https://cinema.ne.jp/article/detail/42676 【『もののけ姫』を奥深く読み解く「5つ」のポイント!子供が登場しない理由とは?】 より
本日10月26日、『もののけ姫』が地上波放送されます。本作ほど、どういう映画であるかを“一言で表すことが難しい”作品もなかなかないのではないでしょうか。劇中には莫大な量の情報が詰め込まれ、何度も観ても新しい発見がある一方で(だからこそ)、「結末がスッキリしない」「モヤモヤしてしまう」という意見もよく耳にします。
その理由をごくごく端的に挙げるのであれば、“善と悪を明確に線引きした完全懲悪の物語ではない”、“登場人物それぞれが複雑な事情を抱えている”、“人間の自然への向き合い方を一方的なエコロジーの観点に留めない”、そして“争いや問題は簡単に解決できない”という訴えがあることでしょうか。詳しくは後述しますが、それぞれの事象を総じて“単純化しない”ということと、キャッチコピーにある「生きろ。」というシンプルなメッセージこそが、『もののけ姫』を読み解く指針になるはずです。
事実、宮崎駿監督も『もののけ姫』という映画の“狙い”について、以下のように語っています。
「世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神々と人間との戦いにハッピーエンドはあり得ないからだ。しかし、憎悪と殺戮の最中にあっても、生きるに値することはある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る」
これらのことを踏まえ、『もののけ姫』で訴えられていたこととは何であったのか、以下に解説していきます。
※以下からは『もののけ姫』の本編のネタバレに触れています。まだ映画を観たことがない、という方は鑑賞後に読むことをおすすめします。
1:勧善懲悪の物語にならなかった理由とは?
一方を善、一方を悪と明確に線引きしていない、勧善懲悪的な物語にはなっていないということが、『もののけ姫』の最大の特徴の1つと言っていいでしょう。それは、登場人物それぞれの“立場”や“価値観”を振り返ってみても、よくわかります。
例えば、エボシ御前は石火矢という武器をもって森に侵攻してもののけたちを殺戮し、それがタタリ神をも生み出すことにもなるなど、表面上だけを見れば悪人と捉えられかねない人物です。しかし、彼女は身売りにされた女性をタタラ場に引き取り、病気(当時は差別や偏見の目で見られることも多かったハンセン病)の患者にも優しい声をかけ、何よりタタラ場という製鉄所でみんなに仕事を与えています。タタラ場の男たちが山を削り木を切るのも、生活のためにやっていることです。タタラ場の人々にとっては、エボシは頼れるリーダーであり、居場所をつくってくれた救世主のような存在であるのです。(そんなタタラ場の人々はおおらかで優しそうにも見えますが、襲ってきた年端もいかない少女であるサンに、容赦なく「殺せ!」などと罵声を浴びせていたりもします)
一方、サンは自然を荒らした人間に強い恨みを持ち、「人間を追い払うためなら命などいらぬ!」と言い放つまで、その目的を“正しい”ことであるかのように追求しています。
モロの君は、そのサンを実の娘のように愛しており、「それ(乙事主の所に行く)でいいよ、お前にはあの若者(アシタカ)と生きる道もあるのだが」などと、彼女の行く道を心から心配しているようでした。
また、争いは“人間対もののけ”という単純な構図にとどまらず、野武士たち、タタラ場の鉄を狙うアサノ公方配下の侍たち、シシ神の首を狙うジコ坊たち唐傘連も加わり、タタラ場に残っていた者たちも戦わざるを得なくなるなど、混沌めいた戦況になっていきます。
山のもののけたちの中でも、乙事主率いるイノシシたち、猩猩(しょうじょう)たちの価値観は(人間への反撃を考えているという点では同じでも)サンやモロの君とは大きく異なっていました。彼らの無礼な言動はサンの怒りを買い、モロも「気に入らぬ、一度にケリをつけようなど人間どもの思う壷だ」と乙事主の短絡的な考えを諌めています。
このように、『もののけ姫』では徹底的に“二項対立”を避けています。現実にある戦争も、得てしてそのようなものなのでしょう。“どちらかが悪い”と単純に説明できるものではなく、それぞれが様々な価値観や事情を持っているがゆえに、どうしようもない憎しみや軋轢も生まれてしまい、それは同じ人種や生活圏で必ずしも一致するものでもない……これらの『もののけ姫』の複雑な設定と登場人物それぞれの想いが、“争いや問題は簡単に解決できない”ということをも示しているのは明白でしょう。
2:アシタカはなぜエボシに笑われるのか?
主人公であるアシタカは“迷いのない”若者です。村を襲おうとするタタリ神に迷うことなく矢を射て、死を免れない運命を悟って村を去り、その後は人間ともののけが争わずに済む道をひたすらに探し続けていました。モロの君に「お前にサンが救えるか」と問われた時のみ、一度は「わからない」と答えるも、すぐに「だが共に生きることはできる」と、やはり“正しい道”について断言をしています。
そのアシタカは「曇りなき眼(まなこ)で物事を見定め、決める」と言い放った時、エボシに大いに笑われていたこともありました。それは、エボシがタタラ場を守るために山のもののけたちを脅かしているという自覚があり、事情が単純ではないことをわかっているからでしょう。彼女にしてみれば、単純な正義心で物事を見定めようとするアシタカなど、滑稽な存在そのものだったのです。(アシタカは、タタラ場に連れ戻した甲六が妻のトキになじられているのを見て「よかった、連れてきてはいけなかったのかと心配した」と“天然”な物言いをしてトキに大笑いされていたこともありましたね)
その争いに否定的だったはずのアシタカは、(襲われる人を助けようとしていたとは言え)序盤に侍たちを矢で惨殺して「鬼だ」と呼ばれ、後に戦地でも同様に人を殺しています。前者は右腕にかけられたタタリ神の呪いが暴走したようでもあり、後者も同様に呪いが刀を持つ右腕に人知を超えた力を与えてしまったようにも見えましたが、それでもアシタカ自身が争いにつながる火種を撒いていないとは言い切れないでしょう。これは、正しく見える彼でも(他の誰かの)憎しみに囚われれば、間違いを犯しかねないという危険性をも示しているのではないでしょうか。
しかしながら、物語は究極的にアシタカの迷いのない行動(特に最後の“シシ神に首を返す”こと)を肯定します。それは最後のジコ坊のセリフでである「いやあ参った参った、バカには勝てん」でもわかるでしょう。ジコ坊は師匠連という組織の命令にしたがってシシ神の首を狙っているだけで、「やんごとなき方の考えはワシにはわからん。わからんほうがいい」と言っていたように“余計なことは考えずに自分の利益だけを追求する”したたかな人物であったようですが、そんな彼でも損得を超えた行動をしたアシタカには“負けた”というのですから。
戦争を真に終わらせることができるのは、いつもアシタカのような人物なのかもしれません。自分の利益など全く眼中になく、憎しみと争いがはびこる世界で、愚直と言っていいほどに“正しい道”を探す……エボシに笑われ、ジコ坊にバカだと言われようとも、アシタカはそれを追い続けた。それを否定できるわけもありません。
3:シシ神とコダマが示しているものとは?
シシ神は、人間はもちろん、もののけたちも敵いようがない、高次元の存在であるようでした。劇中でアシタカはシシ神のことを“命そのもの”であるとサンに告げていましたが、同時に“自然”のメタファーでもあると言ってもいいでしょう。美しい存在であり、命を与える一方で、無残にもその命を奪うこともあり、それを誰かがコントロールできるはずもない……終盤の“ドロドロ”が森にも人間たちにも無差別に襲い来る様は、そのまま津波や地震といった自然災害そのものにも思えてきます。
前述したように、『もののけ姫』では“(争いや問題は)簡単に解決できない”ことが示されており、それは“自然(環境)破壊”にも及んでくるのでしょう。事実、宮崎駿監督は『もののけ姫』において“素晴らしい自然と愚かな人間という単純な関係図”で捉えることを否定しかったところもあるようです。
しかも、最後にシシ神に首を返すと山々には緑が戻りましたが、サンは「蘇ってもここはもうシシ神の森じゃない」というネガティブな物言いをしています。これも宮崎駿監督によると、「ヨーロッパの産業革命で森が一旦は無くなっていたり、日本でも鉄を作るためにたくさんの木を切ったりもしていたが、それでも森は蘇っていた。しかし以前の生命に富んだ豊かな森とは違っていた……」という文明の歴史を踏まえたものになっていたのだそうです。
宮崎駿監督は『風の谷のナウシカ』で自然破壊がされた未来で生きる人々の姿を描き、『天空の城ラピュタ』ではわかりやすい勧善懲悪の冒険活劇を描いていました。しかしながら、『もののけ姫』ではそのどちらをも単純化して描いていないのです。それは、宮崎駿監督が作家として成熟した、または『風の谷のナウシカ』の頃に回帰した結果とも言えるのではないでしょうか。
また、宮崎駿監督は“コダマ”について、「森がただの植物の集まりではなくて、森が精神的な意味も持っていた頃のイメージをどういうふうに形にしていけばいいかを考えた」「森の不思議な感じや気配のようなものを形にしたかった」などとも語っています。コダマは森や自然に“何かがいる”という漠然とした感覚を具現化したものと言ってもいいでしょう。そのコダマの存在を最後に示すラストは、(森が以前の森ではなかったとしても)やはり究極的には自然を敬い、自然を甦らせることができるという希望を持つ、宮崎駿監督の信条が表れているようにも思えるのです。
4:なぜタタラ場には子供がいないのか?
『もののけ姫』の劇中に“子供が登場しない理由”にも触れておきましょう。これまでの宮崎駿監督作品には必ずと言っていいほどに子供が活躍する場面があったのですが、製鉄所のタタラ場にはなぜか大人の女性か男性かしかいません。子供どころか、老人に当たる人物もいないように見えます。
これは、ひとえにタタラ場が危険な場所ということも関係があるのではないでしょうか。エボシ率いる男たちは山の神の怒りに触れながらの森林を切り崩し、鉄も地侍たちに狙われていたりしているなど、“戦場になってもおかしくはない場所”です(実際にそうなります)。アシタカが「まるで城だな」と言っていた通り、そこには外部から敵の侵入を防ぐ針山も張り巡らせられていました。タタラ場の人々はとても子供を安心して育てられる環境ではないとわかっており、子供を作らないようにしたか、または親類か近くの村などに預けていたのかもしれません。
なお、宮崎駿監督は「タタラ場では、男が守らなければいけない女とか、家族の中の女性というふうにはしないで、わざと切り離した。子供を入れるとややこしくなるから、入れなかった。そのうち子供もいっぱい産まれてくるんでしょうけど、今はまだそういう時期じゃないっていう状態のタタラ場にしておこうと思った」などと語っています。
そのタタラ場では、女性が「男がいばらないしさ!」と言っていたり、公方の使者がやってきた時は「こっちは生まれたときからズーッと無礼だい!」と追い返していたりなど、“女性が強い”場所になっています。実は、宮崎駿監督はタタラ場という舞台について「従来の時代劇の常識や先入観や偏見に縛られず、より自由な人物像を形象する場所である」とも語っており、その“自由な人物像”には、ステレオタイプな武士や農民とは違う、製鉄所で働く“強い女性”もあったのではないでしょうか。
また、エボシは最後に「誰かアシタカを迎えに行っておくれ。みんな初めからやり直しだ。ここをいい村にしよう」と言っており、争いを避けようとしていたアシタカに感化され、その力を借りて平和な村にしていこう、という意思が見えます。新しくなった村は、安心して子供を育てることができる場所になっていくのかもしれませんね。
5:「生きろ。」のメッセージについて
前述したように『もののけ姫』は小さな子供が登場しない作品なのですが、むしろメッセージそのものはティーンエイジャーを含めた子供に向けたものとも言えます。何しろ、宮崎駿自身は「この映画を作りたかった一番の理由は、日本の子供たちが“どうして生きなきゃいけないんだ”という疑問を持っているからだ」と明言していているのですから。
その“生きる”ことに悩んでいる子供に向けての、宮崎駿監督からのメッセージは、最後のサンとアシタカの会話に集約されていると言っていいでしょう。
「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない」
「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」
サンは、人間に捨てられる(生贄として差し出される)という壮絶な生い立ちで、結果として母と慕っていたモロの君も失ってしまい、(元々は同族であるはずの)人間を結局は許すことができませんでした。
アシタカは、以前はモロの君に「あの子を解き放て!あの子は人間だぞ!」と声を荒げていたこともありましたが、そのサンの意思を聞き、「共に生きよう」と言うのです。
この“共に”とは、同じ場所に住む、同じ価値観を持つということだけにとどまりません。心を開いた少女と、彼女の意思を知った少年が、世界のどこかで“共に”生き続けるということ……この記事の冒頭に挙げた「憎悪と殺戮の最中にあっても、生きるに値することはある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る」という宮崎駿監督の想いが、ここに表れているのです。
その宮崎駿監督の次回作であり、事実上の最終作となる映画のタイトルは『君たちはどう生きるか』。こちらも、きっと子供または若者に“生きる理由”を説いた作品になるのでしょう。
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