https://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/000200/nagomi/web/nagomi06/worldisan/index.html 【シリーズ 紀州の世界遺産 高野山】 より
「紀伊山地の霊場と参詣道」
修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、真言密教の根本道場である「高野山」の三霊場と、それらを結ぶ「参詣道」から構成される。和歌山、奈良、三重の3県にまたがる。
紀伊山地には、中国大陸から請来された山岳密教の霊場をはじめ、日本古来の自然崇拝に根ざす山岳信仰や神道、中国大陸・朝鮮半島から伝来した仏教と道教の融合で形成された日本固有の神仏習合の霊場や修験道の霊場、などが併存している。さらに、こうした霊場が参詣道によって結ばれることで、霊場と参詣道を含む山岳全体が、深遠な比類無き文化的景観となっている。
人と祈りと自然が共生してきた、平和な民を象徴するこの景観は、人類のかけがえのない宝として、2004年7月世界遺産に登録された。
高野山は、約1200年前に弘法大師によって開かれた真言密教の修行道場で、高野山真言宗の総本山でもある。標高約900メートルの山上に広がる盆地には、117もの寺院が立ち並び、その多くは宿坊を兼ねている。
山の入口・大門から約10分ほど歩くと、さまざまなお堂や塔が立ち並ぶ「壇上伽藍」と呼ばれる聖域があり、曼荼羅の思想に基づいて根本大塔、金堂などが配置されている。
さらに20分ほど歩く一の橋からは、弘法大師の御廟のある奥の院までうっそうと杉の樹の茂る道が続く。道沿いには、太閤秀吉から太平洋戦争の戦没者まで、さまざまな人々の墓が立ち並ぶ。この道を歩いているのは、お遍路さんたちを除けば外国人旅行者が多い。その多くは、史跡巡りというより、”生の密教文化”を求めて訪れているようだ。
かつてはそんな外国人の1人で、現在は役僧として山内の無量光院で生活しているのが、クルト・厳蔵さんだ。スイス人のクルトさんが高野に入山したのは約10年前。それまでも何度も高野山を訪れ、僧になるまでになった理由は、「ここには生きた文化があるから」だという。
「例えば、京都には確かに歴史的な町並みや建物はあるかもしれない。でも本物の自然が感じられないでしょう? 高野山には、町並みや建物はもちろん、本物の自然と、そこで生活する人々の息吹がある。高野山は美術館ではない。”生きた文化”があるんです」(クルトさん)
高野のまちは1200年の時を経た数多くの歴史的事物と、いまを生きる人々の生活そのものが見事に溶け合っている。クルトさんはじめ外国からやってくる人々の目に魅力的に映っているのは、そんな風景なのだろう。
高野山を訪れる外国人と日本人の1番の違いは、滞在期間の長さだという。日本人は、バスや車で乗り付けて、壇上伽藍や奥の院などを観て帰ってしまうことが多い。外国人旅行者は最初から3泊以上する予定で宿坊に泊まったり、その時のコースの都合で1泊しかできなくても、「これでは足りない」と再び訪れて何泊もするという。「”観光”を求めてくる人と"本質的な文化"を求めてくる人の違いだと思います」(クルトさん)
クルトさんは、2008年から国土交通省が任命する「YOKOSO JAPAN大使」に選ばれた。これは、日本への外国人旅行者を2010年までに1,000万人にする目標のもと、日本の魅力を発信している人々を任命するもの。クルトさんは、外国人旅行者や欧米のメディア、旅行会社にフランス語、ドイツ語、英語などで高野山の曼荼羅や仏像、ふすま絵などを解説し、その魅力を紹介。また、ヨーロッパの観光セミナーで高野山を紹介するなど、認知度アップに貢献していることから選ばれた。「高野山を訪れる人には、山内をぜひ自分の足で歩いて欲しい。車で移動することもできるけれど、生きた文化を感じるためには歩くのが一番です。時間はかかるけれど、そのためにも何泊かして欲しいと思う」。
クルトさんは日本人にこうメッセージする。
「こんなに素晴らしい生きた文化遺産が国内にある国はそう多くない。もっと多くの日本人が訪れるべきだと思います。高野山に行ったことがないなんて本当に不思議。もったいないね」
平日は意外と歩く人の少ない奥の院へ続く道
平日は意外と歩く人の少ない奥の院へ続く道。晴れても雨に煙っても美しいこの道をぜひ歩いて欲しい。運がよければ散歩中のクルトさんに出会って、高野山にまつわる話が聞けるかもしれない。
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202005/202005_13_jp.html 【神々の山の五重塔】 より
山形県の出羽三山は古くから修験道の霊山として信仰を集めてきた。その山中、約650年前に建立された木造建築の羽黒山五重塔は、杉の老木に囲まれてそびえ立ち、自然と一体になった素朴な美しさで訪れる者に安らぎを与えている。
山地が国土の4分の3を占める日本では、山を神々が宿る神聖な場所として崇拝する山岳信仰が古くから行われてきた。平安時代になると、山岳信仰と大陸伝来の仏教や道教などの宗教が結びついた「修験道(しゅげんどう)」が成立し、全国各地に広がっていく。修験道の霊山とされる山々では、修験道の行者である「山伏」が厳しい修行を行った。
山形県の中央部に連なる出羽三山は、代表的な霊山の一つである。出羽三山は羽黒山、月山、湯殿山、という3つの山の総称で、その歴史は6世紀末に崇峻天皇の皇子である蜂子(はちこ)皇子が修行したことに始まると伝えられる。出羽三山では、羽黒山で現世利益を得て、月山で死後の世界を体験し、湯殿山で新たな命を得て生まれ変わるという信仰が形作られていった。こうした信仰は諸国を巡る山伏を通じ人々に広がり、江戸時代には全国から多くの参拝者が出羽三山を詣でるようになった。17世紀の名高い俳人、松尾芭蕉もその一人で、芭蕉は「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」という句を残している。
その羽黒山の麓に立つのが、東北にある仏塔で唯一国宝に指定されている羽黒山五重塔である。仏塔は、6世紀に中国から仏教が伝来すると、当時の都があった奈良や京都で建てられるようになり、仏教とともにやがて各地に広がった。
伝承によれば、羽黒山五重塔は10世紀に創建され、現在の塔は1372年の再建と考えられている。五重塔は、出羽三山の入口となる随神門を通り、かつて参拝者が身を清めた秡川(はらいがわ)を渡り、羽黒山の頂上へと向かう参道の脇、樹齢300年以上の杉並木の中に立っている。その高さは約29メートル、建物に色彩や装飾を施さない「素木造り」が大きな特徴である。
「杉に囲まれた五重塔は、まさに自然と一体化しています。長い年月にわたって風雪にさらされた白い木肌が、素朴な美しさを生み出しています」と出羽三山神社歴史博物館の学芸員、渡部幸さんは話す。
塔は杉と欅の木で組み立てられており、木材と木材のつなぎ目には、時間が経ち乾燥するほど、しっかり縛り上げる性質を持つ藤蔓で固定されている。金属のくぎは一本も使われていない。五層の屋根は、杉の薄い板を何層にも重ねる「杮葺(こけらぶき)」という技法で葺かれている。屋根の四隅が微妙に上方に反り、軒が深く造られている。この五重塔は、風雪から柱や壁を守る深い軒を支える「組物」も特徴的である。幾つもの木材が複雑に組み合わされた組物は、塔を強固にするだけではなく、装飾的な美しさも見せている。
羽黒山周辺は冬には1メートル以上の雪が積もる。そうした厳しい自然環境に立ち続ける五重塔は、繰り返し補修が行われ、今に受け継がれている。
「山伏、そして、人々の厚い信仰心があったからこそ、長い間にわたって五重塔が守られてきたのだと思います」と渡部さんは話す。「観光客の方の中にも、五重塔の前でじっと、長い時間を過ごす人もいらっしゃいます。自然に包まれてたたずむ五重塔を見ると心が落ち着くと多くの方が言います」
神々が宿る山に静かに立つ五重塔は、自然と深くつながってきた出羽三山の信仰とその歴史を表すシンボルと言える。
https://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1486 【出羽三山巡礼句 芭蕉筆 】
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