文学青年・芭蕉

https://moon.ap.teacup.com/applet/tajima/201/trackback 【文学青年・芭蕉」  松尾芭蕉入門】より

寛文2年(1662年)、芭蕉19歳のころ、当時、芭蕉は伊賀上野の窪田政好・保川一笑という仲間たち(?)から俳句の手ほどきを受けていたようです。その縁で、伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の三男・良忠(俳号は蝉吟)に仕えるようになります。

ところで、この保川一笑は、芭蕉の伊賀上野時代からの旧友のようですね。後に、芭蕉の門人になるようです。(ほんと?)

ちなみに、この1662年には、井原西鶴がすでに俳諧点者になっています。西鶴は芭蕉が生まれる2年前、1642年に誕生しています。今後、芭蕉と西鶴の関係は注目していきたいところではありますね。

また、この同じ年(1662年)、現在知られているうちでもっとも古いと言われている芭蕉の作品

春や来し年や行きけん小晦日

作っています。この頃の芭蕉は、俳号を宗房といい、当時から地方俳壇では知られる存在だったようです。

さて、芭蕉が仕えた蝉吟(良忠)については、その人となりはよくわかりません。

芭蕉は、近習役だったとか、台所用人とか、料理人とか、諸説があるらしいのですが、少なくと蝉吟との関係は、かなり親しい間柄だったと考えられるのではないでしょうか。

…でないと、蝉吟がなくなった後、芭蕉が退官する理由がわからなくなってしまいます。

2歳年上の蝉吟とは、ともに文学仲間として、京都の北村季吟に師事することになります。先ほどの窪田政好・保川一笑らの名前も見られることから、彼らは文学仲間だったと言ってよいかも知れません。

どうも、この時代のことはおぼろげで、あまり具体的なイメージは見えてこないのですが、彼ら若い文学青年グループが、北村季吟の指導を受けながら、少しずつ地方俳壇に知られる存在となっていったという感じのようです。

そして、寛文6年(1666年)蝉吟が、25歳という若さでなくなってしまいます。主君でもあり、文学仲間でもあった蝉吟の死は、芭蕉にショックを与えたようです。そりゃ、そうでしょう。

その後、6年ほど、歴史上から芭蕉の姿が消えてしまいます。(蝉吟の死のショックで行方不明になった?そんな馬鹿な…)

そして再び姿を現した、寛文12年(1672年)「貝おほひ」を伊賀上野天満宮へ奉納したのち、芭蕉は江戸に下ってしまうわけです。

ところで、なんで芭蕉は江戸に下ったのでしょう?若い頃の芭蕉の周りには、伊賀上野の仲間や、京都の北村季吟など、関西の人々が多かったようなのに、なぜ急に江戸へ向かったのでしょう。やっぱり江戸が1番の都市だったから?ま、ありえますが。…んー、いまのところよくわかりません。(っていうか、あまりちゃんと調べてません。)


http://www.ict.ne.jp/~basho/works/kaiooi.html  【処女作「貝おほひ」】 より

「貝おほひ」の製作現場「釣月軒」

寛文12年(1672)正月25日芭蕉翁の生家松尾氏の後園に建てられた草庵 「釣月軒」。ここで芭蕉は自撰の処女集である「貝おほひ」を執筆し上野天神に奉納して江戸に下ったといわれています。

この「貝おほひ」は「三十番俳諧合」というごとく芭蕉が郷里の上野の諸俳士の 発句に自句を交えてこれを左右に番えて三十番の句合あわせとし更に自ら判詞を記して勝負を定めたものです 。

書名は遊戯の「貝おほひ」の「合わせて勝負を見る」ところによったもので、序文に「寛文十二年正月二十五日 伊賀上野松尾氏宗房 釣月軒にして みづから序す」とある通り伊賀を出て数年間季吟門に学び伊賀に帰った 芭蕉が上野においてこの書を編み折から菅公770年の忌日にこれを奉納したものと思われます。

芭蕉の生前中自署して自著として刊行した唯一の出版物で現在一冊だけが現存するといわれる「貝おほひ」の刊本は、延宝初年に江戸の中野半兵衛から出版されたもので、天理大学附属天理図書館が所蔵しています。

判詞は当時の軽妙な洒脱を自由自在に駆使したものでその闊達で奔放な気分は談林俳諧の先駆的なものとなったといわれています。

故杉浦正一郎氏の叙述によれば、当時、芭蕉は驚くべきほどの鮮かな成長を示し、時代の息吹を敏感にうけとめて、当時の俳壇の最も前衛的な傾向を身につけた、新しいめざめに躍動する作品となっていると評されています。

「貝おほひ」が奉納された「上野天神」

これによってうかがい知ることは、芭蕉はこの以前六年間の空白時代に、新しい タイプの俳諧師となるために必要な素地を十分身につけたと考えられます。

 ※「貝おほひ」中の芭蕉句

  きてもみよ 甚べが羽織 花ごろも

  女をと鹿や 毛に毛がそろうて 毛むつかし


https://ameblo.jp/yamahiko2020/entry-12460541654.html 【閑か?静?どっちゃネン!】より

三重県伊賀市寛永21年(1644年)松尾与左衛門の二男として「宗房」は誕生。

松尾家は無足人という家柄(無足人とは給料をやらない侍という意味)

藩からの俸禄はなく、農業で生計を立てていた。

父親が亡くなると、13歳だった宗房は奉公に出されました。

奉公先は、伊賀上野を治めていた藤堂家の一族、藤堂新七郎の家。

ココで宗房は年の近い嫡男「藤堂良忠」の世話役を任されるまでになっていきました。

この時良忠の影響により出会ったのが俳諧。

宗房23歳の時、良忠が25歳で亡くなります。主君であり文学仲間でもあった良忠の死は、青年・宗房に大きなショックを与えたと思われます。

この後、藤堂家を出た時期は定かでないが藤堂家の奉公を辞め、宗房は一転、俳諧を極める道を選びました。

そして29歳の兄・半左衛門に家を任せ、最初の出版物、三十番発句合「貝おほひ」を著わし、伊賀上野の天満宮に奉納し、文運の隆盛を祈り江戸へと向かいました。

江戸では磐城平7万石の城主「内藤義概(よしむね)」こと「風虎」の文学サロンに参加、様々な俳人と交わります。

当時の彼の収入源は神田上水の水道工事の書記と俳句の会合での採点をする時の点料と指導料。

延宝6年頃(1678/35歳)に「宗匠立机(そうしょうりっき」=俳句の師匠として一門を率いる手続き)をし職業的な俳諧師となり、延宝8年(1680年/37歳)には江戸深川隅田川畔に「草庵」を結ぶ。門人李下(りか)より芭蕉の株を贈られ、この木が大いに茂ったことから、この庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、俳号としても「芭蕉」を好んで用いるようになりました。

後に「俳聖」と呼ばれた「松尾芭蕉」の若き日のお話です。

若くして亡くなった主君「藤堂良忠」

彼の俳句として「猿蓑集 巻之二」につぎの句が・・

五月六日大坂うち死の遠忌を弔ひて

大坂や見ぬよの夏の五十年    伊賀蝉吟

藤堂良忠の俳号は「蝉吟」

エッ??「蝉吟」??

(中略)

江戸を立ち「奥の細道」の旅に出た芭蕉達は山寺こと立石寺に着きました。

立石寺は東北の比叡山ともいうべき霊場。

ここで芭蕉は、あの有名な句を残しました。「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」

賑やかな蝉の声が静けさを一層感じさせるという名句。

しかしこの句にはもっと深い芭蕉のメッセージが込められていると言います。

嵐山光三郎さんは「蝉の声の蝉というのは、自分の主君の俳号が蝉吟だった藤堂良忠をイメージしており、風景の描写でありながら、自分に俳句を教えてくれた2歳上の若殿のことを追悼している。

風景、情景だけでなく、そこに込められた芭蕉の思い、二重のメッセージがある」と述べられています。

松尾芭蕉、奥の細道の旅は日本海を望みながら南へと下ってゆき、江戸を発って150日余り、美濃の大垣で旅を結びました。

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