夢と実存

http://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2022/09/post-a5735b.html 【L. ビンスワンガー/M. フーコー『夢と実存』(1)】より

 コロナ第七波もようやく収まりつつありますが、まだ油断はできません。先日、居合の演武会のため日光に行く妻を見送りに北千住の駅まで行って来ました。一緒に行こうと誘われたのですが、演武には興味ないし、日帰りではろくに観光もできないので、東武の特急電車には乗りたかったが、断ることにしました。帰りは東武の牛田駅から京成の関屋駅経由でしたが、その日の夜に母親の夢を見ました。珍しく化粧をして、きれいな着物を着て、いつものように私の名を呼んでいるのです。おそらく、北千住の一つ先が西新井だったこと、そしてその日が21日で定例のお大師さまの日だったからでしょう。そういえば西新井大師も墓参りもしばらく行っていません。

 最近、世界的な有名人の死のニュースが多い。ゴダールが91歳でスイスで安楽死。ゴダールは好きでないし、ヌーヴェルヴァーグの映画は面白くありません。やはり91歳で死んだゴルバチョフ。彼については今年の正月の記事で書きましたが、奥さんに先立たれて、なお25年生きねばならなかった晩年は不本意であり不如意であったろうと思います。エリザベス女王の死。崩御と言うべきか。彼女の凄いところは女王になるべく生まれるという並外れた運の良さで、ただそれだけの女性です。時代の流れか、あからさまな身分差別である王室制度も少しずつ変革の兆しが見られるようです。山上某の暴挙。義挙というべきか。壮挙というべきか。

 ところで、神田古書会館の愛書会に行ってきたのですが、エミール•シュタイガーの『音楽と文学』を見つけて、値付けがないのでひっくり返していたらその棚の店主らしき老人が来て、「値段のついてない本があったら言ってくださいね」と言ったので、「この本はいくらですか?」と聞いたら、少考して「800円です」とのこと。それで、棚に戻そうとしたら「600円でもいいですよ」といきなり値引きしてきました。何となく買う気がなくなって、結局、その日は、ビンスワンガー『現象学的人間学』(みすず書房カバーなし300円)と日夏耿之介の訳したフランシス•グリーアスンの『近代神秘説』(牧神社箱入り初刷500円)だけ買ってきました。日夏耿之介の詩は素晴らしいが散文は読みにくくて感心しない(だいたい詩人の書く散文は面白くない)のですが、これは渾身の翻訳、持っていて損はありません。『現象学的人間学』は、昔高くて買えなかった本、ところが表紙を開いてびっくり、献辞が「エミール•シュタイガーに捧ぐ」となっています。ビンスワンガーもシュタイガーもともにスイス人、『現象学的人間学』にはスイスの代表的な作家ゴットフリート•ケラーやイェレミナス•ゴットヘルフの夢の症例なども紹介されています。

 さて、『現象学的人間学』ですが、ルートヴィヒ•ビンスワンガー(1881~1966)が1947年スイスのベルンで出版した著作で、7編の論文と講演からなっています。その中でもっとも著名なのは『夢と実存』ですが、この論文がミシェル•フーコーの序文を付してデクレ•ド•ブラウエル社から刊行されたのは1954年で、フーコーが28歳のときでした。以下、D•エリボンの『ミシェル•フーコー伝』(田村俶訳•新潮社)を参照しながら当時の状況を振り返ってみましょう。

 ミシェル•フーコー(1926~1984)はフランス西部の地方都市ポワティエで生まれ育ちました。ポワティエの高等中学にいた時、母親が息子の進路について教師に尋ねると、「逆に聞きますけど、この町のどこかの学校から高等師範に合格した生徒なんてご覧になったことがありますか?」と単刀直入に質問されました。それを聞いて、母親はすぐにミシェルをパリに旅立たせ、パンテオン広場裏にある名門アンリ四世校に入学させます。木底の靴を履き野暮ったい服を着た田舎の少年は、パリのブルジョワの子息の多い学校の中では異様でした。しかし、実家は裕福な地方の外科医だったので、ミシェルはラスパイユ通り近くに賃貸を借りて、仲の良い姉と暮らし始めます。アンリ四世校で、ヘーゲル『精神現象学』の翻訳者であるジャン•イポリットの講義を聞いて感動し、はじめて哲学に目を見開かせられました。2年にわたる猛勉強の末、高等師範の定員38名中4番の成績で合格します。

 高等師範では主に心理学に興味を持って研究を深め、28歳で講師となり授業を持つようになりました。その頃、フーコー家の積年の知己で、パリに住んでいるジャクリーヌ•ヴェルドーという心理学者がいました。彼女はローラント•クーンというスイスの精神科医の書いた『仮面の現象学』という本の翻訳を企て、スイスにクーンを訪ねます。クーンは不思議がって、「私の本よりもここから3キロ先に住んでいるビンスワンガーの本をなぜ翻訳しないのですか?」と尋ねました。それで、ジャクリーヌがビンスワンガーを訪ねると、ビンスワンガーは彼女に数多くの質問をした後、決心し、書棚からフランス語で出したいと思っていた論稿『夢と実存』を取り出しました。ジャクリーヌは、早速その本を携えてパリに戻りますが、哲学用語が頻発するので、懇意のフーコーに翻訳の手伝いを頼みます。こうして高等師範のフーコーの研究室で毎日のように共同の翻訳が始まりますが、単語の選択などの質問のため、何度か二人でスイスに出向いたりしました。翻訳が仕上がると、本文の2倍近い長さのフーコーの序文を添えてビンスワンガーに見せに行きました。ビンスワンガーは、本文にも序文にも満足しましたが、問題は出版社でした。ビンスワンガーの名はフランスではまだほとんど知られていず、フーコーに至っては全く無名でした。しかし、ジャクリーヌの必死の説得で、この本は1954年についに日の目を見ることになります。ちなみに日本では1960年にみすず書房から翻訳刊行されましたが、まだフーコーが海の物とも山の物ともわからない時代で増刷もされずに忘れ去られたそうです。

 (2)ではビンスワンガーの本文とフーコーの序文について管見ながら紹介して行きます。なお、昨日のルモンド紙に歴史家ポール•ヴェーヌPaul Veyne が9月28日に92歳で亡くなったという記事がありました。ヴェーヌはフーコーより4歳年少で親友でした。フーコー同様コレージュ•ド•フランスの教授でもあり、主に法政大学出版局から『差異の目録 歴史を変えるフーコー』などたくさんの邦訳も出ています。


http://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2022/10/post-2ead0c.html 【L. ビンスワンガー/M.フーコー 『夢と実存』(2)】より

 早いもので、もう11月も近い。今年はいろいろあったが、コロナは別として、やはりウクライナ侵攻と安倍元首相銃撃が歴史に残る出来事でしょう。多彩な民族的魅力に満ちたロシアという国が今や国家的存亡の危機にあるのです。そういえば、私の親戚にもロシア人が一人いたなあ、話したことないけど。山上徹也は結果的に救国の人となったが、後世は彼をいかに評価するのでしょうか。

 急に寒くなって、体調が万全ではない、というより冬を上手く越せるか心配です。なんとか平均寿命まで生きたいが、仲本工事の例もあり、日常生活が常にもっとも危険と言えます。私も、退院して後の最初の診察日は妻に同行してもらったが、2度目は一人で行って危うく死にそうになりました。病院近くのスクランブル交差点を渡っているとき、毛糸のベストのポケットに入れていた千円札が落ちて、風の強い日だったので、舞うように飛んで行った。慌てて追いかけたが、少しのところで捕まらず、そのうち信号が変わって、車が一斉に走り出して来た。千円札を追いかける私の直前で、何台も急ブレーキをかけて止まり、折よく近くにいた交通指導員の人に助けられました。結局、千円札は、交通指導員の人が川岸まで降りて探してくれたが見つかリませんでした。轢かれて死んでもおかしくなく、妻に話すと叱られるので、このことは2年ほど経ってから話しました。

 最近は(当然ですが)女優やアイドルなどに全く興味がなくなり、乃木坂や団子坂など上昇志向の塊のような少女たちを見るのは辛い。アマゾン•プライムで、妻と『リコ•リコ』や『スパイ家族』を全話見ましたが、2次元のアニメは、人物が奔放に動き回って楽しい。やはりアマゾン•プライムで『ロード•オブ•ザ•リング』三部作をもう一度見ましたが、以前観た時は眠ってしまっていたので、やっとストーリーがわかりました。たぶん、その影響でしょうが、妻が先日見たという夢が面白い。エイリアンが襲撃して来て、猫のルーミーを連れて必死に逃げ、やはり隠れている人たちと協力してエイリアンと戦うというのです。

 夢といえば、『夢と実存』の続きですが、正直何を書いていいかよくわかりません。低脳な自分を差し置いて偉そうに採点しますが、ここに収録された本文であるビンスワンガーの論文を85点とすると、その2倍以上のフーコーの「序論」は62点といったところでしょうか。ビンスワンガーの本文は、単刀直入に落下と上昇についての古今の表現から始まって、その劇的な顕現である夢の分析、さらにギリシャ人における夢の解釈、最後は濃密な結論に誘う簡潔だが一貫した論稿。対して、フーコーは、夥しい引用、なくもがなの寄り道、難解すぎる理論展開、そして唐突な結論に至ってしまうまとまりの無さ。フーコーはアグレガシオン(大学教員資格試験)を受けるとき、友人たちは楽々上位の成績で合格するだろうと思っていたのですが、予想に反して不合格でした。その理由は彼の衒学癖(余計な知識の披露)にあったということですが、アドルノも言っているように、知識はそれをを隠した方が文に深みを与えるのです。という私も引用が好きで、フーコーが引用しているフランツ•フォン•バーダーやカール•グスタフ•カールスなどの名前も興奮するのですが、ビンスワンガーも負けじと、ルネ•ゲノンやレオポルト•ツィーグラーなどに言及しています。

 さて、まず、ビンスワンガーの『夢と実存』から。われわれが熱情的に期待している時、その当のものにあざむかれ、世界が全く別様に見えるようになる時、ずっと後になって、その時を回想して、「稲妻に打たれて落下したようだった」などと言ったりはしないでしょうか。あるいは、望みが絶たれたと思っていた異性から、予期せぬ承諾の返事が来た時など、「天にも昇るような気持ちだった」などと言ったりしないでしょうか。不幸な時に落下し、幸福な時に上昇するこの「われわれ」とは一体何者なのでしょうか。「われわれは上昇し、落下する現存在である」とビンスワンガーは書いています。「われわれの現存在の落下と上昇のこの同一の根底が、魂の昇天と肉体の現世の苦しみに関する宗教的、神話的、詩的な表象をもすべて支えているのだ。」

 現存在とは、物の存在でなく人間の存在を表し、その人間存在とはハイデガーによって、存在することを意識せざるをえない存在、世界の中に投企され、不安と気配りを余儀なくされ、死に向かって立ち向かい、時間=歴史という舞台の上を生きるものと指摘された存在なのです。

 「ここで今われわれは、夢の領域の戸口にいる」とビンスワンガーは書いています。上昇し、下降する現存在としてのわれわれは夢の中で、むろん実際に落ちたり昇ったりもするのですが、しばしばわれわれの人格化として鷲や鷹、あるいは鳶や禿鷹として姿を表します。これらは、また、多くの神話的伝承や詩人の紡ぐ詩句の中に繰り返し現れてもくるのです。

 ビンスワンガーはゴットフリート•ケラーの日記の中に書かれている夢を紹介しています。第一の夢。大鷲が空をゆっくりと飛翔している。堂々とした鷲で、頭には王冠をのせている。家のすぐ近くまで近づき、自分は慌てて、隣の部屋から銃を持ち出し、大鷲が家に侵入しようとするところを撃った。大鷲は撃たれて落ちてきたが、床に落ちたのは黒い紙片だけだった。自分はそれを見て不気味な気持ちにおそわれた。第二の夢。今夜は鳶の夢を見た。素晴らしく美しい鳶が病気で弱っているらしく、上がったり、降ったりしながら、ふらふらと自分の家の方へ、まるで助けを求めるように飛んで来た。すると、町の人たちがトンビにむかって石を投げたり、箒でたたいたりして、鳶を地面に落とした。一人の子供が鳶を取り上げてその羽をむしり、人びとは足で踏みつけてゴミ捨て場に放った。自分はそれを見て悲しい気持ちになった。

 この2つの夢に続いて第三の夢が語られます。すらっとした少女がカーネーションの花束を抱えて来て、3シリングで買ってくれと言った。ポケットを探ると2シリングしかなかったので、この細いシャンパングラスに入るだけ2シリングで売ってくれと言うと、少女は「まあ、任せてくださいな」と言ってカーネーションを一本ずつグラスに挿していった。自分はその優美な手つきにすっかり夢中になった。グラスがカーネーションでいっぱいになると、少女は「思ったより少なかったから2シリングでいいわ」と言った。すると薄い色のカーネーションが見る間に燃えるような真っ赤な色になって、自分は幸福な気持ちに満たされた。

 夢の中であらわになる現存在は、一定でもなく、安定してもいません。つねに浮遊し、上昇し、下降する波動周期の表現であり、それは心像(イマージュ)自体の気分内容によって転変します。「素晴らしく美しい鳶」が「汚らしい小僧や粗暴な人たち」に羽毛をむしりとられて殺され、無造作に捨てられた後で、ふたたび新しい波動が昇って来ます。だが、今度の波動は上昇や下降の心像を生み出すのでなく、むしろ、強烈な色彩と心地よい香りをもった花、すらりとした愛嬌のある少女、きらきら輝くシャンパングラスなどを生み出し、これらすべての心像を幸福な光景へ結びつけます。そしてこの光景は、狼狽と不安に脅かされながら、勝利によって貫かれています。

 また、こうした夢は自伝的長編小説『緑のハインリヒ』の最後近くにみられるゴットフリート•ケラーの素晴らしい故郷の夢を思い起こさせます。この夢は、その長さと事物の細かな描写で驚くべきものでしょう。主人公のハインリヒは、異国での画家修業に疲れ、自らの才能の無さに消沈し、下宿で燻っています。折から故郷の町から新婚旅行に来ていた知人と遭遇し、懐かしい故郷の話を聞き、病気がちな母親がハインリヒの帰郷を首を長くして待っていることを知らされます。その夜にハインリヒは故郷の夢を見たのです。

 彼は豪奢な鞍を置いた金栗毛の馬に乗り故郷の町に向かいます。町では家々の灯がつき、楽しい団欒の光景が見えます。突然、ハインリヒは、自分の服装がみすぼらしいことに恥ずかしさを覚えます。するとアメリカに去ったはずのユーディットが現れて、二人でアップルパイを競うように食べます。彼女が消えた後、16歳で死んだ美しいアンナが出てきて、ハインリヒを彼女の家に招待し、素敵なご馳走を食べさせます。場面は展開し、ハインリヒは鷲や鷹のように大空を飛び、故郷の山、川、湖、青々とした森林を見下ろします。遥か下に洗濯をしている母親が見え、ハインリヒに気づくと、手を振って呼んでいるようです。

 『緑のハインリヒ』はスイスの少年ハインリヒがドイツに絵の修行に行く話ですが、全編ロマンティックな悲しみに満ちています。父親は早くに死に、兄弟姉妹もほとんど死んで、母親はハインリヒのために貧しい暮らしから必死に仕送りの金をしぼりだします。しかし、画業は実らず、ほとんど一文なしで故郷へ帰ります。娘たちとも出会うが、すべて成就せずに終わります。清純なアンナは若くして病死し、年上の官能的なユーディットはアメリカに移住し、伯爵の娘ドロテーアは異国の貴族と結婚してしまいます。故郷の家では母親が病死し、この小説の旧版ではハインリヒも自殺して終わります。しかし、実際のケラーは、文筆で身を立て、故郷の土地の郡長にまでなりました。友人たちの勧めで書き直した新版(現在の版)では、尊敬され、穏やかな晩年を送る幸福な姿が描かれます。新版では、何とユーディットがアメリカから戻って来て、二人は愛し合う友人として暮らします。

 実は、高校時代に『緑のハインリヒ』を通読したのですが、すっかり忘れているだろうと思っていたが、覚えている箇所が多いのに驚きました。14歳の時に、こっそり描いていたアンナの肖像画を他の女子に見つかって、好きだったことがバレるところ。また、精神病を患って貧乏な絵の先生から強引に貸した金を返却させたこと、その冷酷な行為をユーディットにきつく意見され、「でも、あたしはあんたを嫌いになれないわ。だって、ありのままの人間を愛することができないくらいなら、いったいどこに生き甲斐があって?」と言われるところ。しかし、『緑のハインリヒ』はこの時代に読むにはあまりに冗長すぎます。ケラーの真骨頂は『ゼルトヴィラの人びと』を含む短編小説群でしょう。

 『夢と実存』の後編はギリシャ人についての考察から始まります。古代ギリシャ人たちにおいては、夜と昼、大地と太陽、暗く陰鬱な曖昧な夜の国と、明るいアポローンの王国との対立が知られていたのですが、夢自体は夜と大地の領域に属しており、従って、祭祀的夢判断や神託は古い大地の神ガイアの勢力範囲にあったのです。しかも夢は、煩瑣な儀式なしに、直接神の意志を告知すると考えられたので、ペーネロペーアの夢の中で、一羽の鷲が飼い慣らされた鵞鳥の中に舞い降りて、その全部を屠り殺すとき、詩人も読者もこれが夢見る女性のこころの中で起こったこととは考えなかったのです。つまり、それはヘレネーの未来への暗示で、オディッセウスが故郷に帰り、求婚者たちを殺害するしるしと見てとったのです。

 しかし、このギリシャ人の深部にある夢と神託、つまり夜の国への忠誠は、時代とともに晴明なアポローンの世界に侵食されていきました。この役割の中心を担ったのがロゴスで、ロゴスは半ばダイモン的な半ばアポロン的という分裂したギリシャ人の心を神人的共同体に媒介する重要なファクターだったのです。なお、ここでロゴスは「了解」を意味しています。というのも各人は、各人に与えられている悟性を通して、共通のものの中に自分を見出す、つまり了解することによって共同体に加わることができると考えられていたからです。

 ギリシャ的啓蒙というのは、ダイモンに支配される心を明るい覚醒の国へ導こうというものでした。古くはヘラクレイトスが、その有名な断片89の中で、「覚醒者たちは、ただ一つの、しかも共通の世界を持っているが、眠れるものについていうと、各人(ヘカストス)は、自己固有の世界に向かっている。」と書いています。ヘラクレイトスにとって覚醒状態とは、私的意見(ドクサ、臆見)や主観的評価からめざめた状態であり、普遍的なるものの法則に適った生活をすることでした。ここでは全体は真であり、特殊なもの、個人的なものは誤謬のうちにあるのです。ドイツ観念論者の中で一番のギリシャ信奉者でヘラクレイトスの賛美者ヘーゲルは「われわれが全体との連関のなかにいないがゆえに、われわれはたんに夢見るのである。」と書いています。ヘーゲルによれば、「自分だけが知っている事柄に関する知」は、まさしく夢であり、しかも感情でさえ、スピノザの言葉でいえば、永遠の相のもとに認知するときにのみ、夢でなく真理のうちにあるのです。

 ところで、ギリシャ人の理想は覚醒生活にあるのですが、これはあくまで理想であって、彼らは常に半分夢見ているのです。彼らは孤独、つまり単独者を憎むのですが、合理的なローマ人は「確固たる単独者」こそ真の覚醒者であることを知っていました。繊細にして自由な精神の持ち主であり、ネロの信頼厚かったペトロニウスは、夢は神の命令によって天から送られるのでなく、各人が自ら夢を作り上げるのだと言っています。ここでは各人はたんなる神の操り人形ではなく、自身の夢を材料として行動を自由に判断できる「確固たる単独者」となるのです。キルケゴール の主体性こそ真理である、とはまさにこのようなことを言うのでしょう。「夢と覚醒とは共通の基盤を持っている。それこそ実存である。」とビンスワンガーは結論づけています。


https://note.com/joyous_mimosa341/n/n2a18176c5c2c 【人は眠り、夢を見る生き物 フーコー、ビンスワンガー『夢と実存』をヒントに】より

――詩人は夜の次元に属している(コクトー)

 「眠ること」は、私たち人間、生物にとって生きていくためには欠かせない生存のための行為である。それは、日中の活動において外界の刺激を受けすぎてしまっている私たちの脳や身体を保護するためにあり、疲労を回復するためにあり、傷ついた細胞を修復するためにあり、免疫物質を作るためにあるといったような、身体の「積極的」な活動である。

 眠りについては、ここ最近とくに重要視されているとは思うのだが、「夢を見る」ということについてはどうであろうか。われわれの日常において、この夢を見るということは、どこか消極的なものとして捉えられていないだろうか。夢を見ること=眠りが浅い、睡眠障害というイメージはありそうだ。

 実際には、浅い睡眠(レム睡眠)であろうと、深い睡眠(ノンレム睡眠)であろうと、夢を見るということが判明している。ただ、その夢を起きた後も覚えているか、まったく覚えていないかだけの違いであり、夢を見る=悪い眠りということではないのだ。

 メディア情報学者の石田英敬氏は、「夢を見る権利」だけはまだ人類に残されているが、これもまた、やがて資本主義とテクノロジーによって侵犯されてしまうのではないかと危惧を抱いている(『新記号論』)。

 夢自体をテクノロジーで操作し、個人が見る夢の傾向や夢履歴?といった「データ」を蓄積し分析することで、その個人の願望にあった広告を脳内の中に出現させたり、などという取り組みがすでに始まっているというのだ。

「夢を見ること」は、まだ権利が書き込まれていない、人間身体最後のフロンティアともいうべきものなのかもしれない。資本主義がそこに入り込んでくる前に、われわれは「夢みること」の権利について議論をしておく必要があるのだ。

 そもそも、夢は「眠っている間に、種々の物事を見聞きすると感ずる現象」であるとともに、「現実がもつ確かさが無いこと」と定義されている。では、その「現実」とはいったい何だろうか。現実には「リアリティ (reality)」と「アクチュアリティ(actuality)」の二つの区別があるとされている(木村敏)。「リアリティ」はラテン語の「res(もの、事物)」に由来し、科学で扱える現実を指し、一方、「アクチュアリティ」はラテン語の「actio(行為、行動)」に由来し、科学では扱えない現実、「科学とは別の方法をとおしてみえてくる真理」を指すのだとされる。

 哲学者の入不二基義氏は、『現実性の問題』で、現実性の力が持つ特性は「reality」と「actuality」の重ね合わせにより出現する落差の反復であるとし、「Actu-Re-ality」という造語を提案している。入不二氏の議論には立ち入らないが、私たちは通常、この世界は独立して存在しており、個々の事物は私の見えたまま感覚するままに実在しているという素朴実在論の考えに基づき現実を捉えている。

 だが、デカルトが現実にあるものを徹底して疑い抜き、確実なものは「この私」であるということを見出したが、その際にデカルトは、悪しき霊が自分に対してこの世界という夢を見させているだけなのかもしれないという仮説を立てていたのだが、「この世界の現実は私の見ている夢である」という可能性は容易に否定できないものとしてある。

 私たちの身体活動、指を曲げるとか歩くという行為、それからモノを認識したり、痛みを感じたり、寒さを感じたり、という感覚は、脳が解釈した結果である。つまり、私たちは脳が解釈した世界を現実と捉えているだけのことなので、その身体的な感覚も含めてのこの現実の世界での感覚は、脳の中で見る夢と何が違うのだろう、ということなのだ。

 であるならば、夢を見るということは、「現実がもつ確かさが無いこと」という定義自体が誤っているといわねばならない。われわれは現実がもつ確からしささえ、確実なことがいえないのに、どうして現実と夢を区別することができよう。

 夢もまた、脳の活動であり、眠るという身体活動において派生するものである。夢を見ること、またその夢自体は、現実の世界を認識することと現実で表象されることと同様に、私たち身体および精神の「現実的」な活動であり具体的な経験なのだ。

 古代人は、夢と現実の区別をしていなかった。心理学者の坂井祐円(さかいゆうえん)氏は、論文『「夢の世界は現実であり実在している」ことを認める 多元的実在論の考察』にて、古代中国の思想家である荘子の考えを引き合いにだしている。

荘子の「胡蝶の夢」の説話では、蝶になって飛んでいる夢から醒めた荘子が、「私が蝶になった夢を見ていたのか、それとも蝶が夢を見て私になっているのか」どちらなのか解らなくなったと疑問を抱くのであるが、そのように夢か現実かと区別をつけてみても仕方のないことで、天地自然の道理からすれば夢も現実もまったく同じであるとして、「万物斉同」の思想へと導いている。荘子のものの見方からすれば、夢と現実とは対立するものではなく、夢で見ている世界であっても、覚醒時に見ている世界であっても、等しく同じ価値があり、どちらも実在性をもっていることになる。

論文『「夢の世界は現実であり実在している」ことを認める 多元的実在論の考察』

「『源氏物語』の夢と方法」の川本真貴氏も、「夢は、見る人のうつつの世界を超えた客観的な現象であり、世界であり、一個の存在であった。従って、うつつの世界と同様に夢においても恋人は通ってくる‥‥万葉の時代も、夢はうつつの代償としての夢ではない。夢は、夢見る者にとってうつつと同じ重さを持つのである」と述べている。「うつつ」とは、現実の意である。

 では、夢がいつから、現実と対比させられるものになったのか。坂井氏は次のような指摘をする。

近代以前には、夢の体験は覚醒時の現実の体験と次元が異なるものではなかった。むしろ夢の体験のほうが絶大な価値をもっていたのであり、リアリティの密度は高かったのである。ところが、近代になって夢に対するものの見方が一変した。科学主義的思考によって、夢は人間の内部にある心の状態、そして脳内の現象へと押し込められていく。 フロイトの『夢診断』が刊行されたのは 1900 年であるが、ここでは夢は心の深層にある無意識に抑圧された欲望や欲求が象徴的に表れたものとされ、夢を見る人の心の状態と不可分であると考えられている。また、アセリンスキーとクライトマンによってレム睡眠と夢との関連が実験的に証明され、睡眠科学の幕開けとなったのは1953年のことである。

論文『「夢の世界は現実であり実在している」ことを認める 多元的実在論の考察』

 近代以前、夢は現実と変わらないくらいに重要なものであった。それは神に通ずる、死者に通ずるといったような霊的な世界との行き来などをも意味していたのかもしれないが、夢みる主体自体はその夢の中において、主体として振る舞うのみであり、霊的世界をただ生きるのである。

 柄谷行人氏は「夢の世界」(『意味という病』所有)において、次のように説明する。

われわれは夢を見るという。こういう表現は正しくないので、われわれは夢のなかでは何も見ていない。見るとは「距離」をおくことだが、距離がないということが「夢の世界」の特徴なのである。しかし、われわれは眼ざめたとたん距離をおいて「夢の世界」を見る、つまり外側からそれを見る・・・小林秀雄は次のように書いている。

 観察とはすべて事後の観察である。観察によつて知る代りに、生きて知る 

 という心掛けで眺めるなら、人生には在りさうもない事だけが起つてゐ

 る。(『ペスト』)

要するに、われわれがふつう夢と呼んでいるのはすべて「事後の観察」である。夢の世界ではわれわれは文字通り夢中に生きているのであって、しかも生きていることとそれを眺めることに何の乖離もなく生きているのだ。

『意味という病』「夢の世界」柄谷行人(講談社文芸文庫)

 夢のなかで、私たちは夢中に生きているのであり、現実の世界において私たちが主体的に行動することとの明確な区別はない。私たちは夢から醒めてはじめて夢だったと後から認識するが、現実世界とて、行為や出来事は常に<今ここ>として生成し、主体はその中に没入しており、認識は遅れてやってくる。

 それゆえ、私たちは現実においてさえ、見ることの「距離」を奪われてしまうくらいの強烈な体験においては、その現実を「夢のように」感じるのである。柄谷氏は言う。もしこの「距離」が奪われたのであれば、「夢の世界」と「白昼の世界」にどんな違いがあるのだろうかと。カフカの小説に夢のような雰囲気を与えているのは、カフカが夢を書いているからではない。「距離」を奪われた現実を書いているゆえ、カフカの小説は現実とも夢ともつかぬ「リアリティ」を持っているのである。

 現実に映り込むものと、夢に映り込むという「表象」は、どちらも人間身体の脳が持つ「力」であり、主体が経験する「リアル」である。そうであるならば、現代のわれわれもまた、「夢を見る」ということを、もっと積極的なものとしての捉え方ができるはずなのである。

 フランスの哲学者、先日「パノプティコン」がSNSでバズっていたミシェル・フーコー(1926‐1984)もまた、『夢と実存』(みすず書房)において、夢と想像力の可能性を説く。「夢と実存」自体は、夢を通して現存在分析の重要性を説いたビンスワンガーの論文である。

 フーコーはそれを友人とともに仏訳し、あわせて本文の倍におよぶ「序論」を執筆した。この「序論」はフーコーの処女作のようである。

夢の分析は象徴(シンボル)の解釈学のレベルで終わるわけではなく、なお依然として解読の次元に属している外面的解釈から出発しながらも、この分析は、哲学のうちに逃げこむ必要などなしに実存の諸構造の了解に到達することができるだろう、と・・・夢みる経験のこの特権は、本書ではまだ語られていないが、想像力に関する人間学全体に及ぶものである。というのも、この特権は、意味と象徴、心像(イマージュ)と表現との関係についての新たな定義を、要するに、意味作用がどのようにして発現するかを考える新たな方法を、要求するからである。

『夢と実存』L・ビンスワンガー/M・フーコー(みすず書房)

 フーコーによれば、精神分析の創始者であるフロイトにおいては、夢は心理学的な権利は復権したのだが、夢を特殊な形式の経験として認めることはできなかったのだという。フロイトにとって夢は、動機づけのさまざまな表現形式と心理学的読解のための文法なのだ。

 ビンスワンガーはこの夢の持つ価値を、心理学的分析の尺度を超えるものとして再発見するのである。フーコーは、夢の経験の中に、実存の構造を解明しようとするビスワンガーに賛同し、その課題を自らも引き受ける。

 引き合いに出されるのは、文学や神秘思想の伝統や民間伝承などである。夢みる経験を特異な次元として主題化したものとして、スピノザ(!)、そしてノヴァーリスなどを取り上げる。とりわけ、ヘラクレイトスこそが、「夢が魂の内面を顕す」主題の起源であるとし、ヘラクレイトスの原則こそがあらゆる文学、哲学に貫いたものであるということを述べている。

 すなわち、「目ざめた人間が認識の世界に生きているのに対し、眠る者は自分自身の世界へと向かっている」という原則である。これは、眠る者は客観の世界から切り離されているということを意味するのではなく、夢の世界は、夢見るものにとっての「固有の世界」を構成しているということである。

してみれば、目覚めている意識を魅了するこうした客観性と手を切り、人間的主体にその根源的な自由を回復してやることによって、夢は逆説的にも、世界へ向かう自由の運動と、自由がおのれの世界を手に入れるための原初の出発点とをあらわにするのだ。夢の宇宙創成論、それこそが実存の起源そのものなのである。孤独と原初的責任をともなったこの運動こそ、おそらくはヘラクレイトスがあの《ίδιος κόσμος[各自の世界]》という言葉で指示しようとしたものであろう。

『夢と実存』L・ビンスワンガー/M・フーコー(みすず書房)

 柄谷氏もまた、「夢の世界」にて、19世紀に確立された「リアリズム」がデカルトの時代においては抽象でしかなかった「主観-客観」世界を、あたかも実在するかのようにみなしていると指摘する。それは先ほど述べた世界に対して「距離」があること、観察によるものこそを実在する世界とみなすことに他ならないのだが、それは一つの仮構でしかないと柄谷氏は批判する。

 われわれが生きている世界とは、「主観-客観」という、いわば中立的な「距離」を持つことができないような「世界」にいるのだ。上述したように、そのような現実の「世界」は、本来的に「夢」と区別がない。

 たとえば、「われわれは資本制社会を客観的に考察することができる。だが、たとえわれわれがどんな認識をもっていようが、われわれはなにより先ず資本制社会という「夢」のなかにあり否応なくそこで動かされている(「夢の世界」柄谷行人)」のである。

 客観的、超越的な視点による認識は、一つの仮構である。

 フーコーが本書においてフロイトを批判するのも、夢の心理学化、おそらく「主観ー客観」の世界を実在とみなし、近代においてすり替わってしまった「リアリズム」にもとづく科学主義的思考なのだ。

夢の世界は、空想の中庭ではない。夢みる者が夢でおのれ自身の世界に出会うとすれば、それは、他でもない、その人がそこにおのれの運命の相貌を認めることができるからだ。つまり、夢みる者はそこに、完成された姿においてであれ歪められた姿においてであれ、おのれの実存の根源の運動とおのれの自由とを見出すのである。

『夢と実存』L・ビンスワンガー/M・フーコー(みすず書房)

 もちろん、フーコーの議論は複雑なのですべて紹介はできない。しかし端的に、フーコーがビンスワンガーに見出した「夢」みる者の固有の世界の自由とは、想像力あるいは表象知の可能性と、それによる真理への接続である。

 その一例として、フーコーは、スピノザの例を挙げる。

身体的原因から生ずる表象力のすべての現れは決して未来の物の前兆となり得ません。そうした現れの原因は何ら未来の物を含まないからです。これに反して精神の状態から生ずる表象力の現れ即ち表象像は、未来の物の前兆となり得ます。精神は未来に起る何らかの事柄を漠然とながら予感し得るからです。だから人はそうした物を恰もそれが実際に現存しているかのようにはっきり生き生きと表象することが出来るのです。

※強調引用者

『スピノザ往復書簡集』(岩波文庫)

 己の必然に従い、必然のままにあることは、スピノザにおいては自由と呼ばれるのだが、人間の想像力もまた、人間精神の必然の様式であり、誤謬をおかさない限りは自由であり、長所なのである。その精神の活動は、目を覚ましている時のみに限らないであろう。夢もまた、そのような精神の活動に他ならないのだから。

 そしてその表象知が真理に迫り、われわれの実存の自由を回復するための具体的な事例は、詩や小説映画といった表象芸術の領域であろう。この「夢」を源泉とする想像力、表象知こそが、「主観−客観」という「距離」によって仮構された、近代的な「現実」を批評しうるのである。

 だからこそ柄谷氏もまた「夢の世界」において、「距離」のない小説としてのカフカを例にあげるのだし、埴谷雄高や庄野潤三などの小説にその「夢」の構造を見るのである。むろん、すべての芸術がそうなのではない。「距離」のない、それこそ「夢」のような作品は稀であろう。

 やや乱暴なまとめではあるが、フーコーもまた、ビンスワンガーの『夢と実存』の著作の意義を示すのと同時に、「主観-客観」の世界という遠近法によって見失われつつある「主体」の本来的な回復を目指していたものと思われる。そしてその主体における固有の世界、想像力の自由の源泉を「夢」に見出そうとしたのである。

<参考文献>

・『夢と実存』L・ビンスワンガー/M・フーコー(みすず書房)

・『意味という病』「夢の世界」柄谷行人(講談社文芸文庫)

・『新記号論 脳とメディアが出会うとき』石田英敬、東浩紀(ゲンロン叢書)

・『「夢の世界は現実であり実在している」ことを認める 多元的実在論の考察』(論文)坂井祐円


https://note.com/thomasaquinas/n/nb19e37625f40 【夢…宇宙の見る夢:シミュレーション仮説】より

谷口茂 Shigeru Taniguchi

夜見る「夢」と人生の「夢」はなぜ同じ「夢」という言葉が使われているのか?

先生の問題設定、切り口が多様で、私の情報処理速度がついていけない・・、なのに「今申し上げたのはごく一部なんですけど」とは!!?!! さすがですね・・。

 さて、   

 夢という脳内情報処理作用は、情報編集作用の現象であり、覚醒時では情報処理作業といえるかもしれません。

 個体脳も個々の意識を向けた経験認識による情報プールになっています。そもそも「反射」から始まったと思われる情報処理作用ですが、身体構造も複雑になりその制御も複雑になると、入力情報を編集して出力をするようになったと思います。それが環境適応であり、エネルギー・コストを減らしコスト・パフォーマンスを高める「最適化」による存続化の作用だろうと思います。「試行錯誤」でコスパが悪い状態から、「シミュレーション」で「思考錯誤」して「志向錯誤」を減らしたと思います。まさにこの作用が「知能」の呼ばれるもので、AIのシミュレーションが人間を凌駕している点を、AIアライメント問題にしていると思います。

 そして「夢」は以上の情報編集作用において、睡眠時と覚醒時との情報処理様態の違いで、茂木先生のご指摘の様に、二つの様態が現れるのではないかと思います。

 睡眠中の夢は生体高分子のウィルスの働きに類似しているかもしれません。我々の(覚醒時の)観点からすれば、カオス的な偶然の様相で編集がなされ、あるいは、まさに自然世界の様相で編集が成されているのかもしれないと思います。

 それに対して、覚醒時の夢は上で見た意識的な知能作用が実行され、認識し獲得した情報プールを基に、そこから然るべき情報選択をして、シミュレーションの様相で編集作業が実行されると思います。勿論、それが最適解を得ているとは限りませんが、個体知性の情報処理能力と環境条件との適応状態に応じた、夢の実現が成立するのだろうと思います。

 さらに、個体脳におけるこうした情報処理の様相は、個体脳をエージェントにする社会脳コミュニケーション・ネットワークにおいて、集合集積知と言う大きな情報プールを形成した中でも、現象発現していると思います。例えば『スキピオの夢』の話は、人間社会共同体において、夢のベクトルを示す話ではないでしょうか?それが情報展開過程そのものではないのかという気がしています。

 そして宇宙の自己認識過程における「夢」を宇宙が観ている・・・・、その中でこの歴史が展開しているということを、「シミュレーション仮説」といった夢物語が語るのではないでしょうか?


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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