https://elsewhere.exblog.jp/ 【芭蕉とライフ・インデキス(1)】より
松尾芭蕉とその表現しえた世界とは一体何だったのか、ということを今更ながら細々と考えたくなった。きっかけは民俗学者・赤坂憲雄の著書『東北学/忘れられた東北』の中にある、「さらば芭蕉、と囁きかける川風を聴いた」という一章である。その一章は、自らを鼓舞するかのような芭蕉への決別宣言で締めくくられている。
あえて断言することにしよう。芭蕉からは、芭蕉的なるものからは、何ひとつ始まらない。芭蕉によっては救われない。芭蕉的なるものへの、淡い期待は必ず裏切られる。芭蕉その人も身勝手なら、芭蕉に期待する側もまた、ひとしく身勝手であることには変わりがない。東北が自らの言葉で、みずからの東北を語りはじめるとき、そこにはじめて、大いなる地殻変動が起こるだろう。都/辺境という、まなざしの構図が壊れ、もうひとつの豊かな東北が起ち上がってくる。
芭蕉的なるものよ、さらば。(赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』講談社)
短い一章のなかで、こうした芭蕉への強い拒絶の意思が繰り返されているのだが、その意思の源泉は、つぎのような文章にも表れている。
いずれにせよ、芭蕉は都から辺土の地に降り立った旅の詩人である。それ以上でも、以下でもない。かれら歌枕の詩人たちによって、東北という辺土の地は発見され、ひたすら風雅の情を掻き立てる土地としてもてはやされ、いや、弄ばれてきた。それだけが抱きしめるべき現実である。
芭蕉が市振の関で出会った、越後の遊女はみちのくである。辺土の地としての東北である。芭蕉がけっして見ることのなかった、もうひとつの東北である。辺境へのロマン主義はいつだって、意識してか否かにはかかわらず、遊女を犯し、東北を犯しつづけてきた。辺土への憧れから生まれるのは、名所と旧跡であり、都の文学や芸術である。辺土の地に生きられてある、たとえば遊女や炭焼きや農民の唄などには、なんの関わりもない。風雅の世界である。ことさらに、そう言い立てねばならぬ状況が、依然として、この東北の地のそこかしこに転がっている。(同上)
赤坂のいう、「ことさらに、そう言い立てねばならぬ状況」とはなにか。それがもし、実体のない歌枕を観光資源としてそこに寄りかかり、名所旧跡をひたすら目指してやってくる旅行客と東北人自らの手で、東北の真の資源を食い潰している今日的状況ということなのだとしたら、一定の理解はできる。その状況が決別されねばならないものであることも、また確かである。
しかし。不思議なのは、その攻撃の標的となった芭蕉である。「遊女を犯し、東北を犯し」とまで罵倒される芭蕉への、赤坂の理解なのである。
赤坂は、「芭蕉は確かに優れた詩人である。」という。しかし、どこがどう優れていたのかということには一切言葉を費やさない。文学に対する気持ちの良いほどの拒絶である。けれども芭蕉という人物のみならず、「歌枕」、「風雅」、「ロマン主義」といったタームすべてが、本書を通して「芭蕉的なるもの(を透過しての柳田的なるもの)」の否定における便利この上ない材料として、それらへの理解も考察もない中で安易に用いられてしまっていることに、僕はいいがたい不安を感じた。この一章によって「語られなかった東北」に奮い立つ東北人が出てくるのであればそれもまた意義のあることなのだろうが、なにか釈然としないものがのこる。
歌枕とは、もちろん辞書的には「和歌に多く詠み込まれる名所・旧跡」のこと。藤中将実方が一条天皇に「歌枕見てまいれ」と言われて左遷された、あの歌枕のことだ。そして、歌枕とはこの語義に発して、地方文化の復権の声喧しい現今にあっては「生活感の欠如した、貴族階級の辺境に対するヴァーチャル・イメージ」として批判の対象になりやすい要素を持っている。赤坂氏も、実際そのような感覚で「歌枕に犯された東北」と言っているのである。
ごくライトなカルチャル・スタディーズ的見方としてはその通りだろう。名所・旧跡を見て、その土地や場所の何物も感じることのない旅行時代など必要ないとも思う。だが、この国の場所や土地に対するイメージの一面を千年以上にわたって支え続け、陳腐化の誘惑に耐え続けた「歌枕」とは、果たして単なる「ヴァーチャル・イメージ」で片付けられるものなのだろうか。そして、歌枕や芭蕉は本当に生活に対する感覚を欠いていたのだろうか。
奥村恒哉との書簡形式の対話の中で、篠田一士は歌枕の可能性についてこう述べる。
実は、貴兄の前便のなかで、例の、「よし野山はいづくぞと」ではじまる正徹の一節を引き、上っ面だけの理解に終始する愚をたしなめ、その背景にあったはずの「生活感覚の裏付け」を忘れてはなるまいというご指摘があり、なるほどと思い当る節がいくつかありました。念をおして言い直せば、貴兄の御説通り、古代末期に現れた歌学書における「地名列挙」こそが、歌枕の成立、そして確立ということになるのですが、その際、歌学が演じた役割は、遠い遠い時代から言い継がれ、ほとんど、われわれ日本人の祖先たちの内的生理と化してしまっていた、「生活感覚の整理」という事柄を、いま一度、篤くと考えてみたいということです。
まず、第一に、「生活感覚の整理」ということですが、この「整理」なるものが、地名から、アクチュアルな地理性を捨象し、ただちに詩的なリアリティーへと転化するものであったかどうかということです。そういうことは、到底ありえないというのが、貴兄の御考えであることは、わざわざ弁を費やされる必要もなく、ぼくにはよくわかりますし、ぼくなりに早吞みこみながら、説明がつき、納得がゆきます。
すなわち、貴兄のおっしゃる「整理」とは、地理性の捨象ではなく、地理的なるものの現実性を、とりあえず、地名という、一見抽象化された言葉の後背に移行させながら、前景には、詩的な効用のみを一応立てるということでしょう。ここで、ぼくは、一見、一応などと、踏ん切りがつかない言い方を繰り返していますが、これは、ぼく自身のせいではなく、歌枕を成立させた、「生活感覚の整理」のもつ機能の二重性を、できるかぎり正確に指示するためには、この種の曖昧な言い方を必要とせざるをえないのです。つまり、歌枕が、たえずルーティン化し、陳腐なものになるということは、いまさら言うまでもありません。だからといって、中世ラテン詩人たちが、陳腐であるがゆえに、それをことさら珍重し、そこに新しい文学の効験をつくりだそうとする、いわゆる「常套句」のトポスを見出そうとする、ヨーロッパ文学独自の詩的意欲、いや、意思を、中世以降のわれわれの歌枕のなかにもとめようとしても、結局は、無駄な気がしないでもありません。
なぜかといえば、歌枕が陳腐な「常套句」と化し、もはや、歌そのものの詩的生命を無にしようとするとき、いつでもというわけにはゆきませんが、ときとして、一見後背に押しやられたはずの地理性のアクチュアリティーを、いま一度新しい装いをほどこして、歌枕に託されたポエジーの再生を目指し、みごとにこれを実現してみせた場合も少なくありません。(奥村恒哉『歌枕考』筑摩書房)
ここで言及されている歌枕とは、もちろん「みちのく」のような絶対的な距離を隔てた空想世界としての歌枕ではなく、足をのばせばたどり着くことのできる場所としての歌枕である。しかし重要なことは、篠田が歌枕に「生活感覚の裏付け」を見出し、その整理に言及していること。詩的な効用は前景に「一応」立てられているだけ、と考えていること。そして、歌枕がルーティン化しようとするときに、後背から地理性のアクチュアリティーが甦り、自らを再生させるという驚くべき読みである。「地理性のアクチュアリティー」が具体的に何を意味するのかという問題それ自体が大きな学問的課題ではあろうが、ともかくも山本ひろ子が『異神』において論じきった「後戸の神」のような存在を、歌枕が隠していることに篠田は気づいているのだ。率直に言って、この篠田の読みは、赤坂の歌枕理解の対極に位置する読みであると言ってよい。
赤坂は、「『奥の細道』がついに語ることのなかった東北は存在するのか。存在するとすれば、それは何か。芭蕉やその『奥の細道』の文学的な評価といったものとは、当然ながら、およそ無縁な問いかけである。」と言う。なんという問いかけであろう(そもそも、『奥の細道』ではなく『おくのほそ道』である)。芭蕉が東北を語り尽くそうなどという無謀な意図を些かも持っていなかった以上、『おくのほそ道』によって語られなかった東北は存在するに決まっているではないか。
ぜんたい、芭蕉や歌枕といったものをこれほどまでに辛辣に批判しておきながら、なぜその問いが『おくのほそ道』の文学的な評価と無縁でいられるのだろう。それではまたしても、「赤坂の語ろうとしなかった芭蕉」が残されてしまう。芭蕉に別れを告げるどころの話ではなくなってしまう。
自らの住む「民俗学的世界」に安住してはいけない。「東北人」であることの自明に安住してはいけない。東北が、常に外から読み解かれるべき対象でありながらも、同時にまた何物かと繋がるべく自ら流離する主体となる、という矛盾を止揚する度量を持たねばならない。
東北から芭蕉の影を消し去りたいのであれば、まずは芭蕉の文学を内から読み破るのが筋というものである。赤坂が、柳田國男の限界をいっかな突破できないのは、こうした文学や文学史に対する無理解と無理解に対する開き直りにあるのではないか。『境界の発生』という民俗学史上重要な論考を持ちながら、文学と民俗学の境界はついに越えようとしなかった。これは民俗学の生くべき道にとっても小さからぬ損失である。
さて、ここで赤坂の芭蕉に対する拒絶の正当性を意外な方向から崩しかねない人物にご登場願おう。誰あろう、荒俣宏である。少し長くなるが、二人の文章をよく読み比べていただき、文化史上のミステリーを存分に味わっていただきたい。まずは、赤坂。
都の文化こそが、芭蕉にとっての唯一の価値の源泉であった。東北の地に生きられてある固有の文化にたいする、畏敬の念は、かぎりなく稀薄なのだ。たとえば、盲目の法師が琵琶を鳴らし、奥浄瑠璃を語る姿に触れた芭蕉は、こう書いている。さすがに辺土の遺風は忘れられていない、殊勝なことに思われる、と。辺境へのロマン主義があらわに覗けた瞬間である。わずかに興を覚えることはあれ、そこには発見の悦びといったものは、かけらもない。
あるいは、塩竈神社に詣でた芭蕉は、国守によって再興されたお宮の荘厳さに打たれる。かかる道の果ての塵土の境まで、神霊があらたかに鎮まることこそ、わが国の風俗であり、たいへん貴く思われる、そう、芭蕉は書いた。しかし、貴い風俗だと感じ入るわけにはいかない。東北の地の古い神社や寺は、その多くが、古代の蝦夷征討の最前線に築かれた宗教的な砦であった。蝦夷の抵抗の拠点であった達谷の崫など、みごとなまでにそれを物語っている。岩屋に祀られた毘沙門天の像は、その足のしたに、鬼それゆえ蝦夷を踏みつけにしている。無残に裏返された歴史がそこには隠されている。芭蕉の感慨に同意するわけにはいかない。(同上)
次に、荒俣。
おそらく芭蕉は、石碑に勝者の側の歴史を見たわけではないのだ。むしろ、田村麻呂に平定された蝦夷人にシンパシーを感じた。だから、鎮魂の意味で「壺の碑」に詣でたのだろう。石碑を、敗者の碑と理解したのである。かれを迎えた多賀城には、かつて都人が地元民を支配した堅砦があった。ここは蝦夷の抵抗を抑える上で大和朝廷の拠点とされた場所だったのだ。
仮に、芭蕉が「蝦夷人」たちを鎮魂するためにわざわざ石碑を訪れたとしたら、それはまことに具合が悪い。反体制行為となるから、カムフラージュする必要が生じる。そこに何らかの工作があってもよさそうである。そう思って『おくのほそ道』を読み返すと、奇妙な現象に気づく。芭蕉は、敗者や「まつろわぬ人びと」への鎮魂が必要な聖地を訪れた場合、意外にも発句していないという事実である。いや、もっと正確に書くなら聖地を訪れたときの芭蕉は俳句を『おくのほそ道』に入れていないのである。(中略)
さらに妙なことがある。芭蕉は重要なポイントで日数をごまかすのだ。
『おくのほそ道』によれば、芭蕉はその後に岩沼に宿り、武隈の松、壺の碑などを訪ねて、その夜に「目盲法師の琵琶をならして奥上るりと云ものをかたる」のを聞くことになる。しかし曾良の日記などによって、芭蕉が岩沼には泊まらなかった事実が明らかになっている。実のところ芭蕉はどこか別のところにいたらしいのである。(中略)
これらの事情はいったい何を暗示するのだろうか。
答えは一つしかないと思う。芭蕉は壺の碑を見て、「これは坂上田村麻呂が建てたという日本中央の碑ではない」と気づいたからだった。ここではなく、どこか別の場所に本物の石碑があるはずだと信じて、多賀城周辺を訪ね歩いたとしたら、どうだろうか?これで、芭蕉がこのあたりで日数をごまかした理由もあきらかになる。また、壺の碑で発句していない理由も、さらにあきらかになる。歌枕の地ではないと分かったところでは、心をいつわって句を詠めないのだ!(中略)
これはおそろしいことだが、能因にはじまり西行、芭蕉とつづいた歌枕の旅とは、「地霊を訪ねる黄泉の国巡り」の制度化だった可能性がある。のりに四国八十八か所札所巡りとなって定着する、あの心霊的な旅である。文学者たちはその八十八か所に代えて、歌枕を選んだ。東北の歌枕は、どれも滅亡した過去のおもかげを伝えている。その過去とは、亡びた蝦夷であり、消された歴史上の敗者であり、また汚された聖地のことである。
こうした過去の土地は、実際の目で今の風景を眺めても意味をもたない。心眼を通じ、過去を幻想する、つまりフィクションこの目で見てはじめて意味をなす。
だからこそ、かれらはいいかげんな場所で「過去」を幻視したくなかった。正しく地霊の鎮まっているところで、霊と対話しなければならなくなった。そこで能因は都でなく現地で、それを霊視しはじめたし、西行はそれを死出の修行または鎮魂巡礼にまで高めた。そして江戸期の芭蕉は幻想の過去が最も力強く精神に訴えかけてくる最適の地点を『おくのほそ道』によって再発見する仕事を夢見たのだ。
歌枕は、かくて、幻想と現実とが奇跡的に合体した、奇怪きわまる概念となった。(荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅』光文社)
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奥浄瑠璃『田村三代記』
こう言ってはミもフタもないが、やはり荒俣宏は天才だと思う。これが民俗学アカデミズムの芭蕉理解と非アカデミズムの芭蕉理解の対比と言えるのなら(もちろん言えないだろうが、笑)、僕は民俗学会などに何の興味もない。『おくのほそ道』が鎮魂の使命を帯びていたかどうかの結論は置くとしても(ほんとうはここが一番肝心なところなのだが)、この時代の旅行者(国境を越えて移動する人々)の書き物に対する検閲をなめてはいけないのである。同じく江戸期のみちのくを旅した菅江真澄の『真澄遊覧記』が、おそらく東北の農村のありのままを描写した部分において少なからず何者かに破られ、欠落し、我々の目には永久に触れることもなく葬られてしまった事実を思い出そう。
赤坂の芭蕉批判における前提は、芭蕉がその旅の途上で少なくとも見たまま感じたままを書き記しているだろう、という素朴極まりないルポルタージュ精神である。いや、ルポルタージュを馬鹿にしているのではない。歴史を学ぶものが、何を置いても肝に銘じておかなければならないことを、赤坂は「芭蕉の幻影が幅を利かせる東北」への怒りにもえるあまり、すっかり失念してしまっているのだ。
「奥浄瑠璃」に対する発見の悦びのかけらもない、と赤坂は言う。当然ではないか。芭蕉はその夜、奥浄瑠璃を聞いてなどいなかったのだから!もし芭蕉が感じたまま、行動したままを書いていたら、『おくのほそ道』という書物自体が後世に残されなかった可能性だってあるのである。はたして芭蕉がそのような愚を犯すだろうか。
もしも芭蕉が「いいかげんな場所で過去を幻視したくなかった」がゆえに、このような危険な改変を『おくのほそ道』に加えたのだとしたら、実在せず、「いいかげんな場所」そのものであったはずの歌枕に「地理性のアクチュアリティー」という後戸の神を復活せしめたのは、能因でも西行でもなく、ほかならぬ芭蕉その人であったということになる。それでもなお、「芭蕉は東北の敵」と叫んで、新たな『おくのほそ道』の読みの可能性を語らずにおくのだろうか。(続)
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