人生の意味の哲学

https://gendai.media/articles/-/144389?fbclid=IwY2xjawHz8ZVleHRuA2FlbQIxMQABHZjRrUhrs9O2V5raBM2WW_l8MlZQwCk1ip5e9RpbMQYwWa-r6QLB0Iy00g_aem_goKmyZZ78neRqJsK_w1qhw 【「わかりにくさ」こそ日本文化】より

日本文化はワビとかサビとかばかり言って、どうもむつかしいというふうに言われてきました。だからわかりやすく説明してほしいとよく頼まれます。

しかし、この要望に応える気はありません。断言しますが、日本文化はハイコンテキストで、一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂があるのです。

わかりやすさを求めればいいというものではありません。空海の書、定家の和歌、道元の禅、世阿弥の能、長次郎の茶碗、芭蕉の俳諧、近松の人形浄瑠璃、応挙の絵、宣長の国学、鴎外の小説、劉生の少女像に何か感じるものがあるというなら、わかりやすくしようなどとは思わないことです。

かれらが放った「間架結構」「有心」「朕兆未萌」「時分の花」「面影」「さび」「もどき」「古意」「簡浄」「美体」などというコンセプトそのままに、日本文化を会得していくべきです。

それがあまりにもむつかしいというなら、では聞きますが、プラトンのイデア、ラファエロの天使、スピノザのエチカ、カントの理性批判、ドストエフスキーの大審問、プルーストの時、デュシャンの芸術係数、サルトルの実存、コルトレーンのジャズ、ウォーホルのポップアートは何によって「わかった」と言えたのでしょうか。

私はそれらが「わかる」のであれば、日本の哲学や美も「わかる」というふうになるはずだと思います。

多少の手がかりは必要です。私はそれをジャパン・フィルターというふうに名付けました。なかでも客神フィルター、米フィルター、神仏習合フィルター、仮名フィルター、家フィルター、かぶきフィルター、数寄フィルター、面影フィルター、まねびフィルター、経世済民フィルターなどが有効です。本書で点検してみてください。

「おもかげ」「うつろい」こそジャパン・スタイル

日本文化の正体は必ずや「変化するもの」にあります。神や仏にあるわけでも、和歌や国学にあるわけでもありません。

神や仏が、和歌や国学が、常磐津や歌舞伎が、日本画や昭和歌謡が、セーラー服やアニメが「変化するところ」に、日本文化の正体があらわれるのです。

それはたいてい「おもかげ」や「うつろい」を通してやってくる。これがジャパン・スタイルです。

しかし、このことが見えてくるには、いったんは日本神話や昭和歌謡や劇画などについて目を凝らし、そこに浸って日本の歴史文化の「変化の境目」に詳しくなる必要があります。

白村江の戦いや承久の乱や日清戦争は、その「変化の境目」がどのようなものであるかを雄弁に語ります。そこは見逃さないほうがいい。それはアン女王戦争がわからなければピューリタニズムがわからないことや、スペイン継承戦争がわからなくてはバロックが見えてこないことと同じです。

ところがいつのまにか日本文化というと「わび・さび・フジヤマ・巨人の星・スーパーマリオ」に寄りかかってしまったのです。それでもかまいませんが、それなら村田珠光の『心の文』や九鬼周造の『「いき」の構造』や柳宗悦の『民芸とは何か』や岡潔の 『春宵十話』はどうしても必読です。せめて山本兼一の『利休にたずねよ』や岩下尚史の『芸者論』や中村昇の『落語哲学』はちゃんと読んだほうがいい。

日本は一途で多様な文化をつくってきました。しかし、何が一途なのか、どこが多様なのかを見究める必要があります。日本人はディープな日本に降りないで日本を語れると思いすぎたのです。これはムリです。

安易な日本論ほど日本をミスリードしていきます。本書がその歯止めの一助になればと思っています。

さらに連載記事<「知の巨人」松岡正剛が最期に日本人に伝えたかった「日本文化の核心」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。


https://true-buddhism.com/teachings/transient/ 【儚い人生の秘密】より

「儚い」というのは、日本文化の「わびさび」に通じるところがあります。「儚い」とはどんなことでしょうか。そして、儚い中でも代表的なものは、人生です。儚い人生を悔いなく生きるにはどうすればいいのでしょうか?

儚いものは美しい

儚いとは、長続きせず、消えやすいことです。儚いものには、かよわいものが多いので、美しいといわれることも多くあります。「わびさび」とか、滅びの美学です。「わびさび」というのは日本人の美意識です。「わび」については、茶の湯の中でつくられていきます。

「わび茶」は、もともと室町時代、僧侶である村田珠光が粗末な道具を使い始め、その弟子から孫弟子の千利休にも影響を与えたものです。

「さび」も室町時代、俳諧の中でつくられていき、江戸時代の松尾芭蕉では一つの大きなテーマとなります。

幽玄な松尾芭蕉の句

高校の教科書にも出てくる松尾芭蕉の『おくのほそ道』の有名な句に、このような句があります。 松尾芭蕉松尾芭蕉 夏草や つわものどもが 夢の跡(松尾芭蕉『おくのほそ道』)

昔、奥州藤原氏が、功名を競い、一時は繁栄しましたが、今は滅んでしまい、ただ夏草が生い茂るばかりです。奥州の覇権をにぎり、産出する砂金でお金も地位も手に入れたのですが、すべてがひとときの夢と消えてしまいました。

その儚さを、松尾芭蕉は、「夏草や つわものどもが 夢の跡」と詠んだのです。

奥の細道から帰った芭蕉は、ある有名な句を詠みます。

やがて死ぬ けしきも見えず せみの声(松尾芭蕉『猿蓑』)

「やがて」とはすぐに、「けしき」は様子、ということです。セミの命は1週間。セミの1日は、人間の10年にあたります。

夏の日に、かまびしすく鳴いているセミですが、まもなく死んでいく気配は感じられません。

今を盛りと鳴くセミは、すぐに死んでいかなければならないことをまったく知らないのです。

儚く消える命と知らず、陽気に鳴き続けるセミは、なんとあわれなものではないか、という句です。では人間の命は長続きするのでしょうか?

儚い人間の命

松尾芭蕉の「やがて死ぬ けしきも見えず せみの声」という句の前には、「無常迅速」と書き込まれています。「無常」とは、常がない、続かないということですが、特に死のことを「無常」といわれます。人はあっという間に死んでいくことを、無常迅速というのです。

この松尾芭蕉の句は、蝉にたとえてはありますが、実は人間の命の儚さを歌っているのです。

大宇宙の歴史と比べると人生80年といっても、長いようで、大宇宙の歴史からすれば、一瞬の儚いものです。地球の46億年の歴史を1年とすれば、多細胞生物が生まれたのが9月27日、魚が現れたのが11月20日、爬虫類が12月3日、ほ乳類が12月13日です。

そして人類が生まれた250万年前は、12月31日午後7時15分です。

産業革命が始まった250年前は、12月31日午後11時59分58秒です。

大宇宙の歴史と比べても、人間の命は一瞬の儚いものなのです。一生の間、どんなにすごいことをやったとしても、夢のように儚く消えていきます。

中国最強の詩人・李白

松尾芭蕉が影響を受けた、中国最強の詩人の一人、李白は『春夜桃李の園に宴するの序』に、こう述べています。

光陰は百代の過客かかくなり。而しこうして浮生は夢のごとし、歓を為すこと幾何いくばくぞ。(漢文:光陰者百代之過客。而浮生若夢、為歓幾何。)

(李白『春夜桃李の園に宴するの序』)

『春夜桃李の園に宴するの序』とは、春の夜に桃李園で行われた宴会の序文です。

当時、宴会では、参加者が一人一人詩を作り、それを集めて詩集を作る風習がありました。

その時に代表者が、宴会のいわれや状況を書いたのが序です。

そこにどんなことが記されているかというと、「光陰は百代の過客」というのは、松尾芭蕉が『おくのほそ道』に「月日は百代の過客」と書いている出典です。月日は永遠の旅人のようなものだ、ということです。そして、「浮生」とは、浮いたような生ということで、儚い人生のことです。「浮生は夢のごとし」とは、儚い人生は夢のようなものだということ、

そんな人生で「歓を為すこと幾何ぞ」とは、今が楽しいといっても、その楽しみはどれだけ続くだろうか、いや続かない、ということです。

実際に臨終の実感としては、「あっという間の人生だった」「夢のような人生だった」

と言う人がたくさんあります。

人生を儚い夢にたとえた辞世の句

足利義政

室町幕府8代将軍、足利義政は、政治は他人に任せて、文化を追及した人でした。

日本を代表する、能、茶道、華道、庭園、建築など色々な文化が花開き、これを東山文化といわれます。そんな東山文化に功績のあった将軍ですが、臨終にはこのような辞世の句を残しています。

何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし(足利義政)

上杉謙信

その後、戦国の世となりますが、戦国最強と言われた上杉謙信は、このような辞世を詠んでいます。四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒(上杉謙信)

明智光秀

戦国最強の勢力だった織田信長を本能寺で討ち取り、三日天下をとった明智光秀はこう言います。五十五年の夢 覚めきたりて 一元に帰す(明智光秀)

豊臣秀吉

その明智光秀を倒し、天下統一を成し遂げたのが豊臣秀吉です。足軽から身を立てて、一代で太閤にまで上り詰めました。聚楽第じゅらくだいという豪邸や大阪城を築き、金の茶室を作って栄耀栄華を極めましたが、臨終の辞世の句は、このような寂しいものでした。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢(豊臣秀吉)

このように、歴史に名を残すような人の人生も、本人からすれば夢のように儚く消える人生だったと言っているのです。幸せはつかの間で、人生は長続きせず、夢のように儚く消えていきます。このような儚く消える人生、どうすれば悔いのない生き方ができるのでしょうか?

儚い人生悔いなく生きる方法

仏教では、人生はすべて自分の生みだした夢のようなのもだ、と教えられています。

夢で1億円手に入れても、好きな人と一緒になっても、目が覚めれば跡形もなく消えてしまいます。世間では、あれが欲しい、これが欲しいと求めているものは、人それぞれの価値観によって違いますが、お金や物、地位や名誉、好きな人などは、夢幻のようなもので、実体はないのです。

一時的には心の支えになったり、明かりになったり、生きる希望になったり、生きがいになったりしますが、諸行無常の世の中ですから、最後は頼りになりません。

それまでどんなに信じていても、裏切られてしまいます。

最後死んで行くときには、すべて夢・幻のように儚く消えてしまい、死んで行くときに持って行けるものは何一つありません。ちょうど、お金がもらえると思って働いたら、もらえなかった、ただ働きのようなものです。

最後は「一体何のための人生だったのか」という後悔の中、ひとりぼっちで死んでいかなければならないのです。

そんな夢幻のような儚い人生であることを前提として、迷いの根元をつきとめ、死が来ても消えない、永遠の幸せになる方法を教えられたのが仏教です。

夢のような一瞬の人生で、その身になれば、何一つ後悔はありません。

その決して色あせない幸せになる方法については、仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。ぜひ一度読んでみてください。


https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/7831 【実存主義哲学と違う、まったく新しい人生の意味への哲学的アプローチ/森岡正博・蔵田伸雄編『人生の意味の哲学入門』】より

 「自分が生きることに意味はあるのか?」とふと思ったことがある人は多いはず。そして哲学はそういったことを考える学問だというイメージもあるようです。実際、実存主義の哲学では生きているこの私から哲学を始めますが、生きる意味を問うための哲学というわけではありませんでした。しかし、人生の意味を問うための哲学が21世紀になって英語圏で盛り上がりを見せています。それを紹介するのが『人生の意味の哲学入門』(森岡正博・蔵田伸雄編)です。その「まえがき」を紹介します。

少し長いまえがき

 この本は「人生の意味の哲学」についての「入門書」である。しかし自分の人生には意味がないのではないかと悩んでいて、「自分の人生に意味があるかどうか知りたい」と思っている人が、この本を手にとったとしても、多分失望することになるだけだろう。この本には「どのような人生が意味のある人生なのか」ということが、具体的に書かれているわけではない。この本の筆者たちは、自分たちの研究の結果として「人生の意味」を明らかにしたので、それを読者に伝えようとしてこの本の各章を書いたわけではない。この本は、「人生の意味について問う」ということ自体がどのようなことなのかを、哲学的に考察した結果を示すことを目的としている。

 また哲学についてある程度の知識のある人なら、「人生の意味」についての哲学ということで、パスカル、ショーペンハウアー、ニーチェ、キルケゴール、ハイデガー、ヤスパース、サルトル、ボーヴォワール、ヴェイユなどによる「実存主義哲学」、あるいはベルクソン、ジンメル、ディルタイ、オルテガらの「生の哲学」を想起する人もいるだろう。だが実存主義哲学の入門書を期待して本書を購入したのに、これらの哲学者についての言及が少ないということで、これは違う、ととまどう人もいるだろう。確かに本書でもパスカル、ショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデガーといった哲学者への言及はある。しかしこの本で一章を割いた哲学者は、「実存主義」に分類されることは少ないウィトゲンシュタインだけである。本書で主に紹介するのは、そのような既存の実存主義哲学とは異なる、「人生の意味に関する分析哲学的な」アプローチである。

 内外を問わず、専門的な哲学研究の外部の人からは、哲学とは「人生の意味」について考えるような学問だと考えられてきたにも拘わらず、専門的な哲学研究の中では「人生の意味」についての考察などは日記の中に(最近だとブログや各種SNSに)書くようなことであり、およそ専門的な哲学者が論じることではない、とされてきた。哲学研究の手法は厳密なものでなければならず、「人生の意味とは何か」といった問いは曖昧かつ主観的なものなので、厳密な哲学研究にはそぐわないと考えられてきたのである。だが、現在では専門的な哲学研究の中に、「人生の意味」について分析哲学的手法を用いて厳密に研究するという潮流が生まれてきている。本書はその一端を紹介するものである。

 この本が「入門」であるとされているのは、本書がここ数十年の、主に英語圏の「分析哲学」とも呼ばれる分野の中から出てきた「人生の意味」に関する議論の紹介でもあるからだ(本書でたびたび言及される哲学者であるD・ベネターは、この潮流を「分析実存主義」と呼んでいる)。森岡による第2章でも紹介されているように、R・テイラーの「シーシュポス問題」の提起とT・ネーゲルによる「人生の無意味さ」に関する論文を皮切りに、英語圏の「分析哲学」の中でも1970年代ごろから、「人生の意味」について取り上げられるようになってきた。かつては「分析哲学では実存は語ることはできない(あるいは分析哲学者は人生の意味について語らない、または分析哲学の領域では人生の意味を語ってはならない)」とされていた。しかし、もはやそうではないと言ってよい。英語圏ではこの分野に関してすでに膨大な文献が発表されている。いくつかの入門書も出版されているし、オックスフォード大学出版会からはハンドブックも出版されている。しかし日本ではこの研究動向については一般にはほとんど知られていないように思われるし、専門的な哲学研究者の間でもあまり知られていないように思われる。特に近年、英語が得意な研究者や学生はこの分野の文献を英語で読んでしまうこともあり、関連する文献の翻訳もそれほど進んでいない。伊集院利明氏による著作などの例外はあるものの、専門的な研究の成果となる著作や論文等も少ない。

 この本の中で頻繁に登場する現代の哲学者としてT・メッツがいる。メッツの名は哲学の専門的研究者の間ですら、ほとんど知られていないだろう。メッツは特にオリジナルな主張をするというタイプの哲学者ではない。しかしメッツは1970年代以降の、英語圏で書かれた「人生の意味」に関する膨大な数の論文をサーベイし、それを検討する論文を発表し続けている。この分野におけるメッツの功績は大きい。2013年には彼のそれまでの研究の集大成ともいえる『人生の意味』Meaing in Lifeが刊行され、この分野の議論の輪郭を示しただけでなく、メッツなりの結論も出している。なお、メッツはこの書に先んじてウェブ上の哲学事典である「スタンフォード哲学事典」Stanford Encyclopedia of Philosophyに「人生の意味」(“The Meaing of Life”)という項目を執筆している(2007)。このようなメッツの研究については伊勢田哲治氏が、著書『哲学思考トレーニング』(2005)で紹介しており、この伊勢田氏による紹介が私の知る限りでは日本における最初のメッツの仕事の紹介である。本書のもう一人の編者である森岡がメッツに連絡をとり、メッツからは現在も研究の協力を得ている。

 また本書の第6章や第11章では「反出生主義」について扱っている。「人は生まれてくるべきではない」あるいは「子を産むべきではない」とする反出生主義に関する問題は厳密に言うと「人生の意味」とは異なる研究テーマではあるが、反出生主義という主張は「人生の意味」に関する議論と密接に関わっている。D・ベネターはこの反出生主義の旗手であるが、「人生の意味」に関する分野でも著書や論文を発表しており、本書の第3章ではベネターの「宇宙的無意味さ」についての議論が紹介されている。ベネターも自らを分析哲学者として位置づけており、彼の「人生の意味」に関する議論も分析哲学的なスタイルで進められている。

 さて、このように本書は「分析哲学的な、人生の意味の哲学の入門」という性格の著作である。しかし「人生の意味」についての哲学「入門」は「分析哲学的言語哲学入門」や「分析哲学的現代形而上学入門」といった書物とは性格の異なるものとならざるをえない。多くの場合「人生の意味」とは「自分の人生の意味がわからない」といった深刻な悩みの中で問われるものであり、そのような問いは個人の人生や実存と切り離すことができないものであるからだ。人生の意味についての問いとはまさに「呪い」であり、本書の第1章で述べられているように、それを考えなくてすむならそれにこしたことはない。このような人生の意味についての問いは、自分の生と切り離すことの可能な普遍的・客観的な「学問」となることを拒むという側面がある。哲学が学問であるからには、客観的・普遍的なものでなければならないが、客観化・普遍化してしまうと同時に、「自分にとっての人生の意味とは何か」という問いではなくなってしまう。第10章で山口が主張しているように、「人生の意味についての問い」とはどのようなものかを他者の言葉によって理解することはできず、したがって「人生の意味の哲学」への「入門」も不可能なのかもしれない。だがそれでも本書は「自分の人生の意味について問うとはどのようなことなのか」ということについて、考えるきっかけにはなるだろう。

 「哲学」によって人生の意味を知ることはあまりないのではないかと思う。小説や詩やノンフィクション、あるいはマンガを読む中で、自分の人生にも何らかの重要性があることを知る人や、自分の人生に目的を見いだせることを知る人、自分が生きてきた人生の物語の「意味」を理解する人もいるだろう。また映画や芝居、あるいはテレビドラマやアニメを観る中で、人生の意味がわかったと感じることもあるだろう。美しい風景を見て自分が生きてきた人生の意味を知る人もいるだろう。だがそれと同じように「人生の意味について哲学的に考える」という営みの中に、人生の「意味」(喜びや重要性)を見出す人もいるだろう。本書はそのような人のために書かれたものでもある。

 本書はこの種の他の図書と同様にどこから読んでもらってもよいのだが、章の順番は工夫してある。村山の第1章はこの分野についての専門的な知識のない方を想定して書かれており、次にこの分野の今までの議論の概要を紹介した森岡の章が続く。その後の章は順に専門的な内容を扱うようになっており、第8章の久木田の章はこのような「分析哲学的な人生の意味の哲学」の前提について批判的に検討している。その次の古田の第9章ではこの問題が「分析哲学的」であると同時に、「分析哲学」を越えたものでもあることがウィトゲンシュタインに即して論じられている。そして山口の第11章と森岡の第11章はこのような「人生の意味の哲学」の性格そのものについて論じている。

 本書は全体的に「入門書」としては難しめのものになってしまった。哲学についてあまり知識のない方や、哲学の入門講義などを受けたことのない人にとっては、少しわかりにくい本になってしまったのではないかと危惧している。ただ哲学についてある程度の知識がある方にはこのような分野の研究がある、ということを知ってもらうことができるだろうし、そうでない方にも「人生の意味」について「哲学的に」考えることを体感してもらうことは可能であると思う。その点でこの本は哲学実技の本だと言えるかもしれない。そして編者の一人として断言できるが、この本はともかく「面白い」。

 それでは、「人生の意味とは何か」という「呪われた問い」について考えることから始めて、誕生肯定という祝福に至る道筋をたどってみてほしい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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