https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2471_9353.html【俳諧の本質的概論】寺田寅彦
より
古い昔から日本民族に固有な、五と七との音数律による詩形の一系統がある。これが記紀の時代に現われて以来今日に至るまで短歌俳句はもちろん各種の歌謡民謡にまでも瀰漫びまんしている。この大きな体系の中に古今を通じて画然と一つの大きな線を引いているものが三十一字の短歌である。その線の途中から枝分かれをして連歌が生じ、それからまた枝が出て俳諧はいかい連句れんくが生じた。発句すなわち今の俳句はやはり連歌時代からこれらの枝の節々を飾る花実のごときものであった。後に俳諧から分岐した雑俳の枝頭には川柳が芽を吹いた。
連歌から俳諧への流路には幾多の複雑な曲折があったようである。優雅と滑稽こっけい、貴族的なものと平民的なものとの不規則に週期的な消長角逐があった。それが貞門ていもん談林だんりんを経て芭蕉ばしょうという一つの大きな淵ふちに合流し融合した観がある。この合流点を通った後に俳諧は再び四方に分散していくつもの別々の細流に分かれたようにも思われる。
一方において記紀万葉以来の詩に現われた民族的国民的に固有な人世観世界観の変遷を追跡して行くと、無垢むくな原始的な祖先日本人の思想が外来の宗教や哲学の影響を受けて漸々に変わって行く様子がうかがわれるのであるが、この方面から見ても蕉門俳諧の完成期における作品の中には神儒仏はもちろん、老荘に至るまでのあらゆる思想がことごとく融合して一団となっているように見える。そうして、儒家は儒になずみ仏徒は仏にこだわっている間に、門外の俳人たちはこれらのどれにもすがりつかないでしかもあらゆるものを取り込み消化してそのエッセンスを固有日本人の財産にしてしまったように見える。すなわち芭蕉は純日本人であったのである。
こういう意味において、俳諧の本質を説くことは、日本の詩全体の本質を説くことであり、やがてはまた日本人の宗教と哲学をも説くことになるであろう。しかしそれは容易のわざではない。ここではただそういう意識を心頭に置き、そうしてその上に立って蕉門俳諧そのものの本質に関する若干の管見を述べるよりほかに現在の自分の取るべき道はないのである。
俳諧はわが国の文化の諸相を貫ぬく風雅の精神の発現の一相である。風雅という文字の文献的起原は何であろうとも、日本古来のいわゆる風雅の精神の根本的要素は、心の拘束されない自由な状態であると思われる。思無邪おもいよこしまなしであり、浩然こうぜんの気であり、涅槃ねはんであり天国である。忙中に閑ある余裕の態度であり、死生の境に立って認識をあやまらない心持ちである。「風雅の誠をせめよ」というは、私わたくしを去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹に聞いて、いわゆる格物致知の認識の大道から自然に誠意正心の門に入ることをすすめたものとも見られるのである。この点で風雅の精神は一面においてはまた自然科学の精神にも通うところがあると言わなければならない。かくのごとく格を定め理を知る境界からさらに進んで格を忘れ理を忘るる域に達するを風雅の極致としたものである。この理想はまた一方においてわが国古来のあらゆる芸道はもちろん、ひいてはいろいろの武術の極意とも連関していると見なければならない。また一方においては西欧のユーモアと称するものにまでも一脈の相通ずるものをもっているのである。「絞首台上のユーモア」にはどこかに俳諧のにおいがないと言われない。
風雅の精神の萌芽ほうがのようなものは記紀の歌にも本文の中にも至るところに発露しているように思われる。ただその時代にはそれがまだ寂滅の思想にしみない積極的な姿で現われている。しかるに万葉から古今こきんを経るに従って、この精神には外来の宗教哲学の消極的保守的な色彩がだんだん濃厚に浸潤して来た。すなわち普通の意味での寂さびを帯びて来たのである。この寂滅あるいは虚無的な色彩が中古のあらゆる文化に滲透しんとうしているのは人の知るところである。
しかし本来の風雅の道は決して人を退嬰的たいえいてきにするためのものではなかったと思う。上は摂政関白武将より下は士農工商あらゆる階級の間に行なわれ、これらの人々の社会人としての活動生活の侶伴りょはんとなってそれを助け導いて来たと思われる。風雅の心のない武将は人を御することも下手へたであり、風雅の道を解しない商人はおそらく金もうけも充分でなかったであろうし、朝顔の一鉢はちを備えない裏長屋には夫婦げんかの回数が多かったであろうと思われる。これが日本人である。風雅の道はいかなる積極的活動的なる日本にも存在すべきものなのである。
風雅は自我を去ることによって得らるる心の自由であり、万象の正しい認識であるということから、和歌で理想とした典雅幽玄、俳諧の魂とされたさびしおりというものがおのずから生まれて来るのである。幽玄でなく、さびしおりのないということは、露骨であり我慢であり、認識不足であり、従って浅薄であり粗雑であるということである。芭蕉のいわゆる寂さびとは寂さびしいことでなく仏教の寂滅でもない。しおりとは悲しいことや弱々しいことでは決してない。物の哀れというのも安直な感傷や宋襄そうじょうの仁じんを意味するものでは決してない。これらはそういう自我の主観的な感情の動きをさすのではなくて、事物の表面の外殻がいかくを破ったその奥底に存在する真の本体を正しく認める時に当然認めらるべき物の本情の相貌そうぼうをさしていうのである。これを認めるにはとらわれぬ心が必要である。たとえば仏教思想の表面的な姿にのみとらわれた凡庸の歌人は、花の散るのを見ては常套的じょうとうてきの無常を感じて平凡なる歌を詠よんだに過ぎないであろうが、それは決してさびしおりではない。芭蕉のさびしおりは、もっと深いところに進入しているのである。たとえば、黙々相対して花を守る老翁の「心の色」にさびを感じ、秋風にからびた十団子とおだんごの「心の姿」にしおりを感じたのは畢竟ひっきょう曇らぬ自分自身の目で凡人以上の深さに観照を進めた結果おのずから感得したものである。このほかには言い現わす方法のない、ただ発句によってのみ現わしうるものをそのままに発句にしたのである。
寂びしおりを理想とするということは、おそらく芭蕉以前かなり遠い過去にさかのぼることができるであろうということは、連歌に関する心敬しんぎょうの言葉からも判読される。「余情」や「面影」を尊び「いわぬところに心をかけ」、「ひえさびたる趣」を愛したのであるが、それらの古人の理想を十二分に実現した最初の人が芭蕉であったのである。
さび、しおり、おもかげ、余情等種々な符号で現わされたものはすべて対象の表層における識閾しきいきよりも以下に潜在する真実の相貌そうぼうであって、しかも、それは散文的な言葉では言い現わすことができなくてほんとうの純粋の意味での詩によってのみ現わされうるものである。饒舌じょうぜつよりはむしろ沈黙によって現わされうるものを十七字の幻術によってきわめていきいきと表現しようというのが俳諧の使命である。ホーマーやダンテの多弁では到底描くことのできない真実を、つば元まできり込んで、西瓜すいかを切るごとく、大木を倒すごとき意気込みをもって摘出し描写するのである。
この幻術の秘訣ひけつはどこにあるかと言えば、それは象徴の暗示によって読者の連想の活動を刺激するという修辞学的の方法によるほかはない。この方法が西欧で自覚的にもっぱら行なわれこれが本来の詩というものの本質であるとして高調されるに至ったのは比較的新しいことであり、そういう思想の余波として仏国などで俳諧が研究され模倣されるようになったようである。しかしこの方法の極度に発達したものがすでに芭蕉晩年の俳諧において見いださるるのである。
暗示の力は文句の長さに反比例する。俳句の詩形の短いのは当然のことである。
仏人メートル氏が俳句について述べていた中に「俳諧は読者を共同作者とする」という意味の言葉があったと思う。実際読者の中に句の提供する暗示に反応し共鳴すべきものがなかったら、俳句というものは成立しない。俳句の全然わからなかったらしいチャンバーレン氏の言ったように、それはただ油絵か何かの画題のようなものに過ぎなくなり、芭蕉の有名な句でも「枯れ枝にからすのいる秋景」になってしまうであろう。この、画題と俳句との相違はどこから生まれるかというと、それは対象の象徴的心像の選択と、その排列と、句をはたらかせる言葉のさばきとであり、なかんずく重要なのは「てにをは」の使用である。それよりも大切なのは十七字の定型的詩形から来る音数律的な律動感である。
短い詩ほど詩形の規約の厳重さを要求する。そうでなければ、詩だか画題だか格言だかわからなくなる。のみならず、近来わが国諸学者の研究もあるように、七五の音数律はわが国語の性質と必然的に結びついたもので人為的な理屈の勝手にはならないものである。この基礎的な科学的事実を無視した奇形の俳句は、放逸であっても自由ではない。俳諧の流るるごとき自由はむしろその二千年来の惰性と運動量をもつところの詩形自身の響きの中にのみ可能である。俳諧は謡うたいものなりというはこの事である。一知半解の西洋人が芭蕉をオーレリアスやエピクテータスにたとえたりする誤謬ごびゅうの出発点の一つはここにもある。同じ誤謬に立脚した変態の俳句などは、自分の皮膚の黄色いことを忘れた日本人のむだな訓練によってゆがめられた心にのみ感興を呼び起こすであろう。
この短詩形の中にはいかなるものが盛られるか。それはもちろん風雅の心をもって臨んだ七情万景であり、乾坤けんこんの変であるが、しかもそれは不易にして流行のただ中を得たものであり、虚実の境に出入し逍遙しょうようするものであろうとするのが蕉門正風のねらいどころである。
不易流行や虚実の弁については古往今来諸家によって説き尽くされたことであって、今ここに敷衍ふえんすべき余地もないのであるが、要するにこれは俳諧には限らずあらゆるわが国の表現芸術に共通な指導原理であって、芸と学との間に分水嶺ぶんすいれいを画するものである。最も卑近な言葉をもって言い現わせば、恒久なる時空の世界をその具体的なる一断面を捕えて表現せよ、ということである。本体を表現するに現象をもってせよ、潜在的なる容器に顕在的なる物象を盛れというのである。本情といい風情ふぜいというもまた同じことである。これはおそらくひとわたりの教えとしては修辞学の初歩においても説かれうることであろうが、それを実際にわが物として体得するためには芭蕉一代の粉骨の修業を要したのである。
流行の姿を備えるためには少なくも時と空間いずれか、あるいは両方の決定が必要である。季題の設定はこの必要に応ずるものである。季題のない発句はまれにはあるとしてもそれは除外例である。二条良基にじょうよしもとは連歌の句々の推移のありさまを浮世の盛衰にたとえ、また四季の運行に比べている。これは気候変化の諸相のきわめて複雑多様な日本の国土にあって、この変化に対する敏感性を養われて来た日本人にのみ言われる言葉である。それで連歌以来季題が制定されてそれが俳諧に墨守されて来た事は決して偶然ではないのである。たとえばフランス人ジュリアン・ヴォカンスが大戦の塹壕生活ざんごうせいかつを歌った、七、七、七シラブルの「ハイカイ」には全く季題がないので、どうひいき目に見てもわれわれには俳諧とは思われないのである。(改造社俳句講座第七巻、後藤ごとう氏「フランスの俳諧詩」参照)
季題の中でも天文や時候に関するものはとにかく、地理や人事、動物、植物に関するものは、時を決定すると同時にまた空間を暗示的に決定する役目をつとめる。少なくもそれを決定すべき潜在能をもっている。それで俳句の作者はこれら季題の一つを提供するだけで、共同作者たる読者の連想の網目の一つの結び目を捕えることになる。しかしこの結び目に連絡する糸の数は無限にたくさんある。そのうちで特にある一つの糸を力強く振動させるためには、もう一つの結び目をつかまえて来て、二つの結び目の間に張られた弦線を弾じなければならない。すなわち「不易」なる網目の一断面を摘出してそこに「流行」の相を示さなければならない。これを弾ずる原動力は句の「はたらき」であり「勢い」でなければならない。
発句は物を取り合わすればできる。それをよく取り合わせるのが上手じょうずというものである。しかしただむやみに二つも三つも取り集めてできるというのではない。黄金こがねを打ち延べたように作るのだということを芭蕉が教えたのは、やはり上記の方法をさして言ったものと思われる。
近ごろ映画芸術の理論で言うところのモンタージュはやはり取り合わせの芸術である。二つのものを衝つき合わせることによって、二つのおのおのとはちがった全く別ないわゆる陪音あるいは結合音ともいうべきものを発生する。これが映画の要訣ようけつであると同時にまた俳諧の要訣でなければならない。
取り合わせる二つのものの選択の方針がいろいろある。それは二つのものを連結する糸が常識的論理的な意識の上層を通過しているか、あるいは古典の中のある插話そうわで結ばれているか、あるいはまた、潜在意識の暗やみの中でつながっているかによって取り合わせの結果は全く別なものとなる。蕉門俳諧の方法の特徴は全くこの潜在的連想の糸によって物を取り合わせるというところにある。幽玄も、余情も、さびも、しおりも、細みもこの弦線の微妙な振動によって発生する音色にほかならないのである。古人が曲輪くるわの内より取り合わせるか、外よりするかということを問題にしているのはやはりここの問題に関したものであると思われる。また付け合わせに関して「浅きより深きに入り深きより浅きにもどるべし」と言われているのもやはり同じ問題に触れるところがあるように思われるのである。「俳諧はその物その事をあまりいわずただ傍かたわらをつまみあげてその響きをもって人の心をさそう」のである。
この潜在意識によるモンタージュの方法は連俳において最も顕著に有効に駆使せられる。連句付け合わせの付け心は薄月夜に梅のにおえるごとくあるべしというのはまさにこれをさすのである。におい、響き、移り、おもかげ、位、景色などというのも畢竟ひっきょうはこの潜在的連想の動態の種々相による分類であるに過ぎないと思われる。これらの方法によって「無心のものを有心にしなして造化に魂を入れる事」が可能になるのである。
常に俳諧に親しんでその潜在意識的連想の活動に慣らされたものから見ると、たとえば定家ていかや西行さいぎょうの短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方があらわであり過ぎるような気がするのをいかんともすることができない。斎藤茂吉さいとうもきち氏の「赤光しゃっこう」の歌がわれわれを喜ばせたのはその歌の潜在的暗示に富むためであった。
潜在的であるゆえにまた俳諧の無心所着的むしんしょじゃくてきな取り合わせ方は夢の現象における物象の取り合わせに類似する。夢の推移は顕在的には不可能であるが、心理分析によってこれを潜在意識の言葉に翻訳するとそれが必然的な推移であって、しかもその推移がその夢の作者の胸裏の秘密のある一面の「流行の姿」を物語ることになるのである。ここにも「虚実の出入」があるといわれる。
夢には色彩が無いという説がある。その当否は別として、この事と「他門の句は彩色のごとし。わが門の句は墨絵のごとくすべし。おりにふれては彩色の無きにしもあらず。心他門にかわりてさびしおりを第一とす」というのと対照してみると無限の興趣がある。夢でも俳諧でも墨絵でも表面に置かれたものは暗示のための象徴であって油絵の写生像とは別物なのである。色彩は余分の刺激によって象徴としての暗示の能力を助長するよりはむしろ減殺する場合が多いであろう。
それはとにかく材料の選択と取り合わせだけではまだ発句はできない。これをいかに十七字の容器に盛り合わせるかが次の問題である。この点においても芭蕉一門の俳句は実に行くところまでいったん行き着いているように思われる。材料は割合に平凡でも生け方で花が生動するように少しの言葉のはたらきで句は俄然がぜんとして躍動する。たとえば江上の杜鵑ほととぎすというありふれた取り合わせでも、その句をはたらかせるために芭蕉が再三の推敲すいこう洗練を重ねたことが伝えられている。この有名な句でもこれを「白露江はくろえに横たわり水光すいこう天に接す」というシナ人の文句と比べると俳諧というものの要訣ようけつが明瞭めいりょうに指摘される。芭蕉は白露と水光との饒舌じょうぜつを惜しげなく切り取って、そのかわりに姿の見えぬ時鳥ほととぎすの声を置き換えた。これは俳諧がカッティングの芸術であり、モンタージュの芸術であることを物語る手近な一例に過ぎない。
俳諧は截断せつだんの芸術であることは生花の芸術と同様である。また岡倉おかくら氏が「茶の本」の中に「茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わす事をはばかるようなものをほのめかす術である」と言っているのも同じことで、畢竟ひっきょうは前記の風雅の道に立った暗示芸術の一つの相である。「言いおおせて何かある」「五六分の句はいつまでも聞きあかず」「七八分ぐらいに言い詰めてはけやけし」「句にのこすがゆえに面影に立つ」等いずれも同様である。このような截断せつだん節約は詩形の短いという根本的な規約から生ずる結果であるが、同時にまた詩形の短さを要する原因ともなるのである。
同じ二つのものを句上に排列する前後によって句は別物になる。これは初心の句作者も知るところである。てにはただ一字の差で連歌と俳諧の差別を生じ、不易だけの句に流行の姿を生ずる。これらは例証するまでもないことである。
てにはは日本語に特有なものである。「わが国はてには第一の国」である。西洋の言語学者らはだれもこのおそるべき利器の威力を知らない。短歌でもそうであるが、俳句においてこの利器はいっそうその巧妙な機能を発揮する。てにはは器械のギアーでありベアリングである。これあってはじめて運転が可能になる。表面上てにはなしの句はあっても、それは例外であって、それでも影にかくれたてにはをもっているとも見られるであろう。
てにはに連関して考うべきことは切れ字の問題である。これは連歌時代からすでに発句がそれ自身に完結し閉鎖した形式を備えるべきものと考えられた結果起こった要求に応ずるための規定である。閉鎖してさえいれば四十八字皆切れ字であり、閉鎖していなければ「や」でも「かな」でも切れ字ではない。閉鎖するとは何を意味するか。これはむつかしい問題であるが、私見によると、二つの対象が対立して、それが総合的に一つの全体を完了する、いわば弁証法的とでも言われる形式を備えるのが「切れる」の意味であるらしく思われる。少なくもこれが自分の現在の作業仮説である。「や」はその上にあるものと下に来るものとを対立させるための障壁である。句を読むものが舌頭に千転する間にこの障壁が消えて二つのものが一つになりいわゆる陪音が鳴り響く。「かな」は詠嘆の意を含む終止符であるから普通の意味でも切れる切れ字には相違ないが、また一方では、もう一度繰り返して初五字を呼び出す力をもっている。そういう意味で終わりの五字と最初の五または五七とを対立させる機能をもっており、従って「や」と同等である。実際「や」と「かな」とは本来の意味においてもたいした相違はないのである。
この作業仮説に従えば「唐崎からさきの松は花よりおぼろにて」も、松と花との対立融合によって立派に完結しているので、この上に「かな」留めにしては言いおおせ言い過ぎになってなんの余情もなくなり高圧的命令的独断的な命題になるのであろう。「にて」はこの場合総合の過程を読者に譲ることによって俳諧の要訣ようけつを悉つくしているであろう。
発句は完結することが必要であるが連俳の平句は完結しないことが必要である。なんとなれば前句と付け句と合わせてはじめて一つの完結した心像を作ることが付け句の妙味であるからである。
連句は言わば潜在意識的象徴によって語られた詩の連鎖であって、ポオや仏国象徴派詩人の考えをいっそう徹底させたものとも見られないことはない。また一方では夢の世界を描いたようないわゆる絶対映画「アンダルーシアの犬」のごときものとも類似したものである。また連句は音をもってする代わりに象徴をもって編まれた音楽である。実際連句一巻の形式はソナタのごとき音楽形式とかなりまで類似した諸点をもつのである。連句が全体を通じて物語的な筋をもたないから連句は低級なものであると考えるのは、表題音楽が高級で、ソナタ、シンフォニーが低級であるというのと同様である。連句は音楽よりも次元的に数等複雑な音楽的構成から成立している。音と音との協和不協和よりも前句と付け句との関係は複雑である。各句にすでに旋律があり和音かおんがあり二句のそれらの中に含まれる心像相互間の対位法的関係がある。連歌に始まり俳諧に定まった式目のいろいろの規則は和声学上の規則と類似したもので、陪音の調和問題から付け心の不即不離の要求が生じ、楽章としての運動の変化を求めるために打ち越しが顧慮され去さり嫌きらい差合さしあいの法式が定められ、人情の句の継続が戒められる。放逸乱雑を引きしめるために月花の座や季題のテーマが繰り返される。そうして懐紙のページによって序破急の構成がおのずから定まり、一巻が渾然こんぜんとした一楽曲を形成するのである。
発句は百韻五十韻歌仙かせんの圧縮されたものであり、発句の展開されたものが三つ物となり表合おもてあわせとなり歌仙百韻となるのである。発句の主題は言葉の意味の上からは物語的には発展されないが、連想活動の勢力としてはどこまでも展開されて行く。また発句から脇わきと第三句に至るまでを一つの運動の主題と見ることもでき、表六句をそう見ることもできる。すなわち三句に百韻千句のはたらきがあり、表の内に一巻の姿をこめることもできるのである。
連俳の特色はそれが多数の作者の共同制作となりうることである。漢詩の連句もそうであるがこれはむしろ多数が合して一人となるのが理想であるらしく見える。しかし俳諧連句では、いろいろの個性が交響楽を織り出すところに妙味がある。七部集の連句がおもしろいのは、それぞれ特色を異にした名手が参加している上に、一代の名匠が指揮棒をふるっているためである。蕪村ぶそん七部集が艶麗えんれい豪華なようで全体としてなんとなく単調でさびしいのは、吹奏楽器の音色の変化に乏しいためと思われる。芭蕉の名匠であったゆえんは極端から極端までちがった個性の特長を正当に認識して活躍させた点にあるので、統率者の死後これらが四散しけんかを始めたのはやはり個性のはなはだしい相違から来るのである。
この共同制作が可能であり、また共同によって始めて良いものができるという事は、前に言った「発句は読者を共同作者とする」という事と密接につながっていることはもちろんである。俳句を理解するかしないかということは結局、その句の脇わきの世界を持ち合わせているかいないかによるのである。
共同作者らの唱和応答の間に、消極的には謙譲礼節があり、積極的には相互扶助の美徳が現われないと、一句一句の興味はあっても一巻の妙趣は失われる。この事を考慮に加えずして連俳を評し味わうことは不可能である。真正面から受ける「有心」の付け句がだいじであれば軽い「会釈」や「にげ句」はさらに必要である。前者は初心にできても、後者は老巧なものでなければできない重い役割であろう。
鑑賞の対象として見た連俳のおもしろみの一つは一巻の中に現われたその時代世相の反映である。蕉門の付け合いには「時宜」ということを尊んだらしい。その当時の環境に自然な流行の姿をえらんだ句の点綴てんてつさるることを望んだのである。また作者自身の境界にない句を戒められたようである。しかしこういうことがないまでも、連句は時代の空気を呼吸する種々な作者の種々な世界の複合体である以上、その作物の上には個人の作品よりもずっと濃厚な時代の影の映るのは当然のことである。そういう意味から言って現代の俳諧に元禄時代げんろくじだいのような句ばかり作ろうとするのは愚かなことであろう。
連句の変化を豊富にし、抑揚を自在にし、序破急の構成を可能ならしむるために神祇じんぎ釈教恋無常が適当に配布される。そうして「雑ぞうの句」が季題の句と同等もしくは以上に活躍する。季題の句が弦楽器であれば、雑の句はいろいろの管楽器ないし打楽器のようなものである。連俳を交響楽たらしむるのは実に雑の句の活動によるのである。その中でも古来最も重要なものとされているのは恋の句であり、これがなければ一巻をなさぬとされている。
芭蕉の俳諧に現われた恋の句については小宮豊隆こみやとよたか君が本講座において周到な研究を発表されている。その説にもあるように俳諧に現われている恋は濃艶のうえん痛切であってもその底にあるものは恋のあわれであり、さびしおりである。すなわち恋の風雅であり、風雅の一相としての恋愛であり性欲である。恋の中に浸りながら恋を静観しうる心の余裕があるものでなければ俳諧の恋の句を作る事はできない。実際芭蕉は人間禽獣きんじゅうはもちろん山川草木あらゆる存在に熱烈な恋をしかけ、恋をしかけられた人である。芭蕉の句の中で単に景物を詠じたような句でありながら非常になまなましい官能的な実感のある句があるのは人の知るところであろう。これは彼の万象に対する感情が恋情に類したものであった事を物語るであろうと思われる。しかし彼は恋の本情を認識して恋の風雅を味わうために頭を丸め、一つ家の遊女と袂たもとを別った。これと比較するとたとえば蕪村ぶそんは自然に対するエロチシズムをもっていない。画家であった彼の目には万象が恋の相手であるよりはより多く絵画の題材であるか、あるいは彼の詩の資料のように見えた。また一茶いっさには森羅万象しんらばんしょうが不運薄幸なる彼の同情者慰藉者いしゃしゃであるように見えたのであろうと想像される。
小宮君も注意したように恋の句、ことに下品げぼんの恋の句に一面滑稽味こっけいみを帯びているのがある。これは芭蕉前後を通じて俳諧道に見らるる特異の現象であろう。これも恋を静観し客観する時に自然にそうなるのであって、滑稽であると同時にあわれであるのである。連俳の中の恋の句にはほとんど川柳と紙一重の区別も認め難いものがあり、また川柳の上乗なるものには、やはりあわれがあり風雅があることは争われない。しかし川柳の下等なものになると、表面上は機微な客観的真実の認識と描写があるようでも、句の背後からそれを剔出てきしゅつして誇張し見せびらかす作者の主観が濃厚に浮かび上がって見えるのをいかんともし難い、これは風雅の誠のせめ方が足りないで途中で止まっているためである。もう一歩突きつめればすべての滑稽はあわれであり、さびであり、しおりでなければならない。
ここでわれわれは俳諧という言葉の起原に関する古人の論議を思い起こす。誹諧はいかいまた俳諧は滑稽こっけい諧謔かいぎゃくの意味だと言われていても、その滑稽が何物であるかがなかなかわかりにくい。古今集の誹諧哥はいかいかが何ゆえに誹諧であるか、誹諧の連歌が正常の連歌とどう違うか。格式に拘泥こうでいしない自由な行き方の誹諧であるのか、機知頓才とんさいを弄ろうするのが滑稽であるのか、あるいは有心無心の無心がそうであるのか、なかなか容易には捕捉し難いように見える。しかしもし大胆なる想像を許さるれば、古いにしえの連歌俳諧に遊んだ人々には、誹諧の声だけは聞こえていてもその正体はつかめなかった。さればこそ誹諧は栗くりの本もとを迷い出て談林の林をさまよい帰するところを知らなかった。芭蕉も貞徳ていとくの涎よだれをなむるにあきたらず一度はこの林に分け入ってこのなぞの正体を捜して歩いた。そうして枯れ枝から古池へと自然のふところに物の本情をもとめた結果、不易なる真の本体は潜在的なるものであってこれを表現すべき唯一のものは流行する象徴による暗示の芸術であるということを悟ったかのように見える。かくして得られた人間世界の本体はあわれであると同時に滑稽であった。この哀れとおかしみとはもはや物象に対する自我の主観の感情ではなくて、認識された物の本情の風姿であり容貌ようぼうである。換言すれば事物に投射された潜在的国民思想の影像である。思うにかのチェホフやチャプリンの泣き笑いといえどもこの点ではおそらく同様であろう。このようにして和歌の優美幽玄も誹諧はいかいの滑稽こっけい諧謔かいぎゃくも一つの真実の中に合流してそこに始めて誹諧の真義が明らかにされたのではないかと思われる。
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