俳諧の本質的概論 ②

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2471_9353.html【俳諧の本質的概論】寺田寅彦

より

芭蕉がいかにしてここに到着したか。もちろん天稟てんぴんの素質もあったに相違ないが、また一方数奇の体験による試練の効によることは疑いもない事である。殿上に桐火桶きりびおけを撫ぶし簾すだれを隔てて世俗に対したのでは俳人芭蕉は大成されなかったに相違ない。連歌と俳諧の分水嶺ぶんすいれいに立った宗祇そうぎがまた行脚あんぎゃの人であったことも意味の深い事実である。芭蕉の行脚の掟おきてはそっくりそのままに人生行路の掟である。僧心敬しんぎょうが「ただ数奇と道心と閑人との三のみ大切の好士なるべくや」と言ったというが、芭蕉の数奇をきわめた体験と誠をせめる忠実な求道心と物にすがらずして取り入れる余裕ある自由の心とはまさしくこの三つのものを具備した点で心敬の理想を如実に実現したものである。世情を究め物情に徹せずしていたずらに十七字をもてあそんでも芭蕉の域に達するのは困難であろう。発句はどうにかできても連句は到底できないであろう。

 芭蕉が「誹諧は万葉の心なり」と言ったという、真偽は別として、偽らざる心の誠という点でも、また数奇の体験から自然に生まれた詩であるという点でもまさにそのとおりである。しかしたしか太田水穂おおたみずほ氏も言われたように、万葉時代には物と我れとが分化し対立していなかった。この分化が起こった後に来る必然の結果は、他人の目で物を見る常套主義じょうとうしゅぎの弊風である。その一つの現象としては古典の玩弄がんろう、言語の遊戯がある。芭蕉はもう一ぺん万葉の心に帰って赤裸で自然に対面し、恋をしかけた。そうして、自然と抱合し自然に没入した後に、再び自然を離れて静観し認識するだけの心の自由をもっていた。

 芭蕉去って後の俳諧は狭隘きょうあいな個性の反撥力はんぱつりょくによって四散した。洒落風しゃれふう[#「洒落風」は底本では「酒落風」]浮世風などというのさえできた。天明蕪村ぶそんの時代に一度は燃え上がった余燼よじんも到底元禄げんろくの光炎に比すべくはなかった。芭蕉の完璧かんぺきの半面だけが光ってすぐ消えた。天保より明治子規に至るいわゆる月並み宗匠流の俳諧は最も低級なる川柳よりもさらに常套的じょうとうてきであり無風雅であり不真実であり、俳諧の生命とする潜在的なるにおいや響きは影を消した。最も顕在的に卑近なモラールやなぞなぞだけになってしまった。これを打破するには明治の子規一門の写生主義による自然への復帰が必要であった。客将漱石は西洋文学と漢詩の素養に立脚して新しきレトリックの天地を俳句に求めんとした。子規は手段に熱中していまだ目的に達しないうちに早世した。そうして手段としての写生の強調がそのままに目的であるごとく思われて、だれも芭蕉の根本義を研究することすらしなかった。ひとり漱石は蕪村の草径を通って晩年に近づくに従って芭蕉の大道に入った。その修善寺しゅぜんじにおける数吟のごときは芭蕉の不易の精神に現代の流行の姿を盛ったものと思われる。 

 現時の俳壇については多くを知らないのであるが、ともかくも滔々とうとうとして天下をおぼらすジャーナリズムの波間に遊泳することなしにはいわゆる俳壇は成立し難いように見える。一派の将は同時に一つの雑誌の経営者でなければならない。風雅の誠をせめる閑日月に乏しいのは誠にやむを得ない次第である。既得の領土に安住を求むるか、センセーションを求めて奇を弄ろうするかに迷わざるを得ないのである。

 一方では俳諧を無用の閑文字と考える風がますます盛んである。俳諧は日本文学の最も堕落したものだと生徒に教える先生もあったそうである。これほど誤った考えがあるであろうか。俳諧風雅の道は日本文化を貫ぬく民族的潜在意識発露の一相である。その精神は閑人遊民の遊戯の間ばかりではなくて、あらゆる階段あらゆる職業の実際的積極的な活動の間にも一つの重大な指導原理として働いて来たものであると思われる。おもしろい事には仏人ルネ・モーブラン(Ren※(アキュートアクセント付きE小文字) Maublanc)がその著 Ha※(ダイエレシス付きI小文字)ka※(ダイエレシス付きI小文字) において仏人のいわゆるハイカイを集輯しゅうしゅうしたものの序文に、自分が何ゆえにこれを企てたかの理由を説明している言葉の中に、一般人士大衆の間にこの短詩形を広めることによって趣味の向上と洗練を促しすぐれた詩人の輩出を刺激するような雰囲気ふんいきを作るであろうという意味のことを言っている。フランス人にとってはおそらくそれ以上の意義はないであろうが、日本人にとっては俳諧が栄えるか栄えないかはもっと重大の意義をもつであろう。俳諧の滅ぶる日が来ればその時に始めて日本人は完全なヤンキー王国の住民となるであろう。俳諧の理解ある嘆美者クーシュー(Paul-Louis Couchoud)はアメリカ文化と日本文化の対蹠的たいせきてきなことを指摘し自分らフランス人はむしろ後者を選ぶべきではないかと言っている。また思う、赤露のマルキシズムには一滴の俳諧もない。俳諧の滅びるまではおそらく日本が完全に赤化する日は来ないであろう。

 あすの俳諧はどうなるであろうか。写生の行き詰まったあげくに元禄げんろくに帰ろうとするは自然の勢いであろうが、芭蕉の根本精神にまで立ちもどらなければ新しき展開は望まれないであろう。芭蕉は万葉から元禄までのあらゆる固有文化を消化し総合して、そうして蒸留された国民思想のエッセンスを森羅万象しんらばんしょうに映写した映像の中に「物の本情」を認めたのである。われわれはその上に元禄以降大正昭和に至るまでのあらゆる所得を充分に吸収消化した上でもう一ぺん始めから出直さなければならないであろう。神儒仏老荘の思想を背景とした芭蕉の業績を、その上に西欧文化の強き影響を受けた現代日本人がそのままに模倣するのは無意義である。風雅の道も進化しなければならない。「きのうの我れに飽きる人」の取るべき向上の一路に進まなければならない。新しき風雅の道を開拓してスポーツやダンスの中にも新しき意味におけるさびしおりを見いだすのが未来の俳人の使命でなければなるまいと思う。

 現代のいわゆる俳壇には事実上ただ発句があるばかりで連句はほとんどない。子規の一蹴いっしゅうによってこの固有芸術は影を消してしまったのである。しかし歴史的に見ても連俳あっての発句である。修業の上から言っても、連俳の自由な天地に遊んだ後にその獲物を発句に凝結させる人と、始めから十七字の繩張なわばりの中に跼蹐きょくせきしてもがいている人とでは比較にならない修辞上の幅員の差を示すであろう。鑑賞するほうの側から見ても連俳の妙味の複雑さは発句のそれと次序オーダーを異にする。発句がただ一枚の写真であれば連俳は一巻の映画である。実際、最も新しくして最も総合的な芸術としての映画芸術が、だんだんに、日本固有の、しかも現代日本でほとんど問題にもされない連俳芸術に接近する傾向を示すのは興味の深い現象であると言わなければならない。

 ついでながら四十八字の組み合わせは有限であるから俳句は今に尽きるであろうという説があるが、これは数の大きさの次序オーダーというものの観念のない人の説である。俳句の尽きる前におそらく日本語が変わってしまうではないかと思われるが、しかしこの問題はなかなかそう簡単な目の子算で決定されるような生やさしいものではないのである。杞人きひとの憂うれいとはちょうどこういう取り越し苦労をさしていうものであろうと思われる。

(付記) このわずかな紙面の上に表題のごとき重大な問題を取り扱おうという大胆な所業はおそらく自分のごとき無学なる門外漢の好事者にのみ許された特権であろう。しかしあまりにも無作法にこの特権を濫用したこの蕪雑ぶざつなる一編の放言に対しては読者の寛容を祈る次第である。はじめは、いくらか系統的な叙述の形式を取ろうと企てたが、それは第一困難であるのみならず、その結果はただの目録のようなものになってしまう恐れがあるので、むしろ自由に思いのままに筆を走らせることにした。従って触れるべき問題にして触れ得なかったものも少なくない。これらについては他日雑誌「渋柿」の紙上でおいおいに所見を述べて批評を仰ぎたいと思っている。

 映画と連俳との比較については岩波版日本文学講座中の特殊項目「映画芸術」の中に述べてある私見を参照していただきたい。また連俳の心理と夢の心理の比較や、連俳の音楽との比較や、月花の定座の意義等に関する著者の私見は雑誌「渋柿」の昭和六年三月以降に連載した拙稿を参照されたい。

 古人の俳書から借りた言葉を一々「  」にするのはあまりにわずらわしいから省略した場合が多い。

 芭蕉の人と俳諧に関しては小宮豊隆こみやとよたか君との雑談の間に教わり啓発さるるところがはなはだ多かった。無意識の間に同君の考えをそのまま述べているところがあるかもしれない。また連俳に関しては松根東洋城まつねとうようじょう君と付け合わせの練習の間に教えらるるところが少なくなかった。山田孝雄やまだよしお氏の「連歌及連歌史れんがおよびれんがし」(岩波日本文学講座)[#「岩波日本」と「文学講座」が1行内で2行に分けられている]からは始めて連歌の概念を授けられ、太田水穂おおたみずほ氏の「芭蕉俳諧の根本問題」からは多くの示唆を得た。幸田露伴こうだろはん氏の七部集諸抄や、阿部あべ小宮その他諸学者共著の芭蕉俳諧研究のシリーズも有益であった。

 外国人のものでは下記のものを参照した。

B. H. Chamberlain : "Bash※(マクロン付きO小文字) and the Japanese Epigram." Trans. Asiatic Soc. Jap. Reprint Vol.1 (1925), 91.

Paul-Louis Couchoud : Sages et po※(グレーブアクセント付きE小文字)tes d'Asie. Calmann-L※(アキュートアクセント付きE小文字)vy.

Ren※(アキュートアクセント付きE小文字) Maublanc : "Le Ha※(ダイエレシス付きI小文字)ka※(ダイエレシス付きI小文字) fran※(セディラ付きC小文字)ais." Le Pampre, No. 10/11 (1923).

西洋人には結局俳諧はわからない。ポンドと池との実用的効果はほぼ同じでも詩的象徴としての内容は全然別物である。「秋風」でも西洋で秋季に吹く風とは気象学的にもちがう。その上に「てには」というものは翻訳できないものである。しかし外人の俳句観にもたしかに参考になることはある。翻訳と原句と比べてみることによって、始めて俳句というものの本質がわかるような気がするのである。いったい昔からの俳論は皆俳諧の中にいて内側からばかり俳諧を見たものである。近ごろのでもだいたいそうである。しかし外側から見た研究も必要である。この意味で野口米次郎のぐちよねじろう氏の芭蕉観にも有益な暗示がある。それよりも広いあらゆる日本の芸道の世界を背景とした俳諧の研究も将来望ましいものの一つである。西川一草亭にしかわいっそうていの花道に関する講話の中に、投げ入れの生花がやはり元禄げんろくに始まったという事を発見しておもしろいと思った。生花はもちろん茶道、造園、能楽、画道、書道等に関する雑書も俳諧の研究には必要であると思う。たとえば世阿弥ぜあみの「花伝書」や「申楽談義さるがくだんぎ」などを見てもずいぶんおもしろいいろいろのものが発見さるるようである。日本人でゲーテやシェークスピアの研究もおもしろいが、しかし、ドイツ人がゲーテを研究したように、芭蕉その他の哲人を研究しなければ、日本人はやはりドイツ人と肩を並べる資格をもたないであろう。

(昭和七年十一月、俳句講座)

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