写生を超えて心象風景を描きだす「心象造型」

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/56419943 【自覚者達の芸道 23】

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/17288894/ 【芭蕉の心象風景】

https://ihatov.cc/blog/archives/2019/10/post_952.htm 【「心象」の意味】


https://miho.opera-noel.net/archives/2137 【第三百八十二夜 松澤 昭の「凩(こがらし)」の句】より

 松澤昭氏の略歴には、氏の俳句の特長として、季定型を守りつつ、写生を超えて心象風景を描きだす「心象造型」を唱えた人であると書かれていた。

 写生を超えた心象風景とはどういうものなのだろう。

 写生による描写があってこその心象風景だと思っている私には、すこし理解しにくく思ったが、友岡子郷編著『秀句三五〇選 夢』に見た〈凩や馬現れて海の上〉に惹かれつつ鑑賞してみようと思う。

 今宵は、松澤昭氏の作品を紹介させていただく。

 凩や馬現れて海の上 『神立(かむだつ)』(こがらしや うまあらわれて うみのうえ)

 この作品に出会ったとき、茨城県北の天心記念五浦美術館の六角堂から眺めた太平洋の冬の海を思い出した。この日は特別に凩が吹きすさんでいたのかどうか定かではないが、冬の海は波が高く、白馬の鬣(たてがみ)のような波頭が次々と岩肌の海岸に押し寄せていた。岡倉天心が思索に耽りたいときに籠もっていたという六角堂に凭れて、夫と私は、ずいぶん長い時間をすごした。

 松澤昭氏の、凩の吹く海の上の「馬」は、この荒々しい鬣のような白波ではなかったろうか、と思った。長いこと荒波を見ていると、遂には、白馬の群れが疾走している姿にも思えてくる。

 江戸時代の池西言水に〈凩の果はありけり海の音〉句があり、山口誓子に〈海に出て木枯帰るところなし〉の句がある。

 凩の行きつくところが海であるならば、海の上に現れた白馬と出会い、白馬に乗って何処へか行ってしまうかもしれない。【凩・冬】

 この作品は、「雲母」同人の頃の代表句で、第1句集『神立(かむだつ)』に入っている。「神立」とは、雷、雷鳴の意味だという。

  いちまいの冬田こんがりできあがる  『麓入(ろくにゅう)』 

 「こんがりできあがる」冬田は、稲刈が終わり、穭田(ひつじだ)となり、やがて穭も枯れて、一面枯色となる。「こんがり」とは、枯田の色であろう。「いちまい」は、お百姓さんの作る「いちまいの田」ということで、一年がかりの稲作を終えた田の色に満足した表現が「こんがりできあがる」であった。

 1枚のトーストがいい色に焼き上がったような、かろやかな爽やかさを思った。【冬田・冬】

  お花見に坐りこんだるあしのうら  『面白(めんぱく)』

 まず、句集名の「面白(めんぱく)」とは、何だろうと思った。ネットで調べると、「面白」の例文があった。意味は「おもしろい」であるが、小説家久米正雄の「虎」の作品に出てくる科白の「妙な人と乗り合せたものだね。だから此の電車(いなづまぐるま)といふ奴は面白(めんぱく)だて。」が、句集名の由来ではないかと思った。

 この作品は、茣蓙の上に座り込んで花見をしている光景のようだ。お酒が進み、酔ってきて、遂には靴下を脱いでしまった人の「あしのうら」であろう。素足の「あしのうら」がこちらを向いていると、妙に気になるものである。頭上には美しい桜の花が満開なのに、目の方はつい「あしのうら」へ引かれる。【花見・春】

 松澤昭(まつざわ・あきら)は、大正14年(1925)- 平成22年(2010)、東京都北区に生まる。父は「雲母」同人の松澤鍬江。少年時代より萩原朔太郎、三好達治に憧れて詩作を試み、また10代の頃より俳句に興味を持つ。昭和19年、学徒動員時代に句作を開始。昭和21年、法政大学経済学部を卒業。この年に飯田蛇笏に会い師事する。昭和28年、「雲母」同人。昭和31年より現代俳句協会会員。昭和36年、石原八束、文挾夫佐恵、柴田白葉女らとともに「秋」を創刊・主宰。翌昭和37年、「秋」主宰を辞し、昭和39年「四季」を創刊・主宰。平成12年、現代俳句協会会長に就任。平成20年、第8回現代俳句大賞を受賞


https://kanekotohta3.livedoor.blog/archives/14170357.html 【造型俳句六章 金子兜太】より

造型俳句六章 金子兜太(『俳句』昭和三十六年一月号~六月号)

第一章 主観と描写

 現在、ぼくらはどういう俳句を求めているのか、という素朴な疑問を考えてみたいと思うのですが、その場合、いままで使われてきた概念で、随分あいまいなものがあって、各人各様の受け取り方をしているため、どうにも話を進めにくいことが多いのです。今回はそのうちで、これから述べようとすることに基本的な関わりを持っていると思われる概念について、ぼくなりの整理と定着を試みたいと思います。その概念とは、主観という概念と描写という概念です。

 基本的な関わりを持っているという意味は、主観と描写という二つの概念が、子規からはじまる近代俳句史(このことも後で明らかになります)の基本――いわば二本の足――になっているということで、これを明瞭に理解しておかないと、現在の問題に入れないことになります。主観はいうまでもなく、俳句を作る人の内実の問題、描写は表現の手法の問題です。子規以降の俳句史のなかで、この概念がどう扱われたかをはっきりさせたいというわけです。(中略)

・・・子規は、俳句(すなわち文学)の美の基準は、固定的な超絶的なものではなく、流動的な時間的なものとみていたということです。そして、そうみていた理由は、あくまでも「各個の感情」の表現こそ俳句の根本の目的であると考えていたからでありましょう。だからこそ、芭蕉を正当に評価し、これを古典として位置付けつつ、同時に芭蕉を絶対視する風潮に対決したわけでありましょう。また、蕪村俳句の示す流動する心情の姿を――‐必要以上に――高く評価したわけでありましょう。

 子規のこのような俳句観は、明治初期という解放感を伴った時期と照応させて考えるとなるほどと肯けるものがありますが、少なくとも、子規の念頭には、その程度はともあれ解放されてゆく個人(ザーインディビジュアル)の像が鮮明に宿されていたものと思われます。その個人は、それまでの、個人以上のものの所在に対する関心から徐々に離れて、自己の所在に対する関心に眼を向けます。自己の所在についての確認と所在自体の確定に努力することのなかに、個我(エゴ)の世界が形成されてゆきます。

(中略)

 虚子の「主観」という言葉は、以上のように子規の認識していた個人の内包する個我の状態――平易にいえば「各個の感情」――を意味していると思います。したがって、感覚だけを大事にするとか、個我のなかに形成された観念だけを大事にするとか、といった片寄った内容は嫌われます。もっと、いわば地上的な状態の個人――感覚や観念や何やか一切を包括しどんな既成概念にも犯されない独立人――が問題になっていると思います。地上の、生き身の個人――その個人の素裸のこころの姿といってもよいでしょう。(中略)

・・・個我の状態とは、こうした自己の所在に関わる感想の姿を中心とするものですが、これがすなわち主観というべきものであったのです。(中略)

 それでは、この主観を表現するための手法については、どう考えられていたか、ということに移りましょう。それを「描写」という言葉に総括したいと思うのですが、子規や虚子は「写生」という言葉を使っていました。

 実は「写生」という概念もあまりはっきりしていないのですが、たとえば虚子が昭和のはじめに言った言葉で、「写生といふことは只写生するといふことではなくて、作者がその景色を見てその心に映じた影を描くのである。その影は実物そのものとは異つてゐるのである」というのがありますが、これには、写生という言葉が二通りに使われています。

一つの「只写生をするといふことではなく」という場合は、絵画の分野で普通使われる意味の写生で、ぼくはこれを「描写」という言葉に置きかえておきます。そこにある物(風景や静物や動物や)を、そのありのままのかたちで描くという意味です。

 いま一つの使い方は「作者がその景色を見てその心に映じた影を描く」というところでただ描写するのではなく、描写することを通じて作者のこころのなかも示さなければいけない、というわけでしょう。まさに「生」を写す――生命体としての自己の内実を写す―ということであります。

 問題なのは、こういうかたちで使われた写生という手法は、では一体、自分から離れたものを描く(描写)ことを優先するのか、自分の内部を描く(写生)ことを重くみるのかということです。いまの虚子の言葉でゆけば後者が重くみられています。だから「実物」よりも「心に映じた影」の方が重視され、実物と違ってもかまわない、とまでいっています。(中略)

 ただ、そこには必然に問題(危険な要素)が孕まれます。それは描写が手法であるためには、その背後に強く激しく豊富な個我の活動(主観の積極的な態様といってもよい)がいつもつづけられていなければならないということです。これがなければ、描写はただ描写に終り、そこに映されるべき内容を失ってしまう結果になります。別のいい方をすれ、主観が衰弱すれば、描写は手段から、目的の位置に場所替えしてしまうということ、つまり、描写だけが目的になってしまって、主観の投影などどうでもよくなってしまうということであります。(中略)

 子規や虚子の「写生」――つまり描写を手法とするという方法は、同じ意味の重要な前提を充たさない限り堕落してしまうはずのものでありました。繰り返していいましょう。写生(描写の手法化)はそれなりに正当性を持った近代の詩法であったが、主観の稀薄化あるいは喪失によって悪しき詩法になる可能性を持っていたと。この堕落は実際に現われました。(中略)

 それは、周知の虚子の「花鳥諷詠」論に前後する時期であります。そして、この堕落現象はその後も尾を引き、一般の通念にすらなっております。(中略)

 つまり、「主観-描写」=写生という方法から、「描写」=写生という方法に変わってきたこと。したがって、描写の基本におかれる作者の主観内容は、花鳥諷詠の精神という奇妙な限定付きのものになったこと。これを書き直せば、「主観-描写」から「諷詠精神――描写」という結合の仕方に変わったともいえますが、諷詠精神というものは、もともと主題を失って自分が目的となった描写にとっては、属性にすぎません。つまり主観が退いたあとの描写に附着している個我の色合い程度のものに過ぎません。もっと割り切つていえば、主観を失った描写は、もはや描写本来の客観物の厳密で微細な記録(主観の投影を意図すればこそ、それは厳密かつ微細のはずです)をやめて、まさに文字通り諷詠する程度のものになってしまうはずです。描写でなく、諷詠そのものになるということでありましょう。したがって「諷詠精神――描写」の結合関係というより「描写――諷詠」というものであろうと思います。描写自体の厳密な意味が失われる結果となったのは、その後の俳句をみれば明らかです。(中略)

 次回で触れますが、一度主観を無視された描写は、その後、この絵画趣味との結び付きをますます強めることとなります。これが、現在の俳句のあるべき姿をかたるとき、大変な支障になっていることは否定できません。

 以上によって、ぼくは近代俳句が打ち出した方法の主流を見定めました。これを土台として現在の場に望みたいわけです。

第二章 描写と構成

(前略)

 虚子の花鳥諷詠説の提唱を前後として、描写を支える主観の衰弱現象が濃厚になったこ

と(堕落という言葉を使いましたが、これはその衰弱を意識的に――むしろ誇示した――虚子の言説を受けているわけです)を前回に述べましたが、これによって結果される現象は、ただ客体(対象)をありのままに描くという姿です。主観が濃厚に働いてこそ、また客観ということもはっきりするのですから、客体をありのままに描く、といった具合に客体という概念を使えないほどの状況といってもよいかもしれません。あるものは、ただ漠然とした四囲の現象です。しかも虚子はそれを自然に絞りました。自然現象自体、変化に富み、色彩も豊かで、色気すらあります。その現象をただこころを無にして描くということだけで、ある程度の楽しさも得られるというものです。(中略)

・・・この種の自然現象は作者から切り離された――いわばそんじょそこらにゴロゴロしている犬の糞――程度のものであって、まさに素材に過ぎません。作者に充分関係してこそ、はじめて客体だったわけです。ですから、その上うな俳句は客観詩ではなく、素材詩にすぎないと断言できましょう。素材主義の風靡、まことにこれが当時の描写の大勢であったといえるわけなのです。これを「直叙法」と呼ぶことにしたわけです。(中略)

 

 秋桜子、誓子がこれらの大勢に反撥したこる調理」「技巧」「想像力及創作力」といった作句要因を秋桜子が強調した秘密もそこにあったとみるべきで、二人を中心とした提唱の基本は、一言でいえば、描写への作者の介入、ということではないかと思います。その介入の必要性、介入の仕方――などを総称して「構成法」という言葉で括っておきます。

(中略)

 それでは、構成法とは何か、ということになりますが、それは、対象としての素材を、そのまま直叙することでなく、「想像力」を加え、「頭脳によって調理」し、作者にとって、もっとも満足できる表現にまで「創作」することだといえるようであります。そこでは、作者独自の「世界の創造」が果たされるわけであります。(中略)

 以上によって構成法の説明が済んだわけですが、ここで今一度、構成法は直叙法の複雑化(高度化)ではあるが、矢張り、描写の一方式に止っているものであることを、明確にしておきたいと思います。主観――描写の二元的関係(二次的方法論)から抜けているものではないという点であります。

 その第一の理由は、構成法にとって、対象としての「現実」は、自己の外のものであるという点です。(中略)

 第二の理由は、構成法が構成技術の面に偏り、主観の充実面が等閑視される状況を生んだ、という点です。ここにも、再び、主観の衰弱という宿命がまといついていたというわけです。(中略)

 以上によって構成法が描写の一方式として、その枠内に止ってしまった事情を申しあげましたが、これですべてが終ったわけではありません。むしろ、これからが大事であります。それは、こうした限界付きの構成法であったにもかかわらず、次第に、一方では、この技法を手掛りとして作者の新しい内実が掘り出されていったという事実であります。その新しい内実とは、個我(その状態としての主観)に代って主体(サブスタンス)とでも名付けるべきものでありました。これが第三章のテーマになります。

第三章 構成の進展

(前略)

 周知の通り、秋桜子、晢子を中心とする構成法の意欲的な推進のなかで、昭和10年頃をピークとして「連作万能時代」(東京三)といわれる時期を現出しました。この連作なるものは、秋桜子の『筑波山縁起』(昭和2年作)が濫觴とされています。(中略)

・・・そこには、意図を持った作者による素材の解釈と選択と構成が予定されていた、というべきでありましょう。目的をもっだ表現に、俳句の意義がおかれたともいえましょう。

(中略)

 しかしながら、ここに明確化された意図というものは、本当の意味の主題と同一の内容であるか、といえば、否と答えざるをえません。晢子のいう「カメラの角度」という言葉自体も、実をいえば、意図は意図でも、それは素材に向けられた意図、つまり素材優先の意味が強いと思われます。確かにカメラの角度は撮影者の意図によって定まりますが、被写体が絶対必須のものとして、撮影者の外周に存在することが前提です。撮影者も無論厳然と存在するが、同時に被写体も絶対のものとして存在し、両者併存するところをカメラの角度が結合してゆくというわけです。被写体たる素材よりも作者が優先するという考え

方――素材を自由に従属させるという考え方にまではいたってないようです。

 この意味の外向的な意図は、しかしながら、その後の新興俳句の作り手たちによって、徐々に内向的な意図に切り替えられ、そこに主題とその主題を問題とするが故に、作句の動機(モチーフ)とが、重要視されるにいたっています。その経路は、別のいい方をすれば素材への傾斜(客観的な素材選択)から、素材の包摂(つまり素材の客観性の剥奪)にいたる過程ということができましょう。

  たとえば、前章にも挙げた誓子のいわゆる代表作。

  ピストルがプールの硬き面(も)にひびき

  枯園に向ひて硬きカラア嵌(は)む

  夏の河赤き鉄鎖のはし浸る

の場合は、その中間にあるものとみるべきでものでしょう。(中略)

・・・これらのの作品には、一種のムードが形成されていると指摘しましたが、そのムードとは時代性とでも呼ぶべき、その時期の一般化された実感であります。(中略)

 素材包摂の方向は、次の篠原鳳作の作品になるとかなり明確になります。

起重機にもの食はせゐる人小さき

  起重機の旋回我も蒼穹もなく

  ルンペンの唇の微光ぞ闇に動く

 ここでも、起重機とかルンペンとか、時代の素材が選択されています。そして、それを

素材のあるがままのかたちを重んじつつ、客観的に組み立てています。(中略)

 ただ、ここで注目されるのは、どの作品にも一定の意味が込められているという点です。大きな機械である起重機に対比される小さな人間の存在という、いまからみれば至極常識的な角度のなかには、いうまでもなく、機械主義(マシニズム)に対する批評があります。第二句も、かなり露骨ですが、起重機の君臨のもとにかき消されてしまう青空や自分という人間――というかたちで同趣旨の批評があります。第三句は、闇に薄光りするルンペンたちの唇だけを抽出したところに、ルンペンを素材としていながら、ルンペンを輩出させている時代に対する批評がこめられています。

 批評という言葉を使ってきましたが、これは意味の内容とみて貰って差支えありません。ただ、批評ということは、肯定も否定もあります。否定だけが批評ではありません。要は、それが一定の客観的な論理を持っている、ということです。いうまでもなく、作品に意味として内包されたときは、その論理の明瞭な筋道が示されないことが多いのですが示された印象から読者がたぐれば、その論理が明らかになってゆく態のものであります。この点、主観とは違います。

(中略)

 ここまでくると、主観の投影としての素材直叙から、依然、素材傾斜の域を離れられなかった構成法の初期の時期を経て、素材を完全に自己の内実に奉仕させる段階――つまり構成のなかから(極言すれば)素材という概念すらなくなってしまう段階――さらにいいかえれば、構成ということは、すなわち自己の内実の構成である、というところにまで進む展望が開けつつあったと、みられるわけであります。意味の定着が意図されたということは、その端緒の現われとみて差支えありません。ようやく主題の自覚ということが正当に語り得る段階にさしかかったとみられるわけなのです。(中略)

 

 いま一度繰り返していえば、自己以外のものは素材として(主観に対する客体として)自己と二元に存在していましたが、もはやその二元性は解消しつつあり、客体というものは自己に従属する材料(新しい意味での、文字通りの素材)の位置に下りつつあった、ということであります。ここにきて描写という手法自体がほとんど打ち消されてしまった、といってもよいでありましょう。そして、それに代わって、自己の包懐する内心の主題それ自体の構成が中心の目的となったわけで、外向的構成(描写段階)から、内向的構成(描写否定の段階)に、構成法の質的な変化がみられるにいたった、ということができましょう。(中略)

 ところで、こうした傾向は鳳作あたりの時期を転機として明白になり、前章で例句をあげた「戦火想望俳句」を経て、新興俳句運動挫折直前の、いわゆる末期の作品(〈友ら帰らず夏帽街を白く描くに 東京三)など。 編集部注)にきてかなり濃厚に具現されたとみられます。(中略)

・・・これらの作品は、そうした反戦の思想や厭戦の気分が、比喩のかたちをとって表現されています。既に意味について述べましたが、比喩も意味と同様に広義の批評です。ただ、その批評が消極的に表現される場合は意味となり、積極的の場合は比喩となります。(後略)

四章 主体

(前略)

 この質的変化に伴い、さらにいま一つの変化が現われました。それは、意図と操作の過-程は、主観の内容として第一章で規定しておいた感想の状態に、次第に論理を加えていったということです。ここに批評が主観の内容として主要な位置を持つようになりました。

その経緯を、ムードから意味へ、意味から比喩へ、という表現内容の推移の姿として前章で粗描しておきました。(中略)

 素材の材料化と論理の開拓――この二つによって、やがて、構成法は自らを止揚します。描写の一方式としての位置からはみだし、描写と離別します。そこには、もはや構成法という既製の概念で呼ぶべきでない手法が生まれています。そして同時に、そうした手法を必然のものとして求めている作者の内山が、はっきりと姿を現わしています。個我の状態としの主観、という概念で規定できない内実の姿がみられます。それをぼくは、主体(サブスタンス)と呼ぶことにしますが、それは、それでは、一体どんな内容のものなのでしょうか。(中略)

 新興俳句運動の作品的成果を問題とする場合、いろいろの見方があるだろうと思いますが、ぼくは、西東三鬼、富沢赤黄男、高屋窓狄、の三人の作品に集約して考え得ると思っています。(中略)

 三人の作者が共通に示していたものは、存在に対する関心であった、といえます。ぼくは、第一章で「自己の所在についての確認と所在自体の確定に努める」ことのなかに「個我の世界が形成されてゆく」旨を書きましたが三人の作品は、かたちこそ異なれ、そうした一種のオプティミズムに背を向けているように思われます。あるいは、三人の作品と較べると、自己の所在に執着することによって人生を割り切り得た、それ以前の人々が、何かひどく楽天的にみえる、といってもよいでしょう。

 このことは、自己の所在を否定することではありません。自己の所在という言葉も、実はかなり直感的なもので、その点不明瞭な要素が多いのですが、たとえば、よくいわれる自然的存在としての人間と社会的存在としての人間という仕訳からも、このことは説明できると思います。人間のなかには、自然的存在としての部面と、社会的存在としての部面が混在しているが、人口が増え、交通が発達し、そしてより本質的ないい方をすれば、機械の発達によって、機械を媒介とする人々の結び付きが盛んになるにつれ、次第に、社会的存在としての部面が拡大され、人間の存在状態を規定する、というわけなのです。そのとき、人々は、社会的な関係のなかに緊密に組み込まれていて、自分自身の孤立した状態を保持することは、非常に困難になるというわけです。(中略)

 

 このような、人間の存在状況の進展は、おおむね第一次大戦を契機として、更に深化し人々の意識をより強く決定するようになったとみられます。そこでは、社会的存在としての人間の相対性(関係的状態)――つまり対他的意味に関わる意識状態――は、不安定感を強めさえし、いやでも、存在の危機というかたちで人々を支配するようになりました。(中略)

 前掲の三人の作品が、その根底に、存在の不安定感を濃厚に宿しているのも、その状況への鋭敏な反応に他なりません。

 ここまでくれば、既に明らかですが、自己の所在への関わり――その確認と確定の努力――の時期、つまり個我の確保の時期から、いまでは、自己の対他的意味に関わる時期-そのために相対的な関係をいつも自分のなかで問うている時期に、人々の純正な営みが移行しているということができましょう。

 個我の確保の時期には、個性の構築とその結果示される人間の像(ビルト)の形成が主題でしたが、いまでは、個性の対他的適応(その意味で、その人の社会的技能が重視されそれを通しての個性的行為が何より問題にされます。単なる個性は軽視されています。通俗的にいえばスペシァリストとしての個性の尊重)、それと像の形成に代わって刻々獲得する現実性(リアリティ)の彫塑が、主題になっています。ビルトの形成より、その人間の仕事の現在における意味が問われている――という言い方もできましょう。これは極論すれば、個我の崩壊の状況であって、そこには、個我という言葉の当てはまらない人間の内実(意識状態)が形成されている、ということもできましょう。ぼくは、この内実を主体(サブスタンス)と名付けてみたいと思うのです。

 図式的にいえば、個我は近代の内実であり、主体は現代のそれである、といって差支えないと思います。現代とは、先述しましたように、機械の高度の発達(いわゆるマシニズム)を土台として、人間の社会的存在としての部面が決定的に人間を支配している時期、いわば、政治、経済、文化などの社会営為が緊密に結合し、人間の行為の全面を被うている時期――と規定しましょう。ここでは、概念自体が質的に変化していることも先述の通りです。(後略)

第五章 象徴

(前略)

 今回は、その構成法に反撥した人々の作品傾向を吟味し、構成という手法の意義を側面から明らかにするとともに、その人々において一層強く意図された内部への注力の態様を示しておきたいと思います。俳句は、構成法を契機として、それを信奉する者も、反撥する者も、おしなべて、内部の表現に二元的努力を傾けるにいたった、という重要な状況を記憶しておいてほしいと思います。(中略)

 構成法が意図と操作を重くみだのに対し、草田男は、そのことによって規格付けられ、あるいは概念化されてしまう、生身の生活実感(その感受と思考の態様)の「常識化」を嫌ったわけなのです。だからこそ、新興俳句に「血潮が流れ出るか否か」を見とどけようとしたり、「フィリップの言葉です。『趣味と教養(ディレッタンティズム)の時代は過ぎた。

今や野獣の生きるべき時代である』」を強調し「人間臭くならざるを得ない」ということ

になります。極論すれば、理智に律せられた作り方を捨てて、人間臭い、野獣の状態にか

えれ、そこに真実がある、というわけなのでしょう。

 このような批判は、加藤楸邨にもみられます。彼は新興俳句のなかの「生活派的傾向」を「遠心的傾向」といい、自分の「求心的傾向」に対置させつつ「或生活を発見しその生活に興味を感じ、素材に対する興奮と視角の鮮さを問題にする」傾向だと指摘しております。「遠心的」という批評と、草田男の「ディレッタンティズム」という皮肉とに、多大の共通性があることは、一見して明らかなところです。 (中略)

 こうした傾向を、一つの概念でとらえるならば、「象徴的傾向」ということになると思います。(中略)

 このへんで象徴的傾向の限界を明らかにしておきます。

 その成果についてはいままで述べてきたとおりですが、一言にしてくくれば、「花鳥諷詠主義」を否定して、求心の深みへ志向を一元化したところにあるといえます。このことは、構成法を内面の構成手法として、これまた志向を一元化していった、いわゆる新興俳句の人たちと、基本は同じです。秋桜子の「文芸上の真」についての提言を契機として、俳句の主流は、主観と客観という二元的な考え方を止揚する方向をとったという言い方もできましょう。主観――描写といういわゆる描写主義の終末が告げられつつあったわけです。ただ、その志向は基本的には正当であったのですが、象徴的傾向の人たちが、そのなかに既に限界を含んでいたことも事実でした。

 その限界とは象徴主義の古典が持っていたものと実質的には同じです。つまり「象徴主義をとる人は、空白の意義づけをただ自分だけの仕事に見いだそうとした結果、孤独になりり、積極的な働きかけをなくしてしまった」手塚富雄)と、素朴にいうことができましょう。(中略)

 象徴的傾向は、自分の心の姿を表現しようとするあまり、自分の存在を失っていたといえるのではないでしょうか。別のいい方をすれば、その傾向の人は、求心によって、主観(感想の世界)を深め、それを思想というものに練り上げたとしても、やはり、結局は、個我の状態つまり自然的存在としての部面を描く程度に終ったにすぎないのであって、社会的部面が拡大した結果、存在状態が変化している人間の内実(つまり主体の状態)を表現することはできなかった、といえるのではないでしょうか。(中略)

 象徴的傾向の成果と限界は以上の通りですが、この限界を克服する道は二つだと思います。一つは、戦後、その系列の人からいわれた「社会性」(そのより俳句に結びついた提言としての「無季論」)の消化。これは結局、主体の確認の問題です。いま一つは、新興俳句の人たちが獲得した内向的構成の技法の採用です。これらについては、前章までで大体述 前章まで大体述べてきたわけですが、次章で集約する予定です。

思想的抒情詩(ゲダンケン・リリク)の本格的な完成も、この二つが充分に消化されたとき実現されるとみるべきでしょう。

第六章 造型――主体の表現

 戦前の俳句の大勢について述べてきました。もっとも、俳句の大勢とはいっても、現在のぼくの考えを裏付けるために、ぼくなりに組み立てたものですから、かなり独自的な大勢であることは避けられません。

 ところで、その大勢を大きく区分すると、次の三通りになります。諷詠的傾向、象徴的

傾向、主体的傾向――。このうち、諷詠的傾向は描写的傾向と呼んでもよいでしょうし、

後の二者は、まとめて表現的傾向と名付けてもよいでしょう。

 

 描写的傾向については第一章「主観と描写」で述べましたが、要するに、自己と客体

という二元的関係を基本に置き、ここから客体の描写を通じて主観を投影するという手法

をとっている傾向です。この主観が衰弱するにつれ、描写だけが浮きあがり、これが中心になってしまうと、諷詠的傾向に墜ち入ります。

 これに対して、表現的傾向においては、その二元的な関係を解消し、自己に一元化する め、描写という手法の介入を認めなくなります。自己の表現という直接的な命題に立ち

向かうわけです。このなかで、象徴的傾向(第五章)と主体的(第四章)との差違が発生

しているわけです。この二つの傾向の大きな相違をまとめておきます。

 ――象徴的傾向の基本は個我であり、主体的傾向では主体であるということ。

 第四章で概述したように、人間の存在状態は、自然的存在としての部面(比喩的な言い

かたをとれば自然的・人間的な要素)が次第に縮まり、社会的存在としての部面(同じいい方で社会的要素)が徐々に拡大するかたちで変化してきています。そして、社会的要素が存在状態を規定するほど拡大した段階の人間の内面を主体と呼び、それ以前の状態を個我と呼んでおきました。主体においては、自己の対他的意味への関わりが強まり、その感覚や考え方も相対的であり、関係的ですが、個我においては、自己の絶対的所在への関心と執着が強く感覚や考え方も極力相対性を排除しようとします。象徴的傾向は、そのような個我に執着します。

(中略)

 一方、主体的傾向にとっては、人間の存在はそれほど楽天的ではありません。相対的関心が拡大するにつれ、主体は対他的意昧にとらわれ、一義的な自己偏執をさまたげられます。自然的・人間的な純正に拘泥することは、一見はなばなしいが、その実、人間の内面簡単に割り切って、何事も説明していない場合が多いという結果になります。楽天的といわれる所以でしょう。

 そのため、主体にとっては、むしろ主体自身の存在感の全容が問題として意識されるわけです。存在感の表現が喫緊のものとなるわけなのです。このことは主体の現実性をいつも表現において問いただしていることだ、ともいえます。(中略)

 なお、付け加えたいことは、主体的傾向といっても、第五章で述べたように、新興俳句運動の人たちは、主体を明確に自覚していたわけではない、という点です。この自覚にポイントを置いて「造型」という言葉が生まれてくるわけです。

 二、技法との関係。

(中略)

・・・象徴的傾向では、事物は表現のための媒体であり、したがってそれに対する凝視あるいは把握が重要である、ということです。(中略)

 以上のことは、裏返せば、象徴的傾向にとって、技法の問題は、凝視・把握の深さ、確かさ、真剣さ、といった態度の問題に吸収されていて、技法としては明確に問題意識されていない、ともいえましょう。(中略)

 一方、主体的傾向にとっては、技法は大切な問題です。存在感をアクチュアルに表現すためには、感得した内容に正確に適合した表現を行わなければならないことを当然ですがその感得の内容がアクチュアルであるためには、その人の意思や思考や想像力が十分に加味されなければならないため、複雑で多様な内容にならざるを得ません。そして、それに応じた技法の選択が、また必要となります。技法によって表現の可否が決まる場合さえあるといえるのです。(中略)

 以上で二つの差違を述べましたが、これを二言でいうと、象徴的傾向は「個我の直接的な結像」、主体的傾向は「主体の構成的な表出」――ということになります。西東三鬼が前者を「吐く」もの、後者を「作る」ものといっていますが、直観的にはこれでよいと思います。

 ここで大切なことを付け加えておきます。それは、両傾向とも、現在でも並存し、今後とも並存しつづけるに違いない、ということと、そうではあっても、人々の存在状態の変化とともに、主体的傾向が徐々に拡大してゆくことを疑うことはできない――ということです。流行の言葉を使えば主体的傾向の方が新しいのです。

 しかし、そのことを知ると同時に、次のことを承知しておかねばなりません。それは、両傾向とも、表現を本旨としている点で、それまでの描写的傾向と異質であるということです。表現を本旨とするということは、自己に一元化した表現態度を崩さないし、崩すことはできない、ということになりますが、ここにこそ、俳句が詩歌本来――‐したがって文学本来の本質に立脚点を見出している姿がある、ということができるのです。俳句は、ここにきて、本格への歩みを開拓した、といい切ってもよいでしょう。(中略)

 ぼくは、俳句の伝統的事実は、最短定型韻律(当面17音律の文語定型)だと確信していますので、これへの現在からの積極的参加による、その詩型の権威の自覚こそ、正統への営みであると考えています。その点、象徴的傾向の季題固執は、実は現在における一つの反語的現象(現代に対する批評の一形姿)にすぎないとみ、それをも含めて、主体的傾向とともに、正統への努力であると断定して差支えないと、考えています。

 くどくなりましたが、要するに、象徴、主体の両傾向は、俳句の本格に立脚し、正統への努力を行なっているもので、それ以外のものは、いうなれば伝承的系列にすぎない、ということをいいたいわけでした。前衛といわれる主体的傾向は、したがって、そのなかでもっとも積極的な姿勢をとっている傾向ということになりましょう。(中略)

・・・感受――意識活動―観念といった内面活動は、主体的傾向にとっては大事な 基本の活動ですが、その関連は先ほど素描したとおりです。自作について述べた思考と想像のくだりは、ささやかながら、そのうちの意識活動の内容に触れているつもりでした。

 素朴に考えてみます。ぼくたちは、感受し たことについていろいろ噛みしめるくせがあります。あじさいの花は美しい、と感じたとき、本当に美しいかな、と反芻しています。友人でしきりに眼鏡を直す男がいたとします。こいつ淋しいのかな、と感じますが、いやどうかな、とすぐその心理を反芻します。どうも、昔なら素直に受け取って反芻などしなかったのでしょうが、現在では、その素直さを誰もが喪失しているのかもしれません。反芻癖は現代の一つの特徴なのかもしれません。そのような反芻を、感覚反芻、心理反芻という言葉で、ぼくは語ることにしています。これは狭い意味の意識活動です。

 さらに、反芻なしに考えてしまうことがあります。友人は淋しいのだろう。しかしそれは何故か、ところで自分はどうか、これは現在のどういう状態を意味するのか――等々です。浅沼さんの事件をテレビでみて、そのおそろしさの感じとともに社会的背景を考えるわけです。そうした思考に際して、感受したことを正確なものと信じられなくなりますと今度はいま一度感受の内容を確かめにかかります。さきほどの反芻とも関連しますが、今度は、思考と感受との関係です。夏の空のように、両者は陰陽の電流となって、たえずぶつかり合い、火花をちらし、確かめ合います。そして、徐々に、一つのまとまった思考の経路がたどられ、これでよし、と思う時期にきます。そこに論理が生まれるのです。しかし、この論理は、次に異なった感受があり、それに伴う思考が働くと、修正されたり、否定されたりします。そんな具合に、渦巻きつつ変化してゆくわけです。

 反芻と思考――これを意識活動とぼくは名付けています。反芻だけですと、身体的で、多分に本能的な知覚機能に止ってしまいますが、現在ではこれに思考という認識機能が加わっていると考えたいわけです。(中略)

 最後に、イメージについて述べます。(中略)

 イメージは詩像とか心象とか訳されるようですが、要するに、意識活動のなかから獲得される構図(誤解されやすい言葉ですが内心の構図)とでもいうべきものです。表現を意欲しない限り、なかなかこの構図にまではいたりません。その意味では、表現に密接したものといえましょう。イメージを結ぶについて、二つの問題があります。

 一つは、言語芸術としての俳句ですから、当然、言葉によって結ばれるものであることです。したがって、イメージを言葉におきかえる――とよくいわれることは不正確です。イメージ自体が言葉による構図です。

 二つは、意識活動を進めるにつれて、論理の綾はますます濃密になりますから、イメージの内容はかなり抽象的になる、ということです。これは、たとえば具体的な事物――石とします――が構図のなかに入っていても、その石は視覚的な石というより、論理的な(つまり意味を濃く帯びた)石になっている、ということです。このことをぼくは「抽象的事象への参加」といういい方で述べたことがありますが、具体的事象に止っているあいだは、実はまだ充分な意識活動による消化がないので、それが抽象的事象に転化されて、はじめて、心象の構図になり得る、というわけなのです。

 この二つは絡み合って、ますます抽象性を強めます。言葉は本来意味を伝える記号、つまり意味性を本質とするものだからです。ところが、抽象的な言葉の構図は、表現としては極めて弱いものなのです。論理や意味を伝えるだけなら、散文の方がより強力です。また、よしんば抽象的事象によって伝えるとしても、それが意味の伝達以上の迫力を持たない限り、結局散文に劣ります。これが現代詩のように長く書けるものならばまだしも、俳句のような短い詩型では、その欠陥を露呈せざるを得ません。そこに、イメージの情緒化の必要が現われてきます。

 情緒化についてはエリオットがよく説くところですが、ぼくは自分なりにこう考えています。まず情緒という概念ですが、これは常識的には心情、あるいは感情といった、人間のなかの非論理な面ということでしょう。しかしこれでは――こういういい方自体――抽象的です。ぼくは、ここでいま一度、最初に述べた感受性の大切さを思い出してほしいと思うのです。つまり、イメージにおける情緒とは、その意識活動を喚起した、感受機能それ自体だと思います。イメージのなかに、感覚と心理の内容をもりこむということ-もっ

と厳格にいえば、感覚と心理の触発ではじまった意識活動のなかから出てきた心象の構図を、いま一度、感受内容へ還元する、ということです。これは誤解され易いので付け加えていえば、意識活動のなかで、当初の感受内容は修正され、くつがえされて、新たな感受内容と結びつくことも充分ありますし、これに想像力が加われば、当初の感受からはるかに飛躍した感受が創造されている場合もあります。したがって、感受内容といっても、当初のものがそのまま残っているという保証はないわけですが、それだけに、イメージを結ぶ時点での、もっともふさわしい感受内容が、必ずそこにあるといえます。それは、意識活動は必ず感受という外との接合剤を媒介として営まれているもので、いうなれば、いつも感受によって試されているからなのです。この感受内容に、極論すれば還元することに努めるべきだ、ということでしょう。

 情緒については、いま一つの内容を加えて理解したいと思います。それは具体的なものということです。抽象的事象に転化されたものの具体性をできる限り獲得すべきだ、といってもよいでしょう。具体的なものは、一義的ではありません。しかし、抽象的なものはむしろ一義的です。ですから、イメージを具体的に結べば結ぶほど、一義性を包み補充する要素が加わる、ということになりましょう。その一義性からはみでる部分、それが情緒ではないでしょうか。

 したがって、イメージの情緒化とは、感受内容に極力還元し、しかも具体的にする、ということであると思います。無論、抽象的事象自体、一義性を免れている場合があり、今後、ぼくたちが抽象的なものに慣れてくれば、それに多くの感受をすら示し得ることとなります。そのときは、抽象的な状態のイメージで差支えないわけですが、現在、一般論としていえば、やはり、感受と具体の必要性が語られることになるわけなのです。

 ところで、イメージにおける抽象性と情緒との関連をたどると次のようになります。第三章で、ムードから意味へ、意味から比喩へ、と表現の進化がみられたことを述べましたが、ムードの場合は抽象性が、まったくないか、乏しい状態で、意味として示される場合は、抽象に情緒が付加された程度の状態とみられます。そして、比喩として抽象性が示される段階にきて、ようやく情緒のなかに抽象を包む状態が現われる、と思うのです。もっとも、比喩といっても、直喩(シミリ)と暗喩(メタフア士の差がありますが、完全に抽象を情緒が包む状態は、そのうちの暗喩の段階であるとみられます。ここでは、イメージは情緒化を完成し、その情緒のなかに、抽象的内容(論理の綾目、つまり意味内容)が 包含されているわけなのです。論理の内容は、情緒を通して暗黙のうちに読者に浸透するわけでしょう。

 よく、暗喩の表現をもって最高といわれるのは、以上のような理解に立てば明快であると思われます。しかも、俳句のような短い詩型では、これは、ある意味ではやりやすく、かつ他の詩型と比肩し得る方式であると思うのです。

 イメージと、その情緒化の問題は、作品の伝達力にも関連し、重要ですが、この情緒化の作業は、別のいい方をすれば、技法の問題であるといえます。抽象された内容(論理内容)にふさわしい感受内容と具体性付与の工夫なしには、それは果たされないからです。ある意味では計算された付加が必要ともいえましょう。

 このことは、俳句が日本語の最短定型詩であって、定型音律を必然にする、というリズム(音楽性)の問題とも関係します。本来、現代詩では音楽的要素と絵画的要素(イメージやヴィジョン)とは併置または対立のかたちで理解されてきました。フランスの象徴派が詩は何よりも音楽でなければならない、といったのは有名ですし、フランスの現代詩がシュールレアリズムを経て鮮やかなイメージを選ぶにいたったことも周知の事実です(小海永二)『イマージュとヴィジョン』)。しかし、俳句の主体的傾向にとっては、その両者が融和していなければなりません。ここに技法の重要さがつけ加わりますが、これが果たされたとき、ますます伝達力を具備するということになりましょう。

 

 このリズムの技法については、一つには、イメージの情緒化の内容として、感受と具体のほかに、さらにリズムが加えられるということ、二つには言葉の配列によるリズムの強調、といった工夫がなされていますし、今後とも試みられて然るべきものと思われます。言葉の配列の工夫については、高柳重信のいわゆる多行形式があります。たとえば次のようなものです。

  杭のごとく

  墓

  たちならび

  打ちこまれ         高柳重信

 これなど、墓を独立の一行にするのは、音味に重点を置くためでしょうが、リズムとしては「墓だちならび」で調和するので、そのあたりに、作者の志向の不分明なところがされています。

 また、情緒の内容としてリズムを織り込む工夫は、多くの人によって行なわれていますが、これの成功した例を挙げておきましょう。なお、これらの作は、リズムとともにイメージの情緒化全体をかなりしっかりと果たしている例としてみてもよいと思います。

  音楽漂う岸浸しゆく蛇の飢       赤尾兜子

  からからと荷車は病む胸で富む     島本研二

  沖へいそぐ花束はたらく岸を残し    堀葦男

  白い湿地の傷となる僕らホテル抜け   前川弘明

  女児の手に海の小石も睡りたる     佐藤鬼房

  青年へ虚無の青空躰使う鈴杢      鈴木六林男

  地底を抜けねばあの夕焼がちぢんでしまう   桜林駿二

 

 最後の作など、未熟といえば未熟ですが、口語で書かれたイメージの内容とざらっぽいリズムの間に妙な均衡があって、文語定型としての十七音律から、口語定型への移行のかたちを示しているような気もします。主体の内部活動にふさわしいリズムの要求が、やがて文語定型の音律を改めてゆくようにさえ思われます。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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