Facebook斉藤 一治さん投稿記事 栄枯盛衰
「栄枯」は草木が茂り盛んなことと枯れしぼむこと、つまり根に還ること。
盛衰も同じで、外見は違うかも知れませんが、本質は変わりません。循環は宇宙の法則の一つ。小樽は北海道で、札幌よりも早く栄えた港街です。斉藤の父方の祖先は、秋田から、長男坊でありながら子供二人を抱えて逃げるように、新天地を求めて上陸したのが小樽です。
これも、天の采配で必然。お陰様でにて斉藤は北の大地で身体を授けられました。
生まれてたまま あるがままで すばらしい
Facebook木村 正治さん投稿記事
天地人・・・。全てはそこに尽きると思います。人は天と地の間に生きる。
天の下において地に立って生きていく。流れる悠久の時間。その時間の中に幾代もの栄枯盛衰
と諸行無常が繰り返されていきました。
どのような物事にも永遠はなく、必ず時が来れば明るみになります。
さて、世の権力とはどのようなものか。長らく一般大衆を支配してきたのは
・イギリス王室・日本皇室・バチカン法王庁です。
しかしそれらの「組織」より更に上位から無尽蔵に近いマネーの力で動かして人々を
間接支配してきた存在がありますね。そうです。金融支配階級です。
もっと言えば金融支配階級の中のロスチャイルド家と一族でした。
第一次世界大戦や第二次世界大戦はいわゆる金融支配階級による世界戦争ビジネスだったわけで、何も知らない各国の政府以下あらゆる立ち位置の人々は純粋に立場に別れて殺し合いをさせられたのでした。
その繰り返しの中で世界秩序を作り直しては金融支配階級は巨万の富を得てきたのです。
日本の天皇も第二次世界大戦においては更に上位の金融支配階級から世界戦争ビジネス
のスポンサーをさせられた、というのが真相でしょう。
金融支配階級は本来ならとっくの昔に総仕上げとしての第三次世界大戦を起こして世界統一政府を傀儡として作り全てを一元化の下で人類を完全支配したかったのですが、1960年代から・ケネディ大統領・プーチン大統領・トランプ大統領が奇跡的に現れ、その邪悪な企みが阻止もしくは回避されてきました。
今はウクライナにてプーチン大統領がナチスウクライナやNATOを通じた第三次世界大戦の
勃発を防ぎ続けています。
勿論、プーチン大統領やトランプ大統領がトップなのではなく更にその上位に位置する
存在が背後から支えているという事は改めて言うまでもない事です。
イギリス王室や日本皇室、バチカン法王庁より上位にいたロスチャイルド家ですが、もともとは若き銀行家だったのですが、そのロスチャイルドを金融支配階級になるまでに育て上げたのがドイツ公爵のヘッセン大公でした。上には上がある、ということです。
金融支配階級のロスチャイルド家とて男爵です。
人の世に示し得る階級としては、上位から
・王族・公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵そしてその下位に卿があり、更にその下位が
セレブ等ですね。上には上があるのが世の中です。
私達一般国民はまるで微生物みたいな存在です。が、しかし、微生物こそが世の中の環境を
維持していますから逆に言えば微生物が存在しなければ地球は維持できません。
私達一般国民はそのような微生物のように不可欠な働きをすれば良いと思います。
微生物が存在するからこそ地球は機能します。
ですから私達一般国民は微生物のように存在すれば必ず世の中は改善していくものと思います。全ては栄枯盛衰、諸行無常です。永遠はありません。どのような絶大な権力や支配者にも永遠は存在しません。全ては悠久の時の流れの中に炙り出されては変わっていくものと言えます。自然の摂理に従って魂が燃焼するように生きていけばそれで良いと私は思います。
全ては諸行無常。
https://kowkinsblog1973.fc2.net/blog-entry-927.html 【「枯野の初時雨」】より
待つ春や氷にまじるちりあくた ( 智 月 )
和歌三首
冬の野に梅の芽いまだかたけれど この日この時おしみて歩む
彼の人も美に灯の心持つ 明日の浄土は我らが開くと
春隣り死の無き国に顔むけて 枯草を踏む今日の一歩か
俳句七句
一月や未だ色無き天もあり 老猫と吾が心琴に冬深し
街路樹の歌を聴いては春を待つ 冬晴れの鎌倉駅の中国人
初時雨きのうを忘れ降りしきる 枯山の枝は霞を纏いけり
大山の眠りて星も整列す
( 以上、「枯野の初時雨」、)
(略)
~編集後記~
さて、1月20日に、トランプ大統領が就任されました。ここではその就任演説を掲示しています。どうぞ、ご覧ください。
この10年間ほど、SNSとYOUTUBEなどの、所謂、「ニューメディア」の世界では、陰謀論といわれる、一連の情報が、広くながれ、新しいリアリティーを提示してきました。おそらく、この新しいリアリティーは、これから、日本でも、テレビ・新聞といった、「オールドメディア」の世界でも、段階的に共有されてゆくと、感じています。
これからは、情報リテラシー、デジタルリテラシー、といった、各人一人一人の自己責任における、情報の扱い方の熟達、が、必要になる時代です。テレビと新聞、また、ネットが言っているから、また、行政と政治家が言っているから、と、なんでも、すぐに「真に受ける」姿勢は、非常に危ない、生活の判断ミスを生み出しかねません。
しかし、「知っていればいい」というような、安直な事態ではなく、あくまでも、デジタル情報ではない、アナログ情報、すなわち、現実の風景の美を感じる時間と、現実の隣人との交友といった、「現実」を品よく、柔らかく、大事にして、
そのうえで、細やかな、情報世界との、分析的作業の蓄積が、要求される時代であるな、と、感じます。
自由と自己責任が表裏一体であることは、未来永劫の天地の節理です。情報に騙された、と、あとでいい訳や、責任転嫁できる、時代ではありません。
歴史の学び、心の学び、魂の学びを、一人でも多くの人々が、ゆったりと弛まずに積み重なて、正しい判断力を、鍛えてゆく、必要があります。
どんな情報も6割信じて4割疑う、といったバランス感覚で、向き合い、自己の世界観の構築に、責任をもって取り組む必要があると、申し上げます。
さて、私は、この社会の激変に、立ち合いながらも、和歌・俳句・ポエムの「美の力」をもって、現代社会という、大鍋に、気持ちの良い「うま味」を注ぎ続けたいと、思っております。
この日本国の詩歌の世界は、人間の心理的な栄養に富んでいます。多くの方々と、日本の文化的遺伝子の恩恵を、分かち合っていきたいものです。
励んでまいります。
どうぞ、皆々様の御意見・御感想を、このブログのコメント欄にお寄せください。宜しくお願い申し上げます。
あ~う~わ~ あ~う~わ~ あ~う~わ~
とほかみえみため~ あいふへもおすし~
あ~お~う~え~い~
天皇弥栄・世界平和・万民豊楽を、誠心を込めてお祈り申し上げます。
https://www.bunshun.co.jp/mag/ooruyomimono/hosomichi/haiku/ichinoseki.html 【夏草や兵どもが夢の跡】より
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
平泉は奥州藤原氏が繁栄を築いた地。兄・源頼朝に追われた義経は、藤原秀衡のもとに身を寄せる。しかし秀衡の次男・泰衡に襲われ30年の生涯を閉じた。芭蕉が訪ねる500年ほど前のことである。
義経の居城であった高館(たかだち)に登った芭蕉は、簡潔かつ雄大に、平泉の歴史と地勢を描写してみせる。
三代の栄耀(えいよう)一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
芭蕉が杜甫の影響を強く受けていたことは、広く知られている。奥州藤原氏の三代を一睡(一炊の夢)と描き、城にこもった義経の忠臣らは一時の叢と記した。多から一へ、複数と単数を対比した表現方法も、いかにも漢詩的な素養を感じさせる。
ところで、芭蕉が詠んだ夏草の風景は、猛暑だったのだろうか。冷夏だったのだろうか。
芭蕉と曽良が一関にたどり着いた5月12日は、新暦の6月28日にあたる。気象庁の統計では、一関の6月の最高気温は平年値23.1度で東京の5月に近い。しかも江戸時代は、地球全体が寒冷化した「小氷期」と呼ばれる時代だったので、さらに1~2度は低かったと考えられる。
むせ返るような草いきれというよりは、寂寞とした夏の風景ではなかっただろうか。
https://kangaeruhito.jp/article/3592 【分け入っても分け入っても日本語「わび」「さび」】より 著者: 飯間浩明
日本文化の精神を語る上で、「わび」「さび」という用語ほど、重要で、しかも意味のよく分からないことばはありません。日本人であっても、「わび」と「さび」がどう違うのか、明確に説明せよ、と言われたら困るでしょう。
意味が不分明なために、たまに謎の用法にもお目にかかります。
〈「ホームページを立ち上げる」なんていう物言いには、どこか「茶の湯の炉に火を入れる」みたいな、無機的なモノをむりやりワビサビを効かして表現してみました……というような、アンバランスなおかしみが感じられる〉(『週刊文春』1996年7月25日号)
昔の雑誌記事です。「すしにワサビを利かせる」なら分かるけれど、「わび」「さび」というのは、はたして利かせられるものなのか。ここで言う〈ワビサビを効かして〉は、単に「風流に」ぐらいの意味でしょう。
あるいは、男性タレントが、ツクツクボウシの鳴き声について説明した時のこと。鳴き声がイントロ・サビ・エンディングに分かれると言って、こう続けました。
〈ものすごい、こう、ワビサビがはっきりした鳴き声を持つという……〉(NHK「あの日あのときあの番組」2017年7月9日放送)
歌の聴かせどころを「サビ」と言いますが、それ以外の部分を「ワビ」と言うのか。言わないでしょうね。ここでは「めりはり」の意味で使っているようです。
いや、笑えませんよ。私たちも、「わび」「さび」がどんな意味か、はっきりとは分からずに使っています。
「わび」と「さび」はどう違うのか。文学辞典の類を見ても、よく分からない記述が目立ちます。たとえば、こんな具合です。
〈「さび」とは閑寂の趣を帯びるに足る長い時間の経過のなかで、無限に自己自身にかかわっていって「わび」「寂寥せきりょう」に徹した人が、そこから四囲をふり返ってみたとき、すべての物が虚仮の相を剥はがされてその本質を顕現させる、そのことを「さび」ということになろう〉(『’88五訂増補版 文芸用語の基礎知識』)
――さっぱり分かりませんね。これでは、ことばの意味の説明とは言えません。
「わび」「さび」を文学的、芸術的に説明しようとすると、つい難解な表現になるようです。〈わび(侘び)は〔略〕簡素閑寂の心境に至ろうとする美的理念〉〈さび(寂び)は〔略〕静寂枯淡に洗練された情緒をこころざす美的理念〉(『俳句用語の基礎知識』)のように、「閑寂」「枯淡」などの語を使った説明も多く目にします。でも、その「閑寂」「枯淡」が分からない。かえって難しいことばになっています。
一般人としては、ある茶器や俳句、絵画、庭園などを表現するとき、「わび」と言えばいいのか、「さび」と言えばいいのか、それが知りたいわけです。実際の生活で使えるように、「わび」「さび」の違いを説明することはできないでしょうか。
確実に言えることは、「わび」は「わびしい」「わび住まい」などの「わび」と共通し、「さび」は「さびしい」の「さび」と共通するということです。つまり、ざっくりと、「わび」は「わびしい感じ」、「さび」は「さびしい感じ」と解してかまいません。
ただ、それだけでは、意味の限定が非常に緩くなってしまいます。たとえば、友だちがいなくてさびしいという気持ちは、「さび」ではありません。
「わび」は、特に茶道で重んじられることばです。江戸時代初期の小話集「醒睡笑せいすいしょう」などに、千利休が「わび」を説明するのに使ったという和歌が紹介されています。
〈花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春をみせばや〉
藤原家隆の歌です。「桜の花の咲くのだけを待っている都の人に、わびしい山里の雪の中から萌もえ出る草の春を教えてやりたい」ということ。
ここには、「わび住まい」と言う場合の「わび」の感じが強く出ています。「わび住まい」とは、わびしく住んでいること、言い換えれば、豊かな蓄えもなく、ひっそりと住んでいることを言います。作者は、華美な生活を離れて、質素に暮らす様子を詠みながら、その暮らしの中に味わいがあることを表現しています。
つまり、「わび」をひとことで言えば、「質素でさびしい中に感じられる味わい」ということです。
一方、「さび」は、特に俳諧で重んじられることばです。松尾芭蕉ばしょうの門人・向井去来きょらいの「去来抄」の中で、「さび」がどんなものかが説明されています。
去来によれば、「さび」とは単にさびしいだけではありません。老人が、たとえ戦場で派手に戦ったり、立派な着物を着て宴席に座ったりしていても、そこには隠しようもなく老いた姿がある、それが「さび」だと言うのです。
「去来抄」では〈花守はなもりや白き頭かしらを突き合はせ〉という句が紹介され、松尾芭蕉が「この句に『さび』の色彩がよく表れている」と言ったと記されています。
句の意味は、満開のきれいな桜の下で、花の番人同士が白髪頭を突き合わせて何か話している、ということです。華やかなものとの対比で感じられる、老い果てた者たちのものさびしい感じ。これが「さび」です。
つまり、「さび」をひとことで言えば、「古びてさびしい中に感じられる味わい」ということです。
「わび」も「さび」も、さびしい中に感じられる味わいを指します。ただし、「わび」は質素、「さび」は古びているという要素が、それぞれ特徴と言っていいでしょう。
飯間浩明
国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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