http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2015/08/blog-post.html 【河童俳諧】より
天狗俳諧というものはあるが、河童俳諧というものはない。
ただ、河童と俳諧は相性がよろしく、数々の名句が残っている。
よく知られた
河童の恋する宿や夏の月 蕪村
では関西の方言によって「かわたろ」と呼ばれているが、ほかに「ドンガス」「ガラッパ」「エンコ」なども「河童」(または河童的水怪)をさす方言として認知されている。
「カッパ」が江戸周辺の一方言だったことは、しばしば私も紹介したとおりである。
川柳では川上三太郎が河童連作を残しており、三太郎の詩性川柳の代表作とされる。
河童起ちあがると青い雫する
この河童よい河童で肱枕でごろり
河童月へ肢より長い手で踊り
人間に似てくるを哭く老河童
河童はふつう季語と見なされないが、坪内稔典氏は『季語集』(岩波新書、2006)で夏の季語として「河童」をとりあげている。
泡ぷくんぷくりぷくぷく河童の恋 ふけとしこ
ふけさんの一句は、蕪村句をふまえた現代的変奏というべきだろうか。
俳句ではほかに、自らを河童に擬えた我鬼こと芥川龍之介の忌日(7月24日)を河童忌と呼び、これも好んで句材とする。
水ばかり飲んで河童忌過ごしけり 藤田あけ烏
河童忌と思い出し居り傘の中 伊丹三樹彦
河童忌の錠剤シートペきと折り 内田美紗
河童忌や紙を蝕むセロテープ 小林貴子
河童忌の火のつきにくい紙マッチ 生駒大祐
芥川と親交があり、河童の図を形見に持っていたという蛇笏にも、河童の句がある。
河童に梅天の亡龍之介 飯田蛇笏
河童は江戸文芸のなかで愛されたが、近代にも小川芋銭、清水崑らの絵画で、芥川、火野葦平らの小説で、また高度成長期以降は水質保全を訴えるエコキャンペーンのキャラクターとしても登場するようになった。
俳句に登場する河童も、民話的なものから、水神のおもむきをもつもの、動物的なもの、ファンタジックな妖精めいたものなど、様々な顔を見せている。
馬に乗つて河童遊ぶや夏の川 村上鬼城
河童なくと人のいふ夜の霰かな 中勘助
河童の皿濡らせるほどを喜雨とせり 上田五千石
いたづらの河童の野火の見えにけり 阿波野青畝
むかし馬冷やせしところ河童淵 鷹羽狩行
月見草河童のにほひして咲けり 湯浅乙瓶
*
走り梅雨カッパガラッパはねまわる 久留島元
愛されずして沖遠く出る河童の子
夏河童赤きくちばしひらきつつ
滝の上に河童あらわれ落ちていく
谷に恋もみあう夜の河童かな
https://www.en-note.site/2020/06/20/%E5%B0%BB%E5%AD%90%E7%8E%89%E3%82%92%E6%8A%9C%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%AC%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB/ 【五月雨や 大河を前に 家二軒与謝蕪村】 より
五月雨が降りしきるなか、大河と向かい合う二軒の家が建っています。大河は雨で増水しているかもしれません。現代の治水技術や建築技術をもってさえ、大雨が降れば土砂崩れやがけ崩れで家が傾いてしまうことがあるくらいですから、与謝蕪村がこの句を詠んだ江戸時代中期のこの光景はどれほど危険と隣り合わせの状態だったろうかと想像します。おそらくは、蕪村の視点は家二軒が建っている地から大河を隔てた対岸にあるだろうと思われます。しかしそれにしても、不思議とこの句からはこの二軒の家に迫る危機の切迫感よりも、風景としての穏やかさや静けさが伝わってきます。厳しい自然を前にした時の、人間の生活や人間の技術がいかに脆くか弱いものであるかを諦観し、まるで危機さえも一つの風景として包摂しているかのような穏やかさ、静けさが感じられます。
五月雨や 大河を前に 家二軒
250年近く前のこの蕪村が眺めた風景と、現代のわたしたちが様々なメディアを通して見ている、多くの災害や事件、最近では感染症をめぐる風景とを比べた時、不思議なつながりと違いが感じられます。これだけ科学技術の発展によって避けられる危険やリスクが蕪村の頃よりもずっと多くなっているにも関わらず、厳しい自然を前にした時の、人間の生活や人間の技術がいかに脆くか弱いものであるか、このことはなぜか250年近くの時を超えた今もあまり変わっていないように思います。その一方で、こうした脅威をテレビやスマートフォンの画面の此岸から眺めるわたしたちの視点、心の構えはと言うと、蕪村のそれとはずいぶん異なっているように思います。わたしたちの視点や構えは、はるかに混乱や当惑に満ち満ちていて、危機の彼岸と此岸を絶えず分断し続けるような狭量さがわたしたちの心を支配しているように思われます。
ところで、「河童」という妖怪がいます。河童がどのようにして生まれてきたのかという起源譚には、いくつかのバリエーションがありますが、そのうちの一つに、次のようなものがあります。
「飛騨の匠・竹田の番匠が内裏造営のときに人形を作って働かせ、その人形が官女と交わり、子を生み、河原に捨てたところ、河童になった。」
この起源譚では、河童は内裏造営つまり建築という営みの際に活躍した人形(ひとがた)の子どもが河に捨てられたものだと言い伝えられています。そして、人間の身勝手な都合で捨てられた河童の恨みが、自然の猛威として人間の生活を脅かすようになったため、河童の魂を鎮めるための様々な儀礼が各地で行われていました。こうした河童の起源譚は、青森県から鹿児島県まで実に幅広い地域で様々なバリエーションをもって伝説や説話として語り継がれていたそうです。
ここで大切なことは、かつて人々は、人間の建築という営みによって傷ついた自然を、河童という妖怪としてイメージすることでその恐ろしさをコミュニティの中で共有し、そのことを通じて自然への礼節や向き合い方、心構えを子々孫々に伝承していたという点です。
現代にあっては、河童を本気で恐れるような子どもも大人も、すっかりいなくなってしまいました。河童は、すっかり可愛らしくデフォルメされたキャラクター(まさに尻子玉を抜かれた人形!)にすぎない存在になっています。河童に対する礼節をもつ人など皆無と言ってよいでしょう。治水技術や建築技術、法制度、医療技術などが高じるごとに、災害や事件や感染症などを前にした時のわたしたちの心構えが、蕪村のあの視点に比べはるかに貧弱になってしまった背景には、こうした本気で恐れ、礼節を傾ける河童がいなくなってしまったこととも関係しているのかもしれません。もちろん、いまさら河童を本気で恐れることなどできるはずもありませんが、それでも自然に対する礼節をわたしたちの心にどのように取り戻すかについては、わたしたちはきちんと考え続ける必要があるように思います。
http://essay.mizuo.info/2012/06/blog-post.html 【短歌 河童の方言混じり】 より
河童(かわたろ)が づつない恋に 泣いとった 水やはらかな あの夏の岸
「かわたろ」もその大阪弁の「がたろ」も今は使わない言葉になったようだ。
「或いは恠(あやしみ)をなして婦女を姦淫す」(物類称呼 二 ) とあるように、
世間では水怪として人をたぶらかすとされていた。
そこから詐欺・かっぱらいの類まで「がたろ」と呼ぶようになった。
小説や漫画の世界で復権していささか名誉を回復できたが、
「零落した神々」のうちでは一番酷い目にあったもののひとつだった。
小生は多分に河童に肩入れするところがあり、ひとを河童に見立てることがたまにある。
蕪村翁に河童の恋する宿や夏の月という句がある。
これは 「恠みをなして婦女を」さそっておる状況を想像するのが作者の意を汲むことになると思う。
ゆらゆらゆれる宿(舟)の上に月、葦の茂みに隠れた水の上、可笑し味のある河童の恋。
恋はどこか恠さを、相互の幻惑をもっているもの、と蕪村は笑っている、そんな句と思えるのだ。愚かしく可笑しく生きてきた愚生の見当違いかも知れぬが。
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