https://www.sankei.com/article/20160522-LQYQA3C2QVNGZFZTRSC6KNBBIM/ 【日本大学教授、先崎彰容が読む『ありてなければ 「無常」の日本精神史』竹内整一著】より
ありてなければ 生をどう肯定し生きるか
風のなかに、ふと、春の気配を感じることがある。喜怒哀楽に揺さぶられている現実が、生きていることそのものが虚(むな)しく思える日がある。自分の存在のはかなさは、大河の一滴のようなものだ。そういう思いがこみあげてくる。
竹内整一は、ニヒリズムの研究者である。ニヒリズムとは、ニーチェが用いた哲学概念のことだ。「虚無主義」と訳される、日本でもお馴染(なじ)みの概念から、竹内氏は深刻な影響を受け、学者の路(みち)を歩み始めた。福沢諭吉、清沢満之、正宗白鳥らの言葉のなかに、近代日本を襲った「煩悶(はんもん)」と「虚無」を辿(たど)る仕事が始まった。
以後、『自己超越の思想』(ぺりかん社)を手始めに、日本思想の森に分け入り次々と著作を発表し続けている。とりわけ、氏の仕事を独自なものにしている特徴は、次の2点にあると思われる。
第1に、必ず日本人の言葉をつかって思想していること。西洋哲学の概念を日本にあてはめるという、よくある手法を竹内氏は絶対に用いない。「はかなし」「夢」「無常」「色即是空」などの言葉に注目し、その意味と系譜を辿ることで、日本人に即した独自の精神史を構築しつづけてきた。
今回の著作もまた「ありてなければ」、つまりあってないような空漠とした精神の空白を探り、「死んだら人間は無になるのか」という、誰もが一度はいだく深い問いに応答しようと試みる。啓蒙(けいもう)主義者と思われがちな福沢諭吉にすら、大宇宙から俯瞰(ふかん)すれば、人間など蛆虫(うじむし)のようにはかない存在だ、という警句を見出(みいだ)し、そこから生をどう肯定するかを問い直す。
第2に、竹内氏は近代日本の枠組みをはるかに乗り越え、万葉集・謡曲・閑吟集・平家物語など、博覧強記というべき読書量によって、日本精神史の大伽藍(がらん)を構築しつつある。西行から志賀直哉にまで言及される本書は、「竹内精神史」の集大成が近づきつつあることを予感させる。
人は虚しさを抱えながら、それでも生きる。そこに過去と現在の違いはないことがわかる文庫判の一冊だ。(角川ソフィア文庫・880円+税)
https://note.com/canna_chun/n/n9b0ab9ee528e 【死んでから花をほしがる奴なんているもんか問題】より
ありてなければ 「無常」の日本精神史/竹内整一読了。
はかなさとは何か。
花火のはかなさを愛でる日本人の精神性はどこから来るのか。万葉から近現代まで思考されてきた「はかなさ」の正体に迫る。付箋が山盛りになってしまった。
それもそのはず、巻末の解説にある通り、この本は「竹内流の引用の万華鏡で諭す言葉の小宇宙」「言葉の玉手箱のような珠玉の一冊」なのだ(彦摩呂?)
はかなさを知るのはいつだろう。
夏休みが終わってしまう小学生の頃か。祖父母の死に直面する思春期か。それは洋の東西問わず、古今世紀末関係なく人の生とともにあった。宗教が唱える解は一面的なものだ。
この本では「はかなさ」の向こう側を三つの面から探る。一読しただけでは消化しきれていないがおもしろかった。それはそれとして、実は巻末解説文の中で40年来の疑問の答えに出会って驚いている。それが「死んでから花をほしがる奴なんているもんか」問題だ。
「死んでから花をほしがる奴なんているもんか」これはサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝・訳)の主人公の言葉だ。
「ライ麦」は倫理学の課題で読んだのだが、すっかりハマり、課題ということもあり「精読」という読み方をした唯一の本だ。心に残るシーンは沢山あるが、この言葉はとくに10代の自分の心に刺さったし同感だった。
しかし大人になって自分で墓参りなど行くようになると、やはり花を手向けるし、そのことで清々しい気持ちにもなった。自分が死んだら花がほしい気もした。
なぜ花をたむけるのか?死んだ人間は花がほしいのか?その答えがあった。
「社会学者の見田宗介による荘厳つまりは死者に花を手向けることに関する論考(『現代日本の感覚と思想』)」
「逝った人への真の荘厳とは、その外面に花を飾ることでなく、その人の咲かせた花への認識を介して、残された生者の内に咲く花を目覚めさせることであり、それが、逝った者と残された者とを共に生かす唯一のすべである」
「逝った者を、残された者たちが活かし続けるには、逝った者が遺した言葉を、残された者たちが自身の内に咲かせ続けることしかすべがないからなのであろう」
解説 西岡文彦 より
「死んでから花をほしがる奴なんているもんか」
これはかなりインパクトのある言葉で、刺さった人は他にもいると思う。
吉田秋生の「カリフォルニア物語」にも同様の台詞が出てくるが、「ライ麦」の影響と思われる。
ずっと疑問だったが、思いがけず一つの答えに出会えてやはり読書はいいなと思った。
https://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/77ad39e98d53b13098973dbf6519ee5b 【竹内整一『「はかなさ」と日本人』】より
■まず、竹内 整一先生について
竹内整一先生は、倫理学とか日本思想史が専門の、東大文学部倫理学教授です。竹内先生とは長い仲でもあります。
自分が大学3年のときから、いろんな縁で竹内先生のゼミに勝手に出入りするようになった。
元々は、東大哲学系の教授とか、偉い先生たちとの小さい研究会のようなもので、総勢10人くらいのゼミ。多分野で人間の尊厳とか生命倫理とか語りましょうよ。ってゼミ。
文学、インド哲学、宗教学、情報学・・の教授陣。偉い先生ばっかりいる場で、20歳ちょい過ぎの若造が勝手に参加していた。
話し足りないときや納得できないときは、本郷の白木屋で、ゼミ始まりの17時くらいから2次会3次会4次会を経て、夜通しで朝6時くらいまで話したことも何度もある。ランディさんと仲良くなったのもこのゼミである。
竹内先生とは、『人間とは?人間の尊厳とは?生死とは?倫理とは?道徳とは?宗教とは?善悪とは?』・・・無限に広がるテーマで、死ぬほど話しまくった。
ここまで夜通しで付き合ってくれた大人はいない。今思うと、さすが文系の教授だけあって、教養が深い。当時は漫画と絵しか見なかったから古典の出典は分からなかったけど、今思い出すと話していた内容がなんとなく思い出せれる。不思議なものでなんとなく覚えていて、なんとなくつながってくる。そして、巡りめぐり、今何故か自分の興味が古典に向かっている。
万葉集、古今和歌集、徒然草、源氏物語、平家物語・・・に何故か興味がわいている。
あのときに種が蒔かれていて、自分の土壌が熟してきて植物が自生してきたのかもしれない。
自分は人間とか生命の生き死に、生命の根源の底の底の、さらにそのまた底みたいな、よく見えない領域に興味があって医者になった気がするけれど、その辺りの関心は、結局あらゆるものと連鎖してつながっていると感じている。
■竹内整一『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』
その竹内先生が書いた『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』(平凡社新書) って本があって、京都に行く前に、本棚を見たら、ふと目に飛び込んできた。読んでないのに気づいたんで、新幹線で読んでみた。相当良かった。相当感じ入った。今の自分にピタリとはまった。偶然にも、今、読む時が満ちていたんだろう。本棚から偶然選び出すっていうのは、不思議な縁!30歳の自分にして、この本の深さにはまった。学生の時読んだら、いまいち分からんかったかもしれん。人との出会いも縁。本との出会いも縁。
この本、かなり読みやすい。しかも、日本古典文学の知識満載で、古典を読みたくなるほど引用が面白い!是非読んでください。せっかくなんでこの本での学びをブログに書いてみようと思いたった。
◆無常観と「儚さ」
「はかない」という言葉がある。「はか」とは、稲作での仕事量を表す単位だった。
その動詞である「はかる」とは、
1:ものごとを軽量する→「計る」「量る」「測る」
2:ものごとの見当をつけて、論じ、調整する→「諮る」「付る」「衝る」
3:ものごとをもくろみ企てる→「図る」「策る」「謀る」
こんなニュアンスがある。そして、この「はか」ることは、近代西洋が作り上げてきた、科学的な思考方法でもある。「はかない」という意味は、その「はか」がないことで、努力してもその結果を手に入れられないことから、「むなしい」とか、そんな意味をもつようになったとのこと。
◆business=『busy-ness:忙しさ』→『心を亡くし亡ぼす』?
ビジネスという言葉がある。未だになんとなく自分がしっくり来ない言葉でもある。
自分の医者の仕事はビジネスというより生きざまに近いし。ビジネスが生む語感には少し違和感を感じてた。日本でも、それほどいい意味で使われてないと思うし。
この竹内先生の本によると、business社会とは、『busy-ness=忙しさ』とのこと。
business社会では、「はか」がいくことが求められる。結果や成果が重視される。そこから、今も逆算で規定される。
西洋語には、project(プロジェクト)・produce(プロデュース)・promototion(プロモーション)・progress(プログレス)・program(プログラム)・・・という、西洋近代の本質でもある『前のめりの姿勢[pro-]』や、『前望的な時間意識[pro-spective]』があるらしい。
この姿勢がbusiness社会を生む。
ちなみに、『busy-ness=忙しさ』の、『忙しい』という漢字は『心を亡くす』『心を亡ぼす』と書く。偶然でもないような気がする。「はか」がいくことばかりが求められるbusiness(busy-ness)の世界。日本人は本当に生きていけるのか。かなり無理しているんじゃないか。それは、ありのままの自分なのだろうか。よくわからない脅迫観念に追われて、大した根拠もなく無理しているんじゃないだろうか。
◆「はかない」「儚い」
「はかない」という言葉は、ニンベンに夢と書く。そして「儚い」と読む。
そこからも分かるように、古来の日本人は「はかなさ」を「夢」にたとえて語ってきた。
この本では、その概念を3つに分類している。
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◆【1】夢の外へ→この世は夢。だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。
◆【2】夢の中へ→この世は夢。ならば、さらにその内へと、夢中にのめり込んでいく。
◆【3】夢と現のあわいへ→この世は夢か現か。その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きる。
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この根底に常に流れるのは、日本人の死生観であり無常観。無常とは、「常なるものは無い」ということ。
人間は死ぬ。自分も死ぬ。愛する人も死ぬ。周りの他者も例外なく全員がいづれ死ぬ。
財産も地位や名誉もなくなる。全ての物質はなくなる運命にある。全ての生命はいづれ死ぬ運命にある。この世に常なるものは無い。
■伊呂波歌(いろはうた)と無常観
伊呂波歌(いろはうた)は、全ての仮名の音を使って作られている歌。10世紀末~11世紀のものだけど、未だに現在に生きている。
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いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
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色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならん 有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
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<訳>
桜の花の色は美しく照り映えるけれど、すぐに散ってしまう。我々人間の世も、だれがいつも変わらずにいようか。いや、いつも移り変わりいく。無常である。無常の世のような奥山を、今日超えて行くような人生。浅い夢を見るように惑わされず、酔いしれないようにしたいものだ。
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ここにも、日本人の無常感が込められている。わけも分からずに、いろは歌はなんとなく知っていたけど、こうやって味わうと新たな発見がある。
日本人には、無常観という考えや、そこからうまれる『儚さ』が、根底に流れているのかもしれない。
■超越の思想
そして、この無常観を越えようとする思想が生まれる。それを竹内先生は『超越の思想』と呼ぶ。この本は、日本人の死生観と無常観。そしてそこを超えたいという『超越の思想』を軸としながら、「儚い」という言葉に秘められた「夢」を、【1】夢の外へ、【2】夢の中へ、【3】夢と現のあわいへこの3方向から論じている。相当に興味深く読んでしまった。
一つ一つ引用したいけど、それは本を読んでもらうとして、感じ入ったのだけを簡単に引用。
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◆【1】夢の外へ
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この世は夢。だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。
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夢の外への方向性は、絶望の時代に、浄土教の西方浄土思想が救いとなった時代背景がある。
<死んだら極楽に行きましょうね。現世はともかく、死んだら成仏しましょうね。>という考えが根底にながれている。
■夏に生まれ死んでいく蝉は、夏を知ることができるのか
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善導『浄土論註』・親鸞『教行信証』より
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蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽の節を知らんや
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「蛄けいこ=夏蝉」は春秋を知らない。その夏蝉が、何故に「朱陽の節=赤い太陽の季節=夏」を知ることができるだろうか。
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夏だけに生まれて死んでいく夏蝉が、春や秋や冬を知らないのに、何故今の季節が夏だと分かるのか。これは人間全般に示唆に富む、かなり深い問いだと感じた。イイものを感じるには、ワルイものを知ったらこそ。ヨイ生き方を求めるのは、ワルイ生き方を見たからこそ。
自分の世界は狭い。なにがいいか悪いかは、夏と言う季節だけに生まれて、それが夏とも知らなければ夏と分からないまま死んでいく。春夏秋冬の四季を感じているからこそ、夏と言う季節を感じることができる。自分の世界を閉じることの危うさはこういうところにもありそうだ。自分を世界に開いていないと、自分の立ち位置というのがわからなくなる。
夢のような現実。ただ、その夢の外に出て行かないと、分からないことがある。見えない世界がある。
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◆【2】夢の中へ
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この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく。
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『【1】夢の外へ』の方向性は、西方浄土思想が元になっていたけど、時代が進むと少し変容してくる。夢であるようなこの世に、夢中でのめり込んでいこうという方向性。
確かに、『夢中』という漢字は、夢の中へドンドン入っていく方向性を表現している。
観阿弥・世阿弥の『松風』の説明が面白かった。
弔うとは、「訪ふ」こと、「問う」ことの意味で、死者を訪れて、思いを問うことである。
能は、そういう弔いの大きな装置のようなものだ。という説明は興味深かった。
「夢の中へ」の例は、観阿弥・世阿弥の『松風』の「夢の中で死者を弔う」という方向性の他にも、閑吟集(一般庶民の歌謡集)の例もあった。
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『閑吟集』より
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世間はちろりに過ぐる ちろりちろり
何ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波の一葉よ
何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀なり
ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あじきなき世や
夢幻や 南無三宝
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
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<簡易訳>
この世は、儚く、あっという間に過ぎてしまうもの。でも、どうってことないじゃないか(何ともなやのう)。この世は、夢幻で水の泡のように儚いものだ。でも、どうってことないじゃないか(何ともなやのう)。そんな真面目くさって辛気臭い顔しないで(何せうぞ くすんで)。この一生は夢のようなものだ。狂ったように生きていこうよ。
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こんな感じで受け取りましたね。
夢の中へ入りながら、それを空しい・虚無ととらえるより、『一期は夢よ ただ狂へ』からは、わしはもっと力強い、生への肯定を感じ取りました。
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◆【3】夢と現のあわいへ
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この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする。
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『【1】夢の外へ』『【2】夢の中へ』の大きな振幅の振れの結果、夢の外でもなく、夢の中にのめり込むのでもない、その狭間で揺れ動くありのままを受け入れようという方向性へと進む。
■吉田兼好『徒然草』
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『徒然草 下』第百三十七段
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思ひかけぬは死期なり。今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
しばしも世をのどかに思ひなんや。
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■ありがたき不思議
『ありがたき』とは、原義では「有り難い」「ありにくい」という意味で、「あり」ではあるが、いつでも「なし」に転じうるアヤフヤで不安定なもの。ただ、それでも「ある」という不思議さ。それは、『イマ、ココ』に生きている不思議さにもつながる。
吉田兼好は、『徒然草』において、死とは生の向こう側にあるものではなくて、生の後ろに常にへばりついているもので、生きながらにして既に死が溶け出していると書いている。
⇒徒然草 百五十五段『死は前よりしも来らず、かなて後ろに迫れり』
吉田兼好がいうところの、無目的な「つれづれ」な状態の意味。
それは、今、こうして生きている「ありがたき不思議」をしばし楽しむこと、そのもの自体が「つれづれ」であると。
彼が否定しているのは、何かの目標や目的のために頑張るという方向性。そのことで、今生きていることが、がんじがらめに縛られること。
「頑張る」とは「頑なに張る」状態を指す。そのことで、ものが見えなくなる。それを兼好は否定している。
現在を目標や目的で縛らず、手ぶらになり、無目的に生きること。
それは、すべてを遊びとして、キャッキャと遊ぶような状態。
そういう生き方が、、『イマ、ココ』に生きている不思議さや、ありがたき不思議さを生きることができるのではないかと。
そして、そういう状態は、「あり」でもなく、「なし」でもない。
そんな「夢と現のあわい」に生きる状態。
それが吉田兼好がいうところの、「つれづれ」のようだと、自分は感じ取った。
■幽玄
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『徒然草 下』第百三十七段
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花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。
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直接に月を見上げて愛でるのではなく、雨に降られて見えない月を想像することにこそ、情緒があると説く。そこから、「幽玄」という日本人の美意識がつながるとあった。
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鴨長明『無名抄』
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「詞に現れぬ余情(よせい)、姿に見えぬ景気なるべし」
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「幽玄」は、上のように定義されている。
言葉にはっきり言ってしまわないところにある余情であったり、姿にくっきり見せない気分や雰囲気にある美意識のこと。
これは、上で引用した『徒然草 下』第百三十七段の美意識でもある。
■最後に
他にも膨大な引用があって、すごく面白いんだけど省略。
【1】夢の外へ、【2】夢の中へ、【3】夢と現のあわいへから描く、儚さや無常観を丁寧に書いた本だった。最後に、この本で引用されていた、新井満『自由訳 般若心経』と、志賀直哉『ナイルの水の一滴』(→86歳の時に書いた最後の作品)という文章を引用して、このブログのトピックを終わりにします。感じることは、皆様に委ねますね。
今回も、長くなってしまった!(笑)
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◆新井満『自由訳 般若心経』
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この世に存在する形あるすべてがつかのまであるからこそ、ついさっきまで存在していたものが滅び去った次の瞬間、様々なものが、この世に生じてくるのだよ。
あたかも何もなかったあの大空に、再び様々な形をした雲が、湧き出てくるようにね・・
・・・・・・・
つかのまの存在ではあるけれど、あなたは意味もなく、この世に生まれてきたわけではない。
無数の様々な原因と条件が寄り集まって、生まれてきたのだ。
つまり、生まれる意味があったからこそ、あなたは生まれてきたのだ。そのことを思うと、不思議な気分になるね・・・。
・・・・・・・
実は、あなたのいのちとは、宇宙大河の一滴のことなのだ。わずか一滴ではあるけれど、その一滴がなければ、宇宙大河はついには成り立たない。
・・・・・・・・・即ち、あなたとは、宇宙そのものなのだよ。
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◆志賀直哉『ナイルの水の一滴』
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人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数え切れない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば悠悠流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかも尚その私は大河の水の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ。
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