大空へ登る坂なり時計草

http://www.teych.com/7ghana-12.html 【~ 7月12日の花 トケイソウ(パッションフラワー) ~】 より

花言 聖なる愛・信じる心・隠しもった情熱・聖なる力・奇抜・受難・恋の激しい苦しみ・宗教的熱情・狂信

別名 パッションフラワー・ハナトケイソウ

科・属名 トケイソウ科・パッシフローラ(トケイソウ)属

原産地 ブラジル・ペルー原産

状態 つる性多年草

...........花のいわれ・特徴.........

トケイソウはペルー、ブラジル原産の常緑のつる性植物で、トケイソウ属の総称です。ユニークな花の形として知られ、世界中で観賞用に広く栽培されています。強健で生育旺盛なつる性植物で、萼片・花弁が5個ずつあり、夏に花径8㎝ほどの大形の花を付けます。

色は白や淡紅・黄・ピンク、紫色で、糸状の副冠が時計の文字盤のように整然とした花形をしています。花後には丸い果実が実り(写真右上)黄熟します。同属の別種にブラジル原産のクダモノトケイソウがあり、果実は卵形で濃い紫色に熟し、パッションフルーツとしてお馴染みです。

一日花ですがつぼみを次々付けるので、長期間花を楽しめます。草丈は30~80cm。つるの長さは6m以上で開花期は7~9月、鉢の市販期は3~8月頃です。画像は「P・コンスタンス エリオット(写真左)」、「P・パッシフロラ ベロッティ(写真右2番目)」、「ベニバナトケイソウ(写真右3番目)」、「P・レッド アップル(写真右下)」です。

属名の「パッシフローラ(Passiflora)」はラテン語の『パッシオ「passio」(キリストの受難)』が語源とされます。英名は「Passion flower(パッションフラワー)」と呼ばれています。パッションフラワーとはラテン語の「パッシオ(イエスの受難)」がもとで、キリストの処刑を象徴する「受難の花」という意で、別名「Blue crown(ブルー クラウン)」です。

この花を初めて見た16世紀の宣教師たちは、3本の雌しべを磔刑にされたキリストの釘跡に、5本の雄しべはキリストの5つの傷、花弁と萼の10枚(下表)を使徒になぞらえ、巻きひげは鞭をあらわしていると捉え、命名したとされます(写真左)。

・槍を象徴する葉

・五つの傷を象徴する五つの葯

・紐ないし鞭を象徴する巻きひげ

・十字架の支柱を象徴する子房の柱

・木づちを象徴する雄しべ

・三本の釘を象徴する三本の花柱

・茨の冠を象徴する花の中にある肉質の線条

・光背の栄光を象徴する萼

・純潔を象徴する白い花

・天を象徴する青い花

花を愉しむ事典(八坂書房)   

スペインの伝説では、キリストの手足を打ち抜いた釘の跡をふさいだのはこのトケイソウとあり、霊力を持つ花だとして、聖職者や病で苦しむ人たちがこの花を探し求めたということです。

花が開ききると時計の文字盤のような模様が現れます。和名はこの花びらを時計の文字盤に、雄しべと雌しべを長短の針に見立て「トケイソウ(時計草)」と名づけられました。


句から連想するのはシジフォスの神話


https://mainichi.jp/articles/20171111/ddm/001/070/179000c 【ギリシャ神話のシジフォスは…】より

 ギリシャ神話のシジフォスは巨大な岩を山頂へ押し上げる苦行を神々に科せられた人物だ。押し上げた岩はすぐに谷底に転がり落ち、彼は果てしないこの徒労を繰り返す。では、なぜこんな罰を受けたのか▲それは死の神タナトスをだまして監禁し、その間人間が死ななくなったからだ。タナトスは寿命の尽きる人の元を訪れ、その髪を一房切って冥界(めいかい)の神にささげ、死者を連れ去る役目だった。この神は夜の息子で、眠りの兄弟とされる▲タナトスがよく知られるのは、フロイトの精神分析学で死の欲動がそう呼ばれたためである。寿命どころか人生はこれからという若者も誘惑しに現れるこの欲動だ。胸が悪くなるのは、そんな心の揺らぎに乗じる底知れぬ冷血である▲神奈川県座間市のアパートの9遺体全員の身元が判明した。新聞紙面に並んだ若い被害者の顔写真のまなざしを見ていると息が苦しくなる。悪魔的なたくらみにとらわれるまでに、それぞれ思い迷ったろう心の軌跡を想像するからだ▲少年少女が大人になる道はいくつにも分かれている。心の奥から聞こえる声は、時として若者を死の欲動も潜む暗い危険な森へと導く。昔は静かに彼らの成長を促したその森に、今やあらゆる悪意や欲望が忍び込むネット社会である▲なかにはタナトスを装って若い命をもてあそぶ魔物までいることを思い知らせた事件だった。暗い森をさまよいながらその後の人生の道を見つけたかつての若者なら、今の若者のためになすべきことがあろう。


https://zaramechan.hatenablog.com/entry/2019/05/16/120000 【【不条理を読む】シーシュポスの神話】 より

フランツ・カフカに代表される、所謂不条理小説はいまでは珍しくなくなりましたが、本作は不条理とはなにか、不条理は人間にどう作用するかを突き詰めた随筆(論説文に近い内容です)という一風変わった作品です。

なんとなくわかったような、全然わからないような読後感の多い不条理小説を理解するのを助けてくれる、‟不条理小説の解説書”というような印象を持ちました。

表題の「シーシュポスの神話」は、たった8pの随筆です。文庫の大半は不条理に関するカミュの考察が続きますが、本記事ではこの8pの随筆について考えていきます。

シーシュポスの神話とは諸説あるが、神の怒りを買い無限の労働という罰を受けた男の悲劇です。日本でいう賽の河原の話に近い話です。

シーシュポスが課せられた罰は、大岩を山頂まで運び続けること。動かすだけで骨が折れる大岩を自分の肉体のみを使って少しずつ、少しずつ押し上げやっとの思いで山頂に到る。けれど山頂に着くや否や岩は斜面を転がり、麓まであっという間に落ちてしまう。そしてシーシュポスは再び岩を運ぶために、山を下りていく…。

無益で目的も目標もない労働に従事することこそ最大の罰であると言わんばかりの気の遠くなるような行為を、シーシュポスは課せられています。しかしそれは本当に不幸なのか。カミュは、不条理に見えるこの物語へ疑問を投げかけ、新しい知見を提示しています。

この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやり遂げられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれをささえているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。

(「シーシュポスの神話」カミュ著 p213より一部引用)

もし彼が岩を運ぶ理由を知らず、いつか達成できると希望を持っていればそれほど彼の運命は悲劇的ではない。ですが彼は、自らの運命を熟知してしまっています。神に見放され、永遠に続く苦役を背負っていることを知っています(今日の労働者も同じくらい不条理だとカミュは指摘しますが、読んで少しヒヤッとした人もいるでしょう。そんなに目的もなく毎日を過ごしているつもりはないですが、それは願望、思い込みにすぎないかもしれません)。これだけ見ればシーシュポスは『不幸』に思えますが、カミュの主張はその逆です。

このように、下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされる日々もありうる。(中略)かぎりなく悲惨な境遇は担うにかあまりに重すぎる。これがぼくらのゲッセマネの夜だ。しかし、ひとを圧しつぶす真理は認識されることによって滅びる。

(「シーシュポスの神話」カミュ著 p214より一部引用)

頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。

(「シーシュポスの神話」カミュ著 p217より引用)

悲劇は、自らに起きている事象、運命を認識することではじまりますが、同時に人は認識することで運命を自らの手に取り戻すことができる。幸福を手にすることができる。カミュはそう説いています。

この世界の一切の不条理、悲劇は自分で認識も支配もできないから『不幸』なのであり、自らの悲劇(運命)を認識し、自分が世界を、自分の人生を支配しているのだと知ることは幸福である。人間は不条理を知り、幸福を知ることができる。そんな逆説的な論で本文は締めくくられます。短い文章ですが、最初のイメージを鮮やかに覆してくる新鮮な読書体験でした。

表題とともに、本書では不条理についての論証、考察が章ごとに展開されています。『異邦人』や『幸福な死』で描かれた不条理を、論理的に考察していく本書は、不条理小説を読み解くヒントにもなります。不条理と自殺についての論証は、カミュらしいというか、先入観を覆してくる文章でドキドキしながら読みました。キルケゴールやショーペンハウアーを最近読み直していたので、こちらと比較しても面白かったのでおすすめです。また、ドストエフスキーやカフカを読んでいる人はなじみ深い話も多いと思うので、合うかもしれません。

複雑で多様な側面をもち、人間とは切っても切り離せない『不条理』の世界を紐解く、知的好奇心をくすぐる1冊です。


https://amaikahlua.hatenablog.com/entry/2019/04/04/083900 【カミュ「シーシュポスの神話」批評~幸福と不条理は兄弟である~】 より

今回は、カミュのエッセイ「シーシュポスの神話」を解読します。「シーシュポスの神話」は短いエッセイですが、読む者の幸福観を大きく変える力のあるテクストです。『青い空のカミュ』製品版を批評する前に、まずはこのエッセイを読みこんでおくべきだという考えに私は達しました。

シーシュポスの不条理

シーシュポスというのは、ギリシア神話に登場する人物です。シーシュポスは神々に対して不届きな行いをしたので、地獄で罰を受けたといわれています。

 神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。(p.210)

シーシュポスは罰として、岩を転がして山のてっぺんまで運び上げなければならないという労働を課されます。しかも、山のてっぺんまで運ばれた岩は、何回運んでも山のふもとまで転がり落ちてしまいます。そのため、シーシュポスは、何回も岩を山のてっぺんまで運んではまた落とすという運動を繰り返します。「そんな労働、無意味だし苦しいだけだろ!!!」って思っちゃいますよね、普通。

 この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。(中略)神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだじゅう考えているのだ。(p.213)

シーシュポスは意識に目覚めており、自分が地獄で悲惨な状況に置かれていることをしっかりと自覚している…とカミュは言っていますね。「無意味で苦しいだけに思える労働をしているのに加えて、自分の苦境をわきまえているんだから、シーシュポスは自他共に認める敗北者だろwww」って思っちゃいますよね、普通。ところが、カミュは我々の認識を裏切るような発言をしています!

シーシュポスの幸福

かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。(pp.213-214)

驚いたことに、シーシュポスは明徹な認識によって「勝利」を得たと書いてあるし、運命を「乗り超え」たとも書いてありますね。いったいシーシュポスは、どうやって絶望的な状況から勝利を得たのでしょうか?

 不条理を発見したものは、だれでも、なにか「幸福への手引」といったものを書きたい気持になるものだ。「え、なんだって、そんなに狭い道を通ってだと……?」だが、世界はひとつしかない。幸福と不条理とは同じひとつの大地から生れたふたりの息子である。このふたりは引きはなすことができぬ。幸福は不条理な発見から必然的に生れると言っては誤りであろう。幸福から不条理の感情が生れるということも、たしかにときにはある。「私は、すべてよし、と判断する」とオイディプスは言うが、これは〔不条理な精神にとっては〕まさに畏敬すべき言葉だ。(p.215)

幸福と不条理は兄弟のようなもので、切っても切れない関係にあるとカミュは言っていますね。具体例がないので例えばどういう状況なのかいまいちわかりにくいと思いますが、不条理を見つけることによって幸福が生まれることもあれば、幸福から不条理の感情が沸いてくることもあるとも書いてありますね。また、オイディプス王のように悲劇的な状況に置かれても、「すべてよし」と判断すれば、人間は運命を征服できるらしいです。

「なんだかとても深くて元気が出るようなことが書いてあるけど、説明がかなり抽象化されていていまいち理解した気になれないな…」と、最初読んで思ったのは私だけではないと信じたい(笑)。ともかく、シーシュポスは明徹な視力によって自分の不条理をはっきりと認識し、オイディプス王のように自分の悲劇的な状況を「すべてよし」と判断することによって幸福になったわけです。

シーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。(中略)頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。(p.217)

まとめ

私たちは、「不条理な世の中から目を背けて楽しいことばかりしていたら、幸福に生きられるんじゃないか?」と素朴に考えがちだと思います。私は学生のころ、「理不尽な職場で働いてもその理不尽さに気付けないくらいアホな人がいたら、そいつは幸せな(おめでたい)人間じゃないか?」とよく考えていましたね…w(ぉぃ

ですが、カミュはそうした考え方に迎合しません。逆に、不条理な状況で無力なのに反抗するシーシュポスのような生き方を称えています。そして、不条理を発見したりすべてを肯定したりすると幸福になれるということも言っていますね。これはとても画期的なことだと思います。不条理と戦いつつも、その運命を肯定する悲劇のヒーローへの讃歌のようなお話だと私は解釈しました(以上、あくまでも私個人の見解です。異論は認めます)。

私は『青い空のカミュ』製品版をプレイして、このゲームでは「シーシュポスの神話」の考え方が巧みに取り入れられているなと思いました。そして『青い空のカミュ』のシナリオは、「シーシュポスの神話」の注釈として参考になるものだと感じます。次回は『青い空のカミュ』のシナリオを批評し、幸福についてさらに考えていきましょう。そして、「シーシュポスの神話」のわかりにくいところを噛み砕いていこうと思います(・∀・)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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