まらねばならないといった約束などないということ。「立べき朝に時なし」は、朝の何時に立たねばならないということはないということ。気の向くままに行動できるというのが予の旅なのだ。
そんな旅だが一日に願うことが二つあると打ち明ける。「こよひ能宿からん」が其の一。「草鞋のわが足によろしきを求めん」が其の二。気持ちよく一夜の宿泊ができる宿と、足に合っていて歩きやすい草鞋、願いはそれだけだというのだ。「いさゝのおもひなり」とあるようにまさにささやかな願いだ。でもこれはよくわかる。休息と睡眠を十分に取り、よい草鞋で歩きたいというのは、徒歩を中心とする当時の旅にあって極めてまっとうな願いと言えよう。
時々気を転じ、日ゝに情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合たる、悦かぎりなし。日比は古めかし、かたくなゝりと、悪み捨たる程の人も、辺土の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもふぞ、又是、旅のひとつなりかし。
「時々気を転じ、日ゝに情をあらたむ」は旅の得(徳)ともいうべきことだろう。旅をしていると、一瞬ごとに気持ちが切り替わり、一日一日を新鮮な思いで迎えることができるというのだ。そうした毎日のなかでも、特に嬉しいのはわずかにでも風雅な心を持つ人に出会うことだ。そうしたときの喜びには限りがないとある。そしてそうではない人とでも旅に再会するのは嬉しいものであるということが記されていく。「古めかし」は古風なことで、「かたくなゝり」は頑固、頑迷なこと。古臭く、頑迷な人だと、日頃は憎らしく思っているような人であっても旅で会うのはまた格別というのだ。
「はにふ」は埴生の小屋を略した言い方で、土間にむしろを敷いて寝るような家のこと。「むぐら」は雑草のことで、荒廃してみすぼらしい家を象徴するものとしてよく使われる。ここも「はにふ・むぐらのうち」で粗末な小屋の中の意を表す。そうした人とでも、辺鄙な土地の道連れとして語り合ったり、みすぼらしい家のなかで見出したりするのは、「瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して」何かに書付けたり、人にも語りたいと思うものだ。それもまた旅のひとつのあり方なのだとある。「瓦石のうちに玉を拾ひ」は、瓦や石のなかに宝玉を拾うということ。「泥中に金を得たる」は泥の中から黄金を見つけるということ。どちらも得難いものを手にするということだ。
以上、この旅論ともいう文章では、自分の旅が西行等のそれに倣った質素なものであることを言い、また何の縛りもない自由なものであると言っている。常に心が改まっていくことも旅の利点だとも言っている。願うことは良き宿と足にあった草鞋のふたつ。そして風雅を解する人に出会う喜びを何にも代えがたい。ふだんは気に入らない人とでも、旅に再開するのはまた格別だとも言っていた。
衣更
一つぬひで後に負ぬ衣がへ
吉野出て布子売りたし衣がへ 万菊
灌仏の日は奈良にて爰かしこ詣侍るに、鹿の子を産を見て、此日におゐてかしければ、
灌仏の日に生れあふ鹿の子哉
前書きに「衣更」とあるのは、4月1日それまでの綿入れを脱いで、夏用の合わせに着替えること。夏の季語だ。季節は春から夏へと移った。
予の句は「一つぬひで後に負ぬ衣がへ」で、少し意味を補って解すれば、衣更えのきょう何の用意もない旅のこととて、上の1枚を脱いで背に負ったことだといったことになろう。これは前の文章で身軽な旅ということが強調されていたことと結びつく一句といえる。
これに万菊は「吉野出て布子売りたし衣がへ」と応じる。布子は木綿の綿入れのこと。吉野を出て下界に降りれば、時しも衣更えの時節。こんな布子など売り払ってしまいたいといった意味だろう。吉野からの空間的な移動と季節の推移とが師弟二人の唱和によって示された格好だ。
次の灌仏の日は4月8日の釈迦の誕生を祝う日で、これも季語になる。この日二人は奈良であちらこちらの参詣を果たすなか、鹿が子を産む場面に遭遇する。小釈迦様の誕生された日に、生まれ合わせるというのもおもしろく感じられてとして「灌仏の日に生れあふ鹿の子哉」の句が配される。灌仏会の日に生まれ合わせるとは、なんとも幸せな鹿の子であることだといった意味にとればよい。きょうが灌仏の日であることと、鹿の赤ちゃんが生まれたのを見たことと、そのふたつを結びつける発想はなかなかできないことではないかと思われる。あらゆることに関心を寄せ、普通とは少し違った方面からとらえてみるということを芭蕉は常に行っている。
招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、
若葉して御めの雫ぬぐはばや
旧友に奈良にてわかる。
鹿の角先一節のわかれかな
大坂にてある人のもとにて、
杜若語るも旅のひとつ哉
冒頭の招提寺は現在の奈良県奈良市五条町にある唐招提寺のこと。律宗の大本山だ。ここは唐の時代の中国の僧侶鑑真和尚が開いた寺院だ。「わじょう」は和尚と書き、一般には「おしょう」と発音する。仏教で弟子の教育をする師匠についていう語で、禅や浄土系の宗派では「おしょう」、法相宗、真言宗、律宗などでは「わじょう」、天台宗では「かしょう」と呼ぶ。鑑真は日本からの要請に応じ、船で渡ろうとしつつも暴風雨などによって何度も阻まれ、12年目の天平勝宝6年(754)にようやく来日することができた。ただし、その間の苦労に寄って失明の身となっていた。
『笈の小文』の本文では、そのことについて「船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ」と書いている。船中七十余度にわたる難儀を乗り越えられ、目の中には潮風が入って、とうとう目が不自由になられてしまったと。唐招提寺にはそうした鑑真の坐像があり、国宝に指定されている。予はその尊像を拝した。そのときの句が「若葉して御めの雫ぬぐはばや」で若葉が夏の季語。いまは若葉が盛り。この若葉で御目元のしずくを拭ってさしあげたいといった意味になる。鑑真の尊像を見て、実際にはない涙をまのあたりに感じての一句といえる。鹿の子に注いだ優しい視線で、鑑真の像を見つめているとも感じられる。一句だけでは意味が取りにくく、紀行本文と合わせて読むことが不可欠の作と言える。
この後、旧友と奈良で分かれるという内容の前書きがあり、「鹿の角先一節のわかれかな」の句になる。この旧友は奈良で再会した伊賀上野の俳人猿雖、卓袋等を指すことが他の資料から知られる。鹿の角は初夏に新しくなり、細い毛を生じた皮膚で包まれる。それを鹿の袋角といい、夏の季語になる。この句も鹿の角でそのことを表している。一句は鹿の角が一節目から枝分かれするこの時期、私達も一旦お別れをすることだといった意味だ。一節の別れが鹿の角の描写であると同時に、自分たちの別離を表してもいる。この句はさらにもうひとつ奈良から立ち去ることをも暗示的に表現しているように思われる。
奈良の後、予は大阪に向かった。「大坂にてある人のもとにて」という前書きがある。このある人は伊賀の旧友で、いまは大阪に住む一笑という人であることはやはり別の資料から知られる。このときの句は「杜若語るも旅のひとつ哉」で杜若が夏の季語。この花からただちに想起されるのは、『伊勢物語』で業平をモデルとする主人公が東下りの途中、三河国の八橋で「かきつばた」の五文字を各句頭に読み込んだ「唐衣きつつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」の歌。この句で「杜若語る」というのは、そのことなどを話題にしているのだろうと推定されている。一句としては、杜若が美しいこの季節、業平ゆかりのこの花を話題に語り合うのは旅の一興というものだろうといった意味にとれる。
次回は須磨の描写へと移る。
ここまでが番組メモ。今回の放送では7分過ぎから『笈の小文』に入ったので、いつもよりボリュームがあった。それにしても和尚が、宗派によって呼び方が違うとは知らなかった。でも同じ仏教なのになぜ?
0コメント