https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6367699/ 【造化随順(芭蕉)】
http://taka.no.coocan.jp/a5/cgi-bin/dfrontpage/fudemakase/sousitobasyou.htm 【芭蕉の精神形成 荘子と芭蕉 】 藤井 晴子 道草的俳句論 邑書林 ¥2200 より
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芭蕉の死後、今日までに出版された芭蕉に関係ある書物は大変な数に上るようである。
徳川時代にも俳書は随分出ているし、明治以後のものを加えると、千を越えるかも知れない。支考の『笈日記』は芭蕉の死の翌年出版されているから、芭蕉研究の第一号かと思うがその後、今日まで芭蕉を知ろうとする人があとを断たないということは、文人として、無上の倖せであろう。これは芭蕉の俳諧が、単に詩として鑑賞されるに止まらず、芭蕉という人間が、後人に慕われ、研究されている証拠であろう。
二百数十年前、鎖国、封建の世にあって、現代にも通用するような優れた文学理念に到達し、感覚に発した、俳句という文学形式を以て人生を詠う道を切り開き、そして、歌仙の中には、人間相互の心の触れ合いの面白さを詠み遺し、又その生涯は、自分の肉体を苦しめて、自然の奥へ奥へと真実を追求し続ける旅であったということ、これらのことのうちに、私共は、常人の及び難い勇気、文学への執念の凄まじさなどを感ぜずにはいられないのである。そこで、そのような生き方をした芭蕉に、最も大きな力を与えた思想は何であったであろうか。私は、ここ暫く荘子を読み、又芭蕉の作品から荘子に関係あるものを抜き出しているうちに、やはり、芭蕉の思想の根底には荘子があると考えざるを得なくなったのある。
しかし、芭蕉学者の中には、荘子の影響を相当大きく取り上げている人と、そうで
ない学者と、その観方は色々である。
藤村作氏は『上方文学と江戸文学』で「芭蕉が最も私淑したのは西行であり、宗教
的には信仰を求めて遂に得ず、神の代りに自然に赴いたのであろう。」と述べ、荘子
については言及していない。しかし一方、頴原退蔵氏は、荘子の影響を相当大きく見
る。
即ち、作風の変遷について、延宝八年(三十七歳)頃から、天和三年(四十歳)頃
までを、蕉風時代の前期とし、老荘思想、漢詩の感化が強い時代であると説き、次
に、貞享年間(四十歳代の前半)に書いた「蓑虫の説」については、「それは墨一色の世界で、老荘的な無為、自然を尊ぶ気持がよく現れており、書きぶりも静かである。」と評し、元禄五年(四十九歳)の「芭蕉を移す詞」については、「明らかに無為、閑静を楽しみたいというのであって、一見して老荘思想の影響がつよい。」と述べている。そして、「芭蕉俳文の特色は、一言にしていうと、静かなことであり、こうした静かさというものは、老荘思想、これと深いつながりのある禅などから導かれたように見える。」と結んである。
大谷篤蔵氏は、芭蕉が、延宝八年、三十七歳の時、世間並の俳諧師としての生活を捨て、深川の芭蕉庵に入ったことは、その頃の芭蕉や山口素堂などの精神的風土ともいうべき荘子的世界、その逍遥遊を地で行ったもので、無何有の郷に遊ぶことが、彼らにとっては風雅であり、詩であった。との見解を述べ、芭蕉の読書範囲については、当時の教養人としての範囲以上に、そう特殊なものを読んだとは考えられないとし、確実に読んだと思われるものとしては、「杜律集解」「古文真宝」「聯珠詩格」「蒙求」「円機活法」「詩人玉屑」などを上げているが、「荘子」の名が上っていないのはどういう理由であろう。
当時、何種類かの荘子注釈書があって、そのうちのどれを読んだのか分からない故かとも考えたが、「荘子」の本文にはあまり異同はない筈であるから、或は、大谷氏は芭蕉が「荘子」を読まなかったかも知れないと思われたのであろうか。
飯野哲二氏は『芭蕉入門』の中で、芭蕉は、笈の小文に、「造化に順い造化に帰れ」と云っている。これは私意小我を去って自然の生命と同化融合せよということで、その風雅の誠から俳諧は生まれると門弟らに説いている。この造化随順の思想は、主として、老荘に学ぶ所が大きかったが、一面に於いては、彼の修禅からも発しているのである。老荘学者で、はじめて印度に行って仏教を研究し、両者の渾一化の思想をあらわした釈肇の、宝蔵論、肇論には芭蕉の不易流行説や、幽玄閑寂の境地に通うものが見られる。芭蕉は勿論、釈肇のものなどは見ておらなかったであろうが、老荘と禅の影響をうけて、いつの間にか両者が芭蕉の内部で融合されたので、肇の思想に相通うものが生まれたのではないか。と甚だ興味ある説を立ててある。
これら三氏の見解には共通のものがある。即ち、老荘の影響を専ら、自然随順、という点に於いて認めているのである。
私はそのことに反対はしないが、もっと他に「荘子」の影響を見出したので、少し異説をこれから書くことをお許し願いたい。
まず芭蕉が三十七、八頃、「荘子」の中から「散人」という言葉を見つけ出して、自分の名に付けて署名していることに注目して頂きたい。
芭蕉の俳文に記されている彼の名は幾度も変遷を重ねているので年代順に次に並べて見よう。
寛文十二年(二十九歳)「貝おほひ」序 松尾氏宗房釣月軒
延宝六年(三十五歳)「十八番発句合」跋 坐興庵桃青圏
延宝八年(三十七歳)「常盤屋の句合」跋 華桃園
天和年間(三十八、九歳)歌仙の讃 江上芭蕉散人崑崙
天和三年(四十歳)「虚栗」跋 芭蕉洞桃青
貞享元年(四十一歳)「竹の奥」 蕉散人桃青
貞享二年(四十二歳)「野晒紀行絵巻」跋 芭蕉散翁
貞享三年(四十三歳)「雪丸げ」 ばせを
貞享四年(四十四歳)「保美の里」 武陵芭蕉散人桃青
貞享五年(四十五歳)「うに掘る岡」 翁
元禄二年(四十六歳)「高久の時鳥」詞書 風羅坊
元禄三年以後は、元禄七年の歿時まで、芭蕉挑青、はせを、翁、などのうちのどれかを用いている。
芭蕉と名乗るようになったのは、無論、深川の庵に芭蕉を植えてからで、「散人」という署名が始まったのも同じ頃らしい。その歌仙の讃とは、次のような奇矯な文である。
伊予の国松山の嵐、芭蕉の洞の枯葉を吹いて、其の声歌仙を吟ず。噫寥々ちょうちょうたる風の音、玉を鳴らし、金鏤のひびき、或はつよく或はやはらかに吹いて、且つ人をして泣かしめ、人に心をつく。万窺怒号。響き替りて、句毎の意味各々別也。唯是天籍自然の作者、芭蕉は 敗れて風朧々。 江上芭蕉散人崑崙
右の文中「寥々」「ちょうちょう」「万寮怒号」「天籟」はいずれも「荘子」の斉物論の初めに風の有様を描写した文の中にある言葉である。これらは単に文飾に用いたに過ぎないが、このように、やたらに荘子の文を真似たということは、当時、芭蕉が初めて「荘子」を読み、しかも耽読していたという想像を許すように思えるのである。
その上「散人」と自称している。この散人については、少し精しく語らなければならない。
「荘子」は内篇、外篇、雑篇からなる古典で、そのうち、内篇は、一応荘子自身の著作と認められている。その内篇中の一篇「人間世篇」の中で、荘子は、孔子の名を借用して、孔子の伝記とは全く無関係な創作をするのである。しかもその創作に出てくる孔子なる人物は、本物の孔子とは似ても似つかぬ自由闊達な意見を吐くのである。云わば、孔子の名声を利用して、孔子という名の人物に荘子自身の思想を言わせて、民衆を煙に巻き、本物の孔子の理想主義や、自縄自縛を嗤っている。そういった贋の孔子の物語の次に、大工の名人「匠石」とその弟子との問答という形で役立たぬ大木、即ち「散木」を讃える話が出てくるのである。なお「散」という字には「むだ」「役に立たぬ」という意味があり、「散人」とは無用の人の謂いである。
さて、その話というのは、匠石という大工の名人が、ある日弟子と共に、ある社を通りかかると聳え立っている大櫟の樹があった。その大きな枝の広がりは、下にいる牛を蔽い、幹を計ると百抱えもあり、その高さは山を見下ろす程で、それを材木として伐り出せば立派な船が出来る程であった。しかるに匠石は黙って行き過ぎようとするので、弟子がその理由を尋ねると、「これは役に立たぬ木である。船を造れば沈み、柱とすればすぐ蝕まれる。これは使い道の無い木である。それ故にこれ程の寿を保ち得なのだ。」と言って立ち去るのである。ところがその夜、匠石の夢に、榛の神様が現れて匠石に語るには、
汝は何にか吾をなぞらえんとするや、それ梨・橘……の類は実の熟るれば即ち
もぎとられ、大いなる枝は折られ……これ其の能あるがために己の生を苦しむものな
り。故にその天年を終えずして中道に夭す。
と言ったという。
匠石は覚めてから、この夢の話を弟子に聞かせたところ、弟子が「榛の神様というのは自から無用を求めながら、神様になったりするのは解らない。」と問い返したので匠石は、「言うこと勿れ、彼はたゞ社に身を寄せしのみ……彼は社とならざるも、豈伐らるることあらんや。且つ彼その保つ所は、諸人と異なれり。しかるを常のみちをもて之を推るは真に迂(うと)からずや」即ち、この榛の偉大さが解らないとは馬鹿な奴だと嘆いたというのだ。
この寓話の意味するところについて、解釈は色々あろう。しかし、今は荘子の研究をするのが目的ではないからそれは省略し、芭蕉がどのように受け取ったかを調べてみよう。
まず次の一節を読んでいただきたい。
『野ざらし紀行』(貞享元年、四十一歳)、
二上山当麻寺に詣でゝ、庭上の松を見るに、凡そ千歳も経たるならん。大いさ
牛をかくすともいふべけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪を免が
れたるぞ幸ひにしてたつとし。
これは単に、古松を眺めて、荘子の説話を思い出した一文であろうが、「仏縁にひ
かれて」と、芭蕉にしては珍らしく、樹の運命を仏の意志に帰しているのは、寺の庭
の樹だからであろうか。
次はもっと芭蕉の心の奥深くを語るものである。
芭蕉を移す詞(元禄五年、四十九歳)
……名月のよそほひにとて、先づ芭蕉を移す。其の葉七尺あまり、或は半ば吹き
折れて鳳鳥尾をいたましめ、青扇破れて風を悲しむ、たまたま花咲けども花やかなら
ず。茎太けれども斧に当らず、彼の山中不材類木にたぐへて、其の性尊とし。僧懐素
はこれに筆を走らしめ、張横渠は新葉を見て修学の力とせしとなり。予その二つをと
らず。唯この蔭に遊びて、風雨に破れ易きを愛するのみ。
ここに至って、芭蕉の散木、散人礼讃の真意がはっきりして来たと私は思う。散木なるが故に長寿を保ち得た幸せも結構である。しかし、全く何の役にも立たぬ存在で満足する芭蕉では勿論ないのである。
役立たぬ性に生い出でた芭蕉を、その性のままに愛し、風雨に折れ易きゆえに傷ましい姿を人目に晒す悲しさを共に哀しみ、平穏な日和のときは、せいーぱい、美しい、やわらかな葉を広げている姿に、この上もない懐かしさを感じ、大自然の中の、か弱きものの姿に、別の存在価値を大きく認めているのである。
万物が、凡て人間生活に直接役立つものばかりであったなら、何と、この世は殺風景であろう。人間の心を霑おすものが無いではないか。植物の芭蕉は、無用とされるもののうちに、もっと大切なもの、真に有用なものが在ることを主張しているのである。
人間の芭蕉の方は、世間が有用と呼ぶ名利一切を捨てて、それらが本質的には有用でなかったことを、身を以て実証しているのである。そして、現実的に役立つものの生命が短く、風雅を愛するこころの方が、より寿しいことを信念として、己の道を歩いて行くのである。そして、自身を散人と称え、芭蕉と号して旅に果てたのであった。
「柴門の辞」の中で、「予が風雅は夏炉冬扇の如し、衆に逆ひて用ふる所なし」と言っているのも、俳諧の道は、表面はいかにも、夏日の囲炉裏、冬日の扇のように、他人が見たら、さぞ無益なものと見えるであろうと言いながら、心中、この道が命寿しい事を確信して、言っているのである。
この言葉に続いて、後鳥羽上皇の御口伝を引いて、西行、俊成の和歌に見られる「まこと」「あはれ」「かなしみ」などの有難さを述べているのでも解る通り、芭蕉自身が、こういう古人の遺した文学に、こころを支えられてきたのであり、風雅の道が、いかに後人を慰め、生きる力を与えるかを語っているものと思われる。
このように「散人」礼讃の思想は、芭蕉の一生を支配したものと思われるが、もう一つ荘子の影響で見逃してはならないのは、芭蕉のレジスタンスの精神である。
既成概念に囚われることなく、一切を自分自身で、根底から考え直して行くこと、その実行が始まったのが、芭蕉三十七、八歳の頃である。それ以来、前人未踏の、最も自己に即した表現形式を工夫、創造することを終生の願いとし、生命を賭けたのであるが、荘子の痛快な反逆、諧謔哲学、非情な人間観察、超越自由の精神などが、芭蕉を勇気付け、又芭蕉が本来持っていた反逆精神を呼び覚ましたと、私は考えるのである。
『貝おほひ』の序などを書いていた三十歳前後の芭蕉には、そのような反逆精神は、遠慮勝ちに、垣間見られるに過ぎなかった。むしろ、世人に迎合しようとして、自らを卑しめ、無理に古典を引用して学を衒うような、小心な才筆さえ感じられたのである。
ところで、三十七、八歳頃に、彼の人生観が一変したのであるが、当時、芭蕉庵とは、同じ隅田川に添った上流の葛飾に、彼の親友、山口素堂が住んでいた。素堂は俳人でもあったが、漢学に造詣深く、当時の俳諧者流で一番の博学と言われ、芭蕉も彼に学んだと言われている。
川 上 と こ の 川 し も や 月 の 友 芭 蕉
この友は素堂のことである。そうして見ると、芭蕉と荘子の出合いの手引をしたのは素堂ではないかと、そんな想像がしたくなるのである。
次に、芭蕉の発句、連句に荘子の影響を探ってその結果を簡単に記し、第二回目の稿を終ることにする。
君 や 蝶 我 や 荘 子 が 夢 心
起 よ 起 よ 我 友 に せ ん ぬ る 胡 蝶
これらは、斉物論篇の「夢に胡蝶となる」を踏まえている。荘子が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘子になったのか分からないという話から、人生を夢と観ずるのである。
拝荘周尊像
蝶 よ 蝶 よ 唐 土 の は い か い 問 む
世 に ゝ ほ へ 梅 花 一 枝 の み そ さ ゞ い
「みそさゞい深林に巣喰うも一枝に過ぎず」より。
五 月 雨 に 鶴 の 足 み じ か く な れ り
「鴨の脛短しと雖も之を継げば即ち憂えん鶴の脛長しと雖も之を断たば即ち悲しまん」より。その他三句ばかりある。次に芭蕉の連句を一通り見たが、この方には荘子は殆ど無いと言ってもよい位である。
『ひさご』の序文は越人が書いたものであり、『炭俵』の序文は素竜の筆で、いずれも逍遥遊の引用がある。しかし、連句そのものの中で、芭蕉の句の中には、はっきり荘子と分かるようなものは一句も無かった。
『あらの』の「雁がねの巻」に、
瓢 箪 の 大 き さ 五 石 ば か り 也 越 人
風 に ふ か れ て 帰 る 市 人 芭 蕉
というのがあるが、五石の瓢箪は逍遥遊の故事であり、それを受けた芭蕉の付句は既
に荘子を離れている。
散文の中で、あれほど荘子を引用した芭蕉が、連句に於いては全く持ち出さないと
いうことは、芭蕉が、散文の世界、独吟発句の世界、連句の世界と、この三つの世界
それぞれの背景は各々別々であることを認識していた故ではあるまいか。
芭蕉にとって、散文は理性の分野であり、思想表現の場であり、独吟発句は孤独な
情の世界であり、連句は他人との心の交流の場であったのである。
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