アニミズムと擬人化・八百万の神々

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2967015  【アニミズム】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/12761364  【依り代とは?依り代の意味や種類、神道との関係をわかりやすく解説】


https://www.oricon.co.jp/special/50763/ 【“擬人化”は日本の伝統芸能? 日本人と擬人化の親和性】より

 『けものフレンズ』、『刀剣乱舞』、『艦隊これくしょん』と、ここ数年たて続けにヒットを飛ばした“擬人化”メディア作品。2018年の今年もアニメ『怪獣娘~ウルトラ怪獣擬人化計画~』が現在放送中だったり、艦船を美少女化した“中国発”のゲーム『アズールレーン』が大ヒットしていたり、誕生35周年を迎えた『タマ&フレンズ~うちのタマ知りませんか?~』も昨年はまさかの擬人化計画を発表したりと、まさに擬人化ブームは最高潮だ。実は日本でこの“擬人化”という手法は古来より多用されている。なぜ、日本人と擬人化はここまで親和性が高いのか? そして擬人化は、日本の“伝統芸能”たり得るのか?

『艦これ』『刀剣乱舞』『けもフレ』まで…“萌え”擬人化作品の強固な人気

 そもそも擬人化ブームの先駆け、特に“萌え”擬人化のはじまりは、2004年に備長炭を擬人化したキャラクター『びんちょうタン』と言われている。4コマ漫画からテレビアニメ化、ゲーム化され、萌え擬人化されたキャラを表する際の接尾語「~たん」は、同人誌界隈を飛び出して一般にも知られるようになったのである。その後、海からの侵略者たる「イカ娘」とその他の海洋生物を擬人化したマンガ『侵略!イカ娘』(2007年)がヒットしてアニメ化されると、鉄道、国家、ゲーム機などなど、多種多様な擬人化が一般化していくのだ。

 そして2013年、第二次世界大戦の軍艦や艦艇を女性に擬人化した育成シミュレーションゲーム『艦隊これくしょん』が大ヒットすると、日本刀を「刀剣男士」たるイケメンに擬人化した『刀剣乱舞』(2015年~)や、巨大動物園の動物たちが擬人化する『けものフレンズ』(2015年~)なども続けてヒットし、やがて自治体や企業、商品といったPR目的の擬人化も一般化、現在のブームに至っている。

日本人の擬人化好きは平安時代から!? 生き物を人間のように描いた江戸時代

 ちなみに現在の擬人化、たとえば『けものフレンズ』は、野生動物の“女の子化”と言ってもせいぜいしっぽが生えていたり、服の柄が動物の体の模様に似ているぐらいだ。『刀剣乱舞』や『艦これ』のように対象と擬人化の“距離”が遠すぎるということもあるが、今の主流は、見た目はほぼ人間で、性格やプロフィール設定が“元ネタ”と似ているということだ。

 日本における“擬人化”を歴史的に見れば、平安時代末期から鎌倉時代初期に書かれた国宝『鳥獣戯画』までさかのぼると言われる。これは兎や猿、蛙といった野生動物が水遊びをしたり、弓矢をひいたり、相撲を取ったりという“人間っぽい”動作をする様子を描いた絵巻物で、まさに擬人化の元祖。スタジオジブリによってアニメ化されたCM(2016年)で、絵の動物たちが生き生きと動く姿を記憶している人も多いだろう。また、江戸時代の歌川国芳の擬人化作品も有名だ。『猫のすずみ』や『かえるづくし』など、人間のように着物を着て生活する姿が描かれている。また、1855年に安政の大地震が起きると、「ナマズが暴れると地震が起こる」との言い伝えと融合し、ナマズを擬人化した絵が多く描かれたりした。

 ましてや、古いおとぎ噺になると擬人化だらけと言ってもいい。『桃太郎』のお供の犬、猿、キジはもちろん喋るし、きび団子だって食べる。『鶴の恩返し』にしても、鶴が思いっきり人間の女性の姿になっている。そもそも日本では昔から、狐や狸が人間に化けて人をだますとされているし、そうした“常識”がスタジオジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』などの作品を生み出す土壌にもなっているのではないか。

海外では日本の擬人化ブームを面白可笑しく風刺 「Japanizing Beam」が流行

 もちろん、こうした擬人化は日本だけではなく海外にもある。「ミッキーマウス」や「ドナルドダック」など、ディズニー関連のキャラクターも動物を擬人化したものだし、『きかんしゃトーマス』や『カーズ』も乗り物を擬人化した作品だ。それでも日本が“擬人化大国”と言われるのは、日本には古来より“八百万の神”と言うように、「森羅万象すべての物に魂が宿る」という多神教的な考えがあり、山自体が信仰の対象となったり、大河に畏敬の念を抱いて人名を付けるなど(例:利根川=坂東太郎)、一神教的な考えを持つ欧米などに比べれば、擬人化に違和感を持たない環境・風土があったことも理由かもしれない。

 そういう意味では、日本における擬人化は古くから伝わる表現の“手法”のひとつであり、それが日本人のキャラクター好きにもつながっており、今では元ネタの“原型”を留めないレベルにまで達し、さらに「萌え」を絡めて日本独特の進化を遂げているのである。こうした日本人の何でも“擬人化”“萌え化”してしまう傾向は、海外から見ると面白く映るようで、昨年は擬人化ビフォーアフター画像を張り付けるハッシュタグ「Japanizing Beam」(ビームが当たると何でも擬人化してしまうという内容)が流行した。

 とは言え、今や日本だけではなく、2015年に公開された映画『インサイド・ヘッド』(2015年)で人間の感情(喜び、怒り、悲しみなど)を擬人化しているように、海外でも“原型を留めない擬人化”を取り入れた作品が出はじめている。昨年末から大人気の中国発のゲーム『アズールレーン』も、第二次世界大戦中の戦艦等を美少女化するという『艦これ』と酷似した設定で、ただのパクリかと思いきや、シューティングゲーム要素を取り入れたことで日本でも大いにウケており、今や本国の中国以上に『艦これ』をしのぐ人気だという。

 このように世界に広まりつつある擬人化文化だが、いまだに日本の萌え擬人化コンテンツの完成度の高さは圧倒的だ。これからも日本の擬人化文化の進化は止められないだろうし、やはり擬人化文化は日本独自の伝統芸能なのかもしれない。


http://blog.livedoor.jp/warabi66/archives/32082282.html 【八百万の神と九十九神と擬人化】より

萌え擬人化の批判的な意見に対して「日本には八百万の神というアニミズム的な信仰が~」

「九十九神みたいなものじゃん」注目してもらいたいのはココ

“萌え”擬人化

  ↑

森羅万象には神が宿るという日本の宗教…神道が八百万の神であり、九十九神は長い時を経た物は生物無機物関係なく霊が宿るといった民間の信仰です。

世界でも似たような考え方、宗教があります。

そしてタイラーさんが19世紀にアニミズムという言葉で分かりやすく本にまとめました。彼が言うには神とは人格を投影したものだそうです。擬人化の考え方ですね。

九十九神といえば唐笠お化けや猫又などの妖怪が代表的だと思います。鳥獣戯画とも無関係ではないでしょう。

踏まえた上で先の意見を見ると今の萌え擬人化も八百万の神から萌えへの信仰と変化した民俗信仰であり、森羅万象に人格を投影した結果、神なる女の子を見出だすというアニミズム的な精神として現代に残っていると…つまり俺たちの性欲は宗教みたいなもんだ!と

怖い

九十九神云々は長い時を経た物といった精神はほぼ無視してますよね。手当たり次第に人格を映すことは九十九神と関係ありません。ルンバ擬人化ってなんですか。

まあそういうことです。

表に出てきたからっていい加減な正当化はしないでほしいです。邪道だろうが好きなら好きでいいじゃないですか…


https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R24ZTOWAIX23MC?ASIN=4106107775【「八百万の神々」VS「稲作神官の家系的神話」】より

これまで私にとって、もっとも縁遠い日本の宗教が「神道」だった。

両親は仏教系の宗教に帰依していたので、その雰囲気は子供の頃から何となく身近に感じてきたが、その分、どこか面白みのない「慣習」のようにも感じられた。

結局、私はそうしたものの「理論的無根拠性」に失望して無神論者になるものの、各種「宗教」を鵜呑みにして信じられる人たちの存在を不思議に思い、そうした人間の非理性性の研究材料をキリスト教に求めた。キリスト教は、理知的な研究の歴史と量において最先端をいく宗教だし、仏教的な「比喩」ではなく、神を「実在する」ものとして信じるスタンスにおいて、もっとも「メジャーかつ典型的な宗教」だと判断したからだ。

そんなわけで、私の場合、神道は「つかみどころのない宗教」として長らく脇に追いやられていたのだが、近年の日本政治問題のエポックである「安倍晋三政権」「日本会議」「神社本庁」との関わりにおいて、いちおうの知識は持っておかなければならないものとして注目するに到った。

この問題については、すでに藤生明『徹底検証 神社本庁』(ちくま新書)を読んで一定の理解を得たが、それを非政治的な宗教学の立場から補完する入門書として本書を読み、本書で、神道の基本的なところを「客観的に教えられ」て、裨益されるところ多大であった。

さて「神道は宗教なのか?」という基本的な問題については、「定義による」としか言いようがないようだ。

ただ、神社本庁も言うとおり、神道には尊崇の対象である「教祖」がおらず、おのずと「本来」は「教義がない」。

しかし「教義がない」はずなのに「伊勢神宮(を本宗とする)神道」「敬神尊皇の教学」という「限定的教義」を、かってに立てた段階で、著者・島田裕巳の言うとおり、「神社本庁の神宮神道」は「新興宗教(新興神道)」、新たに成立した「宗旨」として理解した方が、非政治的評価であり、客観的であろう。

そもそも、神道というものは、民衆の「一木一草に魂が宿る」というアニミズムに発するもので、その意味では、全世界に存在する素朴な(擬人化による)自然理解の一形態だと言えるだろう。つまり、西欧でも「森の精霊」や「妖精」といったものが信じられたように、日本でも、山川草木や動植物それぞれの中に「神」を見、それらとの適切な関係を結ぶための儀式として、わが神道は「形式的」に形成されていったのである。

だから、そこには「唯一神」も無ければ「教祖」も「教義」も無かった。そして、その意味では、神道は「宗教ではなかった」と言って良かったと思うし、今もそんな神道は生きている。

しかし、そんな民衆の素朴な感情が、政治利用され「国家神道」となった時に、神道は決定的に歪められてしまった。いや、歪められた神道こそが、神道(の王道)だとされてしまったのだ。

もちろん、その際に用いられたのが「天皇の政治的権威」である。

「天孫降臨の神」の末裔とされる天皇は、同時に「稲作を司る神官」の末裔だともされているが、事実関係としては「稲作を司る神官」家系の根拠・権威付けとして「天孫降臨の神の末裔というフィクション(神話)」が捏造されたと見るのが自然だろう。

言い変えれば、実際問題としては、膨大に存在する神々の中から「稲」の神様が「最も偉い」としてしまったのが「国家神道の教義」だと言い換えてもいい。もちろん、その「選択」は、極めて経済的・政治的なものであり、その意味でハッキリと「人間の都合」によるものであって、神の位格に基づくものではない。人間の都合で、人間の捏造した「神話」によって、かってに「稲作の神官(神話の神の末裔としての人間)」を「すべての神々(自然神)」の上に据えてしまったのである。

したがって「国家神道」は「政治的下克上の神道内派閥」とでも呼ぶべきものであり、そんな「栄光よ、もう一度」と画策する「神社本庁の伊勢神宮神道」は、おのずと政治的なものにならざるを得ない。そして、神道内部においても、政治的軋轢を生まないではいないのである。

しかし、神道の感情とは、本来はそういうものではなかったはずである。

神道は、自然と人間の関係を調停する、素朴な感情的システムであったのに、そこに「政治権力闘争」という「人間らしい嫌らしい欲望(穢れ)」を持ち込んだものが「国家神道」であり「神社本庁の伊勢神宮神道」なのではないか。だからこそそこには、人間を浄化する「自然の神」が存在しない。

私は「宗教」に対しては、極めて厳しい立場に立つ者だが、もしも神道が「自然と人間の関係を調停する、素朴な感情的システム」であり続けるのならば、これをあえて「宗教」と呼ぶ必要はないと思うし、その素朴な感情をむしろ歓迎したいとも思う。

だが、政治政策としてのかつての国家神道に倣って「神道は宗教ではない」と主張する神社本庁の「宗教でなければ、政治的制約を受けない(特権が得られる)」などという「卑しい人間的魂胆」など、とうてい是認できるものではないのである。

人間的な欲望としての「権勢欲」にまみれた「人間至上主義的神道」が、郷土を汚す「原発政策」等と結びつくのも、また理の当然なのだろう。「人間の欲望を体現した宗教」は「自然(の神)」とは敵対しがちなのだ。

そうした意味では、キリスト教と同様「政治と宗教」は無縁ではあり得ない。

だが、人間の都合だけで立てられた神道は、もはや「神の道」でも何でもなく、純粋な「政治的フィクション」に過ぎないのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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